「まだ、見つからないんですね……」
病室のベッドの上で今も顔色の悪い入院患者が悲しそうに目を伏せた。黒い艶やかな髪が自らの力のなさを嘆く様にはらりと溢れる。
「案ずるな。梅花園はこの山海経の至宝。そこに手を出したものを許す我らではない。必ずや見つけ、その元凶には償いをさせてやる」
答えたのは彼女を見舞いに来た小柄な少女だった。だが、彼女が個人の見舞いに訪れることはこの山海経で大きな意味合いを持つ。それをわかっていて、彼女は堂々と誰にでも見えるようにこの場にやってきた。
玄龍門が門主、竜華キサキ。
人前に姿を見せることすら少ない彼女がシュンの病室にこうして現れたのは、"むざむざと子どもたちを攫われた無能な教官"などという心無い非難からシュンを庇う意図もあってのものだった。どれだけの効果があるかはわからないが、この学園で絶大な威光を持つ彼女がシュンを責めてはいないというポーズを示すことはわずかばかりでも彼女の風当たりを弱めることができるはずだ。
だが、シュンはキサキの言葉に白い顔を更に青白くして縋る様な視線を向けた。
「ココナちゃんは……ココナちゃんは何か事情があったはずなんです。あんなことを、する子じゃない。するはずがないんです。だから、だからどうか……」
元凶に償わせる、そう言ったキサキの言葉を受けての言葉だった。事件の際、彼女は当のココナの手によって強引に薬物入りのクッキーを流し込まれ、結果今もこうして病院のベッドから起き上がれずにいる。それでも妹を庇おうとするのは、姉であるが故か。それでもなお妹を信じているからか。
「わかっておる。妾とてあやつの気性は理解している。こんなことをする人間だとは思っていない……」
あらゆる証拠は今回の梅花園児童誘拐事件の実行犯を春原ココナと指し示している。それは疑う余地もないほど。
それでも。
「全てを詳らかにしてみせる。ココナに何があったかも必ずな。だから安心して今は養生せよ。お前は今も我が山海経の誇る至宝の守り手、梅花園の教官なのだから」
自分をよく知る級友を安心させるため、自信に満ちた笑みで彼女の肩を叩く。その奥で遅々として進まぬ事件の調査状況に歯噛みしながら。
◯
右腕に痺れが走る。指先がこわばってメスを落としそうになるのを左手で押さえ込んだ。
ごめんなさい。
何度この言葉を心の中で繰り返しただろう。けれど、誰にも届くことのない言葉に赦しがもたらされることはなかった。ただ一人を除いて。
ごめんなさい。ごめんなさい。
握り直したメスを幼い少女の皮膚にあてる。簡易な病衣に着せ替えた彼女の腕にはココナの人差し指より少し太いくらいの紅い棒状のものが長く伸びていた。ココナの知識と照らし合わせればカエンタケに似ている様に思えるそれは、人体に根を張り育つ冬虫夏草の一種、名を人紅山姫という。三本。手首から二の腕にかけて生えたそれを皮膚に切れ目を入れて肉に食い込んだ部位ごと抉り出す様に引き抜く。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
「……」
抉られた腕からみるみるうちに血が溢れ出す。ココナは澱みない手つきで傷口を縫合、消毒し、丁寧に包帯を巻いていく。だが、それ程の痛みを与えられながら寝台に寝かされた苗床の少女は悲鳴一つ上げることはない。ただぼんやりと穏やかな眼差しを暗い天井に向け、うっすらとした笑みを浮かべていた。そこに彼女が何を見ているのかはわからない。
初めの頃は悲痛な声がいくども上がっていた。何度も「助けてココナちゃん!」と呼びかけられ、だがそうして助けを求めるココナが自分たちを切り刻むのだとわかればやがてそれは恐怖の悲鳴に、そうして「いたい!いたいよぉ!」「ごめんなさい!いい子になるから許して!」そんな苦痛の嘆きに変わっていった。子どもたちがココナを見る目は恐怖の対象のそれになり、ココナがここへ足を踏み入れた途端、恐れによる沈黙が張り詰めるよ様になった。
今はそれもなくそれもなくなった。
「今度は何に謝っているんだい?……あぁ、なるほど。子どもたちの悲鳴が苦しいと。ふむ……なら、二つ簡単な解決方法がある。どちらを選んでもいい、君が良いと思う選択をしたまえ、ココナ」
脳裏に過去の会話が微かによぎる。彼女と二人きりの時にだけココナはこの頭の中の声を外に漏らすことを許される。その度唯一懺悔を聞いてくれる彼女はココナを抱きしめ頭を撫でて、そうして最悪の選択を迫るのだ。
