次で完結予定
ヴァルキューレ公安課のオフィス。机の上には冷めたコーヒーと種々の書類、そしてあの事件の調書。山積みとなったそれらを丁寧に読み返したカンナはグシャリと自らの髪をかき乱した。
噛み合わない。
取り調べ当初からわずかに感じていた違和感。それは日を追うごとに大きくそしてはっきりとした形をとっていった。だが、まだ確証はない。確証はない、はずだ。そんな風に言い聞かせようとしている時点で、己の刑事の勘は"そう"なのだと確信しているのだが。
鋭い歯をギリリと噛み締め、僅かな逡巡ののちシャーレの先生へ会って話したいと連絡を送る。
確証はない。だが、確信はある。
己の勘付いた可能性をあの人にもいち早く伝えておくべきだ。
◯
シェンリンの前で泣き崩れた日からココナは少しづつ他者との会話に反応するようになった。未だぼうっとしていることも多く、ふとした瞬間に意識をどこかへ飛ばすこともあったけれど、それでも名前を呼ばれれば返事を返し、体調を聞かれれば辿々しくも答えられるようになっていた。
夜中に飛び起き錯乱することも度々あったが、彼女の診断を定期的に行うサヤはむしろその変化を好ましいのだと感じていた。もちろん、ココナにとっては地獄のような苦しみだろう状態を喜ぶことなんてできないけれど。たとえそれがどれだけ危うい状態であっても。一歩間違えればそのまま破滅してしまいそうな細い糸の上を歩いているとしても。それでも。苦しむという反応はココナが生きようとした結果の変化だとサヤは受け止めていたから。
あの寝台の上で希釈した現実からすら目を逸らし、裁かれる時、死ぬ日を待つ様に横たわっていたココナの姿を思えばと。
「いやぁあぁぁぁあぁぁああぁぁああ!!やだ、やだやだやだやだやだやだぁ!ああぁぁあぁあああああぁ、あぁああぁぁぁあああぁあぁぁあ!!!」
なにより。
「ココナちゃん、大丈夫。大丈夫……もう、怖いことなんてないからら、大丈夫」
彼女の側には体を小さくしたシュンがついて、そんな彼女を甲斐甲斐しく世話し、宥めていた。
「うあああぁぁぁぁ……ぁ…………ぁ?……ぅあ……シュ……シュエ、シュエリン……さん?」
声に反応して、ココナはまるで目の見えない者が手探りにそこにある何かを確かめようとするかのように、恐る恐るその名を呼ぶ。
「怖くない。怖くないから」
「うぅ……ぅぁ…………ぁあ」
「あなたを傷つける人はここにはいない。あなたが傷つけた人もここにはいない。そんな風に泣く必要はないの」
「……ぅあ、わた、し、でも……わたしわ、わたしぃ……でも、けどぉ……」
「ほら、あったかいでしょ?ケガもひとつもたい。だから、ね?」
シュエリンがその小さな体をココナに預けるようにして抱きしめる。他者の体の触れる感覚に僅かに逡巡し、けれど耐えきれなくなったようにココナもその手を小さな背に回す。
「ぅう……」
「そう、ぎゅっと抱きしめて……息をゆっくり吸って」
「…………はぁ……すぅ……はぁ……すぅ……すぅ……」
夜の病室で少女たちが静かに抱き合う。
パニックで声を枯らしていたココナは、度々同じ様に発作を起こし暴れるせいで身体中を痣まみれにしていた。その傷を癒すために以前よりも増えた包帯や湿布が体のあちこちを覆う。あの日から拘束されることも減りある程度体の自由がきく様になった弊害だった。パニックがあまりにひどい日には以前の様にベッドに拘束されることもあるのだけれど。
それでも、過去の恐怖に曇っていた目は少しだけ正気の光を取り戻して、目の前の自分より小さな少女を映し、縋り付くように彼女を抱きしめていた。
それを受け入れて優しげな声で何度も言い聞かせるシュエリンこと若返りの薬を飲んだシュンは、その姿に似合わぬひどく大人びた表情を浮かべてあやすように妹の背中を叩き続ける。一見すればシュンがココナを支えているように見える。だが、その実シュンのまとう空気も危うげであった。チグハグな体と心に浅い眠り故の隈の深い目。心身ともに幼くなる若返りの薬を服用しながら、むしろシュンの表情は普段の彼女以上に大人びて──もっと言い方を選ばないなら老いているように見えた。
「大丈夫、大丈夫……大丈夫」
潮の満ち引きのように繰り返されるその言葉は己に言い聞かせる様でもあって。
彼女もまた深く傷ついた心を妹に寄り添う形でなんとか継ぎ接ぎしていた。ココナと抱き合うことで自分にもまだできることがあるのだと、全てを間違えてはいないのだと、そんな風に言い聞かせる。
姉妹は一歩間違えれば共倒れになりかねない危うい関係性を積み上げながら、そうしてなんとか毎日を過ごしていた。
灯のない病室で聞こえる音はやがて二人分の寝息だけ。繋いだ手を離さないように。二つの吐息は閉じられた部屋で、確かに静かに重なり合っていた。
◯
「や、こんにちは、ココナちゃん」
「……こんにち、は」
カーテンの開けられた窓からは雲もまばらな青空が見える。外の庭の木の上で巣作りする小鳥のリズミカルな鳴き声が病室まで聞こえていた。
その日ココナの病室を訪れたのは玄武商会会長のルミであった。普段見舞客が訪れる時には付き添いにいるサヤやシュエリンの姿も今日はない。少しづつ二人以外の人間にも慣らしていく為の一環だった。ルミとしてはもちろん、かわいい後輩のお見舞いというのが一番の目的ではあったけれど。
最近あったことや新作のアイディアなど、話は主にルミからの話題だったが、彼女の商売人らしい軽快な話し方もあってか決して単調で退屈なものにはならず、相槌を打つココナの表情はルミを迎えた当初に比べれば随分と柔らかなものとなっていた。
「それで本場の人の感想を聞こうと思って偶然知り合ったゲヘナの人に食べてもらったんだけどね、一口食べた途端『シェフを呼べー!』だって」
「よ、呼ばれた……んですか?」
「いや、呼ぶも何も最初っから目の前で感想を待ってたんだ。だからその場で『はいなんですか?』って返事をしたのさ」
「クス、変なの……」
ゲヘナの料理を山海経風にアレンジした時の話を終えたルミはチラリと時計を見てちょうどお昼時になったことを確認する。
「そろそろご飯の時間だよね。私、食事受け取ってくるね」
「え、でも……」
「あんまり頻繁にここには来れないし、もう少しだけココナちゃんとお話したいんだ。だから食事が終わるまで、もう少し一緒にいてお喋りしちゃだめかな?ココナちゃんが嫌だったり、体が辛いならもちろんダメなんだけどさ」
ウインクをしながら立ち上がるルミにココナはおずおずと答える。その声に不快さや怯えの色はなかった。
「……いや、じゃない……です」
「そっか。よかった」
◯
