海賊殺し   作:ドラマ・ドラマ

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6.蜘蛛女

太陽が没すると、空と大地の境目は溶接(ようせつ)でもされたかのように一体化し、常闇(とこやみ)がゆっくりと世界を染め上げていった。冷気と暗黒(あんこく)が支配する森では、(ふくろう)の鳴き声が鋭く響き、その余韻(よいん)が消えると同時に、すべての音が吸い込まれたように静まり返る。濃紺(のうこん)の闇が森を(おお)い、足を踏み入れた者から正しい時刻と方向感覚を容赦(ようしゃ)なく奪い取った。

 

その漆黒に誘われた“迷いの森”の深奥(しんおう)―――

そこでは、海賊たちが隠れ家で違法取引、人身売買を平然と()り行っていた。

 

暴力、脅迫(きょうはく)、誘拐、詐欺(さぎ)。あらゆる卑劣(ひれつ)な手段で「人間」を支配下に置く。

 

強制労働、強制結婚、性的搾取(さくしゅ)臓器摘出(ぞうきてきしゅつ)。手段こそ異なれど、弱者から奪い取るという構図だけは揺るがない。

 

善良な水夫(すいふ)が、貞淑(ていしゅく)な夫人が、無辜(むこ)の少年が、純粋な少女が―――ある日を境にして、否応(いやおう)なく“奴隷”へと()とされる。権利は踏みにじられ、魂は(けが)され、生きるはずだった人生そのものが強奪(ごうだつ)される。

 

人身売買と奴隷制は、被害者の尊厳(そんげん)を根底から破壊する非人道(ひじんどう)極致(きょくち)であり、多くの地域では重罪として廃止されている。しかし、世界のすべてがそれを拒絶(きょぜつ)したわけではなかった。

 

偉大なる航路(グランドライン)の諸島周辺――そこでは今なお、人身売買が公然と行われていた。

 

標的(ひょうてき)となるのは、世界政府非加盟国の住民や犯罪者たち。彼らは“人間屋(ヒューマンショップ)”で売り買いされ、所有物として扱われる。家畜同然、あるいは器物としての扱いを受けることも珍しくなかった。

 

かつて奴隷の立場から逃亡に成功した者もいた。だが彼らは海賊や政治犯と同じく、海軍から追われる存在と化す。強者が生き、弱者が死ぬ―――それが当たり前の世界。自分の身は自分で守るしかなく、弱者はいとも容易(ようい)にすべてを奪われる。

 

一部の強者だけに都合よく作られた支配の構造。世界は深い(ゆが)みを抱え、矛盾(むじゅん)残酷(ざんこく)に満ちていた。

 

◆◆◆

 

半月の光が森を薄く照らし、蒼銀色(そうぎんしょく)の冷たい光彩(こうさい)が、一人の剣士と、一匹の異形(いぎょう)を浮かび上がらせた。

 

―――人妖(ばけもの)め。

 

月光に照らし出されたその存在は、まさしく“悪魔”の具象だった。楕円形(だえんけい)の胴体から生え伸びた八本の怪脚。頭部と胸部が癒着(ゆちゃく)した肉塊(にくかい)に、光をぎらつかせる八つの眼。湿り気を帯びた(はさみ)が凶器の音色を響かせ、獲物を前に(たか)ぶりを隠しもしない。巨大蜘蛛の姿を取った女海賊が、高所から剣士を見下ろしていた。

 

かつて西の海(ウエストブルー)を恐怖に陥れた“女帝蜘蛛”。その覚醒した異形こそ、“悪魔の実”がもたらした怪異の極致(きょくち)だった。

 

半球状の(もや)の巣を森中に張り巡らせ、迷い込んだ者を静かに、確実に絡め取る。捕らえた獲物は、人間屋(ヒューマンショップ)へと“商材”として売り払う。海賊であり、(さら)い屋であり、そして――人喰い。

 

