深海へようこそ   作:きすことおり

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なんとなく寮に真っすぐ帰る気分にならず、第四研究棟の屋上で柵にもたれかかって空を眺めていた。ぼんやりしていたら夜になっていた。穴場だと目星をつけていたが、ここまでとは。ここにシミュレーターがあればフロイトに見つからなかったのかも、と思ったのだが。

なぜか私の隣にはフロイトがいる。

「ミラ、知っているか? スタンニードルランチャーはレイヴンが担ぐんだそうだ」

「あんのクソボケ茄子……! ウォルターのところに輸送するの、セキュリティ厳しくて面倒なのに……!」

「スネイルが茄子か。そう呼ぶのを聞くのは初めてだ、面白い」

「オープンフェイス、茄子っぽいでしょ」

「そうだな」

私はパウチに入ったゼリー飲料を、握りつぶしながら吸って飲む。隣にいるフロイトが私の手元を一瞥した。

「何。アンタはさぞかし美味しいもの食べてきたんでしょ」

ゼリー飲料から口を離して、アーキバスの式典服に身を包んだフロイトを恨めしげに見た。上層部との「ちょっとしたパーティー」があったらしく、伸びかけの髪や髭は整えられている。

馬子にも衣装、と言いたいところだが。あまり気にしたことはなかったが素材はいいようで、アーキバスのエースパイロットに相応しい姿だ。この顔で優しく話しかけられれば、惚れる女もいるだろう。

「食べる暇もなかった」

「そう。飲む?」

私が冗談で飲みかけのゼリー飲料を持ち上げれば、予想と反してフロイトが手を伸ばしてきたので慌てて一歩下がる。

「ちょっと本気にしないでよ」

「くれないのか?」

「飲みさしをあげるなんて、私はしないから」

ジャケットの大きいポケットから二つ目のゼリー飲料を取り出して、フロイトに向けて山なりに投げる。今日のご飯が半分になってしまったが、フロイトを黙らせられるなら安い。

私とフロイトは空を見ながら並んで、吸い口からエネルギーを摂取する。

「美味い」

「本当にお腹すいてたのね……」

「ああ」

コレを美味しいと評するとは、フロイトは相当きていたのだろう。パーティーで何があったかは知らないが。

「俺はアイスワームの方に行きたかった」

「アンタは同時並行の違うミッション行くんだっけ。スタンニードルランチャー、撃ちたい?」

「ああ。だがミシガンやレイヴンのいる作戦だ。スタンニードルランチャーを担がなくとも、十分面白いだろうな」

フロイトはため息をついた。

「上層部の相手をすることも、確実に勝てる相手ばかり倒すことも、つまらない」

私は黙って聞く。ゼリー飲料は相変わらず甘ったるいだけで、虚構の胸焼けがしそうだ。

 

「加えて、ミラはACに乗ろうとしない」

 

じゅっ、と音を立ててパウチが空になった。

「アンタの娯楽に付き合うつもりはないから」

「お前は逃げているだけだ。逃げているから、あんな泳ぎ方になったんだろう?」

フロイトは懐から端末を取り出すと、動画を再生する。二次検査のシミュレーターのキャプチャだ。ライナーを倒すためにジンチョウが画面の中で動いている。

見たくない。倒したくて倒したのではないのに、結局ライナーを否定せざるを得なくなった姿は無様だ。その後、必死にキャリブレーションしたことも思い出したくない。

「目を逸らすな」

フロイトが私の肩を抱いて寄せる。横並びでフロイトの端末を覗き込まされる。後ろになでつけられたフロイトの髪から、僅かに整髪料の香りがした。

「ちょっと、近いって」

身を捩って逃げ出そうとするが、フロイトはさらに手の力を強めた。

「見たく、ない」

「ここだ。お前を動かしたものはなんだ?」

ジンチョウがアサルトブーストを始めた瞬間で、フロイトは動画を止める。通信記録までは残っていないらしく、フロイトはあのライナーの言葉を聞いていないようだった。

「別に前から、動いていたじゃない」

「いいや、違うな。ここから後、お前の殺意を明確に感じる。動きが違う」

フロイトは動画を再開させる。私がライナーを否定するために最速でライナーを殺した姿が映っている。

耳から毒を流し込まれているような心地だ。逃げられない。今のフロイトは、私を逃がしてくれない。

私の矛盾が、体の中を暴れ回る。

「違う。私は飛んでない」

「ミラ」

フロイトは私の肩から手を離すと、私の顎をその手で掬った。

「俺は『泳いでいる』とは言ったが、飛んでいるとは言っていない。それだな?」

「え」

フロイトが笑っている。怖い。

「飛んだんだな?」

「とんで、ない」

私は飛ばない。誰も泣かせないために、そう校正した。

 

なのに、どうして。私が一番泣きそうになっているんだろう。

 

フロイトの瞳に私の顔が写っている。深い深い深淵に、私の涙が落ちていく。

私の海にあるしょっぱい水が、空に飛んでいく。

いかないで。このままじゃ、海で泳げなくなっちゃう。

「泣かせるつもりはなかったが……」

フロイトは目を閉じると、私の眦に口を寄せて、涙を食べた。空に飛んだ海水を、フロイトがかき集める。

「それでミラが飛ぶのであれば、海が枯れるくらい泣かせたい」

フロイトは海水を食む。私のキャリブレーションを、肉体ごと崩しにかかる。

なんて横暴なんだ。身を捩ってもフロイトの力が強くて抜け出せない。抵抗する私を察したのか、フロイトは私の腰に腕を回してさらに引き寄せた。私の中にある海の表面張力が、フロイトの手のあたたかさでゆるむ。

うそだ。そんなところから海が漏れ出るなんて。隠すように股を擦り合わせると、フロイトは吐息で笑う。

「ああ、分かったぞ。お前の海は──」

その時だった。

「フロイト、何をやっているのです」

スネイルが階段の近くに立っていた。あれだけ疎んでいたスネイルの声が、今は救世主に思える。

「スネイル、いいところなんだ」

「途中で抜け出さないでください。貴方はヴェスパーのエースなのですよ」

「あんなにつまらないものに真面目になれるのか、スネイル」

「つまらなくとも、それで仕事が早く済むならやるだけです。駝鳥にかまっている暇があるのなら、一分でも長くACに乗れる手段を取りなさい」

私の腰に回ったフロイトの手が離れた。

「鳥の一匹も飛んでいない空を飛んで、何の意味があるのだろうな」

フロイトは小さくつぶやいて、スネイルの隣を通り、屋上を後にした。あとに残された私とスネイルの視線が合う。

「……そこまでひどい顔をするのなら、貴女も少しは拒んだらどうです」

「アレを拒否できる人がいたら、教えてほしいですよ」

「全く。お互い苦労しますね」

私の皮肉を聞いて、スネイルは眼鏡を人差し指で押し上げた。

「まだ貴女の二次検査の結果は出ていませんが、貴方を最終に上げたならば、対戦相手はフロイトです。心して臨むように」

そう言い残して、スネイルも屋上から去る。温度が離れたせいもあって、風が身に染みるようになってきた。寒い。でも、暖かさを知らなければ寒いままでも平気だったんだけどな。首を上げて小さく瞬く星をちらりと見て、私は大きなくしゃみをした。

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