動け動け動け動け動け動け。そう頭の中で百回ぐらい念じた頃だろうか、ようやく体の自由が利くようになった。汗で体中がべったりと濡れている。
「早く追いかけないと……」
唯に金縛りをかけられた後、どれくらい時間が経っただろう? 大した時間ではないと信じたいが、体感的には一時間、いや、それよりも長く感じた。
けれど、正面に向き直ると、映画はさっき見た場面から大して話が進んでいなかった。これなら大丈夫そうだ。
小走りで館内から抜け出し、唯の姿を探す。遠いところに行ってしまったのではないかと危惧していたが、入り口の前にあるエレベーター、そこを降りた直ぐ先に唯はいた。地面にへたり込んでいる。いったいどうしたのだろう。
彼女の傍をただ通り過ぎる人もいれば、好奇の目で無遠慮に見つめているものもいた。見ていられない。
すぐに連れ出そうと近寄ったその時、
「……キライ。消えちゃえばいいのに」
小さい呟きが聞こえた。タイヤが擦れる音、人の話し声、統一感のない足音、日常にあふれる雑音に負けてしまいそうなか細い声だったのに、数メートル離れたこの場所からでもはっきり聞こえた。多分周りにいる他の人たちも全員聞こえていたと思う。そんな奇妙な確信があった。
突如悪寒に襲われる。胸が苦しくて全身の力が抜けていく。さっき味わったあの感覚だ。
「ま、たか……!」
どうしてだ。唯には触れられていないのに。そう疑問に思った直後異様な光景を目にした。
周りの人間全員が彫像のように固まっている。この現象は唯が引き起こしたものだ。なぜ、そしてどうやってこんなことをやっているのかは分からないが、止めさせなければ。
「ぐっ……! うぅ! ッッッ!! 」
奥歯が潰れそうになるほど食い縛って体に力を入れる。この程度どうってことない。海で溺れることに比べれば十倍マシだ。
「ぁぁあっ!! ……やったっ!!」
金縛りはこれで三度目、さすがにもう慣れた。意識を強く保てば抵抗は出来る。
硬直が解けた瞬間、重心を前に傾けすぎたせいで危うく倒れそうになったが、そのまま勢いを生かして唯の元に駆け寄った。
「唯! 今すぐ止めるんだ」
「…………」
肩を揺すっても、彼女は何も答えない。人形のように力が抜けて、無感動に地面を見つめている。死んでいるんじゃないかと思ってしまうほどに瞳に生気がない。
固まっている人たちの数は、十、いや、二十数人といったところか。まさか一生このままなんてことは……
何かが擦れるような大きく高い音が聞こえてすぐに、ドン! と強い衝撃が体に響いた。車がガードレールにぶつかったようだ。オレたちの座っている場所から十歩歩けば届くほど近い。
立ち上がって運転手の安否を確かめる。生きてはいるようだが、ほかの大勢の人たちと同じで虚ろな表情をしていた。
この異常はどこまで広がっているのだろう。いつまで続くのだろう。少なくとも目に届く範囲にいる人間は例外なく固まっている。今の事故は犠牲者が出なかったが、もしもっと大きな車両、例えばトラックやタンクローリーみたいな大型車の運転手が気絶したりしたら……
考えるだけで冷や汗が出てくる。何人が犠牲になるか分かったものじゃない。
「早く止めてくれ……こんなことがしたいわけじゃないだろ!」
もう一度しゃがんで、唯の手を握った。目を覚ますように必死に念じる。
彼女は人を傷つけてしまうことが多い。意図してのことじゃない。取り乱すと周りが見えなくなる性格と彼女の持つ力がそういう結果を招いてしまう。
けれどそうした後はいつも苦しそうな顔をする。彼女自身が傷つけられた時以上に。部屋に閉じこもって泣いている彼女の声を何度も聞いた、赤く腫れた瞳を何度も目にした。
そんな思いはもうしてほしくなかった。難しいことだし、ただのエゴとは分かっているけど、出来るだけ笑ってほしい、辛い目には遭ってほしくない。
「……だから、起きてくれ」
抜け殻のようになった体を抱きしめて願いを口にした。
体がプカプカと漂っている。何も見えないし、何も聞こえない。深海や宇宙みたいに、真っ暗で静かだ。
こんな場所なのに少しも不安はなかった。いや、だからこそと言うべきか。
ここには何もない。私を傷つける奴らはいないし、私に無駄な希望も抱かせない。ただ安寧だけが満ちている。
ここがどこかは分からないし、帰り方も分からないけれど、それも問題じゃなかった。自分の意志でここに来たことだけは覚えていたからだ。
「……最初からこうすればよかった」
ここに来る前の自分はいつも他人に傷つけられて、いつも他人を傷つけていた。欲しいものを手に入れることなんて滅多になくて、その癖指がかかった時には決まって自分でダメにしてしまう。
なら何もないところで閉じこもっていた方がずっといい。他人も自分も誰も傷つかない。平和そのものだ。
