6月後半 宝塚記念
「アンチヴェノム、準備の方はどうだい?」
控室を訪れたのは、黒い丸眼鏡のサングラスを付けた恰幅の良い50歳くらいのおじさん。多胡トレーナー。
専門は主にウマ娘用の義肢の開発を手掛けるエンジニアであり、人体にも精通するドクターとしての側面がある。通称ドクターオクトパス。
障害を持つウマ娘を救う研究と活動を続けていたが、社会ではあまり受け入れられず。はぐれ者のトレーナーという扱いを受けている。
そして、
「おう多胡か! 大丈夫だ、俺たちはばっちり体調整えてるぜ!! 御馳走が楽しみで仕方がねえぇ!!」
アンチヴェノムの首筋からニョッキリと生えた、鋭い乱杭歯の並ぶ黒い頭。
誰もが悪夢かホラー映画のワンシーンとしか思わぬであろう光景を、まるで日常であるかのように平然と会話を続ける。
「ヴェノムも元気そうでなによりだ。今日のレース、君たちはぶっちぎりで下位予想といったところだが?」
「多胡さんよ、私たちがビビるとでも思ってんのか? ぜってーぶち抜いて勝つ!」
「その威勢は良しってところだな……私もね、今日は負ける気がしないと思ってるんだ。不思議だね」
多胡はヴェノムの正体を知る数少ない人間の一人。アンジュたちアンチヴェノムの専属トレーナーとしてサポートしてくれる仲間だ。
アンチヴェノムは紺色のカーゴパンツと黒いタートルネック、黒の長手袋にネイビーのパーカーの勝負服に着替えていた。
レース中、服の下に浮き出るヴェノムの肉体を隠すため、顔以外は黒の迷彩色と衣装で隠しているという多胡トレーナーのアイデアが光る服装だ。
「相手があの、現役最強マシロスパイダーが相手でも、だ」
アンジュはミリタリーブーツの靴ひもをぎゅっと締め、その月毛色の右側に剃り込みの入ったソフトモヒカンを揺らしながらぎっと睨む。
その相貌は、車いすの時の弱かった彼女ではなく、不良じみた威圧感のあるいかついウマ娘:アンチヴェノムだ。
「わかってるよ。正直、私もあいつのことはすげー意識してる。なんてったって、あんな負け方したの初めてだし」
過去に、あのマシロスパイダーと戦い、惨敗した記憶が蘇った。
2月の京都記念で負けた、あの時の鮮烈なマシロスパイダーの勝者としての姿を。
「あれは本物の天才だ。すべてにおいて比類なき才能があり、クラシック三冠も達成した化け物。そいつと戦うわけだが」
「あん時はボッコボコにされちまったけど、今度はこっちが狩り殺す番だ。そのための準備もした」
「言っとくけど、君の才能は確かに素晴らしいが、マシロくんのそれは更に上だ。この私よりも才能に満ち溢れているかもしれない」
栗毛色のウルフカットのウマ娘、超高速の名を持つアグネスタキオンが白衣を翻しながら近づいてきた。
彼女もまた、ヴェノムの秘密を知る人物の一人である。
「クラシック三冠に、海外G1も取ってしまうような怪物に、君はどう戦うつもりかね?」
「確かにマシロはすげえっすよ。でも、私たちも負けてられないんっす。タキオンさん、あんたはどっちが勝つと思う?」
「おやおや? 君は私に慰められたいのかい? 認められたいのかい? まあ、そういうところが君の可愛い所ではあるんだが」
「ちっ、からかわないでくださいよ……まあ、見ていてください。私たち、マシロスパイダーの伝説をぶっ壊しに行くんで」
「ああ、楽しみにしてるよアンチヴェノムくん。それにヴェノム、今回のキーマンは君だろうねぇ……」
くくくと笑いながらタキオンはその場から去っていく。彼女なりにアンチヴェノムを焚きつけようとしてくれたのだ。彼女にとって、アンチヴェノムは貴重なサンプルの一人だからこそ、最高の実験結果を望んでいる。
後に残ったトレーナーとアンチヴェノムは無言のまま、出場の準備を整えていった。
「あの時、地方でずば抜けた力を持ってた君を見つけた時、私は運命を感じたよ。こいつは絶対に伝説になるってな」
「一体何回その話するんだ多胡ぉ?」
「何度だってするぞ、おっさんは自分の武勇伝は何度も話す生き物だからね」
「チッ、まじでうぜー。でも、あんたじゃねえと、私のトレーナーにはなれなかったな。運がいいぜ、おっさん」
