深海へようこそ   作:きすことおり

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逃げなければと慌てて立ち上がろうとして、太ももに力が入らないことに気が付いた。心なしか体が熱い。無理矢理息を荒くさせられているようで、今までのものを吐こうとしても、思うように体が動かない。机の上に乗った手から、スプーンが転げ落ちた。

「ミラさんお酒弱かったよね、コーラルも効くみたいでよかったよ。今日は絶対に連れて帰るって決めてたから」

どうしよう。目の前がぐにゃぐにゃになる。全てがマーブル模様にとろけていく。オキーフさんにこんな失態がバレたら、脇が甘いと怒られちゃう。でももう、オキーフさんのところに戻れないかもしれない。ACがない世界に連れ去られてしまう。

昔の私なら、レオさんに喜んでついていったと思う。でも、今は違う。

私のテーブルの上に落ちた手に、レオの手が重なる。

「やっぱり僕たちは似た者同士だ、お互いに心配かけたくなくて意地張っちゃうところとかね。だからこそ、またやり直せると思うんだ。安心して、もう戦う必要は、」

「れお、さん」

私はレオを遮って、息も絶え絶えに、言葉を紡ぐ。

「もう、私は……星の火を、知っちゃったから。ごめんね、ここまで来てくれたのに。わたしは、フロイトから目を、逸らしたくない」

コーラルが全身に回ってきた。視界のあちこちがパチパチと光って綺麗だ。光の中に、かわいい女の子がいる。彼女はとても焦った顔でこちらを見ていて、口をずっとぱくぱくとさせていた。心配しないでと心の中で伝えると、彼女は泣きそうになって頬を歪めた。

「……やっぱりミラさんをたぶらかしたのは元ヴェスパーワンだったか。でもね、今更聞けないんだ。少なくとも、ミラさんがいなかった間の分は慰めてもらわないと」

レオはそういうと椅子から立ち上がり、私を横抱きにして持ち上げる。レオが店員に目配せをすれば、店員はわかったように頷いた。店もグルだったか。周囲の客の助けは望めそうにもない。

レオにされるがままだ。店の外には車が横付けされていて、レオが運転席に目配せすれば後部座席のスライドドアが自動で開く。すごく用意周到だ。でもなにもできない私のことよりも、幻覚に見える女の子をなんとか安心させたいとぼんやり思う。

「作戦は手筈通りに。このまま船のあるところまで行ってくれ」

車の椅子に座らされた私の隣にレオが座って、運転席に話しかける。もうダメかも。瞼も重くなってきた。したり顔のレオを思い切り睨む。私のとろけた顔、昔はレオさんにいっぱい晒してたけど、今は百歩譲ってフロイトになら──

瞬間、車が静かに揺れるとトランクから二本の腕が伸びる。片方の腕はレオの首に回ってそれを締め上げ、もう片方は銃を持ちレオのこめかみを銃口で抉った。

「ヒィッ!」

少し前までの余裕綽々なレオは一変して、情けない悲鳴を上げる。その腕の持ち主を確認しようと重たい頭を動かそうとして、運転席から声がした。

「詰めが甘いぞヴェルナツキー。もう一度鍛え直しが必要だな」

運転席に座るオキーフは眉を上げて、ルームミラー越しに私を見た。無表情なオキーフを見て、私の固くなった涙腺がついにほどけて涙が零れた。

「おき、ふ、さん」

私のか細い声を聞いたオキーフは言う。

「レオ・アンダーソン、運が悪かったな。私が相手であれば、今頃安らかに眠れていただろうが……贅沢なことに、お前のような野郎にもウチのエース様は寛大らしい。せいぜい機嫌を損ねないようにすることだ」

「ああそうだぞ、俺は優しい心の持ち主だからなぁ。それでも、ミラの大海原には負けるが」

視線だけで横を見れば、首を絞められて身動きができないレオの後ろに、表情が抜け落ちたフロイトがいた。楽しそうな声とは裏腹に、顔が全く笑っていない。フロイトの右手の拳銃が、レオのこめかみをさらに抉る。レオは潰れたカエルのように、顔から液体という液体を出していた。