一方で、剣士の黒髪は月光を受けて(うるし)のように輝き、その姿は孤高の影法師のように(りん)として佇んでいた。あまりに()んだその気配が、蜘蛛の女の情緒を逆撫(さかな)でしていく。八つの瞳が同時に紅く染まった。憎悪と怨念が煮えたぎり、土色の体毛は怒気(どき)で逆立つ。

 

“蜘蛛女”が口を開いた瞬間、夜の闇がざわついた。

 

彼女の唾液(だえき)は、もはや液体と呼べる代物ではない。(にかわ)(しの)ぐ粘性を持ち、蜘蛛糸のように操れて、敵を(から)め取り、動きを封じる。さらに彼女は放った糸を(つた)って直角の壁面を容易(たやす)く駆け上がり、天井でさえ足場に変えてしまう。鋭利(えいり)な両手の鉤爪(かぎつめ)が、剣士へ向けて怒りの威嚇音(いかくおん)()き散らした。

 

「よくも……黒龍様を。アタシの、想い人を……!」

 

低く、湿った声で吐き出される(うら)みの言葉。その瞬間、周囲の闇が震え、空気の流れに寒気が満ちた。

 

――永遠に残る傷だ。夜の海よりも深く、砂の城より(もろ)く、槿(むくげ)の花よりも(はかな)い感情の残滓(ざんし)怨嗟(えんさ)と邪気が渦を巻き、彼女の体内を駆け巡り湯気のように噴き出しても、怒りは収まらない。胸奥で(くすぶ)る殺意は、なおも脈動(みゃくどう)を続けていた。

 

白銀の夜気が、鋭く裂けた。“蜘蛛女”の口から放たれた粘着の矢が、剣士の眼前を(かす)め、背後の地面へ深々と突き刺さる。月光を受け、矢は妖しく光を跳ね返した。

 

―――殺してやる。

 

孤高の黒き龍に恋をした。勇気を振り絞って告白し、あっさり拒絶された。けれど諦められなかった。彼の姿を目にするだけで胸が高鳴り、彼の活躍を耳にすることが、どんな葡萄酒(ワイン)よりも甘い愉悦(ゆえつ)だった。

 

財宝を(みつ)いでも彼は受け取らなかった。その高潔(こうけつ)さに再び心を奪われ、島までの送迎を申し出、装備の修理を無償(むしょう)で行い、高額な依頼も積極的に投じた。最初は断られたが、“純粋な善意”と“同業者としての助け合い”を盾に強引に納得させ、彼は不承不承(ふしょうぶしょう)ながらも受け入れた。

 

彼に近づく女は、すべて排除(はいじょ)した。あの評判の悪い“吸血鬼”にすら斡旋(あっせん)し、邪魔者を消した。焦らず、急がず、慎重に。警戒されないよう、罠を張り、ゆっくりと絡め取る――まさしく蜘蛛の捕食そのもの。

 

欲望の果実は、熟しきり、刈り取る寸前だった。

 

―――返せ。アタシの青春を。(つい)やした日々を。手間を。そして……あの人を!!

 

訃報(ふほう)を聞いた瞬間、思考が停止した。手下の視線にも構わず狼狽(ろうばい)し、生涯で一度も経験のないほど烈しく慟哭(どうこく)した。三日三晩、泣き叫び、泣き果て――憔悴(しょうすい)しきった姿で部下の前に現れ、一つだけ命じた。

 

―――“海賊殺し”を連れてこい。

 

「漆黒の君……貴方の(かたき)は――アタシが討つ」

 

◆◆◆

 

賞金稼ぎの剣が月光を弾き、夜気(やき)の中に銀の弧を描いた。(さや)を滑り抜ける高い金属音が森の天蓋(てんがい)へと消え、露わになった刃は徐々に夜闇と融け合う。星光を吸い込むかのように刀身は深い暗黒色を帯び、その質量と密度を確かなものへ変えていく。

 