ルミは優しい笑顔を浮かべると「ちょっと行ってくるね」と部屋を後にし、すぐにいくつかの食器を乗せたトレイを持って戻ってきてくれた。いつもより一品品数の多い食事が上半身を起こしたココナの前に置かれる。とはいってもそれぞれの小鉢が小さめなので量はいつもと然程変わりなさそうだ。
「さ、冷めないうちにどうぞ」
なんだかとても懐かしい仕草で、ルミがそう促した。そうだ、以前は彼女の店を訪ねるたびこんな風に食べ物を勧められたのだ。もう、ずっとずっと昔のことのように思える。実際にはココナが感じるほどに時間は経ってはいないはずなのだけれど。
こうなる前の自分を今のココナはひどく遠くに感じていた。
「ルミ、さんは……食べ、ないんですか?」
自分だけが食事をすることが申し訳なくてそう訪ねる。
「あ、そうだね。うん……それじゃあココナちゃんのご飯をほんの少しだけ分けてもらおうかな?」
はにゃりと少しだけ困ったような笑顔を浮かべてから、ルミはそう言ってベッドの横の椅子に腰掛けた。そういえば。彼女はいつも誰かに料理を振る舞って、誰かが食事をするのを眺めてニコニコしている人だっけ。料理人としてお客の反応こそ何より楽しみ楽しみなのだと。きっと今日もそうだったのだろう。
そんなことも、こうして失敗してから思い出す。
ぐずりと胸の奥で黒いモヤが燻る。こんなものをルミに見せるわけにはいかない。湧き上がりそうになるそれを胸の内に押し込んで、ココナはプラスチックの匙を手に取った。
「いただきます」
三色鮮やかな粥を掬って口に含めばふわりと優しい温かさが口の中に広がった。ひとすくい。ふたすくい。いつもより腕が軽い。あごを動かして、口に含んだそれを咀嚼する。柔らかな粥は飲み込むタイミングを図らなくともするりと喉を通って胃に落ちていく。
ほんのりと胸に熱が灯るような感覚。それは目の前で嬉しそうに自分の姿を眺める彼女のように優しげで。
──いつかのように心地よく。
「どうかな?」
「なんだか、いつもより、おいしい……です」
「そっか、よかった!」
ココナの答えにルミは笑みを深めて嬉しそうに笑う。
「うん、本当によかった。食事は本来楽しくするものだからね。ココナちゃんが少しでもそう感じてくれたなら何よりだよ」
──いつかのように心地よく。
わたしはたのしくて──ねえさんにあたまをなでてもらったときのように──かのじょにゆるされたときのように──こどもたちにめすをいれてにくをさいたときのように──
瞬間押し留められていたはずの胸の奥の黒いそれが堰をきったように噴き出した。
「ぉ……ぁ………ぁあ……」
ダメだ、ダメだ。ダメだダメだダメだ。
胸を咄嗟に押さえつけようとして、手に持っていた匙が音を立てて床を転がる。体がうまく動かせない。ぐらりと揺れた体が、目の前の料理の盛り付けられた皿をひっくり返す。
グシャリとこぼれて染みを広げる料理たち。
途端、自分のしでかしてしまったことに血が引く。かたわらでルミが何か呼びかけている気がするけれどうまく聞こえない。耳鳴りがひどい。視界の端がチカチカと瞬く。半開きの唇が強張り震え、舌の付け根が痛む。罪悪感が骨の髄から湧き上がり体をあっという間に冷たくする。
いつもより少し品数が多かったのは。
いつもより彩り鮮やかだったのは。
優しい温もりを感じたのは。
ルミが嬉しそうにこちらを見ていたのは。
胃がココナの意思など関係なしに蠢動する。喉の奥からせり上がるものを必死に堪えようとして。
いやだ。そんなことをしてはいけない。許されない。彼女の優しさを。彼女の思いやりをこんな形で。汚して踏みつけるような。最低最悪。畜生以下の。
けれど、胸の奥の黒い衝動を押し留めるだけでココナは手一杯だった。
「ごっ……かぁ、はぁっ……っ!」
べちゃり。嫌な音がココナの口からこぼれ落ちる。自分のあまりの醜さに両の目から涙が溢れる。最悪だ。最低最悪だ。
耳鳴りは激しさを増し視界は狭く狭く収束していく。自分が今どんな体勢で何をしているのかもわからない。それでもはっきりしているのはやはり自分は最低の人間で、差し出された優しさに反吐を吐くゴミクズだということだった。
「ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
繰り返す言葉のなんと空虚なことか。
そうまでして許されたいのか。その結果自分が何をしたのかを知りながら。
己への深い侮蔑が幾度もココナ自身を殴りつける。やめろと。お前にそんな言葉を口にする資格はないのだと。それでも、ココナは意識を手放すまでその言葉を繰り返し続けていた。
◯
夕日の差し込む部屋でルミはしゅんと項垂れながらその場にいた二人に今日のあらましを語って聞かせた。
「私が迂闊だったよ。もっと言葉を選ぶべきだった」
あまり見ないしおらしいルミの姿に若干の可愛らしさを感じながらもキサキは首を横に振った。
「其方のミスとは言えぬだろう。どれだけ心を砕こうと人の中身を他人が全て理解することなどできぬのだから」
「やっぱりココナは自分が楽しいとか嬉しいって思うことに過度の恐れを抱いていると思うのだ。そこに確信が持てただけ……一歩前進なのだ」
サヤとキサキの二人に慰められて僅かだけ表情を緩めたルミがそれでも胸の内の痛みを誤魔化すように頰をかく。
「けど、私じゃやっぱり駄目だったね。どれだけ呼びかけてもパニックになったあの子を落ち着かせることはできなかった」
「今それができるのはシュエリンくらいなのだ」
「シュエリン……のう」
「そうだ、サヤ。今日彼女の姿を見て気になったんだけどさ、シュエリン……シュンは元の姿に戻っているのかい?ここ最近はあのサイズの姿しか見ていないんだけど」
「…………」
「まさか……」
「ぼく様だってやめさせたいのだ。大体連日あの薬を間も置かずに服用し続けるのだって相当なリスク……本当ならドクターストップなのだ!」
サヤの反応に山海経二大組織の首領はそれぞれに驚きと困惑の表情を浮かべた。
「あの若返りの薬とやらは危険なものなのか?」
「普通に服用する分には何も危険はないのだ。それは作ったぼく様が保証するのだ。けど……」
サヤは両手をギュッと握って力無く項垂れる。それは今日までの日々で積み重ねてきた己が無力であることの悔しさに必死に耐えているようであった。
「どんな薬だって過剰に摂取を繰り返せば毒になる。その上、シュンの体は今も事件の後遺症でボロボロ……そんな状態で繰り返しあの薬を飲めばどうなるかなんてわからないのだ」
「何故やめさせぬ」
キサキの言葉は端的だ。だからこそ、答えるサヤの言葉も感情や思いのような余計なものが削ぎ落とされる。