フロイトは鼻を鳴らしてくつくつと笑う。

「折角の機会だ。ミラを好きになった男同士、話が盛り上がるに違いない。そうだろう?」

フロイトの問いに黙り込んだレオを、フロイトはさらに締め上げた。

「ひっ、や、ヒィッ」

「なるほど、お前以外の男がミラを好いているのが気に食わない、ということか。安心しろ、俺もだ。そうだな……もっと話しやすいテーマの方がいいか? コーラル信仰原理派の宇宙港テロ計画にお前の会社も一枚嚙んでいる話なら、お前でも少しは盛り上げられるだろう? ああ、その方がいいな。お前からミラの話を聞いたら、この車も静かになってしまうからな……まあ、そうなってもいいんだが」

フロイトによるレオの尋問が始まる。いつの間にか煙草に火をつけていたオキーフがアクセルを踏んで、車がゆるやかに走り出す。心地よい揺れとヤニの香りが私のパチパチとはじけた脳をやさしく包み込んで──瞼の重みに耐えきれなくなった私は、静かに目を閉じた。

 

 ★

 

コーラル酔いから目覚めた私は、いつも寝泊まりしている寝室のベッドにいた。オキーフかフロイトが運んでくれたのだろう。ベッドサイドに置かれた水筒をあおって喉を湿らせてから、外の空気を吸うために玄関を出た。

この拠点のすぐそばには、砂浜がある。ルビコンの海はとても穏やかで、ほかの星のような海による災害の心配はない。それを象徴するかのように、波が当たる当たらないのギリギリのラインに、フロイトが寝転がっていた。

「なにやってんの」

私がフロイトの腰辺りに立ってフロイトを見下ろせば、フロイトは目を閉じて四肢を投げ出したまま話す。

「ミラ、知っているか。ルビコンの波打ち際には、全てがあるんだ」

「へえ」

「空には烏、陸には狼、そして海にはペンギンがいる。レイヴンは本当に、空を自由に飛んでみせる。ラスティは獰猛だが……機を伺う理性を兼ね備えていて、悪くない。そして、ミラはいつも鋭い。俺の弱いところを的確に突いてくる」

「ちょっと、私をレイヴンとラスティと並べないでよ。どう考えても見劣りするんだけど」

「そうか?」

「そうだっての」

「俺はかわいいと思うんだが」

フロイトの瞼が上がる。そこにはいつもの底無し沼が広がって──いない。見ている私の目が潰れるほど眩しいわけでもない。普通の人の目をしている。

出会ってから初めて、フロイトのことを対等な人間として見ることができたような気がする。

「ミラ、しゃがんでくれ。太陽が眩しい、少し顔を貸してくれないか」

「私を日よけに使わないでよね、っと」

仕方がない、と私がしゃがみこんで顔をフロイトに近づければ、フロイトはそのまま私の手を引いて、顔と顔がさらに近づいて──

 

「なぜ止める? ミラは俺のことが好きじゃないのか?」

「んなわけあるかっての!」

すんでのところで、フロイトの口元に私の手のひらを当てることができた。だが力が強い。片手は口に、もう片手はフロイトの肩に当てているが、距離が少しずつ縮むのが分かる。

「婚約者はもういないだろ? 問題ないな」

フロイトの甘い視線に、私の反抗心が絡め取られそうになる。そのレーザードローンに少しでも焼かれれば、激情にまともに当たれば、私は。確実に陥落する。

前の婚約者──普通の人間に、私はずっと恋してたから分かる。普通の人間としてフロイトを見ることができる今だからこそ、待って、そんな結論に辿り着くな! 心の鍵をこじ開けようとしないで! まずいまずいまずい! 悔しい! フロイトには負けたくないのに!

自覚してしまった私の心が、勝手に走り去っていって止まらない!

