太陽が没すると、空と大地の境目は溶接でもされたかのように一体化し、常闇がゆっくりと世界を染め上げていった。冷気と暗黒が支配する森では、梟の鳴き声が鋭く響き、その余韻が消えると同時に、すべての音が吸い込まれたように静まり返る。濃紺の闇が森を覆い、足を踏み入れた者から正しい時刻と方向感覚を容赦なく奪い取った。
その漆黒に誘われた“迷いの森”の深奥―――
そこでは、海賊たちが隠れ家で違法取引、人身売買を平然と執り行っていた。
暴力、脅迫、誘拐、詐欺。あらゆる卑劣な手段で「人間」を支配下に置く。
強制労働、強制結婚、性的搾取、臓器摘出。手段こそ異なれど、弱者から奪い取るという構図だけは揺るがない。
善良な水夫が、貞淑な夫人が、無辜の少年が、純粋な少女が―――ある日を境にして、否応なく“奴隷”へと堕とされる。権利は踏みにじられ、魂は穢され、生きるはずだった人生そのものが強奪される。
人身売買と奴隷制は、被害者の尊厳を根底から破壊する非人道の極致であり、多くの地域では重罪として廃止されている。しかし、世界のすべてがそれを拒絶したわけではなかった。
偉大なる航路の諸島周辺――そこでは今なお、人身売買が公然と行われていた。
標的となるのは、世界政府非加盟国の住民や犯罪者たち。彼らは“人間屋”で売り買いされ、所有物として扱われる。家畜同然、あるいは器物としての扱いを受けることも珍しくなかった。
かつて奴隷の立場から逃亡に成功した者もいた。だが彼らは海賊や政治犯と同じく、海軍から追われる存在と化す。強者が生き、弱者が死ぬ―――それが当たり前の世界。自分の身は自分で守るしかなく、弱者はいとも容易にすべてを奪われる。
一部の強者だけに都合よく作られた支配の構造。世界は深い歪みを抱え、矛盾と残酷に満ちていた。
◆◆◆
半月の光が森を薄く照らし、蒼銀色の冷たい光彩が、一人の剣士と、一匹の異形を浮かび上がらせた。
―――人妖め。
月光に照らし出されたその存在は、まさしく“悪魔”の具象だった。楕円形の胴体から生え伸びた八本の怪脚。頭部と胸部が癒着した肉塊に、光をぎらつかせる八つの眼。湿り気を帯びた鋏が凶器の音色を響かせ、獲物を前に昂ぶりを隠しもしない。巨大蜘蛛の姿を取った女海賊が、高所から剣士を見下ろしていた。
かつて西の海を恐怖に陥れた“女帝蜘蛛”。その覚醒した異形こそ、“悪魔の実”がもたらした怪異の極致だった。
半球状の靄の巣を森中に張り巡らせ、迷い込んだ者を静かに、確実に絡め取る。捕らえた獲物は、人間屋へと“商材”として売り払う。海賊であり、攫い屋であり、そして――人喰い。
一方で、剣士の黒髪は月光を受けて漆のように輝き、その姿は孤高の影法師のように凛として佇んでいた。あまりに澄んだその気配が、蜘蛛の女の情緒を逆撫でしていく。八つの瞳が同時に紅く染まった。憎悪と怨念が煮えたぎり、土色の体毛は怒気で逆立つ。
“蜘蛛女”が口を開いた瞬間、夜の闇がざわついた。
彼女の唾液は、もはや液体と呼べる代物ではない。膠を凌ぐ粘性を持ち、蜘蛛糸のように操れて、敵を絡め取り、動きを封じる。さらに彼女は放った糸を伝って直角の壁面を容易く駆け上がり、天井でさえ足場に変えてしまう。鋭利な両手の鉤爪が、剣士へ向けて怒りの威嚇音を撒き散らした。
「よくも……黒龍様を。アタシの、想い人を……!」
低く、湿った声で吐き出される恨みの言葉。その瞬間、周囲の闇が震え、空気の流れに寒気が満ちた。
――永遠に残る傷だ。夜の海よりも深く、砂の城より脆く、槿の花よりも儚い感情の残滓。怨嗟と邪気が渦を巻き、彼女の体内を駆け巡り湯気のように噴き出しても、怒りは収まらない。胸奥で燻る殺意は、なおも脈動を続けていた。
白銀の夜気が、鋭く裂けた。“蜘蛛女”の口から放たれた粘着の矢が、剣士の眼前を掠め、背後の地面へ深々と突き刺さる。月光を受け、矢は妖しく光を跳ね返した。
―――殺してやる。
孤高の黒き龍に恋をした。勇気を振り絞って告白し、あっさり拒絶された。けれど諦められなかった。彼の姿を目にするだけで胸が高鳴り、彼の活躍を耳にすることが、どんな葡萄酒よりも甘い愉悦だった。
財宝を貢いでも彼は受け取らなかった。その高潔さに再び心を奪われ、島までの送迎を申し出、装備の修理を無償で行い、高額な依頼も積極的に投じた。最初は断られたが、“純粋な善意”と“同業者としての助け合い”を盾に強引に納得させ、彼は不承不承ながらも受け入れた。
彼に近づく女は、すべて排除した。あの評判の悪い“吸血鬼”にすら斡旋し、邪魔者を消した。焦らず、急がず、慎重に。警戒されないよう、罠を張り、ゆっくりと絡め取る――まさしく蜘蛛の捕食そのもの。
欲望の果実は、熟しきり、刈り取る寸前だった。
―――返せ。アタシの青春を。費やした日々を。手間を。そして……あの人を!!