アンチヴェノムはあくまで、ヴェノムの助力が無ければ全力で走れない。
今まで足が不自由で、車いすの生活が欠かせなかった障碍者が、G2にも勝ち、重賞ウマ娘にもなったとなれば。
かなり出来すぎた物語と言っても過言じゃないだろう。
それを支えてきたのは多胡トレーナーであり、ヴェノムの正体を隠してくれる大事な共犯者だ。
「なら、そのおっさんに答えてくれ。障碍者のウマ娘でも、夢が見れるってそうみんなに伝えて欲しい」
「私たちはもうあの頃とは違う。走れねえウマ娘は、ウマ娘って言えるのかな……」
「今も走ることのできないウマ娘は世の中に存在する。アンチヴェノム、君たちは彼女らの輝きになって欲しい」
ベンチに腰を掛けた多胡は、ぐっとサングラスの橋を持ち上げて険しい表情を浮かべた。
ぐっと立ち上がったアンチヴェノムは背伸びをすると。すうっと深く息を吸って吐き出した。
「そんじゃ、行ってくるわ! トロフィーはあんたが持ち帰ってくれよな、多胡」
「俺たちが勝つ姿をじっくり見てくれ! 俺たちは勝つ、勝つ勝つ勝つ!!」
「はは、楽しみにしてるよアンチヴェノム。君たちなら絶対に達成できるさ。ウイニングライブ楽しみにしてるよ」
□ □ □
晴天の阪神競バ場。太陽が燦々と輝く、晴れ晴れとした青空。バ場も良好。
入場前のパドックで順番を待ちながら、アンチヴェノムはライバルたちを眺めていた。
誰も彼もが、たった一人のウマ娘を見つめている。青鹿毛の髪色をしたマシロスパイダー
『どいつもこいつも滾ってやがる。ああ、一人ぐらい食っちまってもいいか?』
「………」
『無視するなよアンジュ。ただのジョークだ……それにしても、俺たちは眼中にねえって感じだな』
「………」
頭の中でヴェノムの独り言が響き渡る。ヴェノムは脳内で話すことはできるが、アンジュの考えを正確に伝えるためには口で伝えなければならない。
そのため、アンジュがコミュニケーションを取ろうとしたら、口から言葉で話さなければならないのだが。
『マシロスパイダー、あいつ一人に全員が集中してやがる。予想通りって感じだな』
青と赤のチェック柄のコート、蜘蛛のエンブレムを宿した赤いシャツに、内またが紅い青色スキニーにスニーカーの勝負服。右耳に蜘蛛の巣を模したイアリングが付いている。
自信たっぷりなのか元気にパドックから眺める人間に手を振るマシロスパイダーは、この場全ての人間の注目の的だった。
それは無理もない、宝塚記念でのファン投票でぶっちぎりの一位なのだから。
「注目されてるってことは、それだけ私たちが勝つ確率が上がったってことっしょ。なら上々ってとこ」
『ああ、その通りだ。周りの奴ら全員、あいつに釘付けだからな……だが、マシロスパイダーはきっちりコンディション整てやがる。隙がねえぞ』
パドックを回り終わったウマ娘たちは、地下道を通って本バ場へと入場を開始していく。
アンチヴェノムは顔を上げて、そして今日のレースの勝敗の行く末を見ていた。
『俺たちじゃどうあがいても、あいつには勝てない。だが、俺たちにしかない力がある。そいつをぶつけてやろうぜ。Let’s do this!』
「作戦は変えずにこのまま行く。今日は狩りには良い日だ……早く走りてぇってうずうずしやがる」
<<さあ、盛り上がってまいりました宝塚記念! 今回のレースを制するウマ娘はだれだ!?>>
実況の声と共に大声援が響きだす。まるで地を揺るがすようなその凄まじい歓声は、今から起きる大波乱を予兆させるものだ。
アンチヴェノムはスターティングゲートへと向かって歩き出す。胸を張って堂々と、だれも注目されていなくても。
<<やはり、注目はこのウマ娘、マシロスパイダー!! 悠々と入場です!!>>
「マシロスパイダー!!今回もぶっちぎりで勝ってくれ!! マッシロ! マッシロ!!」
歓声の的はやはりマシロスパイダーだろう。青鹿毛の髪をゆらし、真ん中の星形の白色の髪が艶やかに光る。
今日この場における主役であり、現在のトゥインクルシリーズをけん引する大スター大ヒーロー。
