男は、自分という存在を忌み嫌っていた。
幼き日より、彼は裕福な上流階級の家に生まれ、贅沢と呼べるあらゆる物に囲まれて育った。一人部屋、飽くほどの玩具、命令一つで動く召使い。愛玩動物は幾種も飼われ、食卓には香気あふれる豪勢な料理が並ぶ。望む物は全て与えられた。……だが、その豊かさは、彼の心には一片たりとも満たされるものを残さなかった。
男は自分が嫌いだった。
彼は幼い頃から視力が弱く、遠くを見るたびに目を細める癖がついていた。二十歳を過ぎる頃には世界は常に霞み、まるで濁った水底から光景を覗き込むような、重く曇った現実しか映らなくなっていた。強い度数の眼鏡を作らせても、その重さが頭を締めつけ、やがて彼は眼鏡をかけることすら放棄した。代わりに使用人を傍らに立たせ、文書を読ませ、訪問者の名前を耳元で囁かせることで、かろうじて世界を識別していた。
だが、その耳さえ、ある時を境に裏切った。突然に訪れた難聴、終わりなく続く耳鳴り、めまい。──音は届いているのに、言葉として形を結ばない。
使用人の囁きも聞き取れず、名指しを誤り、恥をかくたびに彼は怒りを爆ぜさせ、側仕えを折檻した。叱責は重なり、やがて屋敷の誰も彼に近づこうとせず、男は静かに――しかし確実に――孤立していった。
肌もまた、男を裏切った。吹き出物に覆われた顔、化膿としこりがこびりついた背。赤黒い染みは広がり、汗に触れれば激しい痒みに襲われる。夏は炎の季節であり、彼にとっては地獄の季節だった。
歯並びも悪く、噛み合わせは歪んだまま成長した。下顎は不格好に大きく、言葉は常に舌足らずに滲んだ。幼い頃から何度も聞き返され、その度に胸の内で苛立ちと徒労が渦を巻いた。大人になる頃には、自分の言葉など正確に届くはずがないと悟り、口数は少なくなり、男は世界に背を向けるように塞ぎ込んだ。
慢性的な頭痛に悩まされ、気温が揺れれば寝込み、湿度が変われば倒れる。季節の変わり目ごとに風邪を引き、片方の鼻は常に詰まっていた。
勉学も苦だった。椅子に座るだけで身体が悲鳴を上げる。家庭教師の語る内容は霧散し、文字はただの模様としてしか認識できない。窓の外を眺め、時が過ぎるのを願う日々が続いた。
兄弟姉妹は皆、優秀だった。親の期待を背に受け、器量も才覚も社交性も備え、努力をいとわない者ばかり。男は“出来の悪い弟”として遠巻きに扱われ、排除はされないが、腫れ物のように扱われる温度差が、むしろ胸を締めつけた。
成人しても部屋に引きこもり、食べては寝るだけの退屈で怠惰な日々。兄弟姉妹が島を離れ、独立し、家族を作り、人生を進めていく中で、彼だけが老いた両親の庇護に寄りかかり、季節すら見分けぬ生活を続けた。
自分は“人生の敗者”だと理解していた。社会の底に沈む者なのだと自嘲した。死ぬほどでもないが、生に未練もない。夜に起き、朝に眠り、無為に歳月だけを摩耗させた。
兄弟姉妹の子供が成長し、働き、嫁ぎ、巣立つ年齢になっても、男だけは世界から置き去りにされていた。
──だが。彼には、他の兄弟姉妹にはないものがあった。
父が気まぐれに競売へ連れ出した日。奴隷、芸術品、珍獣……そしてその日の目玉──「悪魔の実」。
その果実を見た瞬間、運命の天秤は激しく傾いた。醜く閉ざされた彼の人生に、初めて“本能”と呼べる炎が灯った。
欲しい。どんな金でも払う。絶対に逃さない。
怒号にも似た執念が、ついに彼の手に果実をもたらした。親の制止も、周囲の視線も、一切耳に入らなかった。
実を口にした瞬間、理解した。
──自分は、この実に巡り会うために生まれてきたのだ。
そして、「悪魔の実」は弱き男に全てを授けた。
結婚もできず、劣等の泥に沈み、自らを愚鈍な猿と蔑んでいた人生が、音を立てて反転した。能力者となった男は、これまでの鬱屈を全て清算するように勢いを増し、瞬く間に島を掌握した。恥辱にまみれた過去を“払拭”し、輝く未来を掴んだ彼を、時代の風が後押しした。
海賊王の処刑は、さらなる引き金となった。あの日、世界中に散った“自由”の火種は、男の胸にも確かに落ちた。