「ココナのメンタルケアに必要なのがひとつ。それから、こっちの方が重大なのだけれど……ああでもさせないとシュンの心が保たないのだ」
「シュンが?」
「シュンはシュンで今回の事件で相当に心を病んでるのだ。それもココナとは逆に日を追うごとに悪化していて、それを今シュエリンとして振る舞うことで辛うじて踏みとどまっているような状態なのだ。薬による悪影響はぼく様の調薬や他の薬と合わせることである程度は対策が取れるのだ。けど、今のシュンの心は……」
「シュエリンでいさせる他にできることがない……か」
「そうか……シュンも……。いや、考えてみれば道理である」
ココナや園児たちが体を蝕まれ心を壊されたように、シュンだって妹から毒殺されかけその体は今もその後遺症に苦しめられている。それでもと若返りの薬を飲むことによってココナの救出に向かえばそこで見たのはカイに身体中をいじくり回され、心を壊し異形になりかけた妹の姿だった。彼女は幼くなったシュンの姿を見て、まず初めに冬虫夏草の苗床にしようとしたのだという。そんな彼女をシュンは自らの手で無力化させねばならなかった。そして、苦しみに耐えながらカイの魔の手から助け出した妹は、次に自分の顔を見た時には自らの命を断とうとした。
「……生き地獄か」
どれだけ良かれと思い選んでも、その先で心を打ちすえられる。きっと彼女はただ以前のようにココナに笑っていて欲しかっただけだろうに。その願いはどこまでいっても叶えられない。何度も、良かれと伸ばした彼女の手は彼女にとっての悪夢を掴んでいた。
シュンの心が限界を迎えない方がおかしい。
そんな中でようやくシュンが自分の手で結果を掴めたのがシュエリンとしてココナの側に寄り添うことだったのだろう。
「二人とも助かって、申谷カイだって捕まって、こうして病院で治療も受けられているのに……」
それでも苦しみは続くのかと、ルミは苦い顔を浮かべる。彼女の顔に浮かぶのはこのやるせない今に対する義憤だった。一方でキサキの表情はこれから未来、やらねばならない己の行いへの躊躇いだった。
「今の二人にあの話をするのはあまりに酷か」
「あの話って……まさか……!」
「正式に決まったのだ!?」
キサキが何の話をしているかを察した二人が食いつくようにキサキに詰め寄る。
「あぁ、これ以上取り繕うことも、時間をかけることもできぬ。こればかりは仕方がない」
「け、けどっ、でもっ!門主様なら決定を変えることだってできるはずなのだ!せめて、休学扱いとかで……時間を……!」
「サヤ」
言い募るサヤの肩にルミは手を置いて首を振る。彼女とてわかっているはずだ。門主の権限をそんな風に振るうことをキサキが望んでいないことを。何よりそうして独裁的に振る舞うことがキサキの立場を危険にすることも。門主は絶対的な存在だが、それはあくまでキサキではなく門主が絶対的なのだ。
彼女は門主としての役割を果たさねばならない。
「私もこればっかりは仕方ないと思うよ。何より、彼女たち二人だけの問題ではないから」
「それは……。ごめんなさいなのだ、門主様。お気持ちも考えず勝手なことを言ったのだ」
「よい。妾とてお主のように思わぬでもない」
しばらく、言葉を失った沈黙が三人の間を漂った。
「話さぬわけにはいかぬと考えている。だが、果たして今の二人にこの話を伝えるべきかどうか……」
独白めいたキサキの言葉にサヤはひとつ提案をした。
「それなら、明日先生がお見舞いに来るのだ。今のココナたちならこれまでと違った反応になるかもしれない。その時の様子を見てから判断するのはどうなのだ?」
「そうか、明日であったな」
先生は事件のあった山海経に足繁く通ってくれていた。ただ、ココナのお見舞いは彼女が当初頑なに先生を拒もうとしたこと、シュンとの顔合わせからの自殺未遂などもあって随分と間を空けることになっていた。
明日は久しぶりに先生がココナの病室を訪れる日だった。
「そうだな。そうしよう。先生と話したなら、あの子も今より心穏やかになれるかもしれない。シュンも……。先生には負担をかけることになるやもしれないな」
「私たちでできることは少ないもの。こういう時こそ、頼りにすべきさ」
「……」
ルミの言葉にキサキは小さく、けれどしっかりと頷いた。
◯
「…………」
"久しぶりだね、ココナ"
「……」
"あまりここに来れなくてごめんね。といっても、ココナからしたら余計なお世話なのかもしれないけれど"
「……」
柔らかな笑みを浮かべてベッドの横の椅子に腰を下ろした先生に背を向け、ココナは頑なに沈黙を貫いていた。そんなココナの反応に、先生は眉尻を下げて困った表情を浮かべる。言葉に僅かに迷い、あまり時間をかけずに立ち去る方がいいだろうかということも検討する。昨日はルミのお見舞いで吐いて泣きながら意識を失ったと聞いた。未だココナの体も心もひどく不安定で、自分のような大人が長くそばにいる事で余計な負荷をかけないとも限らない。
「…………」
ただ、前回に比べればココナの無言に強い拒否を感じなかった。以前はここに自分がいることを認めないような、存在そのものを無視するような態度だった。仕方ないとはいえあれは結構精神にきたものだった。
それに比べれば今のココナの様子はこちらを気にしながらも必死で無言を貫いているように思えた。会話の余地はあるように感じられたのだ。
だから、言葉を続ける。
"ココナ、よかったら何か話そう"
一方的に話しかけることもできる。けれど、彼女に今必要なのはそうではないように思えたから。辛抱強くじっとココナの返事を待つ。窓の外、微かな鳥の囀り。先生服の僅かな衣擦れ。無音が続く。
やがてこれ以上は諦めるべきかと思った頃、ココナはゆっくりと振り返り顔を見せた。
"ココナ……"
何かを言おうとして、言葉を飲み込む。
そこにあったのは病院で治療を受ける患者の顔でも、凄惨な犯罪に巻き込まれた被害者の顔でもない。自分を憎み続け罰を求める罪人の顔だった。気の遠くなるような回数自身を弾劾し、否定し、恨み続けた人間の澱みきった眼が先生の姿を映す。
「先……生……」
幼いココナの声。なのにそれはひどくひび割れて聞こえて。右耳から伸び髪に絡まる緑の蔦は重く固い鎖のように見えた。
見たことがないわけではない。底なしの自罰感情によって狂気にも似た色を浮かべる人間の眼。理由がなければすぐにでも自らの命を断ちかねない、なのにそれができないが故の澱。だが、それを11歳の少女が浮かべていることに先生は動揺した。なにより、救い出され今は親しい姉や友人たちに囲まれているはずの彼女がそんな目をしていることに。
「先生、私……最低なんです」
細い息を吸っては吐き、まるで空気の薄い高山の上にいるように喘ぎながら、時間をかけてココナは言葉を連ねた。
