「……」
自宅の玄関前で目を瞑って心を落ち着かせる。学校を出たときから覚悟は決めていたつもりだったが今の唯と顔を合わせるのは少し緊張する。
明るく振る舞わないと、いや普段通りに接した方が、そもそも意識してる時点で普段通りではないような。
というか冷静に考えると映画を見に行こうって、これデートの誘いだよな。それは流石に恥ずかしい。多分緊張して呂律が回らなく……
「ええいままよ」
弱気な自分の心に鞭打つために頬を叩き、ドアノブを捻った。学校を出た時から、それよりもっと前に、駅のホームで彼女と再会したときから既に賽は投げられている。
「ただいま、あれ?」
ドアを開けると唯がいた。部屋の外に出ている。廊下に膝を抱えて冷たい床の上に座っていた。いつからこんなところにいたのだろうか。
「唯……」
呼びかけても反応はない。顔をその細い足の間に埋めたままブツブツと独り言を呟いている。「キライ」「やり直す」、そんな言葉が断片的に聞こえる。
「…………唯、こんなとこいたら寒いよ」
彼女のその様子に内心恐怖さえ感じていたが、できるだけ明るい声を出した。怖がって接したら余計彼女を傷つけてしまう
「……あれ、翼、いつからいたの?」
彼女はふらふらとぎこちなく立ち上がって、オレを見つめた。その瞳は病的な程淀んでいて、なにか別のものを見ているかのように焦点がずれている。
「おかえり、翼」
「……ああ、うん、ただいま」
一昨日と同じ空元気であるのは分かる。けれど、今の唯は笑顔で何かを取り繕おうとしているだけでなく、不気味な雰囲気を醸し出していた。
「それ、何?」
唯が指指したのはオレが右手に持っていた買い物袋だった。下校途中に買ってきたものだ。かまぼこやうどんなどが中に入っている。
「え、これ? 唯がお腹空いてるんじゃないかなと思って、買ってきたんだけど……」
「…………翼は優しいね」
何もおかしなことは言っていないはずなのに、唯は涙を流し始めた。泣きながら笑っている。
「……美月も昨日のことなら気にしてないし、あのウォークマンのことだってオレ」
言い終わる前に軽い衝撃が胸に伝わった。唯がオレの身体に抱きついたからだ。唯の身体が密着しているという事実で鼓動が激しくなる
身体を震わして泣きじゃくっていた。熱い涙が胸を濡らす。嗚咽はいつまでも止まらなくて喉がかれてしまうんじゃないかと心配になるほどだった。
けれどよかった。理由は分からないけれど唯が自分から外に出てオレに頼ってくれた。彼女の方から歩み寄ってくれるならオレも助けになれるかもしれない。
「寒いよ。早く中に入ろう」
頭を撫でてから長い時間が経ってようやく震えが収まった。潤んだ目でオレの顔を見上げている。熱が籠もった視線は蠱惑的でいつもの彼女より大人びた色を感じさせた。
「……ねえ、私のこと好き?」
「え?」
急な質問で頭が真っ白になる。なぜこのタイミングでそんなことを聞いてくるのかが分からない。からかわれているのだろうか。
「好きかって……唯、からかわないでよ」
答えるのが照れくさくて目を逸らそうとしたが、それは出来なかった。彼女の表情があまりにも真剣だったから。
「……」
答えはずっと前から変わらない。八年前の春に別れたときから一日だって目の前の少女のことを忘れたことはなかった。
「……好き、だよ」
震えそうになる声と逸れそうになる視線を押さえて答える。短い言葉なのに口にするだけでどっと疲れた。
「……えへ、えへへ、嬉しい」
オレの答えに唯は表情を明るくする。プレゼントをもらった小さな子供のように目を輝かせていた。
朱色に染まった少女の顔はとてつもなく愛らしいし、彼女も自分のことを好いてくれていることが分かって嬉しかった。それなのになにか、曲がり角の向こうに恐ろしいナニカが待ち構えているような、嫌な予感がしてならない。
「でも、今の私じゃないんだよね?」
冷たい言葉とともに表情がなくなる。宝石のように輝いていた瞳からは光が失われて、ガラス玉みたいに空虚なものに変わり果てていた。
「え……?」
「翼が好きなのは明るくて、優しくてアナタを助けてくれた女の子でしょ。陰気で泣いてばかりいる私みたいなのはいらないんだよね、分かるよ。私だっていらないもん、こんなの。昨日だって私が昔と同じならあんな風に美月を傷つけるようなこともなかったし、みんな嫌な思いをせずに済んだのに」
