COLD SONG   作:ウシミツ残業明けサラリマン

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Let me, let me, let me freeze again to death

King Arthur, or The British Worthy / Act Ⅲ "What Power art thou"



あの夜に消えたもの

 降り始めてどれほどの時間が経過しただろう。それすらもわからないほどには、この冷たいコンクリートの上に座り続けていた。

 ふと、雨が傘を打つ音がした。雨が遮られて、闇がより濃くなっていく。

 

「大丈夫かい?」

 

 だがその闇から聞こえたのは罵声や悲鳴でもなく、優しく慮るような声だった。視線を上げて傘を差しだした人物を見れば、見慣れた大きなシルエットが見えた。

 

「……先生」

「大丈夫かい?」

「……うん。大丈夫」

 

 そういうカヨコは明らかに全身ずぶ濡れだったが、反射的に大丈夫だと口にした。そんな様子のカヨコに、先生はどこか困ったかのような笑みを見せた。

 だがそんな生徒を頬ておけるはずもなく、先生を名乗った男は自身の着ていたテーラードジャケットを冷たく濡れた彼女の肩にかけた。

 驚いたカヨコは咄嗟に顔を上げる。

 

「なッ、ちょっと、濡れちゃう」

「いいんだ。寒いでしょう? 風邪をひいてしまうよ」

 

 明らかに安物ではなさそうな高級品だ。間違っても濡らしたり、泥をつけてもいい代物でもない。先生の行動に驚きつつも返そうとするが、その時、自分の手が震えていることに気づいた。知らないうちに雨と風は体温をどこまでも奪っていたことに今更ながらに気づいたのだ。

 

「気にしないで。カヨコの方がよっぽど大切だし、この程度なら何とでもなるもの」

「この程度って……はぁ」

「いいんだ。困っている生徒を助けるのが僕の仕事だからね」

 

 先生のあんまりな発言に呆れつつも、肩に掛けられたジャケットと、隣にいる大きな大人の暖かさは少しだけ、震えるような寒さを抑えてくれた。

 先生はみんなの味方だ。誰でも分け隔てなく手を差し伸べ、守るべきものをその背中で守ろうとする。だから。

 

「ありがとう先生、もう大丈夫……もう行くね」

「あ、カヨコ、まって」

 

 それが先生の善意であることもわかっていた。だがカヨコはそれを簡単に受け入れることが出来なかった。

 その現実が、暗い世界がカヨコの全てだったし、諦めでもあったからだ。その暗さを前に、光が煌めくような蠟燭の明かりは、あまりにも無力だ。

 その無力は最早意味を持たないのだ。冷たい雨に小さな炎で何が出来ようか。何を与えることができるのだろうか。

 

「いいの」

 

 カヨコは優しく手を差し伸べてくれた人の手を、その優しさを受け取らない。一瞬緩んだ手から離れ、カヨコは雨の中に立った。

 寒さのせいかうまく力が入らない。だがそれでも立ち上がった。ただそうするべきだと思ったのだ。

 

「ありがとう、先生……でも私は大丈夫だから」

 

 大丈夫、まだ歩いていける。まだ立ち上がれる。頑張れる。

 この街にはそんな、疲れた空っぽの言葉たちが溢れている。大した意味を持たず、ただ無意味に消費されるだけの言葉。カヨコはそんな言葉がどれほど役に立たず、そして誰にも響かないことを身をもって知っていた。そうして意味を失った言葉は沈黙と変わらない。

 そうして空っぽの言葉を放つことが、なんの力を持たないことをよく知っている。だから「大丈夫だ」と、拒絶し、沈黙する言葉を返した。

 

 無責任に放たれる言葉に何度も傷ついて、そのたびに何度も言葉を伝えようとした。だがそこに対話など存在しない。

 この街に言葉は響かず届かない。

 だからこそ、この街で繰り返される意味のない言葉より、先生の持つその手が何倍もの価値を持つことを知っていた。先生はそれだけの力を持ち、救うことが出来る人間だというのは今までの実績が雄弁に語っている。

 

 だけど、その手は全てを救えるわけじゃない。

 

 だからこそ、自分のような諦めた人間ではない誰かの為にその手を差し伸べてほしかった。限られたその手を、その力を誰かの為に譲ることが、この街でカヨコにできるただ一つのことのように思えたからだ。

 

『ごごご、ごめんなさいぃぃ!』

『なんで、こんなところに不良が』

『た、助けてくれ! 俺は何もしてないじゃないか』

『に、睨まないでよ!』

『怖いよぉ!』

『怖い』

『怖い』

『怖い』

『コワイ』

『コワイ』

『コワイ』

 

怖い(Terror)

 

 この街に立ち上げられたカヨコの主体(テクスト)は、関係性の網目の中でカヨコ自身も飲み込んでしまった。

 カヨコの言葉はイメージの枠組みの中に押し込まれ、最早届かない。言葉は価値を失い、対話など不可能だと知った。そこには私ではない私という影が、偽物が常に前に立ち上がる。