◯
「私はみんなに毒入りのクッキーを食べさせました」
「意識のある姉さんを動けなくするために、何枚も何枚も喉に押し込んで……姉さんは今も体が満足に動かせません」
「今の私は、あれがどれだけの劇薬か理解しています。あんな風に人の口に押し込んでいいものではありません。子どもたちだって、後遺症を患っているかもしれない。手足が、動かなくなってしまっているかもしれない」
「あの子たちの将来を、姉の未来を、あの時私は奪いました」
「それから私は子どもたちの半分を袋に詰めて車に乗せて運びました。まるでものみたいに小さな体を袋に押し込んで。乱雑に車内に投げ入れて。そうして私はあの人の下まで子どもを運んだんです。あの人は百点満点だと私を褒めてくれました。私は、褒められたんです」
「それから私はあの人に言われるがままにあの子たちの体に人紅山姫を植えて、あの子たちの体でキノコの栽培を始めました」
「最初の頃、意識を取り戻したあの子たちは何度も何度も私に助けを求めてきました。『ココナちゃん助けて』『助けて、助けて』って」
「私は……あの子たちに助けてくれる存在だと思われていたのですね」
「けれど私はそんな声を無視してあの子たちをただの苗床として扱いました。きちんと植え付けた人紅山姫が育つように栄養は与え清潔さも保ちました。無闇に怪我をしたり風邪をひかないように注意もしました。それも全て、きちんとあの子たちの体が人紅山姫を育ててくれるようにです」
「育ちきったものは収穫します。根まで取り出さないと薬の材料にならないのであの子たちの皮膚を切り裂いて、肉を深く抉って取り出すんです。あの子たちは喉を引き攣らせて泣き叫んで、誰かに……私に……助けを求めるんです。こんな、あの子の血で真っ赤に濡れて、抉り出した肉を土みたいにこそげ落とす私に……!助けてって言うんです」
「…………どれだけ助けを求められようと私のすることは変わりませんでしたが」
「多少肉が裂け血が溢れたって死にません。けど、病気になられては困りますし、次の収穫にも響きます。だから私は収穫のたびに抉った傷口を縫って塞ぎました。あの子たちの体は私が通した糸まみれになりました」
「そんなことを二度三度も続けていると誰も私に助けを求めなくなりました」
「代わりに化け物を見るような目で私を見て、私が側によると恐怖に震えて許しを乞うようになりました」
「辛くて、苦しくて……おかしくなってしまうと思って……私はあの人に助けを求めました」
「あの子たちの助けをひとつも聞かなかった私が、あの人に助けてくださいなんて……冗談でも笑えません。どこまで恥知らずなんでしょうね」
「あの人は笑ってふたつの方法を提示しました。脳の一部を外科手術で切除して痛みや恐怖を感じなくさせるか。幻覚剤を投与して現実をわからなくさせるか」
「好きな方を選んでいいんだと言われました」
「あの人は、ずっとずっと優しかったです……優しかった……」
「私は自分で選びました」
「あの子たちを薬漬けにすることを」
「そうしたら……すっかり懇願も視線を感じなくなって。私とても楽になりました」
「それに薬の効果か人紅山姫の収穫も捗りました。質の良いものが育つようになったんです。一石、二鳥、ですね」
「あの人は良い選択だったって褒めてくれました」
「私は私の都合であの子たちを薬漬けにして、そんなあの子たちの体を好きに使っていたのに、それすらも辛くて、耐えられなくて……」
「どうすればいいか必死に考えて、せめてあの子たちと同じように自分の体を苗床にしたら楽になれるんじゃないかって。あの子たちの体だけではなく、自分の体でもキノコを育てるようになりました」
「あの子たちにとっては何の意味もないのに。私はそうやって自己満足を繰り返してあの子たちの味方のつもりになったんです。誰よりもあの子たちを怯えさせて、傷つけて、壊した私が?味方?笑っちゃいますよね」
「しかもそれですら自分を納得させられなくって。辛くて苦しくて、そんなことばかり考えて」
「しばらくしてまたあの人に縋りつきました。どうか許してくださいって。酷いことばかりする私を許してくださいって」
「そうしたらあの人は許すって言ってくれて。もっともっと役に立てばもっともっと許してくれるってそう頭を撫でてくれました」
「私はその時救われたんです。答えをもらいました。あの人の望むように、あの人が嬉しくなるように、いっぱい頑張ればいいんだって。それで私は許されるんだって。そう思ったら何もかもが清々しく感じられました」
「あの子たちを攫ったのも、姉さんを殺そうとしたのも、あの子たちで人紅山姫を育てているのも」
「全部良いことだったんだって」
「頑張りを認めてもらえたんだって」
「そうして私はもっともっとあの人のために働くようになりました。今までは苦しかったこと、辛かったこと、恐ろしかったことも全部楽しいことに変わりました」
「だって頑張ればまたあの人が許してくれるんです。褒めてくれるんです」
「よくやったね、すごいよって。そうして私は悪くないんだよって許しをくれるんです」
「……だから、私は」
「望まれるまま体中に薬の素材になる寄生生物を埋め込んで。あの人の助けにもっとなれるようにってお薬のこともいっぱい勉強して。もちろん人紅山姫の栽培も手は抜きませんでした。いいお金になるから一部は販売しようと言われた時は私が価格交渉をしました」
「これだけお金が入ればもっとたくさんのお薬が作れるねって、あの人は喜んでくれました」
「今の生産ラインをもっと効率的にできるはず。一種類ではなく複数の種類を輪作みたいに栽培すれば素材も売り物も種類を増やせるんじゃないかとか。人体を土地に見立てるなら手足をそれぞれ別の土地と考えて一箇所は休耕させることで効率が上がるんじゃないかとか」
「その頃の私にはもうあの子たちが人間に見えてませんでした」
「……先生、わたし最低なんです」
「最低なことを沢山して、最低なことを沢山考えて。全部覚えてるんです」
「みんな、私が洗脳されてたんだから、私が望んだことではないんだからって言ってくれます。沢山優しくして、沢山慰めてくれます」
「とても嬉しいし、この人たちのために生きなきゃって思います」
「でもね、先生」
「私は全部覚えてるんです。全部私が考えてやったんです。自分が苦しいからって子どもを生贄に捧げたんです」
「私なんです。あの時あの人の為に頑張っていたのは春原ココナなんです」
「みんな許してくれます。きっと私が縋って頼めば悪くないって許してくれます」
「先生」