<<これまで常勝不敗の活躍で無敗のクラシック三冠を達成した、現役最強と言ったも過言ではない釈迦に愛された青き蜘蛛! 有マ記念はケガで出られませんでしたが、復帰後の京都記念の勝利をひっさげ、海外G1ドバイシーマクラシックも完勝した世界の英雄! ファン投票圧倒的第一位! 伝説を築き上げる無敗の最強ヒーローウマ娘、1番1枠マシロスパイダーだ!!>>
「今日も蜘蛛の走りを見せてくれ、スパイディー!」
「ヒーローは必ず勝つ! 大いなる力には、大いなる責任が伴う!」
マシロはぐっと手を突き出し、声援に応える。
大いなる力には、大いなる責任が伴う。これはマシロが祖父から受け継いた理念。
名門マシロ家と呼ばれた時代もあったが、今ではすっかり廃れてしまった家名を受け継いだマシロ。
自身に与えられた天賦の才を持て余していたマシロに、祖父は才能を持つ人の宿命を語った。
世界は公正に出来ていない。この世界には弱者が溢れている。
そんな弱者に強者は手を差し伸べる責任がある。
ヒーロー、大いなる才能を使ってみんなに希望を与える象徴として生きる責任。
「やあやあ、皆の衆! 私が来たからにはもう安心だ! なんてったって、私は最強のヒーロー、マシロスパイダーだからね!」
明るく元気な声を張り上げて、マシロは大きく手を広げた。
歓声の声を浴びながら、マシロは自分自身がヒーローになった気分で堂々とたち振る舞う。
「あっという間に、一位をもぎ取ってみせるよ! 情け無用のウマ娘、マシロスパイダーッ!!」
「うぉおおおお! 絶対に勝ってくれ! マシローッ!!」
「我らが親愛なる隣人、マシロスパイダー!!」
足を大きく広げ、両手を指先からぴんと前に突き出し、体を縮めて馴染のポージング。
過去にテレビでやっていた、蜘蛛男の特撮ヒーローのポーズを真似たものだ。
「観客全員、あいつのパフォーマンスにメロメロだ。しっかしまあ、本当に大スター様だな」
『羨ましいか?』
「うんにゃ……でも、この声援が、ひっくり返る様を想像するとたまんねえなぁ」
どっと津波のように湧き上がる歓声と、それを全身に受けたマシロは見るからに今日の主役だった。
<<脚質自在の小さなオールラウンダー、パンプキンボム!逃げか差しか、今日の貴女はさぁどっち?>>
<<ばんえい出身の超重戦車、中央の牙城を突き崩すべく進軍開始です!ライナスホルン!>>
<<無念のクラシック全敗から重賞3連勝。ようやくエンジンが暖まってきたか、エクスバルチャー! 念願のG1制覇にいざ、テイクオフ!>>
<<痺れるレースはお好き?近づく者全てを巻き込む電撃は今日も波乱を巻き起こすかもしれません!エレクトロスター!>>
<<見た目通りのダークホースが地方から殴り込み!アンチヴェノム、その名に 含まれる猛毒は居並ぶ猛者にも通用するのか?>>
実況によって脇役の紹介がこなされていく。この会場のほぼすべてが、マシロの勝利を疑わないだろう。
アンチヴェノムは大外7枠10番にゲートインした。実に冷静に、猛る気持ちを抑え込んで。
各々、ゲートインを完了させ、出走あと僅かと行った空気が流れる。
<<さあ、各ウマ娘ゲートインしました! 果たして今年の宝塚は現役最強マシロスパイダーが1位を取るのか!? それとも、彼女を超えるスターウマ娘が現れるのか! 勝負は時の運、女神は誰に微笑むのか!?>>
「走れねぇウマ娘は、ウマ娘じゃねえ……走った先に見える景色が待ってる。もう止まれねえんだよ」
『気合十分じゃねえか! そうだ、止まるんじゃねえ。お前はずっと走り続ける運命だ!!』
自分の全力を尽くしきり、見えた先にあるゴールの景色。それは、ウマ娘にとってなにものにも変えられない名誉。
いつまでも見続けたい、勝利と速さの向う側にある、ウマ娘の栄冠をずっと味わいたい。
ヴェノムのお陰でウマ娘として蘇った今を、夢に見た景色が今ここに実存する。
この足が粉々になっても、どんな苦痛に襲われようとも。走ることだけは、もう二度と失いたくない。
青空に向かってファンファーレが響き渡る。ラッパの奏でる音は、戦士を鼓舞するシンフォニー
会場にいる全員に緊張が走り、一瞬の静寂があたりを支配する。
ごくりと唾を飲み込む音、武者震いをする者、そして勝敗の結末を望む高揚感。