八つの眼孔(がんこう)から(ほとばし)る妖光が闇を裂いた。蜘蛛女の前爪は鋭い刃へと姿を変え、忌まわしい風を切り裂きながら禍々しい衝撃波となって飛ぶ。深淵(しんえん)めいた森の奥、陰惨(いんさん)なる殺戮(さつりく)の序曲が静かに、しかし決定的に始まった。万斛(ばんこく)の恨みと、逆巻く純情(じゅんじょう)の行き場のない奔流(ほんりゅう)が、一気に賞金稼ぎへとぶつけられる。黒刀と尖爪が衝突し、薄闇の中で激しい火花が散った。刃鳴りは耳朶(じだ)を刺し、闇へと沈んだ森を震わせた。

 

刃鳴りと女の絶叫が重なり、聴覚を(ゆが)ませる衝撃が剣士の頭蓋(ずがい)に響く。“蜘蛛女”の殺気は狂風となって全身を叩きつけた。剣士は手首の返しで応じ、夜風を裂いて斬撃を送り返すも、爪が弾き、月光に濡れたその頸筋(くびすじ)には届かない。

 

月影の下、攻防は苛烈(かれつ)を極めた。剣士の肩当てが跳ね飛び、大蜘蛛の鋭爪には深々と亀裂(きれつ)が走る。金属の悲鳴(ひめい)が火花とともに散り、刃と爪が奇妙な角度で絡み合う。その至近距離で、二人は互いの殺意を押し合うように睨み合った。

 

「大人しくしていれば痛まぬものを」

 

生憎(あいにく)、悪党の都合で呼吸してるつもりはない」

 

爪と刃が離れ、弾かれたように両者は跳び退く。

 

「言い残すのは、それだけか?」

 

剣士の唇に辛辣(しんらつ)な笑みが浮かんだ。

 

「……いちいち(しゃく)に障るね。―――もういい。死ね、賞金稼ぎ!!」

 

女の絶叫が夜空を裂く。蒼白(そうはく)の半月に晒された顔は、怒りと狂気に(ゆが)んだ醜悪(しゅうあく)な仮面だった。突き出された爪が剣士の顔面を狙う。剣士はその猛撃を刃の角度一つで跳ね返す。爪と剣の衝突は十合を超えてなお衰えず、突き、()ぎ、払われ、撃ち込まれ、弾かれ――火花は半月の光に照らされ青白く散った。

 

「しぶといな。地獄で奴に褒めてもらいたいのか」

 

「小賢しい!」

 

怒号と共に鋭爪が襲いかかる。一撃を躱し、二撃を浴びせ返し、三撃を受け、四撃と五撃を叩き落とす。怒濤(どとう)の連撃を(さば)き切ったその瞬間、雷光を宿した剣技が(ひら)いた。

 

―――海賊は嫌いだ。

 

黒刀が月下に白刃の軌跡(きせき)を奔らせ、蜘蛛の一脚を斬り落とす。絶叫と血飛沫(ちしぶき)が半月へと跳ね上がり、女の身体は樹上(じゅじょう)から弾かれるように飛ぶ。黒刀が再び閃き、第二撃が空を裂く。剣が振り上げられた軌跡(きせき)は、宙に赤い弧を描きながら、夜闇へ血の痕跡(こんせき)を刻んだ。

 

ついに八つの脚すべてが断たれ、“蜘蛛女”は達磨(だるま)となって絶叫を上げ、無様(ぶざま)に地へ転げ落ちた。

 

「奴の形見だ。持っていけ」

 

賞金稼ぎは樹上(じゅじょう)で弓を満月のように引き絞る。

 

「――黒龍(こくりゅう)さ……」

 

次の瞬間、月光そのものが矢となり放たれ、蜘蛛の頭部へ鋭い(やり)の如き一撃を貫通させた。

 

闇が揺れ、夜が破れ、(あかつき)の柔らかな光が森に差し込む。血の臭気(しゅうき)を含んだ夜明けの風が、静寂(せいじゃく)をまとって森を吹き抜けていった。




【不承不承】気が進まないが,いやいやながらするさま。しぶしぶ。
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