「そんな風に許されていいはずないじゃないですか。そんなことをあの人たちに言わせていいわけないじゃないですか。私のせいで、私を慰めるせいで、私を助けようと、喜ばせようとするせいでみんなが私に汚されていく」
「許されるわけないじゃないですか」
「私が生きてていいわけが、ないじゃないですか」
「先生」
「それでも私が死ねばきっとみんな苦しむんです。姉さんはきっと泣いてしまうんです」
「先生」
「私はどうしたらいいのでしょう」
「私は」
「みんなのかわいいココナちゃんを装えばいいのでしょうか?こんな醜くて汚らわしい私を。それでも助けようとしてくれてるから。最低最悪の私が許されることを私は喜んで受け入れるべきなのでしょうか?」
「私に触れたせいでみんなが汚れて、どんどん取り返しのつかないことになっていくとしても?」
「私に関わることでまた不幸になるとしても?」
「吐き気を催す私が山海経のみんなに混ざって本性を隠して笑えばいいのでしょうか?」
「教えて、ください」
「先生」
「私はどうしたらいいのでしょう?」
「──先生」
◯
ココナの告白は途中途中、俯いたり、喘いだり、えづいたりしながらも止まることなく続いた。それは罪の告解のようであり、罰を求める懺悔のようでもあった。
先生は幾度か彼女の言葉を遮ろうとしかけ、そのたび思いとどまった。彼女を抱きしめて、そんなにも苦しむ必要はないのだと言ってやりたかった。けれど、それは彼女の望むものではなく、それどころか彼女により深い絶望を与えかねないことになるだろうから。
ココナは、おそらく救出されてから一度も許しの言葉を口にしなかった──その機会のなかった──自分だからこそこうして内心を口にしてくれているのだろう。そう考えれば目の前の行為がどれだけ痛々しいものであったとしても、彼女に自分の感情を押し付けてはならないと戒めた。
彼女の血を吐く行為を静かに聞き続けた。
「──先生」
ココナの縋るような声に一瞬、自分こそが追い詰められているような錯覚を覚える。自分の内側で数え切れないほど自分を憎むことで鍛え研がれたココナという名の刃はただその輝きを覗かせるだけで見るものに緊張感を与える。彼女の目はいつだって己をこそ責めている。だが、その目を覗き込むものは鏡のように彼女の自責を写しとり、その憎悪が己に向けられると錯覚する。人の感情は奈落のよう。安易に覗き込めばそのまま足を踏み外して自分が転げ落ちかねない。
だが、本当に追い詰められてるのは目の前の少女で。自分は彼女を手助けする大人だ。
"はじめに、ひとつ尋ねるけれど"
息を吸い揺れそうになる自分の心を落ち着かせてから先生は口を開いた。
"もし私が今ココナの言ったような"かわいいココナちゃん"を装って元のように過ごすべきだと言ったとして、あなたにはそれができる?"
真っ直ぐに目を見て問う。こちらの意思を違えられないように慎重に様子を窺いながら言葉を選ぶ。
「それは……!」
おそらくできると言おうとしたのだろう。こちらに身を乗り出し、口を開いたまま固まったココナは一度言葉を飲み込んで、考えるように僅かに目を伏せた。少しだけ時間を置いた後、勢いをなくした声で続きを口にした。
「絶対にできる……と、断言はできません。今でも、優しくされる自分を許せない気持ちが溢れそうになることがよくあります。昨日だってそれでとても酷いことをしてしまいました。覚悟を決めて、どれだけ心を固めても……もしどこかでこの感情が溢れそうになれば、私は恐れた通りに周りの人たちをまた傷つけてしまいます」
本当に聡い子だと思う。大人びている、というわけではない。ココナはやはりどこまでいっても11歳の女の子で、けれどそれでいてとても賢い子だった。
「姉さんが私にしたように薬で暗示をかけて体が求められる動きしかできないように縛ることができればあるいは……」
考え込んだココナはひどく物騒なことを口にしているが今はそれは聞かなかったことにする。彼女が無意識に口にした『姉さん』がシュンのことを指していないことも心の内にしまっておく。
今話すべきはそこではない。手段の話ではないのだ。
先生が知りたかったのはココナの心がどうしたいかであった。彼女自身が否定している、ココナの心の在処を定めなければならない。それが更に、ココナを苦しめることになるとしても。
"それなら、よかった。ココナは──今も許されたいんだね"
「……何で、そんなことを言うんですか?」
許されたいと、その言葉を口にした瞬間、ココナの目から強い意志が発せられる。見開かれた色の違う両目が瞳孔を窄めて目の前の大人に向けられる。
それは、殺気だった。
ココナが自分自身に向け続けているものの一端が今こちらに向いたのだ。背中に嫌な汗をかくのを感じながら先生は言葉を続けた。カイザーの兵士に囲まれた時のような、アリウスの奥でベアトリーチェと向き合った時のような、心臓を鷲掴みにするような感覚。シッテムの箱でアロナたちが声を上げているが今はそちらに答えるわけにはいかない。
"だって、許されないって気持ちがみんなと過ごすことを拒絶するのは、許された自分でみんなといたいという気持ちの裏返しだと思うから"
「…………」
"ココナは自分のことを許されないと言う。けれど、山海経のみんなの為に生きたいとも言った。私にはココナにとっての事実と願望のように聞こえた。『許されない』ことは事実で、『生きたい』のは願望"
「それは、言葉尻を捉えた先生に都合のいい言葉遊びですよ。もし先生の言い方を借りるなら、許されないから『死にたい』が願望で、優しくしてくれたみんなの為に『生きる』ことは義務です」
歪んだ笑みを口元に浮かべココナは死にたいと言う。殺気は今もぶつけられ続けている。笑う口元がガバリと開いて喉笛に噛み付く幻視が浮かぶ。
「先生、私がしたことも私が考えたことも、何より私が選んだことも変えられません。そんな私が生きたいと、許されたいと本気で言っているんですか?」
"『死にたい』願望も確かに本当なんだろう。『生きる』ことを義務と考えてることも。ココナがそう言うのだからね。けれどそれが『生きたい』という願望と両立しないわけじゃない。人は相反するものを抱えて生きている"
「だから、許されたいとも?」
"ココナが許されるかどうかについて私は問わない。ココナがしてしまったことを罪に問うべきかも同じだ。けれどねココナ、それらの答えがどうであれココナが許されたいと思うかどうかは別の話なんだよ"
「そんなのはおかしいです!だって許されないという結論が出たなら許されたいという願望は決して叶わない願いです!そんなのは──」
"たとえ、叶わないと知っても人は願うものだよ"
「そんなの──」
"無意味だと思うかい?"
