深夜一時、人気のない事務員寮娯楽室のシミュレーターに座った私は、操縦桿を持たずに社用端末とにらめっこをしていた。ディスプレイには「ACネーム変更」の文字とテキストボックスが浮かんでいる。
「何を悩んでいる?」
「ヒッ」
私が驚いて顔を上げれば、フロイトが私の手元をのぞき込んでいた。
「名前、変えるのか?」
「悩ん……でる」
「ジンチョウ、俺は悪くないと思うが」
「言ったでしょ。空は飛べない、海しか泳げないからジンチョウだって」
私はフロイトを軽く睨むが、フロイトは気にせずに私の肩甲骨あたりを指でなぞる。私の背筋に、悪寒が稲妻のように走った。
「なになになに! 気持ち悪い!」
慌てて肩をすくめて身をよじれば、フロイトは薄く笑った。
「前とは違って、お前にも風切り羽があるからな」
「……まあ、そうね」
私は頷く。
「でもフロイト、背中から羽が生えるのはフィクションだけじゃない? 鳥類の翼って、人間の腕の部位と同じ骨格構成じゃなかったっけ」
「そうなのか?」
「だった気がする。鳥みたいに人間が飛ぶなら、腕や手の動きで飛ぶ訳だけど……それって、AC動かしてるのと一緒かもね」
私は端末を持っていない方の手のひらを眺める。少し強く握って、広げる。圧縮された空気が開放されて、わずかに大気が揺れた。
「そうか」
フロイトはそう言うと、私の端末をするりと奪うと傍に置き、私の手の甲の血管をなぞってきた。
「ミラの手をよく覚えている。薬指と小指の骨の間に浮き出た血管は、触ると気持ちがいいんだ」
「キショ……」
少しだけ身を引くも、フロイトは変わらない様子で応える。
「一度は逃したが、ロックスミスの格納庫でまた会えた時にすぐ分かった。この手は、AC乗りの翼だ」
フロイトが私の手を両手で持ち、むにむにと隅々まで確かめるように各所をつつく。筋肉をほぐすように、血管を拡張するように、指先の凹凸も全てなぞる。
「マントルは、ただのカンラン石の塊だ。地殻から漏れてきた海水が混じると、マントルの一部がマグマになる可能性がある」
フロイトは、悩ましげにため息をついた。
「だから……俺はずっとお前の涙が欲しかった。深海の底に来てくれたミラのおかげで、火がついた」
「ほんと最悪。あれから電子の海に何回潜っても、火が消えない」
「なら、飛ぶしかないな」
「……うん」
私が素直に言えば、フロイトは奪っていた端末を返してきた。ACネーム変更画面から一つ前に戻った画面には、私の社員情報が表示されている。
ヴェスパー第七部隊隊員、ミラ・ヴェルナツキー。ACパイロット。私の新しい肩書きが、暗がりの娯楽室の中でぼんやり光っている。
「お父さんも、綺麗な星に憧れて飛んでたんだろうな」
かつて父が見せてくれた空の写真を思い出す。死ぬかもしれない恐怖の中で、それでも求めてやまない何かがあったのだろう。
「お父さん?」
「AC乗りだったの」
父の名前を言えば、フロイトはぎょっとして目を見開いた。
「ファーロン武装船団の!?」
「え、何それ」
「知らないのか!? あのレッドガンのミシガンの古巣なんだが、ACポラリスは有名だぞ!?」
「そう言われても……私もまだ小さかったし、お父さんが死んでから引っ越しちゃったし。それに、ずっとACのこと嫌いだったし」
「嘘だろ……サインとか持ってないか? 他にも何か」
興奮しながら必死なフロイトの様子がおかしくて、私はついほくそ笑む。私用端末をジャケットから取り出して、フロイトに見せつける。
「連絡先教えて。お父さんが撮った星の写真、送ってあげる」
「あ、ああ!」
フロイトは慌てて端末を取り出して、光をともす。画面にでかでかと表示されたロックスミスの姿に、私はつい吹き出してしまった。本当にこいつは、ACが好きだな。
連絡先を交換して父が撮った写真をフロイトに送ると、フロイトは宝物を見るように目じりを下げてそれを眺めていた。
「綺麗だ」
「うん、私も好き」
ああ、はっきりと思い出した。「夜明け前の空をACで飛ぶと綺麗だぞ」と写真を見せてくれた父に、幼かった私は確か、こう答えたのだ。
『お父さんがとんでるすがたも、ながれぼしみたいにきれいだよ』と。