エアグルーヴは、とても機嫌がよかった。春の麗らかな日差しの暖かさ、美しく咲き乱れる花壇、後輩たちの眩しい笑顔―――彼女の上機嫌には様々な要因があったが、その中でも一番のものは、彼女が尊敬してやまない人……生徒会長であるシンボリルドルフが、朝からひどく嬉しそうなためだった。
「ご機嫌ですね、会長。何かいいことでもあったんですか?」
「む、私はそんなに嬉しそうに見えたか……。だが、聞いてくれて嬉しいよエアグルーヴ。実は今日、私の古い友人がここに移るそうなんだ。」
「会長のご友人が……。」
エアグルーヴはなるほどと心の中で膝を打つ。ここ―――日本トレーニングセンター学園は、傑出した才能を持つ選ばれたウマ娘のみに門戸を開く。恐らくは会長の古い友人という方も、中々その基準を満たすことが出来なかったのだろう。だが、長い研鑽の果てにようやくその才を認められ、ここにやって来るというところか。
「さぞ仲がよかったのでしょうね。」
「ああ! 毎日のように速さを競い合ったものだよ。彼女もまた、迸るような才能を持つウマ娘だった。きっとこの学園でも切磋琢磨することになると思っていたのだが……いや、恨みがましく回顧するのはよそう。今こうして会いに来てくれたのだから、それでいいということだ。」
あなたに会いに来るわけではないと思いますが……と言いかけ、やめた。そんな無粋なことをのうのうと述べるほど、エアグルーヴは恥知らずではなかった。
「どんな方なのですか?」
「長い濡烏の幻想的な髪をなびかせていた、美しいウマ娘だったよ。私たちがどこに行っても彼女はその容姿を褒められ、その度に誇らしい気分になったものだ。黄金のような、トパーズのような金色の瞳もまた、私の心を掴んで離さなかった。シャープに整えられた眉と相まって、あの視線を向けられるだけでついクラクラと来てしまって――」
……恋人かなにかの話を聞かされているのだろうか、私は。ほんの世間話程度に投げかけた質問に、これほどの熱量を持って答えられるとは思わなかった。笑顔を浮かべ、上がった口角が少しぎこちなくなったころ、部屋の扉をノックする音が響いた。
「シンボリルドルフさん、転入生さんがいらっしゃいましたよ。」
「来た! エアグルーヴ、済まないが―――」
「ええ。ここは任せてください。」
ありがとう、と見たこともないほど満面の笑みで駆けだしていく会長の背中を、部屋に報せを持ってきてくれたたづなさんと共に呆然と見送る。
「す、すごいテンションでしたね……。あんなシンボリルドルフさん、初めて見ました。」
「同感です。ところでたづなさん、今日転入してくるという新入生はいったい……。」
「あっ、エアグルーヴさん。 そうですね、お伝えしておきましょうか。」
言いながら、たづなさんは一枚の資料を手渡した。貼られている写真には、会長が話していた通り意志の強そうな……いや、もはや気性の荒そうなウマ娘が、カメラをにらみつけるように写っている。
「彼女は『バイツァダスト』さん。札幌のトレセンから、高等部への転入です。」
――――――――――――――――――――――――
新入生が待機している理事長室の扉の前で、私は手鏡を取り出して手早く身だしなみを整える。彼女との再会なのだから、一番いい状態の私でありたい。軽く咳払いをして、私は扉をノックした。
「失礼します、シンボリルドルフです。」
「うむ! 入ってきてくれ!」
「失礼します―――。」
高鳴る胸を押さえながら、私は扉を開けた。夢に見るほど焦がれた友人、彼女がこの先にいる。そんな天にも昇るような気分は、一瞬にして奈落の底に突き落とされた。
「歓迎! よく来てくれた!」
「……理事長、何をなさっているんですか?」
そこには確かに私の大切な友人、『バイツァダスト』が座っていた。ただし、その隣には秋川やよい理事長がぴったりとくっついて座っている。
「困惑! 私はいつも通りだが……?」
「いつもはそんな距離感ではなかっでしょう。そんな風に密着して……はしたないと思わないんですか。」
「れ、冷酷……! すまなかった、シンボリルドルフ!」
さささとバイツァダストの隣を離れたのを確認し、私は改めてバイツァダストを見つめた。……本当に、美しく成長したものだ。子供のころから綺麗だとはずっと思っていたが、こうして少女から女性に近づきつつある彼女を見ると、もはや感動すら覚える。
「い、今は公的な場だから、慇懃無礼に振舞わせてほしい。生徒会長のシンボリルドルフだ。」
「……バイツァダスト。札幌から来た。」
「――――!」
