トランセンドのデビュー戦から1週間が過ぎた。私たちは普段と変わらず、しっかりとトレーニングメニューをこなしている。その中でもウインディのやる気は凄まじく、自分も早くデビューしたいと疲れも知らず走り回っている。私としても、目標の舞台を実際に目にすることが出来たのは大きかった。日々の練習を、実戦を意識しながら行うのとそうでないのとでは雲泥の差があるからだ。
(だが、結果的にトランセンドを捨て石にしたような形になってしまった。)
あのレースの後、控室に向かった私たちをトランは力ない笑顔で迎えた。負けちゃったよごめんねー、と誤魔化すように笑う彼女に、情けなくも私は何も言えなかった。帰りの電車の中では何も気にしていない様子だったが、こうして日々のトレーニングを見ているとどこかぎこちなさを感じてしまう。トレーナーもあれこれ気にかけている様子だが、中々弱みを見せようとしない。
「人の心配ばかり……お優しいことだな?」
「ッ、シリウス……。」
後ろから投げられた声に振り向くと、シリウスが睨むような視線を送ってくる。
「アンタは自分の目的のことだけ気にしてりゃいい。違うか?」
「……。」
「それとも、実はああいうのが好みだったり―――」
「……そうだな。その通りだ。」
私が集めたメンバーで構成されたチーム……それに所属していることで、つい思いあがってしまったらしい。私はデビューすらしていないウマ娘だ。トランの目的を解決するのはトランがやるべきことであって、それを支えるのはトレーナーの役目だ。ついこの前、自分のことを大切にしてほしいと言われたばかりだというのに……思ったよりも、黒星発進というのが私の心に影を落としていたらしい。
見つめ返す私の視線を受けて、シリウスは満足げな薄い笑みを浮かべる。
「ハッ、吹っ切れたらしいな。外野がピーピー騒ごうが、私たちには関係ねえ。そうだろ?」
「ああ。トランのケアはトレーナーに任せる。シリウス、代わりに走りを見てくれ。」
「その目に免じて、付き合ってやるよ。さっさとコースに入りな。」
レースで走る以外の準備……具体的にはウイニングライブのレッスンやトゥインクルシリーズへの登録などは、少しづつ準備が完了しつつある。私のデビューもそう遠くはない。
だが未だ、唯一にして最大の問題点に関しては解決の糸口すら見えない。前を走るウマ娘がいなければ、エンジンがかからないという問題だ。
「そんなもんに縛られて、窮屈な走りをする必要があるのか?」
「な……。」
私の心を見透かしたように、シリウスは問いを投げかけてきた。こいつ、読心術でも使えるようになったのか?
「フン、私の目は節穴じゃねえ。しばらく見てればアンタが抱えた問題も、それを解決できてないことも察しがつく。」
「……流石、私の幼馴染なだけはあるな。」
「で、走りの問題だ。アンタの抱えた問題は逃げが打てないってことだが……何故逃げにこだわる?」
「何故……ダートでは逃げが有利で、なおかつ私にも適性があるからだ。」
「適性がある? フッ、笑わせんなよ。逃げが打てなくて悩んでる奴のどこが適してるって言うんだ。」
「……。」
確かに、シリウスの言うことには一理あるかもしれない。私は一番の強みであるスタミナを活かすために逃げを考えていたが、逃げでなくては走れないというわけではないはずだ。
「とりあえずレースに出て、いろいろ試してみりゃいいのさ。開拓の心を忘れて、セオリーなんてつまらねえものに縛られるな。定石を踏まずに挑み、その結果負けてボロボロになったしても、行先が地獄に続いてるとは限らねえさ。」
「シリウス……。」
「チッ、私としたことがお喋りが過ぎたな。オラ、さっさと走ってきな! 下手の考え休むに似たりって言うだろ!」
「……ああ! やってやるさ!」
逃げか、差しか。先の見えないトンネルの中、シリウスは新たな切り口を見せてくれた。差し込んだ光はか細いものだったが、それでも暗闇の中で確かに輝いている。シリウスの後に海外へと続いたウマ娘たちも、同じような安心感を感じていたのかもしれない。