「この状況、与えられる苦痛が彼女たちを泣き叫ばせているというのなら現実を見えなくしてあげればいい。私から提案できるのは簡単な脳外科手術で感覚や思考の一部を機能させなくしてしまう方法、あるいは持続性の高い幻覚剤を定期的に投与する方法だ。薬の投与は人紅山姫の育成に影響が出るかもしれないから少し慎重に行う必要はあるけれど……どうする?」
突きつけられた選択肢はどちらも致命的に思えた。未だ小さな子どもたちの未来を潰す行為。それでも、菌糸を植え込まれるたび恐怖に喉を引き攣らせ、育ったそれを引き抜かれるたび悲鳴を上げる彼女たちの姿が脳裏にこびりついて離れない。あんな思いをさせるくらいならいっそ、そんな風に自分を納得させる。せめて、ここから解放された時少しでも後遺症を残さない様にと薬物を選択した自分は間違っていただろうか。体を切られようとこの暗い部屋の中で永遠に閉じ込められようと笑みを絶やさぬ子どもたちの姿を見ればそんな思惑など全くの無意味に感じられた。頭を切り開こうと、薬漬けにしようと、彼女たちはとっくに終わってしまっているのではと。結局のところ自分は彼女たちから恐れられ、恨まれることに耐えられなかっただけではないのかと。自分の都合で子どもたちの未来を摘み取ってしまったのでないかと。
毎日、毎日考える。
そんな思考の中でも、ココナの体は止まることなく次の子どもの下へと向かい、育った人紅山姫の摘出に動いていた。
「ああ、とても静かになった。私も別に苦痛や悲鳴を肴にできる様な悪趣味な人間じゃないからね。とても過ごしやすい。よくやったね、ココナ」
ココナの手によって薬漬けにした子どもたちを前に、そう言ってカイは笑みを浮かべてココナの頭を撫でてくれた。頭を撫でられながら浮かべた笑みが暗示によるものか自分の本心から浮かんだものかココナにはもうわからなくなっていた。
ごめんなさい。ごめんなさい。
だからせめて。
ココナは今日もすがる様に頭の中で謝罪を繰り返しながらメスを振るう。子どもたちの血に塗れた手で誰にも届かぬ懺悔を繰り返す。
ごめんなさい。
そうしてまた次の子どもへ。僅かに左足を引きずりながら歩いてゆく。今日もカイのために。
◯
「やあ、収穫はどうだい?」
一通りの人紅山姫の摘出を終えたココナの前に随分と久しぶりにカイが現れた。彼女の問いに答える様に、ココナは視線を向けて今回子どもたちから引き抜いた人紅山姫の山を示した。
「ほう、以前よりやはり収穫量が増えている。薬の投与を決めた時はどうなることかと思ったが、むしろポジティブな結果を出した。感情の起伏が緩やかになったからか、あるいは投与した成分に成長を促進させる様なものがあったか……研究のしがいがありそうでよかったね、ココナ」
楽しそうに語りかけるカイの言葉にココナは無言を返す。そもそもこの状態のココナはほとんど喋ることができなかった。それは暗示の作用なのか、心因的なものなのか。今日の仕事を終えたココナは声を発さず虚空を見つめる。
「クク、それにしても君の体のも随分と育ったね」
反応がないのも気にせずカイはココナの右腕を取る。痛みが走りココナの体が反射的に震える。そこには寝台に寝かされた子どもたちと同じ様に真っ赤な棒状の菌類が根を張っていた。腕以外にも、ココナの体の各所にそれらは根を張り大きく成長していた。
「君が自分からこんな提案した時には驚いたけれど。うん、いいデータがとれて助かるよ。そろそろ収穫どきだろうけど──さて、どうしようか」
「……」
「せっかくだ。もう少し経過を観察してからにしよう」
ココナが自分の体に人紅山姫を植えることを望んだのはせめてもの贖罪だった。こんなものが償いになるだなんて思ってはいないけれど、せめて彼女たちと同じ苦しみを味わいたくて縋り願ったのだ。ココナの懇願をカイは糸の様に目を細めた笑みで受け入れ、手ずからココナの体にそれを植え付けた。
そして。
◯
ココナの自室。この地下施設の一角でココナに与えられた彼女の生活空間。とはいえ一日のほとんどを暗示のままに働く彼女にとっては単純に寝起きするためだけの場所に過ぎないのだが。
飾り気もない、家具も最小限のこの場所で、ココナはカイの足元にひれ伏していた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
