悲観主義者でも空は青い   作:無知無知

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間違い探し その一

『おめかしするから待っていて』

 

 という可愛らしい頼みを受けて、唯を待つことにした。なんでもとっておきの服があるそうで、ギリギリまで隠しておきたいらしい。

 

 今オレは待ち合わせ場所としてこの辺りでは有名な金時計の下にいる。同じ家に住んでいるのにわざわざこんなことをするのは雰囲気を出すためだろうか。

 

 本当ならどんな服で来るか、それを気にするべきなのにオレの頭は全く別のことを考えていた。

 

「これ、なんなんだ?」

 

 左の袖を捲ると包帯が巻いてある。傷は大方治ったが、まだ多少痛んでいた。

 

 昨日からずっと気になっていた。何故自分でこんなことをしたのか。なにか猛烈に嫌なことでもあって、衝動的にとかだろうか。

 

「……そんなことがあるなら覚えてるだろ」

 

 嫌なことだから忘れた? いや、人の頭というのはそう上手く出来てはいない。忘れようとすればするほど、その手の記憶はこびりつくものなのだ。

 

 本当に不可解だ。何度考えても動機が思い出せない。余程のことがなければ自分で手首を抉るなんてしないはずなのに。

 

 唯に相談すべきだろうか。彼女の心を読み取る力があればなにか原因が分かるかもしれない。

 

 しかし、自分でも分からないが教えてはいけないという警鐘が頭の中で鳴り響いている。

 

 どうして彼女を警戒しているのだろうか。ずっと好きだった女の子の筈なのに。

 

「翼、待たせちゃってごめんね」

 

 息を切らした甘い声が人ごみの中から聞こえてくる。顔を上げると待ち人がようやく姿を現していた。

 

 思わず息を呑む。仕立てのよいコートにスカート、それに頭に載せているベレー帽、白を中心にまとめられた衣装。大人びたコートと幼さを感じさせる帽子が組み合わさって、成熟した女性の色気と無邪気な子供らしさを両立させていた。

 

 素の彼女も好きだが着飾った彼女も新鮮で可愛らしい。素がいいのだということを改めて思い知らされた。

 

「……本当に綺麗だ」

 

 気がついたら自然と口から零れでていた。しまったと思ったが後の祭り。唯には聞こえてしまっていたみたいで驚きに目を見開かせている。

 

「ふぇ!? あ、ありがとう」

 

 素っ頓狂な声を上げて照れる彼女を見て、自分がやらかしたことに気づいた。思わず目を逸らしてしまう。こんな馬鹿正直に臆面もなく口にするなんて我ながらどうかしている。穴があったら入りたい。

 

「い、いや、それにしてもそんなの持ってるなんて知らなかったな。いつ買ったの?」

 

 なんとかして誤魔化そうと照れ隠しで放った質問は何故か彼女の顔を曇らせた。そして、少し悩むようなそぶりを見せてから口を開く。

 

「美月が……買ってくれたの、翼が好きそうな服を教えてあげるって」

 

 二度と会えない誰かを想うような、寂しそうな声だった。背を向けてどこか遠くに視線を遣っている。

 

「……え?」

 

 小さく漏らした驚きの声は唯には聞こえていなかったらしい。彼女はオレの方に振り向かなかった。

 

 美月が唯に服を……? そのことが妙に引っかかった。昔から美月は口もロクに利かないくらいに唯を嫌っていたのに。引っ越すときも挨拶をしなかった。

 

 それにあの呼び方。唯は一度として「美月」などと呼び捨てにはしなかった。「お姉さん」、「美月さん」そういった慇懃な呼び方をしていた。ましてやあんな風に強く感情を込めることなど。そんな仲ではなかったはずだ。

 

 あの時別れてから二人の仲が縮まったのか? しかしそんな話を二人から聞いた覚えが……

 

「……あれ?」

 

 その時ようやく気付いた。八年前のあの日から今に至るまでの記憶がほとんどない。

 

 手首の傷を見た時にオレは疑問に思った。自分の手首を素手で抉るなんてことをしたからには相当嫌なことがあったはずだ、何故忘れているのだろうと。

 

 忘れているのはそれだけじゃない。いいこともなんでもないことも、何もかも思い出せなくなっている。母親の実家に引っ越したはずのオレが何故ここにいるのか、今いる学校を選んだのか、ソレすらも思い出せない。

 

 ここ最近の記憶も朧気だ。無趣味で空虚な生き方をしていることは自覚しているが、それにしたって二日前、三日前、直近の記憶すらない。いくらなんでも有り得ないだろう。

 

 これだけ不思議に思うべきことがあったのに、今の今までそれを疑うという発想が起きなかった。まるで催眠術かなにかみたいじゃないか。

 

「……」

 

 心を読める唯なら触れた時当然オレの異常に気づいたはずだ。しかしそのことをおくびにも出さなかった。知っていて言わなかったのだ。それどころか疑問に思わないように誘導していた素振りすらあった。

 

 加えて、人の記憶を書き換えることが出来る人間なんてどこを探しても他にはいないだろう。信じたくはないが彼女がやったとしか考えられない。

 

 記憶は人生そのものだ。自分を形作る最たるものといってもいい。それを勝手に弄繰り回すなんて。

 

 オレの記憶はどこまでが本物なんだろう。ひょっとしたらオレには姉なんかいなくて、唯と言う少女に恋したことも全て作り話だったのかもしれない。“黒羽翼”なんていう名前すら今では確かなものと思えなくなっていた。

 

 眩暈がする。地面がひっくり返って空に落ちてしまいそうな、自分という存在がバラバラになって消えてしまいそうな、嫌な錯覚が体を襲った。

 

 聞かなければ。なぜこんなことをやったのかを。そして元に戻させないと。

 

 不安と強迫観念に駆られて彼女に向かって歩を進めた。足音に彼女が振り返る。なにをするためなのか自分でも理解していないまま手を伸ばす。

 

 そもそもの話、こんなことをする人間が、目の前にいる女が、本当にあの音羽唯なのだろうか。彼女を騙った別人なのではないか。なら本物は何処に……

 

「……ど、どうしたの?」

 

 少女はどこか怖がっているような表情でオレを見上げていた。自分が機嫌を損ねてしまったのか不安でしょうがないといった風に。少しの刺激を与えるだけでこぼれてしまいそうなほど目に涙が溜まっている。

 

「あ……」

 

 廊下で目覚めた時に垣間見たあの光景が頭を過った。見捨てられるのが怖いと言って、泣いていた誰か。それを見て何を思ったのか、助けたかったんじゃないのか、ならオレは―

 

 伸ばした右手で気がついたときには頭を撫でていた。一秒でも早く安心してほしくて。

 

「……なんでもない、なんでもないんだ」

 

 どうかしていた。理由はどうあれ唯に、いや、こんな小さな女の子に手を上げようとするなんて。

 

「……つ、翼。やめてよ……こんなところで……ヘヘ……エヘヘ」

 

 手を動かすたびに彼女は身を捩じらせる。恥ずかしそうに、けれど何倍も嬉しそうに。同い年のはずなのにひと回り幼く見えた。

 

 彼女がオレになにか嘘をついていることは確かだ。オレの記憶を弄ったのも。だけど、それにもきっと何かやむを得ない事情があったのだろう。この子に敵意や悪意があるようにはどうしても見えなかった。

 

 もしそうだったとしても、こんなに嬉しそうに笑ってくれるなら記憶ぐらい好きにしてもらってもいい。そんな風にさえ思った。

 

 

 

 




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