訃報を聞いた瞬間、思考が停止した。手下の視線にも構わず狼狽し、生涯で一度も経験のないほど烈しく慟哭した。三日三晩、泣き叫び、泣き果て――憔悴しきった姿で部下の前に現れ、一つだけ命じた。
―――“海賊殺し”を連れてこい。
「漆黒の君……貴方の仇は――アタシが討つ」
◆◆◆
賞金稼ぎの剣が月光を弾き、夜気の中に銀の弧を描いた。鞘を滑り抜ける高い金属音が森の天蓋へと消え、露わになった刃は徐々に夜闇と融け合う。星光を吸い込むかのように刀身は深い暗黒色を帯び、その質量と密度を確かなものへ変えていく。
八つの眼孔から迸る妖光が闇を裂いた。蜘蛛女の前爪は鋭い刃へと姿を変え、忌まわしい風を切り裂きながら禍々しい衝撃波となって飛ぶ。深淵めいた森の奥、陰惨なる殺戮の序曲が静かに、しかし決定的に始まった。万斛の恨みと、逆巻く純情の行き場のない奔流が、一気に賞金稼ぎへとぶつけられる。黒刀と尖爪が衝突し、薄闇の中で激しい火花が散った。刃鳴りは耳朶を刺し、闇へと沈んだ森を震わせた。
刃鳴りと女の絶叫が重なり、聴覚を歪ませる衝撃が剣士の頭蓋に響く。“蜘蛛女”の殺気は狂風となって全身を叩きつけた。剣士は手首の返しで応じ、夜風を裂いて斬撃を送り返すも、爪が弾き、月光に濡れたその頸筋には届かない。
月影の下、攻防は苛烈を極めた。剣士の肩当てが跳ね飛び、大蜘蛛の鋭爪には深々と亀裂が走る。金属の悲鳴が火花とともに散り、刃と爪が奇妙な角度で絡み合う。その至近距離で、二人は互いの殺意を押し合うように睨み合った。
「大人しくしていれば痛まぬものを」
「生憎、悪党の都合で呼吸してるつもりはない」
爪と刃が離れ、弾かれたように両者は跳び退く。
「言い残すのは、それだけか?」
剣士の唇に辛辣な笑みが浮かんだ。
「……いちいち癇に障るね。―――もういい。死ね、賞金稼ぎ!!」
女の絶叫が夜空を裂く。蒼白の半月に晒された顔は、怒りと狂気に歪んだ醜悪な仮面だった。突き出された爪が剣士の顔面を狙う。剣士はその猛撃を刃の角度一つで跳ね返す。爪と剣の衝突は十合を超えてなお衰えず、突き、薙ぎ、払われ、撃ち込まれ、弾かれ――火花は半月の光に照らされ青白く散った。
「しぶといな。地獄で奴に褒めてもらいたいのか」
「小賢しい!」
怒号と共に鋭爪が襲いかかる。一撃を躱し、二撃を浴びせ返し、三撃を受け、四撃と五撃を叩き落とす。怒濤の連撃を捌き切ったその瞬間、雷光を宿した剣技が閃いた。
―――海賊は嫌いだ。
黒刀が月下に白刃の軌跡を奔らせ、蜘蛛の一脚を斬り落とす。絶叫と血飛沫が半月へと跳ね上がり、女の身体は樹上から弾かれるように飛ぶ。黒刀が再び閃き、第二撃が空を裂く。剣が振り上げられた軌跡は、宙に赤い弧を描きながら、夜闇へ血の痕跡を刻んだ。
ついに八つの脚すべてが断たれ、“蜘蛛女”は達磨となって絶叫を上げ、無様に地へ転げ落ちた。
「奴の形見だ。持っていけ」
賞金稼ぎは樹上で弓を満月のように引き絞る。
「――黒龍さ……」
次の瞬間、月光そのものが矢となり放たれ、蜘蛛の頭部へ鋭い槍の如き一撃を貫通させた。
闇が揺れ、夜が破れ、暁の柔らかな光が森に差し込む。血の臭気を含んだ夜明けの風が、静寂をまとって森を吹き抜けていった。