「……」
"叶わないことを願うのは無意味だって……ココナは子どもたちにもそんな風に言う?"
「そんなわけ……っ!」
取り出された例えにズキリと痛みを感じながらココナは声を荒げた。パニックになって叫ぶこと、強迫観念に苛まれて謝ること。自分を取り戻してから制御の効かない感情のままに声を発することは何度もあった。けれど、自分のそれを俯瞰して言葉として吐き出すのは初めてなのかもしれないとココナは思った。自分は今も心の内をかき乱されて、溺れるように必死でしがみついていると言うのに、目の前の大人は涼しい顔をしてこちらの一番痛いところに触れる。それがひどく憎らしくて、けれどありがたかった。
ココナが曝け出した醜い手をこの人は躊躇いなく握り返したのだ。
「けれどやっぱりおかしいです!だって、許されたいのなら……私はただ受け入れればいい。姉さんにしてもらったように、またここであの人たちの許しを受け入れればいいはずです!だって、私は…………許されている」
辛そうに、苦しそうに、ココナは「許されている」と言った。その事実に耐え難いのだと強張った顔が教えてくれる。
だから、やはり、言わねばならないのだろう。言って聞かせるのではない。これは説得ではない。ただ、彼女が見ようとしていないものを引き摺り出して提示する。
"けれど、一番許されたい相手に許されないからココナは苦しんでいるんじゃないかな。一番許して欲しい人が許さないからこそ、許されたいと願っている"
「子どもたちは私を許すかどうかなんて考える余裕もないと思います。あの子たちにとって私はただの恐ろしい化け物でした」
"子どもたちがココナのことをどう思っているかは気になるけど、今私が言っているココナを許さない人はあの子たちじゃない"
「なら、子どもたちを攫われた山海経の人たちですか?私をよく知っていて、私を守ってくれるみんな以外の人たち」
"彼らとどう向き合うかもきっとこれからよく考えていかなきゃいけないだろうね。けれど、違うよ"
「だったら……私は誰に許されたいっていうんですか?」
答えをこちらで口にすべきか最後にもう一度迷う。ココナが自身で考えて、自分の中で見つけるべき答えであるべきようにも思える。けれど、今のココナではきっといつまでだって、死ぬまでそれを認めない。そんな予感があった。最も憎くて最も存在を否定したい相手。だからやはり、言うしかないのだろう。
"あなた自身だよ、ココナ"
とても当たり前で、とても大切な答え。
"あなたはあなたに許されたいんだ"
「………………」
その言葉にピタリとココナの体が静止する。先程まで噛み付くようにこちらを捉えていた瞳が何も映さなくなる。呆然と、感情の抜け落ちてしまったような顔で声を発することもできなくなる。
その様子をじっと耐えるように先生は観察し、言葉を重ねる。
"間違っている。そうココナが思うならそれでもいい。けれど、私にはそう見えたんだ"
結局のところ、それがココナの本心かどうかは当人にしかわからない。ココナが今の言葉を受け入れるかどうかも彼女が選ぶことだ。
選択。
それはまるでカイが彼女にしたことのようにも思えて。先生は湧き上がる自己嫌悪の感情を振り払った。
"ココナは、どう思う?"
そう問いかける。忘我の表情を浮かべていたココナの顔に怯えがよぎる。先程までの殺意とも自己嫌悪とも違う、深い暗闇に取り残されたような瞳。一生出られない縦穴に自分が落ちたことを悟るような、恐れの色。
「それ、は……」
シーツを握りしめて体に巻き付けるように持ち上げる。
「そんな、こと……」
寒さに堪えるようにココナの体が震えている。先生は手を伸ばしかけて、けれどまずは彼女の言葉を聞かねばいけないと思いとどまった。
ココナは自分の心の底を見つめているようだった。投げかけられた言葉を理解し、咀嚼し、そして自分の心に照らし合わせる。そうして重なった像に恐怖していた。先生の言う通り、叶わない願いを人は抱く。むしろ叶わないからこそ願う。それは当たり前のことだ。よくあることだ。
当たり前によくある残酷な事実だ。
「こんなものを願っていた?」
"誰だって抱える当たり前の欲求だよ"
「私なんかに許されて、それで、それで何になるっていうんですか?」
"それはココナ自身の方がよくわかってるんじゃないかな"
「…………」
"ココナが欲しい赦しは、初めにココナ自身が自分を許さなければきっと永遠に手に入らない"
「だったら……」
ココナの声が強張る。ギリリと歯を食いしばる音が聞こえてくる。怯えと拒絶。戸惑いと怒り。明滅するように様々な感情が浮かんでは消える。無理やりに向き合わせられた己の心にココナはなんと罵倒すればいいのか言葉を迷う。罵倒したいのかと己の内に問い掛ければ、そんなこともわからないのかと別の自分が罵倒を投げる。意味のない行為をするなと、また別の自分が怒りの声を上げる。
頭の中を終わりを失った思考が円を描いて空回り続ける。それでも、出口のない思考に無理矢理手を入れ終わらせようとする。
「だったら、私は……私を許さない」
"……"
「許しを求める恥知らずな私を私は許しません。子どもたちを傷つけ苦しめた私を私は許しません。姉さんに毒を盛って今も苦しめている私を私は許しません。絶対に許してなんかやりません。一生苦しんで、苦しんで、苦しんで苦しんで……死んでしまえばいい」
"……"
「それが、私の選択です」
ボロボロの笑顔でココナはにこりと笑って見せた。今までで一番優しげで一番醜い笑顔。
「先生のおかげできちんと答えには気づけました」
"そっか。ココナがそうすると言うなら私はそれを否定しないよ"
黒一色に澄んだ瞳を見返して先生は頷いた。それから少しだけ前屈みになって言葉を続けた。
"それじゃあ、次はそんなココナにどうしたら許してもらえるか一緒に考えよう"
「…………は?」
言ってる意味がわからない。
「何を言ってるんですか?私は、今絶対に許さないって……」
"うん、そうだね。ココナがそう決めたならそれは仕方がないことだ。けれど、ココナが自分に許されたいと思っているのは変わらないでしょう?"