体の力を抜いて流れに身を任せた。この空間に時折流れる波は、揺り籠のように私を心地よく揺らしてくれる。
目を閉じる。疲れた。
けれど、安寧は長く続かなかった。無音の空間になにかが落ちてきたのだ。一つや二つじゃない。数十個の重い物体がゴボゴボと泡を立てながら辺りに沈んでいる。
目を凝らして見るとそれは人間だった。服装も年齢もバラバラな集団。誰もが虚ろな目をしていて、沈んでいくことを気にもかけていないみたいだった。その異様さに落ち着いていた気持ちがまた波立つ。
さらに注意深く見ると彼らの体からは皆等しく黒い糸が伸びている。どこに延びているのかは目で追ううちにすぐ気づいた。
「……え?」
私だ。落ちてきた人達の身体に括り付けられている糸は私の身体に繋がっている。今まで気づいていなかったが私の身体は蜘蛛の巣に絡め取られたようにびっしりと黒い糸に覆われていた。
「なにこれ……?」
糸の存在を知覚した途端背筋に冷たいものが走った。頭の中にたくさんの声がこだまして割れそうになる。
『出して』、『体が動かない』、『助けて』そんな悲鳴ばかりだ。
うるさい。うるさい。こんなところにまで来るな。耳障りだ。私には関係ない。そんなことを口に出そうとした瞬間、直感が囁く。私の愚鈍さを笑うように。
ここに彼らを呼び寄せたのは私だ。今起きていることも全部私のせいなんだと。
「……もう! またなの……!?」
絡みつく糸を千切ろうとしてもびくともしない。それどころか段々と締め付けがキツくなっている、
更に体が加速度的に沈み始めた。きっと重石が増えたからだろう。ただでさえ無明に近かった景色が更に暗く重いものになっていく。呼吸が出来ない。まるで溺れているみたいだ。
どこまで落ちていくのか、この苦しみはいつまで続くのかそれを考えると恐怖が止まらない。必死に藻掻くが沈む速度は増す一方だった。
藻掻き続けても状況は全く好転しない。だから動くのを止めて沈むのに身を任せた。恐怖がなくなったわけじゃない。それ以上に諦念が上回ったのだ。
逃げ続けてもいいことなんてないって分かっていた。辛くても踏みとどまってやり直すしかないことを知っていた。それを無視し続けた果てにこの結果がある。自業自得。文句などつけようがない結末だ。
私の愚行に巻き込まれた人たちには申し訳ないが一緒に沈んでもらうより他ない。だっていくら引っ張っても取れないんだよ。この糸は。
そんな時真っ暗だった景色に明かりが差した。薄っすらと頼りない月明かりのような光。それが真上から降り注いでいる。
「もうやめてよ……」
なんで私をまだ助けようとするのだろう。迷惑をかけてばかりで何もできないのに。そうやって優しくするからまた期待してしまうんじゃないか。
目を閉じて、無視しようとした。それでも瞼を貫いて光は自分の存在を私に強く主張してくる。
誰かが、彼が私を呼んでいる。あんなに酷いことをしたのに、まだ私を助けようとしてくれている。
「───あ、あ、うっ、ううっ」
嬉しい。嬉しくて、情けなくて涙が止まらない。人を傷つける度に逃げ回って、閉じこもって、なのにいつも助けが来るまで待っている。今だってそんな自分を消すためにこんなことをしたのに、結局私は縋ることを止められない。
現実が私を待っている、怖くて思い通りにならない歪みまみれの現実が。でもやり直すためにはそこに行かなければならない。
もう一度罪を償うためにも私はやり直したい。今度こそ自分の間違いに向き合いたい。謝りたい。そのために手を伸ばした。
光に向かって手を伸ばすと、私の体はふわふわと上に向かって浮かんでいった。
「あ……」
目を覚ますと、誰かが私の手を握っていることに気が付いた。大きくて温かい。他の人と違って気持ち悪くない心。
「目が覚めたんだ。よかった……」
翼が心の底から安心したような声を出して、私の瞳を覗く。いつもと同じ真っすぐで優しい眼差し。その視線に対して顔を俯けることしかできなかった。
「…………」
戻ってきたはいいものの何も言葉が出てこなかった。何を言えばいいのだろうか。そうだ、謝るんだ。そのために帰ってきたんだから。
「……翼、私……」
突然何かが倒れる音を聞いた。それも一つだけじゃない。音は何十回も立て続けに鳴り響く。ドミノが連鎖的に倒れるときのあの感じによく似ていた。
音の方向を向くと、大勢の人が頭を抱えて倒れていた。私を携帯で撮っていた人も、指を指していた人も、ただ歩いていただけの人も皆。
「唯、まだ立っちゃ……」
手を振りほどいて立ち上がり、辺りを見回した。車が煙を上げてガードレールの傍で止まっているのが見えた。横断歩道を越えた先でも大勢の人が倒れているようだ。
あの黒い空間の中で私と一緒に沈んでいた人達、あれはやっぱり意味のない夢なんかじゃなくて現実とリンクした幻だった。私が呪いめいた言葉を吐き出した時に彼らも一緒にあの空間へ引き込まれたのだろう。
