―――「海賊は嫌いだ」
修業の日々の中で、彼女はその言葉を幾度となく口にした。剣身を拭いながら。あるいは訓練場を後にする背中越しに。それは主張というより、己に言い聞かせるための、静かな誓いのようでもあった。
“黒龍”は、その言葉に割って入ることはなかった。彼は元来、寡黙な男であり――それ以上に、彼女の清廉さが、あまりにも揺るぎなく、危ういものであることを理解していた。
正しさは、ときに刃より鋭い。若さゆえに欠けることなく、曲がることもなく、退路さえ用意しない。
だから彼は、ただ小さく頷いた。それは賛同ではない。否定することで、その清らかさを傷つけることを選ばなかった――沈黙という名の選択だった。
◆◆◆
北の港町は、夜明け前の灰色に沈んでいた。潮の匂いに、鉄と焦げた木の臭気が重なり、肺の奥にまとわりつく。
“黒龍”は、崩れ落ちた家屋の前に立ち、長槍を地に突き立てていた。かつては、仕事を終えて戻る場所だった。賞金稼ぎとして得た金で、家族を養い、明日を繋いでいく――それだけの、慎ましい生活の拠点。
今は、瓦礫と焼け跡しか残っていない。
すべては、彼が捕らえた賞金首から始まった。海賊団の頭目。正当な依頼。正当な報酬。だが、生き残った残党は街を選んだ。報復という名の逆恨みを、弱い場所へと向けた。
瓦礫の陰で、娘が横たわっていた。眠っているような顔。小さな体。閉じられた瞼。もう、呼びかけても応えはない。
黒龍は膝を折らなかった。声も上げなかった。悲嘆は、外に溢れる前に、胸の奥へと沈んでいく。
残党の船は、襲撃ののち、嵐に遭ったという。港を離れた直後、消息を絶ち、海の藻屑となった――そう聞かされた。
復讐の相手は、すでにこの世にいない。怒りの行き場は、行き止まりだった。壁に残る、焼け焦げた海軍の紋章が目に入る。「絶対正義」という整えられた言葉の裏で、切り捨てられた生活。
彼は思い出す。襲撃の兆しを掴み、家族の保護を求めた夜のことを。
「海軍でない者には、手は貸せん」
支部の大佐は、事務的にそう告げた。規則だ、と。前例がない、と。その言葉が、今になって、胸の底で形を持ち始める。
―――彼女なら、どう言うだろう。
修業時代の横顔が、一瞬、脳裏をよぎる。清廉で、真っ直ぐで、危ういほど正しい目。
だが、槍使いは答えを求めなかった。問いは、すでに別の場所へと向かっている。やるせなさと、怒りと、喪失の重みは、ゆっくりと――しかし確実に、一人の男の視線を、ある一点へと収束させていった。
◆◆◆
海軍支部は、港を見下ろす高台に建っていた。白壁は夜霧を含み、そこに立つだけで冷たさが滲み出してくる。
警備は整っているはずだった。だが、その夜に限っては――形だけのものに過ぎなかった。
黒龍は正面から歩いた。隠れる理由はない。叫ぶ必要も、名を名乗る意味もなかった。門を穿つ一突き。鈍い音とともに鉄が歪み、閉ざされていたはずの境界が、いとも容易く開く。
槍は静かだった。怒りを宿さず、憎しみにも任せず、ただ、進むべき線をなぞるように――結果だけを置いていく。
海兵たちは倒れた。悲鳴は上がらず、通路は沈黙を深めていく。血溜まりを踏み越え、最奥へ。足取りに迷いはなく、目的地だけが近づいてくる。
執務室で、海軍支部の大佐が立ち上がった。事務的な視線。数多の命令書に目を通してきた者の、疲労と慣れが滲む顔。
「……賞金稼ぎ風情が、海軍に楯突くとはどういう了見だ」
黒龍は答えるまでに、わずかな間を置いた。
「守るべきものを失った、取るに足らない男の腹いせだ」
声は低く、抑揚もない。
「悪いが――俺の我儘に、付き合ってもらう」
大佐は肩をすくめた。そこに感情はなく、判を押すような仕草だった。
「捨て鉢の自暴自棄に付き合う義理はない。拘束する。行き先は――インペルダウンだ。貴様は、さしずめ“LEVEL5”といったところか」
地下五階。雪と氷に閉ざされた層。高額の首にしか許されぬ場所で、寒さそのものが刑となる。凍傷で指を失う者もいる。眠ったまま目を覚まさぬ者もいる。極寒のため、監視の目すら置かれず、牢の外では軍隊ウルフが静かに牙を研ぐ。
「二度と、地上には戻れん」
黒龍は黙って聞いていた。その言葉を、脅しとしてではなく、終着点の宣告として受け取る。
そして、ゆっくりと槍を構えた。そこに、迷いはない。引き返すための余地も、すでに残されていなかった。
「……そうか」
それだけだった。
◇◇◇
執務室の空気が、目に見えぬ形で歪んだ。静寂のほうが先に耐えきれず、低い軋みを上げる。大佐は机の前に立ったまま、外套の裾を無造作に払った。ただそれだけの所作に応じるように、床板が唸り、ゆっくりと沈み込む。
「……知っているか」
落とされた声に、感情はない。威嚇ですらなく、官僚的な事実確認の口調だった。