声を聞いただけで、鼓膜と心臓が甘い痺れに震える。あの頃は鈴を転がしたような可愛らしい声だったが、今は……ハスキーボイスというのだろうか? 一流のアルト歌手のような、天国のパイプオルガンのような……とにかく危険なほどの魅力に満ちていた。
「シンボリルドルフ……か。懐かしい名前だ。」
「! お、覚えているのかい?」
「お前ほどの才能があるウマ娘はそうはいない。忘れられるわけもないだろう。」
「そ、そうか。それは……う、嬉しいな。」
手のひらがじっとりと汗に濡れていく。恐らく今の私は、傍から見れば相当挙動不審だろう。頬が上気し、短い呼吸を繰り返す。
「それとも、こう呼んだ方がいいか?」
「え……。」
「ルナ。随分とまあ、立派な名前を貰ったものだ。」
―――瞬間。私の脳裏には、彼女と過ごした眩い幼少期が奔る。毎日のように速さを比べ合い、共に食卓を囲み、笑いあった2年間……あの頃は本当に、毎日が甘い春のような―――
「ふん。その様子だと、やめておいた方がよさそうだな。お前も、私の幼名は隠しておいてくれよ。」
「……はっ!? わ、私は何を……? と、とにかく歓迎するよ。ここの校訓……『
「どうも。そろそろ行っていいのか?」
「あ、ああ。その、何か用事でもあるのだろうか? もしなければ―――」
私にぜひ学園を案内させてほしい―――と、情けなくも懇願しかけた私の口は、バイツァダストの人差し指一本で静止された。近い……私がほんの少し唇を前につき出せば、彼女のしなやかで白く透き通るような指に触れてしまうだろう。たったそれだけで、私は天上に昇るかのような心地を得られるだろうと確信しながら、私を見つめる琥珀色の瞳に魅入られ動けない。湖に映る自らに見惚れ、そのまま溺れてしまったナルキッソスのように、私も吸い込まれてしまいそうだ。
「……いい子だ。お前はこの学園のトップ。それが私如きに平身低頭など、するものじゃあない。」
「わ、私は友人として君のことを……。」
「そうだとしても、今は私自身がそれを許せはしない。お前の隣に立って見劣りしないウマ娘になるまではな。」
そうして『格』を手に入れ……と言いながら、バイツァダストの麗しい顔が急接近する。私はもはや呼吸すら忘れ、成り行きに身を任せた。彼女は私の耳に口を近づけ、そして確かにこう囁いた。
「―――
「―――!」
それだけの言葉を残し、彼女は踵を返した。私の反応などどうでもいいとでも言いたげに、後ろでに手をひらひらと振りながら、理事長室を出て行く。私はたった今起こったことが信じられず、ほとんど腰が抜けていたと思う。あれほど仲の良い友人だった彼女が、私を叩き潰す? そんな、そんなこと――――
(――――最高じゃないか。)
彼女はこれから、多くのウマ娘と出会う。私と同じように、彼女に魅了される恋敵―――否、ウマ娘たちも多くいるだろう。だが彼女の心には常に、私という存在が根付き続ける。倒すべき、
既にレースの一線を退き、全てのウマ娘の幸福のために捧げたはずの両足が疼く。体の奥の底の方から、何かがメラメラと燃え上がる。だが機を見失ってはダメだ。とにかく今は、彼女が学園に馴染むまで待たなくてはならない。
(君を見守っているよ、バイツァダスト。いつでも……な。)
―――――――――――――――――――――――――
「やれやれだ。予想はしていたが、相変わらずのようだな。」
私の名前はバイツァダスト。今日からこの中央トレセンで世話になるウマ娘だ。今は旧友との再会を済ませた理事長室から出て、特にあてもなく彷徨い歩いている。久しぶりに会ったシンボリルドルフは、昔と比べてやけに大人びて見えた。マナーが人を作るというが、生徒会長という立場が彼女を成長させたのかもしれない。
(あの甘えん坊がああなるほどの時間が経ったってのに、私に染みついた『呪い』はそのまま。ままならないものだ。)
私には……というより、私の一族には、ある『呪い』がある。母さんはそれを『祝福』と呼んでいたし、他の奴らから見てもそうだろう。だが少なくとも私にとって、こいつは『呪い』でしかない。解く方法も見つからないし、とにかく上手く付き合っていくしかないものだが……こういうエリートの集まる場所だと、面倒なことになりそうな予感しかしない。身近な人たちについて理解を深めるまでは、あまり目立たないように―――
「そ、そこのお美しいお方! よければこれからお茶でもいかがですか!?」
「……。」
ぎこちなく振り向くと、私より一回り背の低い、翡翠のような髪色のウマ娘が震える手を差し出してきていた。皺ひとつなく整えられた制服、品が良く嫌味さのない洗練された身だしなみ。そして何より、私を見つめる潤んだ瞳と上気した頬。間違いなく、どこぞの名家のお嬢様だろう。
「はっ! し、失礼いたしましたわ! まずは名を名乗るべきですわよね。」
