北の海特有の、骨の芯まで冷やす霜冷えの風が、切り立った岩壁に囲まれた入り江を荒々しく叩きつけていた。
かつては湖のように穏やかで、島の子ども達が水遊びをし、漁師達が疲れを癒した静謐な場所だった。深緑の森と青い水面が織りなす光景は神秘的で、この海域では稀なほど平和な時間が流れていた。
だが今、その面影はない。非合法を生業とする荒くれ者達が巣食うようになって以来、入り江は一年中、陽気とも狂騒ともつかない音楽に満たされ、怒声と罵声が飛び交い、時折、婦女子の悲鳴が岩壁に木霊する混沌の巣へと変貌した。喧騒と暴力が支配する無法者の楽園――。
入り江の最奥、荒波に抉られ口を開いた天然の洞窟。その闇の空洞に、数隻の海賊船が静かに碇泊していた。寒風に煽られ、黒い海賊旗が大きくはためく。
その旗に描かれているのは、頭蓋が割れた骸骨。頭頂部の亀裂からは火花が散り、髑髏の歯列には今にも燃え尽きそうな導火線が咥えられている。
――“爆弾魔”の海賊団。北の海の市民にとっては、死の予告状そのものだった。
この船団が縄張りを築いてからというもの、周辺の町や港では昼夜の別なく爆破が繰り返され、一般市民を巻き込んだ無差別テロが常態化し、海の治安は最悪の深度へ沈み込んでいた。
だが、暴虐に対し黙っている者ばかりではない。噂を聞きつけた賞金稼ぎ達が、爆弾魔の旗を見つけるたび、乗組員を一人残らず海の藻屑に変えていった。
十の海賊船が沈み、百の手下が血泡と消えた頃――ひとりの賞金稼ぎが“海賊殺し”の異名を背負い、ついに首魁の愛船が停泊するこの島へ上陸した。
そして、まるで作業のような無慈悲さで海賊船に乗り込む。
次の瞬間には、船内は地獄へと反転していた。狭い通路に血潮が散り、悪漢どもは反撃の姿勢すら整えられぬまま、次々と斬り伏せられていく。命乞いと断末魔が重なり、岩場にこだまする風は冷気を含んで灰色の空へと舞い上がる。それはまるで、テロリスト達の今際の叫びを鎮魂歌に変え、犠牲者の魂を天へ返すかのように――。
“海賊殺し”の剣は、一閃ごとに血風を裂き、犯罪者達の首を容赦なく刎ね飛ばしていった。断罪は加速し、凶賊の巣窟に生存者は最早いない。甲板に残されているのは――対峙する二人だけ。
海賊船からは黒煙が昇り、内部は火薬と血の蒸気で満ちていた。潮の香りに火薬の匂いが混ざった風が頬を掠める。焼け焦げた上着。爆風で負った肩の火傷に、冷たい涼気が沁みる。
“爆弾魔”。その名の通り、全身のあらゆる部位を起爆させる悪魔の実の能力者。怒号と殺意を一つにして吠え、剣士の華麗なる斬撃を、短柄の手槍で叩き払う。
――海賊は嫌いだ。
自己都合を正義と詭弁で飾り、卑劣な蛮行を矮小化する。近隣諸国へ悪意を撒き散らし続けてきた“爆弾魔”の所業は、筆舌に尽くしがたい鬼畜の犯罪に他ならない。
海賊船の船長は、下卑た笑いを喉奥で震わせ、手槍を舌で舐めながら言った。
「嬲り殺しにしてやる」
「下種が……地獄で被害者達に詫びろ」
「貴様が地獄を語るのか?殺しが趣味の快楽殺人者がッ!」
「懸賞は“生死を問わず”だ。政府が海賊を殺すことを認めている。――私は法に則るだけだ」
大海賊時代。処刑台で放たれた海賊王の言葉が災厄の種子となり、法を過信した愚物どもが虐殺と無秩序を社会へ蔓延させた。
船腹に白い飛沫が立ち、氷の鞭のような風が肌を刺す。
“爆弾魔”は、吐息や髪の毛すら起爆できる。分泌物を手下に散布させ、付着した物品を市中に流通させることで物流そのものを破壊した。林檎、麦酒、積荷、薬――誰もが知らぬ間に死地へ足を踏み入れる。被害は甚大で、剣士の憤怒は身を焼くほどに高まっていた。
能力者の両眼が血光を帯びる。次の瞬間、手槍が鋭い軌跡で投擲された。
風切り音――。剣士は半身に滑り、軌道を躱す。直後、揺れる木の床に突き刺さった手槍が爆ぜ、大量の破片が飛散した。
爆発の衝撃が聴覚を奪い、熱と煙が視界を遮る。手槍はもはや武器ではない。まさに小型の兵器であった。二次、三次と襲いかかり、賞金稼ぎを追い詰める。
船が大きく軋み、傾きが頂点へ達した瞬間――剣士はかんぱんを蹴り、宙へ跳んだ。狙うは“爆弾魔”の脳天、垂直の一撃。
――馬鹿が。空中でどうやって“これ”を躱す?