憎悪のこもった声が暗い部屋の中に響く。その感情は他の誰でもなく彼女自身に向けられていた。
「違う……」
「違わないよ。私が昔のことを覚えていないから、昔の私じゃないから翼は悲しそうな顔をするんでしょ。ちゃんと気づいてたんだから」
「それはっ……そんなつもりじゃなくて……」
口にしてから自分がとんでもないミスをしたことに気づいた。どんな形であれ彼女の自己否定の言葉を肯定してはいけなかった。
「そうだよね! やっぱりそうだったんだ!! 私なんかでもそれくらいは分かるんだ!!」
壊れた笑い声が頭の中にこだまする。最後の一押しは自分の手でなされてしまったのだという事実で頭が真っ白になる。
「今は我慢してくれてもきっとすぐにいらなくなっちゃうんだ。捨てられちゃうんだ。でも私そんなの耐えられない」
「そんなことない!! ……どうしてっ……分かってくれ……」
その先は言わせてくれなかった。舌がもつれる。頭にノイズが走る。麻酔をかけられたみたいに全身の機能が麻痺していく。
「……あ、え?」
乱雑に包帯を巻かれた小さな手がオレの首に触れていた。細い指はゆっくりと血管を撫でている。
「だからね、『忘れて』。今の私のこと、全部」
小さな囁き声、それだけでバットで頭を殴られたような凄まじい衝撃が頭の中に生じた。目眩はさらに激しさを増してきた。意識が、バラバラと崩れていく。
消えそうな意識でも何が起こったているのかは辛うじて把握できた。触れた相手の心を操る唯の力。それが自分に向けられている。
しかし原因は分かっても目的は分からない。一体何をするつもりなのだろうか。
「っ何、する……気なん……だ」
ひやりとした指はオレのうなじを張っていた。そこから苦痛と愛情がないまぜになった、どろりとした思念が流れ込んでくる。
とうとう立つことすら出来なくなって、へたり込んだ。唯もそれに合わせて屈み込む。
「安心して。私が記憶喪失だっていうことと“この”私との記憶を忘れてもらうだけだから。どうせ私は迷惑しかかけてこなかったんだから忘れてもなんともないでしょう?」
あっけらかんと残酷なことを言ってのける。自分自身のことをどれだけ嫌っていればこんなことが言えるのだろう。
「同じ手なのに少しも料理できなかったよね。同じ声なのに退屈なことしか喋らなかったよね。同じ顔なのにいつも暗かったよね」
ごめんねと、何度も何度も口にする。そのたびに胸が抉られるように痛んだ。
「なんだよ……それっ……違うって……言ってる……のに」
涙交じりの情けない声しか出てこない。それくらい悔しかった。確かに唯がオレのことを忘れてしまったことは悲しかった。けれどだからといって昔に戻ってほしいとか、ましてや今の唯が昔より劣っているなんて考えたこともなかったのに。
「もう一度だけチャンスをちょうだい。目覚めたときにはアナタが望んだ本物がいるから。私、頑張って演じてみせるから」
「……あっ……ゆ……」
言いたかった。そんなこと望んでいないと。けれどもう名前すら呼ぶことが出来ない。全身が弛緩してしまって舌はおろか指一本すら動かせなかった。
唯はオレの首から手を離して、そっと胸に飛び込んだ。心底愛おしそうに顔を胸に押し当てている。
「だから、ずっと一緒にいてね」
オレは唯のことが好きで、唯もオレのことを好いてくれている。想い合っているはずなのに、こんなに近くにいるのに何故こうなってしまうのだろう。どこで間違えてしまったのだろうか。もう、取り返しはつかないのだろうか。
いいや、まだなにかやれることはあるはずだ。考えろ。今の唯の望みは決して彼女を幸せにしない。もしここで全てを忘れてしまったら、唯はずっと一人で苦しむ羽目になる。
理想の自分を演じて、それを相手に信じ込ませることが出来たとしても結局はウソだ。相手を騙すことが出来ても自分自身は騙せない。
抗おうとしても、押さえつけられるような感触とともに意識は薄れていく。
そんな時、一つのアイデアを思い付いた。役に立つかは分からない。だがもう考えている時間はなかった。
夢見心地のまま手を動かす。僅かに痛みを感じて、そして
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