悲観主義者でも空は青い   作:無知無知

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消えない傷痕

「アハハハハハハハハハ! …………フフフッ! あーおかしい!」

 

 美月はフクロテナガザルの絶叫をいたく気に入ったらしく、十分前のことなのにまだ思い出し笑いが止まらない。私としては動物よりこの人の方が面白いと思った。

 

 動物園の中をある程度見回った後、私達はアイスクリームの屋台の側にあるテーブルに座っていた。可哀想なことに翼だけはアイスクリームが買いに並ばされている。じゃんけんで決めたから仕方ない。私には誰がどの手を出すか分かっていたけれど。

 

 直接手を触れなくても三つの選択肢から相手が何を選ぶかぐらいは容易に読むことが出来る。普段優越感を感じることなんてめったにないけれど、この時ばかりは図に乗っていた。

 

「もう五時か。ごめんね、こんな時間まで付き合わせちゃって。疲れたでしょ」

 

 半分はおどけた、もう半分は申し訳なさそうな表情で美月は謝罪の言葉を口にした。

 

「……私も楽しかったから、いいです。疲れはしましたけど」

 

 無理矢理あれこれ着させられるのは恥ずかしかったし、いや本当にものすごい恥ずかしかった。それにあちこち歩き回させられたけれど、退屈しない一日ではあったと思う。

 

 

 

『……そっか』

 

 

 

 少し、胸が痛む瞬間はあったけれど、やはり楽しかった、

 

「……それより本当にいいの? あのコート……高かったのに……」

 

「……あんまり奢られすぎるのも気味悪いし居心地悪いよね? そこはごめん」

 

「そんなことは……なくもないですけれど」

 

「まあ、なんていうか、説明するのは難しいんだけどこれは私の罪滅ぼしみたいなもので、結局は自己満足なんだよ。だから唯ちゃんはこれを借りと思う必要はないし、私も貸しにはしない」

 

 でも感謝してるなら今度おいしいご飯を奢ってくれてもいいんだぜ、と最後に小さな声でつけ加えた。その悪戯をする子供のような笑顔を私はこの短い間で好きになっていた。

 

「……分かった」

 

 日が傾き始めて、出口に向かう客もちらほら見える。そろそろ終わってしまうのだなと思うと寂しい。

 

「それにしても三人でまた遊べるなんて、私も嬉しいよ。昔に戻った気分」

 

「……ごめんなさい。覚えていれば、昔のことを話し合うことも出来たのに」

 

「いやいや、そういう意味じゃなくてね」

 

 困ったように笑う美月を見て、しまったと思った。どうしてこうネガティブな言葉しか出てこないのだろうか、自分にはほとほと呆れる。

 

「うーん。昔のこと、知りたい?」

 

「……知りたいです」

 

 翼からは昔の思い出をほとんど聞けていない。美月の存在すら今日初めて知ったのだ。秘密主義にも程がある。

 

 翼が教えてくれないのなら美月に聞くしかない。どんな話が飛び出てくるのか少し怖さもあるが、それはそれ。怖いもの見たさというやつだ。好奇心の方が僅かに勝った。

 

「そっかあ。じゃあねえ……最後に会ったときの話をしようか」

 

 最後、というと私と彼が音信不通になって会えなくなる直前の出来事ということか。

 

「うち父さんの仕事の都合でここに住んでたんだけど、いなくなっちゃったから母方の実家に帰ったんだよね」

 

「いなくなった……?」

 

「あれ、聞いてない? 死んだの……九年前に」

 

 美月は何でもないことのように言おうとしたのだろうが、声が若干上ずっていた。

 

 初耳だ。一ヶ月も一緒に過ごしていたのに一度もそんな話は聞かされなかった。

 

「……それはなんて言えばいいのか……」 

 

「いいのいいの。大分前の話だから。それでね、引っ越さないといけなかったんだけど、その時唯ちゃんが見送りに来てくれたんだ」

 

 心が揺れているのを隠すためだろうか美月は早口で喋る。十年近い時間が経っても傷は癒えていないみたいだ。

 

 私には父親がいないからその感情を理解することが出来ない。死んだわけではない、ただいないのだ。会ったこともないし、母から話を聞いたこともない。私にとって父親とは本や液晶の中にしかいない架空の生き物だった。

 

「翼半泣きでさ-。世界の終わりみたいな顔してるのにずっと意地張って『寂しくない』って」

 

「……なにが悲しかったんですか?」

 

「え、それ言わせる? 昔から二人とも手を繋いだり、一緒に出かけたりしてたんだよ」

 

「……仲が良かったんですね」

 

「キスもしてたしね」

 

「…………キス!?」

 

 想像しただけで頭が熱くなっていく。覚えていないことが少し悔しいけれど、それ以上に嬉しかった。頬が緩むのを止められない。

 

「……えへへへ……ハッ!?」

 

 案の定美月はニヤニヤと笑っていた。今更ながらこの人は意地が悪いと思う。

 

「あらら、なになにウチの弟が気になってるの?」

 