「ありがとう、シリウス……。」
たった今、私の腹は決まった。早速トレーナーに話すとしよう。
―――――――――――――――
「ちょ、ちょっとダストちん! デビュー戦来週ってマジ!?」
「ああ、トレーナーにはかなり頑張ってもらった。結果でお返ししないとな。」
放課後、いつものようにトレーニングを始めようとしていた私に、トランセンドが猛烈な勢いで詰め寄ってきた。こいつも私たちを驚かせようと日程を隠していたが、その気持ちも今は理解できる。こうしてトランの驚いた顔を見られるのは確かに悪くない。
「いやでも、対戦相手のデータとか……それにモチベ問題だって!」
「ああ。まあ、案ずるより産むが易しかと思ってな。それにいい加減、外野の声が鬱陶しい。」
「ッ……!」
私たちのチームが背負わされていた期待や羨望、嫉妬の声。それらはトランセンドの敗北を皮切りに、少しづつ大きくなっているのを感じていた。勝手に期待されて、勝手に裏切られたと傷つかれるのに慣れてはいる。だが、全員がそうとは限らない。
「そして、それに調子を崩されてる奴もいる。」
「……ちょ、ちょい待ちダストちん。それは―――」
「わかってるさ。これはお前が乗り越えるべき問題だ。」
「だがチームメイトやトレーナーが馬鹿にされて、ムカつかないわけじゃない。」
「ダストちん……。」
「それに、レースに出たら案外高揚感でモチベーションも上がるかもしれない。仮に新しい問題が見つかったとしても、それは前に進んだ証拠だしな。」
私はちらりと時計を確認する。もうそろそろ休憩時間は終わりだな。
「よし! それじゃ、私はトレーニングに戻る。ああ、デビューはお前と同じ阪神にした。応援に来てくれるなら嬉しい。」
「ウチ以外全員行くやつじゃんそれ。ま、ウチも行くから結局全員集合なんだけどねん。」
「そうか。まあ楽しみにしておいてくれ。」
デビュー戦は一週間後……それまでに出来る準備は全て済ませよう。
―――――――――――――――――――――
一週間はあっという間に過ぎ去り、とうとうデビュー戦の日を迎えた。既に体操服に着替え終わり、ゼッケンもつけて準備は万端だ。
「だ、大丈夫? 緊張してない?」
私の顔を心配そうにのぞき込むリリーに、私は余裕をもって笑みを返す。
「任せてくれ、トレーナー。アンタが担当し、そして育てたウマ娘の強さ。見届けてくれればそれでいい。」
「う、うん……。でも一応、作戦について確認させて?」
「わかった、話してくれ。」
「今回のデビュー戦、最高はもちろん勝つことだけど、実際のレースじゃ何が起こるかわからないっていうのは、もうわかってるよね。だから第一目標は、このレースを体験してそれに慣れてもらうことになる。極論無事に走り切ってくれさえすれば、ビリだって構わないと思ってるよ。」
「ああ。作戦は『逃げ』でいいんだよな?」
リリーは不安げに、しかし確かに頷いた。
「うん。とりあえず最初は逃げを打って、先頭争いに参入してほしい。争えば争うほどスタミナが削られることになるけど、ジンなら問題ないと思う。それこそ最後の一人になるまで奪い合ってもいい。」
「そうして前にウマ娘がいなくなってから……そこからが本番だよ。ちゃんと脚が使えるかどうか確認して。もしダメそうなら、それでも先頭で粘るかいっそのこと後ろまで下がるか……その判断は任せる。デビュー戦はただでさえ距離が短いから、スタミナは不安視しなくていいはずだから。」
「つまり、行き当たりばったりってことだな。」
「ま、まあそういうことになるかな……。何度も言うようだけど、レースに慣れるのが目標だから。何も気にせず、まずは走ることを楽しんで来てほしいんだ。」
「……了解。そろそろ時間だ、行ってくる。」
走ることを楽しむ……か。少し前まで……一人だけで走っている頃は、自分にそんなことが出来るとは思わなかった。だが仲間がいて、競争相手がいて……今は違う。楽しいレースになりそうだ。一歩一歩を踏みしめるように通路を歩き、私はパドックに躍り出た。風が砂ぼこりを巻き上げ鬱陶しいが、私の高鳴る胸を邪魔できはしない。