 

 雨の中、震える拳はただ寒さだけではない。俯く顔から雨水が滴り落ちるが、それは決して雨だけのせいではない。それでも真実はいつだって闇に隠されるものだ。

 

「寒いでしょう。体が震えてるよ」

 

 それでも先生は傘を差し、隣に立った。自身も濡れることになろうとも、カヨコがこれ以上濡れないように傘を差す。再び優しくジャケットが掛けられた。

 対話を選び、カヨコの身を案じる先生はきっと善意の大人だ。

 

「いいよ、どうせまた雨に濡れて、また街を彷徨って。結局また一人になるんだ。そうであることも、もう慣れたから」

 

 だけど、カヨコは言葉を返すことで()()した。

 その言葉もこの傘も。この街の寒さを消すことなんてなくて。だからその前に何をしてもしょうがないものだから。

 

「カヨコ、それでも」

「今までの私を見ればもうわかるでしょう。どんなことをしても、どこにいても意味がなかった、これ以上は仕方ないんだ。どうせ意味なんてないんだから」

「そんなこと」

「あるんだよ」

 

 だから、カヨコにとってはその()()でさえ嘘だ。

 

「私の噂を知ってるでしょう? 怖がられて、恐れられ避けられてきた。私という存在を誰も私を見てくれない。誰も私の声を聞かなかった。真実なんて、私がどんな存在かなんて関係ない。ただ私がそういう存在であるという言葉(コンテクスト)があるだけで、私のすべてが決まってしまうんだ」

 

 この街には虚像のように立ち現れたカヨコという亡霊と、街の闇に隠された自分自身のみが残される。そういう現実を常に見てきたカヨコには、諦め、沈黙することしか手段はなかった。

 

「カヨコ……」

「怖くて恐ろしくて、そんな存在でなければいけないの……そうじゃないのなら、なんでこんなにも寒いの? どうしてこんなにも苦しいの? 私がそうでないのなら、何で……」

 

 便利屋という仲間に受け入れられていること。かけがえのない仲間がいること。それはこの嘘に塗れた街において希望だった。だが、それが対に示すのは絶望でもあった。

 その暖かさは寒さを消すわけじゃない。世界は冷酷で空虚だということから目を背けることは出来ない。

 

 誰にも手を出せない現実が欺瞞であるなら、嘘に満ちたこの街では言葉でさえ空虚だ。それを知ってるからこそ、その巨大な現実に押しつぶされそうになってもずっと沈黙を貫いてきた。

 理解してほしいなんて言わない。出来ないことを押し付けるなんて出来ない。だとしても一人立ち向かうことは怖くて、恐ろしくて。

 

 静寂に包まれた暗闇はとても寒くて。

 

「カヨコ」

 

 先生は静かに手を差し伸べて微笑みかける。冷たい手が頬に触れた。

 

「こんなにかわいい顔に、涙なんて似合わないよ」

 

 そう言って、先生は静かにカヨコの手を取る。

 冷え切った手に、先生の燃えるような暖かさを感じた。

 

「カヨコは私の大切な生徒だよ。それ以上でも、それ以下でもない」

 

 先生の手が涙を拭う。暖かい大きな手が私の頬を包み込んだ。

 そこで初めて涙を流していたことを自覚した。雨のせいにしたかったその寒さも、ぼやけた視界も全てカヨコ自身の物だった。

 

「キミ自身の在り方を誰かに決められるなんて、そんなことはあり得ないんだ。君の行き先は君自身で決めるものだからね」

 

 その言葉を嘘だということは出来なかった。

 先生が向き合った末に紡がれた言葉を否定することなんて出来ない。それは私が何度も向き合って、結局最後に身勝手に拒絶された言葉だから。何度も渇望して、何度でも誠実であろうとしたそれを、その言葉でさえも否定してしまえば、その先には暗い行き止まりしかない。

 もう進む先もないのに、絶望の反対をも切り捨ててしまえば何処までも落ちていくだけなのだから。

 

「先生は、私が怖くないの?」

「まさか。カヨコはかわいい私の生徒さ。すこし不器用で、一人でいるのが好きな、心優しい子だよ」

「そんなの、嘘だよ」

「嘘なわけないよ。それが私の中の君という存在なんだ」

 

 その言葉に、心のつっかえが取れたような気がした。その肯定がただカヨコをこの場に存在することを認めてくれた。

 

「それは……」

「カヨコが誰かになんと言われても、それがカヨコ自身になるわけがないんだ。そうあるという言葉が君自身じゃないからね」

「私は、私であることを?」

「誰かの言葉は誰かの物でしかない。どんなに鋭いものでも、それがカヨコという存在を全くなかったことにはしないよ」

 

 カヨコは怖かったのだ。それは自身の存在に対照して立ち現れた影が、再び自分を飲み込み、傷つけまた暗い闇に落ちてしまうことが。

 