「ちが! ……くはなくもない、ですけど……で、でもまだ知り合ってあんまり時間が経ってないしそーいうのはもっとお互いのことを知ってからじゃないと」

 

「えーどうかなぁ。アイツ割とモテるぞ。そんな悠長なこと言ってたら他の女にとられちゃうかもよー」

 

「はうっ……!」

 

 確かに彼は顔も良いし、足も長いし、優しいし、私なんかよりもっといい人が既に好意を持っているのかもしれない。もし、もし取り合いになったら私に勝ち目はあるのだろうか。

 

「ううっ……!」

 

 まだ見ぬ恋敵の存在は想像の中でどんどん膨らんでいく。一人か、それとも複数か。全員私よりも容姿に劣ってくれればいいのだけど現実は広く非情なものだ。スタイル抜群で性格も天使のような女どもが湧いて出てくるやもしれぬ。

 

「ゆ、許せん……!」

 

「妄想ストップ。ちょっとからかっただけだってば。そんなことにはならないよ」

 

 暴れ馬をなだめる調教師のように『どうどう』と声をかけながら首の下を撫でてくる。いきなり変なところを触られたから奇声が零れてしまった。

 

「考えてもみてよ。アイツってば八年も連絡取れなかったのに県跨いでまで唯ちゃんのことを探し続けたんだぜ。それくらい筋金の入ったストーカーなんだから今更他に目移りなんてしないよ。──ホント、馬鹿みたいに一直線なヤツなんだから」

 

 ストーカーとは酷い言いようだったがそこには確かな親愛の情が込められていた。半日ほどの短い間しか観察出来ていないが二人は本当に仲がいいと思う。家族なのだから当たり前なのかもしれないけれどそれを加味しても強い信頼があるように見える。

 

 私もいつか誰かと、彼とそんな関係になれるだろうか。

 

「じゃあ続き……そうそう翼のヤツ、あの時唯ちゃんにあのウォークマン渡したんだよね」

 

「…………え?」

 

 “あの”という指示語が何を指しているのか一瞬分からなかったが、すぐに思い当たった。

 

 小さい頃からずっと手元にあったあの音楽プレーヤー。孤独な私にとって何よりも大切で、体の一部とすら感じていた。嫌なことがあっても耳にイヤホンをつければ、目を閉じるだけで現実を遮断できたから。

 

 母さんのものだと思っていた。それが、まさか翼からのもらい物だったなんて。そうだと知っていたなら学校なんかに持ち込みはしなかったのに。

 

 嫌な思い出が蘇る。グラウンドの上にできた茶色い水溜まり。その中に沈んでいた泥だらけのウォークマン。冷たい雨に打たれながら、指を泥だらけにして掬いだした。壊れているのなんて見れば分かるのに馬鹿みたいに電源ボタンを何度も押した。

 

 後悔と怒りで顔が歪むのを見られないように俯いた。けれど美月は記憶をたどるのに集中していて私の様子には気づかなかったようだ。

 

 アイツ、あのイヤな女。私の大切なものを平気で泥の中に投げ捨てたあの女。死ななくてよかったと安堵していたが今はもう違う。本当にあの時殺しておけば―

 

「あれ、父さんが昔使ってたやつでさ。形見って言うのかな? 私は思い出しちゃうから一回も使わなかったんだけど……翼は大事にしてたね。正直人に渡すとは思わなかったな」

 

 かたみ? そう聞き返したつもりだったが、今度は声も出なかった。

 

 自分はそんなに大切なものを壊してしまっていたのか。ちゃんと返さなきゃいけなかったのに。

 

「アレ今も持ってるの? 持ってたら今度見せてくれない? 父さんがどんな曲を聴いてたか、私知らなくてさ」

 

 顔を伏せたまま眼だけを上に動かすと、美月の期待したような目が私を見つめているのが分かった。申し訳なさで息が詰まりそうになる。

 

「……わ、私……」

 

「あ、翼遅い!」

 

 私がもたついていた間に翼は列から戻ってきていて、アイスが三つ乗ったトレイをテーブルの上に乗せた。

 

「並ばせといてそれかよ。ねぎらいの言葉ぐらいあってもいいと思うけど」

 

「アリガトウゴザイマシタ。ほらよこせ」

 

「期待したオレがばかだった」

 

 二人の寸劇を見ていても昼間ほど愉快な気分にはなれなかった。数時間前、私が彼に言い放った言葉を思い出したからだ。

 

『買い替えるのが面倒なだけ』

 

 なんて酷いことを言ってしまったのだろう。翼にとってとても大切なものだったのに。受け取った私はもっと大事にしなくちゃいけなかったのに。

 

 もしかしたら翼はあの時私を嫌いになったのではないだろうか。あんなことを言ったんだからそのほうが自然だ。同じ立場ならきっと許せない。

 

 今翼が怒って見えないのは美月の前だからというだけで、家に戻ってから翼が私を怒鳴ったりたたいたりしないだろうか。いや、それならまだいい。もっと怖いのは見捨てられることだ。二度と口をきいてくれなかったり、家を追い出されたりしたら。

 