『堂々の1番人気です。5番、バイツァダスト。』
『落ち着きがあって、いい雰囲気ですね。しっかり実力を発揮してくれると思いますよ。』
パドックの中、競争相手たちの顔でも覚えておくかと見回すと、彼女らの動きは一々ぎこちなく、表情も強張っている。緊張しているのはわかるが、それにしても全員がそうというのは妙だ。何か原因でもあるのかと回りを見渡し、観客席の一角がやけにざわついているのに気が付いた。
「る、ルドルフさんだ! シンボリルドルフさんが来てるぞ!」
「あ、あの! 大ファンなんです! サインいただけますか!?」
あまり多くはないデビュー戦の観客たちが、ルドルフの元に殺到している。あいつ、暇なんだろうか?
「ありがとう、皆さん。ただもうすぐレースが始まってしまうから、後で対応させていただけるだろうか?」
「は、はい! ありがとうございます!」
「すごいすごい……! だ、誰か注目してる人が……?」
他の観客たちは気づいていないようだが、ルドルフは私の方を見てニコリと笑みを浮かべた。目が合ったと感じたのは、多分思い上がりじゃないだろう。
「……ま、あいつがいてもいなくても関係ないか。私は私のレースをしよう。」
係員の誘導に従い、私を含めたウマ娘たちが次々にゲートインしていく。狭いゲートの中は空も見えず、かなりの圧迫感だ。ゲートにはウマ娘の本能を刺激し、スタートが上手く行くようにする効果があると授業で聞いたが、確かに今すぐにでも飛び出したい気分だ。
『各員、ゲートイン完了。』
実況のアナウンスが響き、じりじりと神経を焼かれるような気分だ。早く、早く開けよ。
―――そしてついに、目の前の景色が大きく開いた。
『スタートです!』
ゲートが開いた瞬間、光の差す方に向かって飛び出す。頭の中では、トレーナーとトランが集めた情報が駆け巡った。
『ここはとにかく、第1コーナーの角度がきつい。そこまでにケリをつけようと、先行争いが激しくなる傾向にあるんだ。まずは―――』
「うおおおっ!?」
言葉通り、16人いるウマ娘たちの半分以上が先頭争いに殴りこんでくる。5番ゲートで内側にいた私は、内ラチにぐいぐい押し込まれるようにハナを奪われる。
『一斉にスタートを切りました。予想通り、激しい先頭争いが繰り広げられています。』
『内側のウマ娘はパワーが必要ですからね。1番人気のバイツァダストにとっては苦しい展開ですよ。』
ゲリラ豪雨の雨音のような足音! 巻き上げられ、弾丸のように体や顔を打つ砂と礫! 外側から大きく押し込まれ、ラチにこすり付けられそうになる恐怖! これが、これが本物のレースか!
「―――面白い。」
『第一コーナーに差し掛かり、先頭争いも落ち着いてきたころでしょうか。先頭は11番、次に9番、14番と続いて―――ああっと、1番人気のバイツァダスト、ぐんぐんペースを上げていきます! まだハナを諦めていないということでしょうか!?』
『少しかかっているのかもしれませんね。一息入れられるといいのですが―――』
「一息入れる? そんなもの、彼女には必要ない。」
何の変哲もない、プラスチック製の観客席。それでもシンボリルドルフが座るだけで、荘厳な玉座のように見える。彼女は席に腰かけたまま、薄く笑みを浮かべていた。
「幼い私についてこられたのは、シリウスと君だけだった。さあ見せてやれ、ジン。皇帝に並び立たんとする、傲岸不遜のかの走りを―――。」
―――――――――――――――――――――
『第3コーナーを回り、先頭は一番人気のバイツァダストに変わっています。』
『激しい先頭争いでしたから、脚が残っているか心配ですね。後方で控えるウマ娘たちにはチャンスですよ。』
漏れ聞こえてくるアナウンスに呼応するように、少しづつ背後から聞こえてくる足音が速くなる。私も必死に脚を動かすが、最後の一蹴りの力が湧き上がってこない。
(クソ……! 早く上がってこい!)