「ここではな――命令は言葉ではなく、“重さ”で示す」
次の瞬間、黒龍の足元が砕けた。見えない圧力が四方から同時に襲いかかり、身体を押し潰す。肺が塞がれ、骨が悲鳴を上げ、関節が軋む。
壁の装飾は耐えきれず弾け飛び、書棚は抗うことを許されぬまま、重力に屈して沈没した。
空間そのものが、命令を帯びて牙を剥く。――重圧。
それは敵意ではない。まして殺意でもない。それは圧倒的な支配。大佐は“重力”を操る能力者であった。空気に、床に、壁に――世界そのものに“重さ”を与え、命令に従わぬ存在を、物理的に地へ縫い留める力。
「立っていられるだけでも、褒めてやろう」
圧はさらに増す。執務室が、建物ごと沈み込んでいく。人が抗える領域ではない。組織に属さぬ者が、踏み込んでよい場所でもない。
「跪け」
号令と同時に、圧が落ちた。床が沈み、黒龍の足首が呑み込まれる。黒龍は、即座に半身になった。左足を引き、右足を前へ――逆丁字。正面から受ければ骨が砕ける圧を、斜めに逃がす構え。
石突きを床へ打ち込む。支点を地に置き、腰を割り、脊柱を真っ直ぐに通す。槍は諸手突きの低構え。穂先は床すれすれを這い、槍線は寸分も相手の正中を外さない。
圧が肩に乗る。黒龍は踵を返し、摺り足で半歩、前へ出た。受けずに通す。背から腰へ、腰から石突きへ。重さは槍を伝い、床へと抜けていく。
「……確かに“重い”」
吐息とともに、低い声が落ちる。
「だが――家族を失った後の世界に比べれば、遥かに軽い」
大佐の視線が、わずかに泳いだ。
そこに立っているのは、もはや何者にも守られず、何処にも属さず、それでもなお立ち続けることを選んだ男だった。組織の正義と、個の覚悟。その間に、もはや言葉は要らなかった。
「動けるはずが――」
黒龍は答えなかった。言葉より先に、歩法が応じる。送り足。追い足。一歩ごとに槍の角度を指一分ずつ改め、圧が強まる方角へ穂先を据える。
槍は斬らない。絡め、いなし、芯を外す。天井が低く鳴り、床が沈んだ。黒龍は体を沈めず、腰だけを落とす。重心は低く、上体は浮いたまま――踏み込みのための姿勢。
大佐が一歩、退く。その半歩で、間合いが崩れた。黒龍は即座に踏み替える。後足を前へ送り、同時に槍を引く。穂先が円を描き、空間を巻き取る。
大佐は腕を振り下ろした。重圧を一点に集め、胸元へ叩き込む。黒龍は深く半身を切り、槍を返す。巻き落とし。穂先が圧の芯を捉え、横へ流す。
逸れた重さが床を抉り、石が砕ける音が遅れて響いた。黒龍は止まらない。前足一足、踏み込む。腰が回り、槍が伸びる。雷光のような一突き。刃が肉を割く感触は、ほとんどなかった。次の瞬間、鈍い湿音とともに、熱を帯びた血が槍柄を伝う。
槍は心臓を貫き、背後の壁に突き立つ。大佐の口がわずかに開き、息にならない音が漏れる。
血が、遅れて落ちた。床に一滴、二滴。やがて糸を引くように広がり、沈んでいく。大佐は声を上げる暇もなく崩れ落ちた。槍を引き抜くと、血は音もなく刃から離れ、床へ吸い込まれていった。黒龍は一歩、距離を取る。追撃はしない。
執務室に残ったのは、軋む梁の音と、鉄と血の匂いだけだった。
◆◆◆
夜明け。港はまだ眠りの底にあり、潮の匂いに鉄と血の残り香がわずかに混じっていた。岸壁に停泊する一隻の船。帆は畳まれ、波に揺られながら、行き先を決めかねている。
黒龍は、桟橋に立ったまま振り返らない。背後にあるのは、海軍という秩序。賞金稼ぎとして生きてきた年月。そして――一線を越えたという事実。
掌を見る。すでに血は乾いている。それでも、あのぬるりとした感触だけが、指の奥に残っていた。取り返しは、つかない。海軍に刃を向けたことも。復讐を遂げれば、何かが戻ると信じていた愚かさも。
家族の笑顔が、ふと脳裏をよぎる。何気ない朝の声。食卓に並ぶ皿。二度と見ることのない光景。胸の奥に残ったのは、達成感ではなかった。空虚だった。血を流し、命を奪い、なお満たされない空白。
―――海賊は嫌いだ。
修業時代の彼女の声が、波音に紛れて蘇る。清廉で、まっすぐで、復讐に燃えるその横顔。正しさを疑わず、疑う必要すらないと信じていた頃の眼差し。彼女は、まだ燃えているだろう。怒りを力に変え、前だけを見て。
「……それでも」
黒龍は、独りごちる。声は低く、誰にも届かない。
「正しさだけでは、救えないものもある」
彼女には、まだそれが見えない。あるいは――見なくていいのかもしれない。帆が上がる。船が岸を離れ、ゆっくりと港を後にする。黒龍は、立ったまま動かない。逃げではない。贖罪でもない。こうして一人の物静かな男は、自ら選んだ地獄へと歩み出した。
それは堕落ではなかった。血を引きずり、後悔を抱え、それでもなお生き続けるという――彼なりの、沈黙の決断だった。