<<いまゲートが開きました! 各ウマ娘、良好なスタートです!>>
緑のゲートが開いた瞬間、ウマ娘が一斉に頭角を現す。
力強いウマ娘の足がターフの土を蹴り飛ばし、地面を揺らす怒涛の足並み。
風を切り裂き蹄鉄を鳴らし、ウマ娘は疾風となってターフを駆ける。
<<スタートからの500mの直線、先頭はエクスバルチャー、宣言通りの逃げ! 二番手はパンプキンボム、今回は先行策です。続いてソニックナイフ、マシロスパイダーは中団に位置しています!>>
中距離の宝塚は逃げや先行のほうが有利。
だが、アンチヴェノムもまた中団でペースを維持しながら、じっくりと機をうかがう。
焦る必要はない、ただチャンスが来れば差せばいい。ヴェノムは後方でじっくりと体力を温存する。
直線のなかですでにバ群が形成され、そしてマシロもまたその中に閉じ込められていた。
内枠1番という好立地だが、ライバルたちが自然とブロックにかかる。
<<エクスバルチャー、エクスバルチャー! やはり、ロケットのような加速力で、レースを一気に引っ張ります!>>
緑色のハゲワシを模したエクスバルチャーは高ペースでレースを牽引していく。
4バ身、5バ身と差を広げていきつつ、それを追うのはパンプキンボム。
バ群も自然とエクスバルチャーのペースを強いられるが、歴戦のウマ娘たちは顔色変えずに付いていく。
歓声が鳴り響く中、レースの勢いは粛々と駆け引きが行われている状態だ。
<<さあ第1コーナーを曲がった! 先頭エクスバルチャー、速い速い! 中距離とは思えない加速で飛ばしていきます! 5バ身離れて二番手にパンプキンボム、それを見るようにソニックナイフ!中団はハイドリアン、並んで外目にグリンスケイル、1バ身後ろのマシロスパイダーはまだ中団後方、エレクトロスターとラッキーショックに挟まれている形です>>
ヴェノムはその更に後方に位置しながら、じっくりとバ群の状況を観察する。
予想通り、マシロスパイダーはしっかりとマークが付いており、他のライバルたちが彼女を囲う。
息をしっかり整えながら、アンチヴェノムは腕を動かし、しっかりとターフを駆けていく。
昔のように少し走ったら息切れするような体じゃない、みっちり鍛え上げられた筋肉がフルに稼働していく。
第1カーブ、ゆっくりと弧を描きながら隊列はそのままの現状を維持していた。
<<ハイペースでの第1コーナーを抜けて、第2コーナーに差し掛かる! エクスバルチャー、更に後続を突き放す! それを追いかけるのはパンプキンボム、ソニックナイフ! マシロスパイダーはいまだ中団に位置しています!>>
コーナーによってバ群が伸び始めたが、未だマシロはバ群の中にいたままだ。そこにはぴったりとライバルたちが張り付いている。
上手くコース取りが出来ないように、他のウマ娘が連携して閉じ込めている形なのだろう。
だが、マシロにとって、それは慣れっこの光景だった。ヒーローは常に、誰かに狙われる宿命なのだから。
黒い髪を揺らしながら、マシロは自信満々に顎を上げ、ぺろりと唇を舐めてその時を待ち続ける。
かならず、籠の中から飛び出て勝利を得る。それが、いつもの勝ち方だ。
<<第2コーナーを回って直線へ! タイムは……1000m57秒7! かなりのハイペースです! これは、エクスバルチャーの体力が持つのか!?>>
「マシロが囲まれてる間にリードを稼ぐつもりだ」
『俺達は俺達のペースでいけばいい。ここは息を入れろ。そうだ、じっくりと力を貯めようじゃないか』
無理せず、このハイペースについていく必要はない。いつものようにヴェノムのアドバイスを受けながら、アンジュは足を振るう。ぴんと立った耳の先に空気が当たる。
後方に位置しながら、アンチヴェノムは息を入れて、しっかりと勝機を練っていく。
ちゃんとレースにはついていけているし、きちんと今まで鍛えたことは発揮できている。
誰も注目していない、誰も自分を見ていないからこそ、自分はやっとウマ娘の栄光を手に入れることが出来た。
それが、たとえヴェノムによる力だとしても、今まで続けてきた血が滲む努力は着々とアンチヴェノムの力になっている。アンジュはそれを肯定していた。