『さあ第4コーナーを回って最後の直線です! 阪神では最後に急坂を駆け上がる必要がある!』
『最後の最後にパワーが試されます! バイツァダストはどうでしょうか!?』
スタミナは十分すぎるほどある。あともう一周しろと言われても余裕で達成できるだろう。だがこのレース、残りは200mもない! 残った力、全て! ここに注ぎ込む!!
強く踏みしめ、思い切り後ろに蹴り上げる。何かに突き飛ばされるように駆けあがる私の背後で、誰かが呼吸を乱した音がはっきり聞こえた。
『バイツァダスト! バイツァダストだ! バイツァダストまだ加速する!』
『まさしくガソリンタンク! 重機のようなパワフルな走りです!』
傾斜のついた地面は走りにくくてイライラするが、その鬱憤すら今の私にとっては燃料でしかない。むしろ前を走る奴がいない分、このストレスが逆にいい!
(見えた―――! ゴール板!)
もはや、何も遮るものはなかった。何にも縛られることなく―――光差す道の中、私は真っ先に駆け抜けた。
『今、ゴールしました! 1着はバイツァダスト、2着は―――今ようやくゴールイン! 実に4バ身差をつけての圧勝となりました!』
『いやあ、いいレースでしたね。1番人気に応える、堂々とした横綱相撲だったのではないでしょうか。』
……レースの最中は騒音としか思わなかったアナウンスや観客たちの声。それが走り終わった今、こんなにも誇らしい。中継で見たレースで、勝ったウマ娘どころか負けた奴でさえ手を振る仕草を、私は冷めた目で見ていたはずだった。だが今、こうして体験してみると―――
気付けば小さくだが、右手をひらひらと振っていた。まさか私がファンサービスをする日が来るなんて思わなかったが、中々気分がいいものだ。観客席の全てに届けようと見回し、そいつの姿に気が付いた。
(ルドルフ――――)
倒すべき宿敵は私の方をまっすぐと見据え、まさに皇帝とでも言うべき威厳ある姿を―――さらしてはいなかった。いつの間にか席の最前列まで移動しているし、ボロボロと涙を流しながら何かを叫んでいる。
(まあ、いいか―――。今日くらいは、喜ばせてやるさ。)
小走りで観客席に近寄り、ルドルフに駆け寄る。ポカンとした顔をしているがそれでいい。私も今はそんな気持ちだ。両手を伸ばし、奴の首の後ろに回した。
「勝ったぜ、ルドルフ。お前に勝利する道の第一歩だ。」
「じ、ジン!? これは―――」
「今日だけだ。ここまで来てくれた礼に、今日だけは許してやる。」
強く両腕を引き、ルドルフの上半身を引き寄せる。そのまま顔を少し左に傾け、ルドルフの頬に軽く当てた。
「覚悟しな。次に同じことをするときは、必ずお前の首をもらうぜ。」
「じ、ジン―――」
何かを言われる前に、私は小走りで観客席に背を向けた。体が火照って熱いのは、ここまで全力で走ってきたからだ。私の頬の熱を、あいつは何かと勘違いしたかもしれないが、明日にはその間違いに気づくだろう。だから今日だけ、喜ばせてやった。ウイニングライブに、チームメンバーからの糾弾。それすらも、一泡吹かせてやったという満足感にかき消されて覚えていない。
そんな私のおめでたい勘違いは、翌日の朝刊に踊る『皇帝の愛バ誕生か』の見出しを見るまで続いたのだった。