強き者が生き、弱き者が死ぬ。それこそが自然の摂理。弱者だった自分を殺し、強者として再誕するために、男は黒い海へと漕ぎ出した。
そして今、男の懸賞金は──億へと迫っている。
◆
―――海賊は嫌いだ。
「貴様の罪は、万死に値する」
静かに告げたその声音は、海鳴りすら凍らせるほど冷たかった。
「我輩を“殺す”?──出来もしない事をほざくとは、蛮人も極まったな。後で泣いて詫びる羽目になるぞ?」
嗤うやいなや、海賊の背中が裂けた。肉が捻じれ、骨が軋み、背骨の両側から闇色の翼が広がる。その影は月光を吸い込み、辺りに妖気と邪悪が混ざり合った重い気配を撒き散らした。まるで、漆黒の夜を渡る蝙蝠が人の形へ“成り損ねた”かのような異形。
灰褐色の体毛がざわめき、顔面の皮膚は引き攣れて獣の面貌となる。門歯と犬歯は凶器のように伸び、ぎらりと光る双眸は紅玉のごとき赤──血を求める捕食者の色だった。
それはまさに“悪魔”と呼ぶに相応しい姿であった。
蝙蝠へと変じる飛行能力。肉体強化に裏付けられた圧倒的な膂力。そしてなにより恐れられたのは──“不死者”とさえ呼ばれる再生力。
常人なら即死に至る傷など、彼にとっては絶望にも値しない。脳漿が飛び散ろうと、心臓が貫かれようと、脊椎が砕けようと……傷が生じた瞬間から再生が始まり、数秒後にはまるで何事もなかったかのように復元される。
世界の埒外に立つ、理不尽そのものの“不死性”。
“吸血鬼”と化した海賊は、病にも衰えにも屈さぬ永遠の肉体を手に入れた。しかし、それは同時に取り返しのつかぬ代償でもあった。生命の根源とも言える“血”が栄養源となり、彼は常に生きた人間の血を渇望する――捕食者として生きる宿命を背負ったのだ。
「命を弄ぶ外道が……」
静かに吐き捨てると、海賊は目を細め、翼の影を揺らした。
「言葉が過ぎるぞ、“海賊殺し”。貴様のそれは正義か? それとも……下賤な殺人鬼の独り善がりか?」
吸血鬼は人類の敵として恐れられ、迫害される存在だった。だが彼は屈しなかった。むしろ人々の恐怖を利用し、自らの怪物性を誇示し、逸話として喧伝した。
──血を糧に永遠を生きる怪物。
──その怪物に血を吸われた者は、死に至る。
──しかし、生き残った者の中で気に入られた者は、血を分け与えられ“眷族”となる。
世界は噂を恐れ、怪物は噂を力に変えた。
そして闇の海に翼を広げた怪物は、今まさに“海賊殺し”と呼ばれた剣士に向き合おうとしていた──。
◆◆◆
「眷属」となれば、己もまた人の生き血を啜る化物へと堕ちる。……だが、その禁忌の果実には、余りにも甘美すぎる副次効果があった。
眷属となった身体は常に“全盛”を保ち続ける。いくら食しても脂肪はつかず、怪我も病もすぐさま霧散する。体力は衰えを知らず、腹筋は硬く割れ、身体能力はもはや人間の域を超える。老化も、肥満も、肌荒れも、虫歯も、薄毛も、そして老いさえも──凡人が生涯逃れられぬあらゆる呪いから解放され、疾患とは無縁の人生が約束される。
この“奇跡めいた恩恵”は、噂となり、風となり、島から島へと流布していった。
風説を信じた者たちが「血」を求めて押し寄せた。死を待つだけの寝たきり老人。重病に人生を奪われ、絶望に沈む患者。永遠の美を願う婦人。死を恐れ、その影に怯え続ける富裕な夫婦。
彼らにとって、眷属化の噂は──金で買える“神の救済”に等しい、夢のような奇跡だった。
だが、その“奇跡”の裏側で、吸血鬼の伝説は数え切れぬ犠牲者を生み出した。怪物は信徒たちから富を巻き上げ、血を啜りながらも、決して眷属にはしない。
「気に入らない」「適合しなかった」
ただそれだけの理由で次の犠牲者へ牙を立てた。
待ち構える信徒からは多額の献金を搾り取り、ときに忠誠心を競わせ、反抗者がいれば信者同士に“自主的な粛清”を行わせた。島に生きる人々の財も血も吸い尽くすと、怪物はあっさり次の島へと渡っていく。
そして──血を与えられた者の中で、眷属となった者は一人として存在しなかった。
“悪魔の実”はこの世に一つ。“吸血鬼”の能力も唯一無二。その実を食した者だけが怪物となり、他者へ能力が伝染することなど本来あり得ない。
