彼の頬を伝う涙を目にしたとき、私の心は大きく揺らいだ。
だってあれは
でも、もうそんなことは二度と起きない。だって彼の中に再会してから二ヶ月間の私に関する記憶はもう消してしまったのだから。今はまだかすかに覚えているようだが、直に全て消えるはずだ。どんな記憶も時間は全て持ち去っていく。
「ごめんね。ご飯作るの任せっきりで」
「左手怪我してるんだろ? 全然平気だから気にしないで」
今の私ではまともに料理を作ることも出来ない。だから怪我をしているという『設定』
にした。実際に手首を自分で抉ったんだから嘘ではない。
ずっとこのままではいけないから、練習をもっとしないと。音羽唯は料理が上手な女の子なんだから。出来ないなら偽物になってしまう。
「…………」
「どうしたの、唯?」
「っ! ううん。なんでもないよ!」
震えていた手を隠して明るい声を出した。
お昼に彼が作ってくれたのはうどんだった。とろみがあって柔らかな味付けがしてある。丸一日なにもものをいれていない胃を驚かせないようにわざわざこれを選んでくれたのだ。さっき彼に触れた時に読み取れた。
ここまで尽くしてくれた彼にこんなことをするのは裏切りとしか言い様がない。彼の本当に大切な人になりすましているのだ。もしバレるようなことがあればきっと許されないだろう。そんなことは有り得ないが。
「あ、唯。知り合いから映画のチケット貰ったんだ。よかったら、その、見に行かない?」
平静を装っているつもりなのだろうが、目が泳いでいたし言葉も途切れ途切れになっている。いつも落ち着いている彼らしくない仕草だった。
そんな珍しい姿を見せてくれるのもきっと昔の私を演じているからだろう。私なんかに彼が照れる道理はない。
話を聞いてみた所どうやら恋愛映画のようだ。テレビやネットでも広告が流れていた。思えば私は映画館というものに行ったことがない。この手の話を見たことも。少し興味があった。
それに明日はクリスマスイブだ。恋人ならデートするのが普通だろう。断る理由はなかった。
「…………うん。ありがとう」
今度こそは彼を嫌な思いにさせちゃいけない。ちゃんと、しっかり、完璧に振舞わないと。
頬をかくような仕草をしている最中、彼が突然怪訝そうな顔をして手の動きを止めた
「あれ、でもどうして映画の半券なんて貰うことになったんだ? アイツとそんなに仲良かったかな?」
なにかまずい。反射で手に力がこもった。
「……そういえばなにか大事なことを話したような……?」
「翼」
近づいて彼の頬に触れる。心を探ると茶髪の少年が笑っている姿がぼやけて見えた。どうやらこの人物は私の事情を翼から聞いているらしい。記憶が中途半端に残っているのはそのためか。
私が翼から消したのは昨日起こった全てと二ヶ月前に再会してからの”記憶を失くした音羽唯”との記憶。だから私以外の人間と私の話をしていたのなら覚えていても不思議ではない。
今の内に修正しておこう。記憶が戻ることはないと思うが可能性の芽は潰しておかなければ。
「これはアナタが買ったものでしょ?」
「いや、これは……」
「違うよ。前から約束してたよね。クリスマスイブは一緒にデートしようって。だから映画のチケットを取ってくれた。そうだよね?」
「……そうだったかな? そうだった……ような気が」
私が今話した内容を頭に刷り込ませた。代わりの話を埋め込んでおけば記憶の齟齬も起きない。
いずれ少年の記憶も消しておかなければいけない。美月のもだ。私のことを知っている人間は全員例外なく。
手を離して翼に微笑む。鏡で何度も練習したからきっと自然に見えるはずだ。
「映画、楽しみだね。翼」
「ああ、うん……」
翼は少し疲れたような表情を見せた。記憶を弄られるのは負荷がかかるのだろうか。私自身この力を試したことがあまりないから詳しいことはよく分からない。誰か罪悪感を抱かないで済むような、都合のいい人間がいないものだろうか。
人の記憶を弄ぶなんて悪いことだとは分かっている。けれど、これは全部翼のためなのだ。
幼馴染みと何年も離ればなれになって、やっと再会しても自分のことを覚えていない。おまけに暗くて、自傷癖があって、何から何まで気を遣わないといけないような人間に変わってる、なんて冗談にも程がある。
そんな現実なら、嘘の方がまだマシだと、翼だって思うはずだ。
「疲れているのかな? 早く休んだ方がいいよ。洗い物は私がやっておくから、ね?」
「……うん。ありがとう」
部屋の中に翼が入っていくのを見送って、ようやく作り笑いを引っ込めることが出来た。弾みに大きく息を吐いてしまう。
洗面所の大きな鏡と向かい合う。そこには相変わらず陰気でくたびれた顔が映っていた。
こんな辛気くさい顔を恥ずかしげも無く見せていたという事実が腹立たしくて仕方が無い。
「……嫌い」
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