「私、メジロマックイーンと申します! お美しい方、よければお名前を……!」
「……バイツァダスト。そんな風に畏まらなくていい。」
メジロ家……。これはまた、ビッグネームが出てきたものだ。面倒なことにならないよう祈りながら、私は言葉を紡いだ。
「まさかメジロ家の御令嬢からお茶に誘われるとは思わなかった。よければ、理由を聞いても?」
「そ、それはその……お、お許しくださいまし! あまりには、はしたない理由ですので……!」
「
「!! お、お見通しでしたの!?」
当たり前だ。私が何回、お前みたいな奴に求婚されたと思ってる? 金も地位もある男が、富も名誉も持つ女が、誰もが私を求めた。私の内面も知らないくせに、全てを差し出してでも君が欲しいと跪いた。……本当に、反吐が出る。
だがそれでも、目の前で顔を真っ赤にするマックイーンが悪いわけじゃない。いつもやっているように作り笑いを浮かべた。
「折角のお誘いだ。ありがたく受けるとしよう。」
「ほ、本当ですの!?」
「ただし条件が一つ。場所はカフェテリアで……」
「―――お前と二人きりがいい。」
「!! も、もちろんですわ!! ふ、不束者ですが何卒……!!」
相も変わらず真っ赤なマックイーンの隣で、カフェテリアに向かって歩く。どこぞのジゴロのような物言いに自己嫌悪に苛まれるが、こうでもしないと余計に面倒なことになる。適当に相手をして、きちんと諦めさせなければならない。金と地位がある奴がストーカーになった時の恐ろしさと言ったら……本当に、二度と御免だ。
メジロ家は名ウマ娘を何人も輩出している名家……もしマックイーンに他のメジロ家を呼ばれたら、ますます面倒なことになる。メジロ家に招待されるのも論外だ。マジに監禁されかねない。
カフェテリアには沢山の生徒たちが集まっているし、私たちを特段気にする様子はない。今日来たばかりの私はともかく、マックイーンは有名そうなものだが……まあ、目立たない分にはいいことだ。
「はぁ……ザッハトルテと紅茶のティータイムを、バイツァダスト様とご一緒出来るなんて……私はなんて幸せ者なのでしょうか。」
「大袈裟だな。そんなに大したことでもないだろう。」
「何をおっしゃっていますの! 貴女様はもっと、ご自身の魅力を理解なさるべきですわ! 私は本当に、人生の春というものはこういうことだと――――」
「おーいマックイーン! カフェテリアでティータイムなんて珍しいじゃーん!」
「きゃああああっ!」
突然マックイーンの背後から、栗毛のウマ娘が抱き着いた。尻尾をピーンと跳ね上げ、とろけた顔をしていたマックイーンが驚愕の悲鳴を上げる。
「て……テイオー! 今は駄目ですわ!」
「えへへ、このくらいいいじゃんか! それより一緒にお茶してるこっちの子、は……。」
テイオーと呼ばれたウマ娘が私の顔を見て、時間でも止まったみたいに動きが止まる。……まさか、こいつもか?
「……テイオー? 突然黙りこくって、どうしたんですの?」
「……あ、あぁ! ご、ごめんなんでもないよ! そ、それよりマックイーン! この綺麗なお姉さんだれなのさ!」
「綺麗なお姉さんとは口が上手いな。私はバイツァダスト。そっちは?」
「え、えっと、ボクはトウカイテイオーっていいます! あの、よろしく、お願いします……。」
おずおずと差し出された手を握ってやると、露骨に顔が赤くなる。……やっぱり、こいつもか。となるともう、この後の展開も予想がつく。ちらりとマックイーンの方に目をやれば、あからさまに表情が変わっている。それも私ではなく、テイオーに対するそれが、だ。
「……テイオー、その態度はなんですの? あなた、いつもはそんな感じではありませんわよね?」
「なにさマックイーン、今バイツァダストさんと話してるんだから邪魔しないでよね! ねーねー、隣に座っていい? ボク、君ともっと仲良くなりたいな!」
返事を待たずに私の隣の席につき、腕まで絡ませてくる。小さな子供が無邪気に懐いているような仕草で、ごく自然に一連の動きは行われた。
「なっ……! テイオー! バイツァダスト様は、私とティータイムを楽しんでいたところですのよ!?」
「もう、ちょっと黙っててよね!」
私を間に挟んで、二人の喧嘩が始まる。……これが私の呪いの、呪いたる所以だ。街中の裏路地で出会った、やけにオーラのある占い師の老婆の台詞を思い出す。
『名家、富豪、地主、長者……地位があり、金がある家の人間に、異様なほどに好かれる。玉の輿を運命づけられた娘……それがあなたですじゃ!』
……過去の記憶を思い出して、現実逃避をしてもしかたない。とにかく今は、この険悪な二人を何とかする方法を考えるとしよう。