人の生き血を啜る行為の正当化。病気や弱さ、老いに怯える人間の欲望につけ込み、支配する悪魔の所業。眷属化の物語は──怪物自身がばら撒いた、悪意ある流言飛語にすぎなかった。
吸血鬼は薄く口の端を上げた。その笑みは血のように暗く、冷たい。
「我輩の糧となった愚かな人間どもの、あの媚びへつらい……まったく、滑稽極まっていたぞ」
翼がかすかに震え、紅玉の双眸に嘲りが揺れる。
「──要するにだ。騙される方が、悪いのさ」
◆◆◆
賞金稼ぎの全身から、闘気と怒気が濃霧のように立ち昇っていた。“海賊殺し”と恐れられた剣士の黒刀が、宙気を震わせて怪物へと奔る。雷光の一閃――蝙蝠男の右手首が、皮一枚を辛うじて繋いだまま断ち切れ、血の滴とともにぶらりと垂れ下がった。続けざま、剣士の剣技が暴風の渦を巻き、唸りを孕んだ鋼の歌が空気を裂く。怪物の左腕が血煙を描きながら宙へ跳ね飛んだ。
「無駄だ!」
断面からは瞬時に肉芽が芽吹き、骨が軋み、腕が再び形を成す。血を求めて吠え、怪物は爪を振り下ろし猛然と反撃に転じた。左から打ち込まれた豪爪を黒刀が受け止める。火花が散り、剣士は息を置かずに返しの一撃を右肩へ叩き込み、舞い上がる鮮血を避けながら左後方へ軽やかに跳び退く。
「調子に乗るなっ‼」
怒号と共に怪物が大地を蹴り崩し、獣の咆哮を響かせ突進してくる。
それを迎え撃つ剣士の斬撃は“神速”の二字を地に刻む閃光となり、再生の余地すら与えぬ。斬り裂き、断ち、弾き飛ばす。袈裟に振り下ろし、撫でるように切り払う。剣士の双眼に宿る光は、冷徹な刃の輝きと、紅蓮の焔を併せ持ち、“吸血鬼”と呼ばれる異形を圧倒した。
―――ここで狩り殺す。
逃走の兆しを摘み取るため、地を這うほど低い姿勢から鋭烈な斬光が迸る。水平に奔った刃が怪物の足首を寸断し、重い肉塊が泥土に転がる。
黒刀はなおも輝き、刃風と血潮の嵐が荒野を席巻する。
―――煩わしい。……だが、距離さえ詰めれば。
飛散する血の霧の中、“吸血鬼”は怯むことなく迫り、剣士の首筋へ牙を突き立てた。
「ぐ…」
剣士は一瞬、苦悶に顔を歪める。左肩から血と生命力が吸い取られ、全身が脱力の淵に沈む。
―――木乃伊になるまで吸い尽くしてやる。
しかし、密着状態のまま、剣士は脇下に隠していた小武器を抜き放ち、怪物の咽喉へ突き立てた。
吸い込む血と、逆流する血が気道で衝突し、怪物は堪らず咽せ返る。その一瞬の怯みを逃さず、剣士は牙の呪縛から身を捩って離れた。頸椎まで深く打ち込まれた長針を引き抜くと、鈍い音を立てて地面に落ちる。刺創から血が噴き上がり、怪物は喉を押さえ大きくよろめき膝をついた。
―――下等生物が調子に……。
怪物の紅眼に殺戮と復讐の焔が宿る。しかしその肉体には、すでに異変が走っていた。咽喉の奥から、得体の知れぬ“何か”が広がる。皮膚は猛烈な痒みに焼かれ、唇は腫れ上がり、眼球は灼熱の炉に投げ込まれたかのように痛みを放った。呼吸は浅く乱れ、喘鳴が笛の破れたような掠れ声で鳴り始める。
生きたまま地獄の炎に灼かれているかのごとく、怪物は大地をのたうった。
「おおおおおおおおおおおおおぉぉぉ………!」
人の声とは思えぬ絶叫が、天地の狭間を震わせる。
「ああああああああああああぁぁぁ………!」
創造と破壊が体内で果てしなく繰り返され、血圧は落ち、意識は薄れ、生命の基盤そのものが蝕まれていく。
―――コレは何だ……。
剣士は、狂乱し苦悶し続ける怪物の姿を、冷ややかに眺めていた。
「貴様は……死ぬには遅すぎた」
わずかに咳き込み、青白い唇から黒ずんだ血を吐き落とす。ろくな手当てもせぬまま、呻き続ける怪物の首へ縄を掛け、馬を使って崖まで引き摺る。“蜂毒”に侵され、もはや立つことすらかなわぬ“吸血鬼”を一蹴すると、身体は斜面を転げ落ち、濃紺の海へ沈んでいった。
海の蒼さは深海のごとく濃さを増し、昼だというのに空には暗灰色の雲が垂れ込めていた。崖の上から望む景色の色彩はすべて淀み、まるで世界そのものが息を潜めているようであった。