「黒焦げになれ‼」
“爆弾魔”は全身に仕込んだ手槍を、残らず上空へ向けて放り投げる。剣士は猫科の獣のようなしなやかさで空中を翻し、迫る槍の雨を避けた。
だが――。
海賊は嗤う。狙い通りだと言わんばかりに。空中に撒かれた手槍が、一斉に起爆する。火花が閃いた刹那、爆炎が咲き乱れ、灼熱が波間に預けられた足場を飲み込んだ。逃げ場などどこにもない。上空から落ちる剣士を、焼き尽くすように――。
―――勝った。
紅と黄が混じり合い、視界を灼き尽くすような火の飛沫が四方へ散った。爆炎の奔流が船の上面を呑み込み、渦を巻く熱風が天へと轟々と立ち上る。その光景こそが勝利の証だと、“爆弾魔”は疑いもしなかった。今ごろ敵は苦悶しながら骨まで焦げ、空中で絶叫を上げている――そう確信した、まさにその刹那。
揺らぐ黒煙の向こう、視界の端で白が閃いた。気づけば、喉元に冷ややかな白刃が当てられている。眼球をわずかに動かす。そこには、爆炎で屠ったはずの忌々しい賞金稼ぎの顔があった。
―――どうやって……?
能力者の瞳が訝る色を帯びる。だが、剣士は何も答えない。海賊は知らなかったのだ。常人には不可能な、空中での姿勢制御――極限まで鍛え抜いた肉体のみが扱える“月歩”という体技の存在を。
剣の刃を頸に押し当てたまま、賞金稼ぎは静かに問うた。
「……何故、無差別に市民を爆破した?」
「へッ、海賊が欲望のままに暴れりゃ何が悪い」
「……そうか。貴様には更生の余地はない。死ね」
言葉の連鎖で相手の注意をわずかに揺らがせる。能力者は鼻を鳴らし、なおも反抗の姿勢を崩さない。
「待て待て……更生?ハッ、笑わせんな。テメェ何様のつもりだ?裁判官でもねぇクセに……!」
「確かに、私は裁判官ではない。だが――賞金稼ぎである前に、“正義の執行者”だ」
次の瞬間、能力者の皮膚が赤橙に染まり始める。爆発の予兆。全身を兵器と化す悪魔の能力が、再びその牙を剥こうとしていた。
「処刑人の間違いだろ……それとよォ、その“正義”ってのは一体――」
爆ぜようとした気配を、剣士は読み切っていた。
剣光一閃。
閃いた刃は迷いなく頸を断ち切り、悪党の目論見を瞬時に看破して沈めた。
首が跳ねるよりも早く、剣士は静かに告げる。
「……私にとっての正義とは――“法”だ」
エメラルドグリーンの海を背景に、“爆弾魔”の首は、鈍い音を響かせて血に染まる床板へ転がり落ちると、波が飛沫と共に巨悪の終焉を告げた。