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人と神は、円環の関係にあると言われている。どちらが先であるのかの結論が出ていない、ある種の対立状態にあるのだと。
人間という存在は、唯一つの神が己が姿を象って創り出した物である。始まりの人は蛇に唆され、知恵を身に付け、自我を確立し、羞恥を知り、そして園から地へと下された。
されど人は被造物。神は人に愛があった。造物主でありながら、被造物に愛があった。故に神は、始まりの人からその子々孫々まで遍く人類に助けの手を伸ばしてきた。
そうして生み出されたのが、『人とは神の被造物であり、神によって進化を与えられた生物である』とする言説。
これが神々の意見。即ち、神を原典とする一説である。
それに対し、人は神を自らが創り出した偶像の産物であると言う。
神とは、人が自らに課せられる苦難に耐え抜く事が出来ぬ弱さ故に生み出された、偶像物である。
苦痛に伴い死を手渡す拷問、嵐に荒らされる作物、日天に照らされ続けて干からびた地、繰り返される略奪の蛮行。それに耐えられなかった心の弱さが、何か大きなものに縋る事でそれを耐えようとして創り出された偶像が形となった。
それこそ、『神とは人の偶像物でたり、人の信仰によって神は生きる存在である』とする、人が人を原典とする言説である。
これらは並行し、交差し、しかして結論を出す事が出来ていない。何故ならそういうもので、そして証明の仕様がないからだ。
また、その二つの言説と似て、世界には『鶏が先か、卵が先か』というパラドックス、或いはジレンマの概念が存在する。
鶏が卵を産んで生命が誕生したのか、或いは卵から孵って鶏という生命が産まれたのか。より平たく言うならば、『鶏と卵のどちらが先に出来たのか?』という問題だ。
遺伝子や科学といった今では当たり前の概念すらも碌に存在していなかった当時において、その問題は哲学者達にとって確かな難問であった。
だが、科学が発達したこの現代社会において、その答えを解き明かす事は非常に簡単な事だ。
そして、昔の人々は何故そんな気にしても仕方ない事を気にしたのか、と現代の人々は嘲笑うのかもしれない。
だが、この問題にとって大切なのはそこではない。そこから導き出される一つの大きな疑問―――つまりは、『生命とこの世界全体がどの様に始まったのだろうか?』という疑問に行き着くものだったのだ。
疑問というのは、人を進化させる一つの種火だ。疑問を抱き、それを解き明かす事で人はいつも新たな発見を手にしてきたのだ。
なればこそ、必ず一人は思い付いただろう――――――
この世界、ひいては人に限らず神という存在すらも、我々が認識し得ない何者かによって創られた存在なのではないか?
と。
嗚呼、何たる偶然だろうか。何たる幸運だろうか。何たる奇蹟だろうか。
それに気付き、探した者がどれ程居ただろう。それに気付いたとして、己が狂うまで探し究め続けた者がこれまで居ただろうか。
否、居ない。だからこそ、人は未だ生きていると言えるだろう。
その宇宙の、さらに彼方の奥深くに座す、膨張と収縮を繰り返す無垢なる王が、遍く全ての父である事など、知る由もないのだ。
そして、その子供である神々が――――――
「クトゥルフ叔父様、今日はクティーラと遊びました」
「あァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! くっっっそ可愛いなぁ、おいィィィィィィィっっっっっっ!!!!!!!!!!!」
「ハス叔父様、クトゥルフ叔父様が絶叫し出しました。わたしは何かしてしまったのでしょうか?」
「大丈夫大丈夫、お前は何もしてないし悪くないよー。取り敢えずあの
「1D100=100。絶望的なファンブルですね! クトゥルフを相手に正気度を削るとは、流石は我等のアイドル!」
その人間の姿をした、たった一柱の神を溺愛している姿など、知る訳もないのだ。
うちの邪神はだいたいこんな感じ。