マグカップに砂糖を入れるときのそそっかしい仕草。チビチビと舌先でコーヒーを舐めとる姿。放っておけなくて一挙一動を目で追ってしまう。唯らしくはないけれど戸惑いよりも好ましく思えた。
見知った姿をしているのにどこか未知を感じる女の子のことをもっと知りたい。そう思ってある他愛のない質問をした。
それがいけなかったのか、彼女は突然言葉に詰まり席を立ってしまった。何かしでかしたのか自問してみたがよく分からない。
化粧室から戻ってきた唯は青ざめた顔で周りをキョロキョロと見回していた。何かがあったのだろうか。
大丈夫かと聞くと、ゆっくりと首を縦に振るが、とても大丈夫そうには見えない。それで帰ろうかと聞くと、涙目になって頭を振った。仕方がないので、気持ち悪くなったら我慢せずに言うことを約束してもらった。
映画館に着いて指定された劇場の中に入ると席は半分ほど埋まっていた。公開して一週間ちょっと経ってこれなら、それなりに盛況と言えるのではないだろうか。
しかし正直自分は映画にあまり興味をそそられない。子供のころ数回父親に連れられた記憶があるだけで自分から見ようと思ったことはなかったような気がする。ましてやこんな年に何度も粗製乱造されるようなお涙頂戴の恋愛映画なんて一人なら絶対見なかった。
オレ達は最後列、中央の席に腰を下ろした。スクリーンからの距離は遠いが、画面全体がよく見える。
「もうすぐ始まるね」
「……あ、うん」
場内が暗くなりだして、予告が流れ出す。雰囲気に慣れていないみたいで、唯はそわそわと落ち着きがなかった。流れている映像よりもそっちの方が見ていて面白い。
「わ! 音大きい……」
本編が始まった。若い女性が訥々と語りだす。重い病気を抱えていて、余命が僅かだそうだ。
映画の内容は頭の中に入らなかった。反応が気になって仕方がなかったから。
オレと違って彼女は体を前のめりにして、画面を食い入るように見つめていた。元気が戻ったみたいで少し安心する。
悲しい場面があると目を潤ませ、楽しい場面になると口許を綻ばせる。嫌味な登場人物が出てくると眉を怒らせる。
「……」
オレの知っている音羽唯はいつも笑っていた。雨が降ろうと、嵐が来ようと、雷が落ちようと表情は変えない。うっすらとした笑みを浮かべるだけ。美月は唯のそんなところを嫌っていた。
それに比べて今隣にいる彼女は本当に表情が豊かだ。まるで、そう、別人のように―
別人、その言葉を思い浮かべた途端、胸がざわついた。それと同時に記憶の底からある言葉が顔を出した。
『だって今の唯ちゃんと昔の唯ちゃんは違う人でしょ?』
誰かが、そんなことを口にしていたような気がする。アレは誰だったのだろう。
別人のようだとは思ったが彼女の身体的特徴はオレが知っている音羽唯のモノと一致している。変装にはとても見えないし彼女に双子の姉妹がいたという話も聞いたことがない。見せる仕草や表情に違いがあってもはっきり別人だと断言できるほどではなかった。
枝葉ではなくもっと根本の、決定的な相違点はなんなのだろうか。自分はそれを確かに知っていた筈なのだけれど、考えるにしてももう材料がなかった。なにか手がかりをつかむためにもう一度唯の体を見つめる。頭の上からつま先まで隅々と、決していやらしい意味ではない。
「あれ……」
観察してみて大きな違和感に気づいた。なぜ今まで気づかなかったのか不思議なくらいだ。
彼女の口を押えている左手、白い手袋がつけられていることに。室内でしかも暖房が利いているというのに彼女は手袋を外していない。
ここだけじゃなく家や喫茶店でもそうだった。一体何が理由でこんなことをしているのだろう。
寒くないのに手袋をつける理由……一体何なのか……
雨粒が地面に落ちる音が館内に響く。山場なのだろうか。バシャバシャを水を蹴とばす音も聞こえる。しかし主役の名前すら記憶していないのだから関心は持てなかった。なにより今はもっと大切なことがある。
「なにかを隠すため……?」
そういえばオレ自身手首の傷を隠すために左の袖を普段より伸ばして服を着ている。行動には移さなかったが手袋をつけてみようかと思ったことすらあった。
「左……」
オレが彼女から隠そうとしていたのも左手。彼女が隠しているのも左手。これは偶然なのだろうか。
思い返してみるとこの傷がオレに異常を知らせ、自分の記憶が改ざんされていることに気づかせてくれた。それは偶然じゃなくて、元からこの傷は記憶を失ったオレへのメッセージだったんじゃないのか。
その時オレは何を考えていたのだろう。オレが自分自身に残したこの傷の意味はなんなのか?
彼女が手袋を外さないのは何か隠したいものが、傷があるから―
確かめるために右手をそっと彼女の左手に這わせたゆっくりと手袋を脱がした。映画に夢中だったので気づかれずに実行するのは容易かった。
「ああ……」
手首には包帯がぐるぐると巻いてある。その下には見ていられないぐらいに深くて痛々しい傷があることをオレは既に知っていた。
自分の手首に傷をつけたあの時、特に考えがあった訳ではなかった。痛みで眼が醒めればいい、それぐらいの気持ちだった。
結果的にそれが功を奏した。左手首、唯と同じ箇所の傷が記憶を呼び起こしてくれたのだ。
全部思い出した。八年前に音信不通になったこと。ずっと唯を探していたこと。二月前にようやく再会したこと。一昨日の動物園のこと、オレの膝の上で泣きじゃくっていたこと、全部。
「思い出したよ。唯」
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