「……でも、それは…………っ」
"ココナ、許さないと言われたからってそれで全てを諦めることはないんだ。たとえそれが自分自身だったとしてもね"
「そんなこと……」
"叶わないことを願うと言ったけれど、それは今の話だよ。どうすれば願いを叶えられるようになるか、何をすれば叶う願いになるか、考えて行動することはできる"
「だからって……」
"ココナ。大変なことを言っている自覚はある。そんなのは嫌だと言うのなら無理強いはできない。けれど、許されるための努力をしてみないかい?"
「…………そんな、馬鹿みたいな……」
"馬鹿みたいでもいいじゃないか。ココナ、自分に許されるために頑張ってみないかい?"
「……」
ペテンにかけられた気分だった。ずるい大人に言いくるめられようとしている。けれど、同時に自分がその言葉に希望を抱いていることをココナは無視できなかった。許されたいと、許して欲しいと、そう願う心も決して消えてはいないのだから。
「先生は、ひどいです」
"……"
だから口からこぼれたのはそんな言葉。
「私は最低最悪ですが、先生だって最悪です。なんで、そんなことを……言うんですか?」
"……ごめんね"
「そこで謝るなんて、もっとひどい。ひどいです……そんな風に言われたら、私……もしかしたらって思っちゃうじゃないですか……。どうしたら許してもらえるかなって考えちゃうじゃないですか」
"……うん"
「許すつもりなんてないのに、なのに……それなのに、諦められないじゃないですか」
"うん"
いつからかココナの声は涙にまみれていた。しゃくり上げ、横隔膜を引き攣らせて。
ココナは泣いていた。
「許され、たいって……許して欲しいっ、て……私、だって……もう一度、前みたいに……私、こんなにひどい人間なのに……許されないのに、それなのに……もう一度…………もう、一度……」
ひっくひっくと、しゃっくりのように声が止まない。もう一度とココナは何度も繰り返す。それは子どもたちの集う彼女の居場所を、時間を指す言葉だ。それこそが彼女が最後に帰りつきたい場所なのだろうと、そう察しながら先生はようやく目の前の少女へ手を伸ばす。
張り詰めた漆黒の色が溢れる涙で薄まり、頬を伝い流れ落ちていく。その程度で尽きる黒ではないけれど、それでも目の前の大人に向けていた怒りとも憎しみともつかない殺意はなりを潜め、ただ堪えきれない涙を流し続ける少女の姿がそこにあった。
溢れ続けるその滴をガラス細工に触れるように拭い、頭を撫でる。
"考えよう。どうしたらいいか。ココナがもう一度ココナの居場所に戻れるように。そのための相談なら、私はいくらでも乗るから"
「はい……はいぃ…………」
騙されている。叶うことなんてない。同じ様にあの人に何度も利用されたはずだ。そうして間違いをまた繰り返すのか。
そんな声も聞こえているはずなのに。
それでも、ココナはその手を振り払うことができなかった。
◯
病室のドアの前、白い廊下の中央に立ち尽くす。
泣いている。あの子がわんわんと泣いている。とても、長い間聞いていなかった声だ。ずっとずっと寄り添っていて、けれど自分にはできなかったこと。どこまでも、自分はあの子の姉失格で。いつまで経っても、あの子を笑わせることもできない。ただ、夜毎に苦しむあの子の痛みをほんの少しだけ和らげて。ほんの少しだけ眠れる時間を伸ばずだけ。
自分がひどく空虚な人間に思えた。消えてなくなりたい。そんな考えが頭をもたげる。今、立ちあがろうとしているあの子にこそ寄り添うべきなのに、本当にそれができるのか自信がない。また、何かを見落として、間違えて、あの子が目の前から去っていってしまうのではないかと。そう思うと自分はもうあの子のそばにいるべきではないのではと、そんな情けない考えがよぎる。逃げ出したい。これ以上、自分の無力さを目の当たりにしたくない。弱い心に抗えず扉から後ずさる。
背中にに誰かの体がぶつかる。
驚いてびくりと体を跳ねさせれば、それを抑え込む様に背後からギュッと抱きしめられた。細く白い腕。振り返るなという様にキツいくらいに腕に力が籠る。
「其方はできすぎなくらいよくやっている」
囁く様に耳元に声がかかる。
「大丈夫だ。恐れる必要はない。大丈夫だ」
それは自分があの子に何度も言い聞かせた言葉。自分自身へ何度も言い聞かせた言葉。
「其方らは互いに互いを慮ったのだ。これ以上傷ついてはいけないと守ろうとしたのだ。それは何も間違っておらぬ。だから、大丈夫」
自分で口にする度なんて頼りない言葉だろうと思ったのに。こうして彼女に言ってもらえるとどうしてか心が凪いでいった。
「大丈夫だ、シュン」
◯
窓の外の空は一日の終わりを予告する様に真っ赤に染まっていた。小鳥の囀りは止み、代わりにカラスの長く尾を引く鳴き声が病室まで届いていた。
夜が訪れるほんの少し前。区切りの時間。
"さて、今日は随分と長く話したし頑張るための相談はまた日を改めてにしようか"
時間をかけてココナを落ち着かせた先生は声を殊更明るくしてそう告げた。
「えっと、でも……」
目元が赤いままのココナは、そんな先生の言葉に心なしか不安そうにする。目指すことが決まったのなら立ち止まっているべきではないと、そんな意思を言外に感じられた。目指したいものは見つけられたのに手段がわからないままでいることに気持ち悪さを感じているのかもしれない。
"焦らなくていいんだ。カイは捕まった。事件は終わった。ココナたちを苦しめるものはない。ゆっくりと考えていけばいいんだ"
だから、それはココナを少しでも落ち着かせられればと、そう思って口から出た言葉だった。とっくに知れ渡った事実。それで納得はせずとも、少しでも安心を覚えてくれればいいと、そう思って口にした言葉だ。
「え?」
だから。
不思議そうに首を傾げたココナの表情はあまりにも予想外で。
「あの人が捕まった?」
──どこで?