涙で床を濡らし引き攣った声でただただ同じ言葉を繰り返す。
自室で、カイと共にいる時だけココナは自己を外に出すことを許されていた。
幾度も頭の中で繰り返し、だが決して誰にも届かぬ声をカイだけが聞いてくれる。彼女こそが元凶であるというのに、彼女だけがココナの謝罪を知っている。だからココナはこうしてカイの足元に縋り付くことしかできなくなっていた。
どうかわたしのこえをききとどけてください。わたしのこころをしってください。
「ココナは今もずっと苦しんでいるんだね」
しばらくココナの好きにさせた後、いつもと変わらぬ声音でカイは小さな彼女の体を立ち上がらせ、部屋の片隅のベッドに腰掛けてココナを抱きしめた。豊かな胸に顔を埋めさせあやす様に背中を叩く。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
されるがままのココナは、それでも謝罪のを絶えさせることなく、取り憑かれた様にその言葉を繰り返していた。許された自由の全てをただひたすら謝ることに費やしていく。あまりにも血で己の手を汚し続けたココナはカイを憎む気力も、戦う勇ましさも塗りつぶしてあまりある罪の意識に支配されていた。それは与えられた自由でココナが選んだ在り方なのだと、間違ってはいないのだと、カイは諭してくれた。
「贖罪がしたいんだね。少しでも、自分のしてしまった過ちに償いが欲しい。そしていつか許されたい」
カイだけがココナの心を理解してくれる。カイだけがココナの願いを聞き、どうすればいいかを教えてくれる。
「実は前々から試したい蟲の育成があってね。人の臓器に寄生させて育つ蟲で成虫前の蛹を乾燥させると面白い薬になるんだ」
カイの声は心地よい。彼女の胸に抱かれて、その言葉を聞いている時だけほんの少し許された気持ちになれる。
「本当はあの子たちの誰かを使って試そうかと思っていたけれど……ココナ、君が代わりに苗床になってくれるかい?」
ココナはついに謝罪の言葉を止めてカイの顔を見上げた。
「君は大事な助手だ。死なせる様なことはしない。けれど胎の中で蟲を育てることはとてつもない苦痛を伴うだろう。毎日毎日激痛を抱えながらまたここで働いてもらうことになる。それはとても困難なことだ。君にそこまでの苦行を求めるつもりはない。けれど、もし君がそれを望むというのなら私は君の選択を尊重したい」
どうする?
カイはいつだって最後にココナにそう問いかける。最悪の選択肢。とてつもない欺瞞。そんなことはココナにだってわかっているはずなのに。わかっていたはずなのに。
「お願いします。少しでも、私に償う機会をください。お願いします、お願いします……」
どうしてこんなことが償いと言えるのだろうか。自分は何を望んでいるのだろう。苦しむ事が贖罪とでもいうのだろうか。
それでも、もうココナにはそれくらいしか残されていなかった。償いの様に思える何かに縋るしかできなかった。償えると思えないのであれば──姉を殺したこと、子どもたちを攫った事、菌糸を植え付け育てたそれらを体を切り裂いて収穫したこと、子どもたちの悲鳴に絶えられず彼女たちを薬漬けにしたこと──償えると思えなければ、もうこの罪の意識を抱えることすらココナにはできない様に思えた。
「ココナはえらいね。大丈夫だ。そうして私の役に立ってくれるならきっと許される。ああ、許すとも」
許すと、そう言われ抱きしめられることがどんなに救いか。自らを包むそれが邪悪そのものだと知りながらそれでもココナはそこに安寧を覚えざる得なかった。
そうだ、許されなければ。許される様に役に立たなければ。カイの役に立って許されなければ。心の擦り切れたココナはそれが滅茶苦茶なすり替えであると自覚しながらその言葉を受け入れる以外のことができなかった。袋小路に閉じ込められたココナの魂は一つだけ開かれた出口に向かうことしか選べなかった。それがたとえ底なしの闇に浸かる道であっても。
だからココナは自ら選んで心をすり替える。たとえそれしか選択肢がないのだとしても。自ら選んで。
「お願いします。私を役立ててください」
顔をぐしゃぐしゃに濡らしながらココナはカイに懇願した。糸の様に細まった目が酷く楽しそうにココナの言葉を受け止めた。
「あなたの役に立てて、私を許してください……」
それが、梅花園の教官春原ココナが砕けきった瞬間だった。