 胸の中で膨らんでいく恐怖に臓器が押しつぶされるような感覚が強まっていく。何かのはずみで吐いてしまうかもしれない。

 

「調子悪い?」

 

 心配そうに翼は私の顔を見つめて、優しい声をかけてくる。

 

 よかった。まだ怒っていない。これ以上不快な思いをさせちゃいけない。だから無理にでも笑顔を作らないと。

 

「……ううん! 全然大丈夫。気にしないでいいから」

 

「……ならいいんだけど……」

 

 初めて優しくしてくれた人に心配をかけさせたくない。ただでさえ失点続きなんだから取り返さないと。元気なふりをしないといけない。

 

「私チョコもらうね!」

 

 もう食欲なんて欠片もないのにアイスを掴み取って口に運ぼうとした。けれど力が入りすぎてしまったみたいだ。

 

「あ……」

 

 コーンが軽快な音を立てて砕けた。ぐちゃぐちゃに潰れたチョコアイスが手袋だけじゃなく上着まで汚している。

 

「…………」

 

 あれ? どうすればいいんだっけ? 

 

 私はただぼんやりとゴミに変わったアイスを見つめていた。ただ見ているだけで何かが変わるわけ無いのに。

 

 嫌なことを沢山考えたせいで頭がショートしてしまったみたいだ。どうしよう。普通にしていないといけないのに何もわからない。

 

「ちょっとはしゃぎすぎだよ。唯ちゃん。それ外しな。拭いてあげるから」

 

「美月、駄目だ」

 

 美月が何かを口走ってすぐに右の手袋を外した。翼は止めようとしたけれど、霞がかかった頭には理由が分からなかった。

 

「え?」

 

 心底驚いたような美月の声に顔を上げる。彼女は眼を見開いて私の手首を凝視していた。幽霊か何かでも見たような驚きぶりだ。私もその視線を追った。

 

 恐怖が痛みを伴って、胸の中から頭まで這い上がってくる。麻痺していた思考回路がようやく動き出した。

 

 青白い皮膚の上に赤い線が血管と垂直に走っている。もう数か月も前の疵だというのに未だに消えてくれない。見る度に惨めな気持ちを思い出す。

 

 泥だまりにウォークマンを捨てられて、笑われながらずぶ濡れの制服で帰り道を歩いたあの日。泣いているところが見られるのだけは絶対に嫌で歯を食い縛った。

 

 家に帰って暗い部屋の中で一人きり声を押し殺して泣いた。泣きながらも、お母さんにバレたらいけない、帰ってくるまでには平気なフリをしていないといけない、なんて考えていた。

 

 けれどいつまでこんなことをしなければいけないのだろうかと疑問に思った。いつも他人の顔色を窺って、自分を偽って、楽しいことなんて何一つない日常をやり過ごす。それになんの意味があるのか。

 

 そんな思考が過ぎって、気がついたらカッターナイフを手首に当てていた。肉を抉るように深く刃を差し込んで次第に意識が薄れていった。痛みはあったけれども楽になれるという安堵感の方が強かった。

 

「冗談……だよね……?」

 

 美月の目は今までの優しい年長者のそれではなくなっていた。異物を見るような険しい視線が私に突き刺さる。

 

 見られた。見られてしまった。見られたくなかったから暑くても、邪魔でも、我慢してずっと手袋をつけていたのに。それを勝手に外して、見ておいて、なんでそんな顔を。

 

「離して!」

 

 誰かの荒々しい声が響く。追い詰められた獣みたいな声だった。

 

 喉の痛みでようやく自分が叫んだのだと気づいた。こんな声を自分が出せるという事実が不快で堪らない。気持ちが悪い。

 

 いつのまにか美月は尻餅をついて私を見上げていた。私が突き飛ばしたからだ。悲しんでも怒ってもいなくて、ただただ呆然としている。

 

 翼は私には目もくれず美月の傍に屈んでいる。見たことがないくらい必死そうな顔だった。 

 

 私は数秒後に投げかけられるであろう非難の声が怖くてたまらなくなり逃げ出した。出口まで一直線に。

 

 周りの視線なんて少しも気にせず、無我夢中に走り続けた。何も追いかけてなんて来ていないのに何分も走り続けた。

 

 心臓が破裂しそうになるほど痛くなって、足が鉛に変わったみたいに重くなってようやく足を止めた。

 

 肺が酸素を欲しがって暴れている。息をしてもしなくても熱を伴った痛みがしばらく続いた。

 

 呼吸が落ち着いてようやく顔を上げると辺りはすっかり暗くなっていた。街燈の明かりがなければ一寸先すら見通せない程だ。

 

 そこで私は自分が全く見覚えのない路地に迷い込んでしまったことに気づいた。戻ろうにも道が分からない。

 

「……じゃあ仕方がないよね」

 

 そのことに少し安心した。戻れないのなら戻るために頑張らなくていい。ここでずっとふらふらと歩いていれば―

 

 乾いた風が火照った身体から熱を奪っていく。だけどどんなに風を浴びても罪悪感と自己嫌悪の感情は拭い去れなかった。

 

 

 

 




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