そんな問いをココナにされると思っていなくて。
"どこって……あの、地下施設で"
できるだけ触れない様にしていた事件当時を想起させる様な単語もつい口にしてしまった。それがココナの顔に笑みを浮かべるなんて思わなかった。
「ふへ……そっか、あはっ……あはは……そっか………あははははは!あははははははは!」
理解できない反応。底の抜けたような笑い声。何か、読み取れない感情のまま無邪気にも思える笑い声を上げ続けた。
「そっか……だからみんな…………それなら、私……私は……っ」
くの字になった体を抱きしめて、発作を起こしたように笑う。笑うしかないとでもいうように。何かがかちりとはまってしまったように。吐き出すように。
笑う。
"ココナ?"
だから、先生はそう声をかけることしかできなかった。彼女から何か言葉を引き出さねば、あまりにも唐突な彼女の変化に理解が追いつかないから。
ひとしきり笑い続けたココナは先程とは異なる暗い笑みを浮かべながらようやく先生に向けて口を開いた。
「先生、姉さんはひとりじゃないんですよ」
"……っ!"
その言葉に愕然とする。蘇るのは昨日。カンナとの対面での会話。
◯
「お時間をいただいてすいません、先生」
"気にしないで。それよりも話しておきたいことって?"
「その、実は根拠らしい根拠は今のところ一つもないのですが……それでも私の勘に引っかかる違和感があるんです」
"刑事の勘ってやつだね"
「嬉しそうに言わないでください。まあ、おっしゃるとおりなので何も否定できないのですが」
"ごめんごめん。けど、こうして呼び出して話したかったってことは重要な話なんだよね"
「もし私の感じてるものが事実なら……いえ、変にもったいぶった言い方はやめましょう。単刀直入にいいます。私は今捕えられている申谷カイは偽物……いや少し違うか……申谷カイのひとりでしかないのではと考えています」
"カイの、ひとり?"
「そうです。影武者とも考えたのですがそれにしてはあまりに本人らしすぎる。少なくとも自分が偽物であるなんて当人は少しも考えていない様に見えます。自己認識も、やってきたことも間違いなく申谷カイなのでしょう。けれど、申谷カイは他にいる」
"待って待って!……カンナの言いたいことを理解できてない"
「失礼、頭に浮かんだことを口にするばかりで整理できていませんでしたね。──これは本当に私の想像でしかないのですが、私は申谷カイという存在は複数人の連名……あるいは複数人が同一の人物として活動している存在なのではないかと考えています」
"えっと……つまりカイというのは人物名の様に見せてグループの呼称であった、みたいな?"
「申谷カイを名乗り申谷カイとして活動する人物が複数人いるという意味ではその通りです。ですがグループというよりは外見も人格も同一にした複数人、という方が正確ではないかと考えています。思想も、仕草も、あるいは過去の記憶すら同一の申谷カイが何人もいてキヴォトスの裏社会で活動している」
"……なんでそんな話に"
「きっかけは現在拘束中の彼女の取り調べから感じた違和感でした。端的に言えば一人の人間が行った行動とは思えないようなことを話すのです。辻褄は合っている。不可能ではない……それでも一人の人間が行うにはあまりにも遊びがなさすぎる。なんと言いますか、プログラムでコンマ秒単位まで管理されたスケジュールを見せられている様な……そんな感覚です。とはいえこれは本当に感覚的な違和感なので、あまり理屈をつけようとしてもおかしなことになってしまうのですが」
"なる、ほど?"
「次に私が思い至ったのはココナさんの報告書です。彼女は申谷カイに薬を盛られ、暗示をかけられた結果、姉や園児たちに毒を盛り児童誘拐、その後の搾取にまで加担しました」
"ココナは……"
「いえ、わかっています。あの件に彼女の責任はない。ただ、私が感じたのはあまりにも強力すぎる暗示です。人の行動をコントロールし、当人が心から拒絶する様な行いすら強制する手段。その事について考えた時私はこう思いました。ここまでの精度で他人の行動をコントロールできるのなら、他者に薬や暗示を強くかける事でもう一人の自分を作ることもできるのではないかと」
"……随分と飛躍したね"
「はい、おっしゃる通りこの考えになんら明確な根拠はありません。それでも、もし申谷カイにそういったことが可能なのであれば幾人もの自分のストックを用意するのではないかと思ったのです。ただの妄想といわれればそれまでです。ただ、私の直感は申谷カイはまだ捕まっていないと言っている。明らかに申谷カイである人物を拘束しているにも関わらず」
"……"
「先生、私は一度この線で申谷カイにまつわる事件を洗ってみようと考えています。今のところは単なる妄想、人に話して聞かせる様な段階ではありません。それでも、先生の耳には入れておきたい、そう思ったのです」
"そっか……ありがとうカンナ。私も少しその可能性を意識してみようと思う。もし何か新しく判明することがあったら連絡して"
「はい。これが私のただの過剰な妄想だと判明したらお騒がせしたお詫びにおでんでも奢らせてください」
"カンナの奢りか。それは楽しみにしないとね"
「ふふ、また屋台で先生と一杯やるのを心の拠り所に仕事に励ませてもらいます」
◯
カンナが妄想であれと繰り返しながら言ったことをココナは当たり前の事実として語る。それに気づかなかった誰も彼もを笑い飛ばす様に。
「あぁ、そうか……そうだったんだ。私がしなければいけないこと。私のすべきこと」
嬉しそうにココナが笑う。けれどその笑みはどこか病的で。怒り、泣き、そうして笑えたはずの彼女を先生はとても危ういと感じてしまった。
「あの人と、決着をつけなきゃいけなかったんだ。私が……私の手で」
けれどそれこそが少女の見出した贖罪の道だった。彼女が救われると確信した手段だった。苦しみ、嘆き、憎み続けたココナがようやく見つけたそれを果たして誰が否定できるのか。
「先生、申谷カイは私が捕まえます」
緋色を背に影の落ちる顔の中でギラリと光る眼光を宿しココナは笑った。