 そこに鬼形カヨコという私が、いないという不安と恐怖があったのだ。

 

 だから必死に否定した。拒絶した。言葉に成り代わられるくらいなら何も言わない方がいい。

 そうして自身の紡ぐ言葉でさえ否定してしまえば、その暗闇はより色濃くなり、段々と自分の身動きが取れなくなるような息苦しさが強くなった。

 

「また繰り返される、ずっとそうだった。何度も同じような朝が来て、また雨は降って。この世界は変わらないと思っていた」

 

 伝わらない言葉なら、いっそ伝わらない言葉ごと弾丸で貫いてしまえばいい。そうせ苦しいのなら、すべて壊してしまえばいいのだ。そうやってこの街は続いてきた。言葉を捨て、銃と弾丸を手にしたその瞬間からずっと。

 

「ずっと、何度だって言葉を交わしても届かなかった。勘違いされて逃げられて避けられて、私のことを見てはくれなかった。だったら何も言わない方がいいじゃない。そう思ってずっと来てたんだ」

「だけどキミは望んでそうなったわけじゃない。誰かにそうして欲しいとも言われたわけでもない」

「だから……仕方なかったっていうの?」

 

 仕方なかった。どうしようもなかった。だってそうする道しかなかったのだから。

 

 そういって何度も一人で通り過ぎた。自分自身で選び取ることを諦め、暗いビルの隙間から小さな空を眺めていた。

 言葉が届かないことも、それが無意味に消費され、消えていくのを何度も見ていた。そうであることを諦めと共に受け入れていた。

 

「嘘に溢れて、言葉でさえも嘘なら何が正しいの? 何が真実なの? あぁ、でも最初からわかってたんだ。何もない、ここには真実なんてない!」

 

 傷ついた心が叫んでいた。そこでは寒いということだけが真実だった。

 沈黙も、その悲しさや受け入れられない寂しさも簡単に超えることは出来ない。圧倒的な轟音と共に飲み込むそれに抗うことなんて出来なかった。

 そうして雨に濡れて、闇に消えて、その嗚咽でさえ洗い流される。そしてまた何もなかったかのように街はそこに在り続けるんだろう。

 

「でも何もない、そういって聞こえる声に聞こえないふりをして、何でもないようにして。それなのに自分自身の声には、どうしても嘘なんてつけないんだ」

 

 鬼方カヨコという存在も、その立ち上がる虚像も枠組みが飲み込んでしまったとしても。

 この街が欺瞞と嘘に溢れた虚像を立ち上げたところで、見えないものがなくなるのと同じになるわけではない。何もないかのようにあり続ける街にも、その暗い闇に隠された声が虚空に消えても、カヨコ自身が上書きされ、消えてしまうわけではないのだから。

 ここにいる存在は闇であっても存在するのだから。

 

「見えないふりをして、隠れていた。そうでなければならないって思っていた。それこそが、嘘なんだ」

 

 殺した言葉も、見失った光も何処にもなくなったわけではない。

 この街は何も語らないでただそこに在る。寒さは相変わらず肌を突き刺す。

 一度死んだ言葉を再び蘇らせるように、先生は一つ一つ言葉を紡いだ。

 

「ただ一人、この世界に生きること。そして君自身が決めることのできる道を歩むことを諦めないで。君自身の在り方を押し付けられたのなら、そんなもの()()()()()()()()()()()。それが出来ることが可能性であり、君たちの希望なんだ」

 

 雨がざあざあと音を立てて振り続ける。その雨音は、ともすれば私の実在さえも無視してしまい、その結末は誰の目にも映らないで終わるかもしれない。

 だがそれさえもこの街の姿であり、現実だった。

 

「どうか自分のことを自分で否定しないであげて。この世界にいる君のことを君自身が信じてあげて。その言葉を紡ぐ君自身はここにいるんだから」

 

 私にとって、街は寒くて冷たい場所だった。

 

「暗闇をつくるのも、その反対に明かりがあるからなんだ。どうかそれを忘れないで。きっと明るい道があるはずだから」

「……なんだか言い訳みたい」

「言い訳でもいいさ。信じれないことも何も見えないことも、例え誤魔化したものであっても。それでも進むしかないんだから」

 

 そう言葉を紡ぐ先生の手はずっと暖かい。その暖かさも、いずれこの雨で消えてしまうのかもしれない。それでも、今はこの手に頼ってもいい気がした。

 

「進むことは怖い。何も見えない場所を歩くことも。だけど一人じゃない。私はそんな君たちの横で歩いていきたいんだ」

「……」

「いつでもいい。今じゃなくてもいい。ただキミの隣にいることを忘れないで。どうか目を瞑らないで、でもへこたれないで」

「……うん」

 

 消えそうになる意識の中で、先生の声に応えた。

 

 

 ゆっくりと、意識が落ちていく。その中でただ先生のぬくもりを感じていた。

 ただ、それだけは今の私の真実だったから。

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