「問題大有りだっての、この星に私のメロ男はいないはずだし!」

「メロ男ってなんだ? メリニットを使う男のことか? レッドガンのような男か? まさか……ミラもミシガンが好きか!?」

「んなわけあるかこのクソガキッ!?」

やっぱりコイツは変人だったかもと一縷の望みに私が歓喜して叫んだ、その瞬間だった。私の力が緩んだのを見逃さなかったフロイトは、伏目がちになると私の生命線を舌でなぞりはじめた。

「うえっ!? ちょ……!」

気持ち悪……いや、なんか違う、これは多分もっと原初の感覚だ。感情の分岐点を遡り、樹形図の原点に戻る。認めたくないけどしっくりくる。これは、興奮だ。

「ふろいとっ、」

私の息が荒くなる。まずい、フロイトのレーザードローンに当たってしまった。しかもフルチャージのやつ! 光線に当たって焼けてしまった胸が、手が、頬が、ただひたすらに熱い!

「や、やめ……やめろってば……」

フロイトは私の手首を片手で掴むと、生命線のはじまり、手の中心へ向かって舌を沿わせる。私の人生がフロイトに奪われていく。今までのどのACでの命のやり取りよりも、心につけている南京錠のAPが驚くべきスピードで溶けていく。本気で手を引っ込めようと腕に力を入れているが、フロイトに捕まった私の手はびくともしない。

「このままじゃ、私……!」

フロイトが視線を上げた。視線がガッツリと合ったまま、フロイトは私の生命線の出発点に辿り着くと、強く吸い上げた。ひりりとした痛みに腰が抜けそうになって、慌ててフロイトが引っ張ってきて指が絡んだ手をぎゅっと強く握る。私の腰に回っていたフロイトのもう片方の手が、さらに二人の距離を近抜ける。

ようやくフロイトは、吸った私の手を解放した。ひっくり返してまじまじと見れば、生命線の始まりの場所、手のひらの中心部に小さな鬱血痕ができていた。

「鍵ができたな」

「あっ!?」

私の脳裏にすぐに浮かんだのは、フロイトのエンブレムだ。エンブレムの鍵がある位置に近い辺りに、鬱血痕……いや、そろそろ認める。キスマークがある! でもこのままやられっぱなしは嫌だ! 何か、何か反論……!

「でも、アンタのエンブレムは左手でしょ! だから同じじゃないはず!」

「ん?」

フロイトは私の右手をまた持ち上げ、指を絡めて手をいわゆる恋人繋ぎにすると、口角を上げた。

「鍵、同じ位置だろう?」

「……うん」

繋がった私の右手とフロイトの左手が熱い。フロイトの鍵が私の手中にあるという現実が、マントルにあるマグマとなって、私をドロドロとした何かに溶かしていく。

反論が1ミリも通用しなかった悔しさも相まって、私はもう、素直に返事をすることしかできなくなってしまった。

「こういう時には指輪を送り合うのが普通らしいが……どうだ、ACのスペアキーを交換しないか?」

私は目を見開いた。アンタの半身でもあるロックスミスを人に預けるだなんて。うん、と頷こうとして……その前に、ある一つの結論に至った私は、慌てて反論する。

「フロイト、まさかジンチョウのスペアキーを手に入れるためにこんなロマンチックな真似を!?」

「違う」

「んなわけ! そうか、だから普段と雰囲気違うと思った。私でもアンタに手が届きそうだなーとかやっぱ錯覚! 危なかった、やっぱりアンタはAC大好きな変人で、うむっ!?」

捕まっていた両手では、迫ってくるフロイトの唇を止めることなんてできやしない。波の音にまぎれた水の音が恥ずかしくて、でもやめられなくて。

息が続かなくて身をよじれば、フロイトは両手をほどいて私の頭を抱き寄せる。

「逃げるな。それとも、また海底まで行くか?」

ああ、捕まった。こんなに息が奪われたら、海底にたどり着いたとしても……ロックスミスがまた酸素をくれて、地盤を割って、マントルまで一直線だ。そうなったら、私の体の火は一生消えそうにない。

「ついてきてくれるの? その先の、惑星のコアの中まで」

「アーマードコアのその中か。楽しそうだ」

どちらからともなく星を引き寄せて、熱を分け合う。コックピットのその中まで燃えるような輝きに夢中になって、心臓の音を聞いていた。

 

今はもう少しだけ、波打ち際にて。

 

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