「……私がやったんだ……」
歩行者だけでなく自動車に乗っていた人達まで気絶していたとしたらとんでもない事故が起こっていてもおかしくない。今更ながら自分のしでかしたことの重大さに気づいて臓器が縮まるような感覚がした。
「……死人は出ていない。保証する」
嘘だということはすぐに分かった。彼だってすべてを把握してるわけじゃない。目の届かないところで誰かが亡くなっているかもしれないということを、内心気付いているのだろう。彼の心の揺らぎを感じる。
こんなことするつもりじゃなかった。いや、それは言い訳だ。消えてしまえ、と呪詛の言葉を口にしたくせに。こんなことするつもりじゃなかった? ならいったい何のつもりであんなことを言ったんだ。あの時私は間違いなくこの状況を望んでいただろう。
「…………」
「帰ろう。唯」
差し出された手を私は呆然と見つめる。みっともない真似をしてでもやり直そうと思っていたのにもう挫折していた。消えてしまいたいくらいに自分でいるのが嫌だ。
「……帰れる、わけない」
翼は困ったような顔で笑って、口ごもる。私を説得する言葉を探しているようで、しばらく黙った後もう一度口を開いた。
「その、本当にオレは怒っていないんだ。オレの記憶は戻ったし、なんでこんなことをやったのかもよく分かるから。オレにしたことで気に病んでるなら、その必要はないよ」
「“気に病んでるなら”って、気にしないわけない……」
「そうだよね、ごめん……」
謝るべきなのは私なのに、なんでここまでお人好しなんだろう。腹が立つ。訳が分からなくてイライラする。
「……分からない、分かんないよ……なんで……私にここまでしてくれるの……?」
どうしてここまで親身になってくれるのか分からない。迷惑をかけてばかりで、ゴミみたいな性格をしている私になんで付き合ってくれるのか。
翼には何度も触れてきたけれどその理由が私には判然としなかった。思考や感情を読めると言っても、その時に考えていることなら別の話だが、それは曖昧模糊としたものではっきりと言語化できるようなものではない。だから彼が私に好意を向けてくれていることは分かってもそれ以上のことはよく分からない。
「ねえ、答えてよ……」
密度の濃い時間だった。唾を嚥下する喉の動き、微かに揺れる眼差し、強張る体。彼が起こす細かな動作全てに気づけてしまうほど強く見つめて答えを待つ。どんな答えを望んでいるのか自分でも分かっていないけれどただ聞きたかった。
「それは」
躊躇うように目を伏せてゆっくりと口火を切った。けれど割り込むように突如、ぞわりと刺すような冷気が周囲に広がった。嫌な汗がこめかみを伝ってくる。首を回して、その怖気の元を向くとあの黒い影が立っていた。
「……ハハ」
こんなときにまで幻覚が現れるなんて。もう私の頭はどうかしてしまったのかもしれない。乾いた笑みがつい零れた。
「……なんだ、あれ?」
翼の呆然とした低い声。視線は私と同じ方向にある。
「……翼も見えてるの?」
私だけにしか見えない幻だと思っていた。あの黒い怪物は一人でいる時しか現れなかったし、突然現れて突然消えるから。
倒れていた人達も皆、影のほうを向いている。怯えて腰を抜かしているか、それか立ち上がって後退りしているかの二種類だった。
影は私達の方を向いて、消えた。そして、目前に現れた。突然の息遣いが感じ取れるほどに距離が近いのに命の気配がこの怪物にはまるでなかった。
『…………』
以前と違い何の感情もない瞳。品定めをするように、機械的に私をみつめているだけ。
翼は私の体に腕を回して、大きく後ろに下がった。こんな状況なら私ほど臆病でなくとも距離を置くのは当然の反応だ。しかし、
「え?」
怪物は私達に背中を向けた。その視線は人混みの中に移っている。そしていつの間にかその右手には黒く大きな凶器が握られていた
「何を持っているんだ、アイツ……?」
本体と同じく黒くぼやけているが私はそれがなんなのか分かった。いや知っていた。
「鋏……」
大きくて、分厚い、薄汚れた鉄の塊。街中で突然見た白昼夢の中でそれを手にしていたことを覚えている。あれを持って私は女の人の首を……
「……あ」
あの怪物が何をしようとしているのかをようやく理解して間抜けな声が漏れた。
黒い怪物はゆったりとした足取りで人混みに近づき、その中にいる一人を見下ろした。若い女の人だ。黒い髪の中に白いメッシュが入っている。
“え、私? ”
声は届かなかったが、そう言っているように感じた。遠く離れているのに恐怖と困惑が自分のモノのように伝わってくる。
女の周囲の人間は散り散りになって駆けだした。けれど当の本人は腰が抜けてしまっていてその場から動くことすら出来ない。
夥しい量の黒い糸のようなものが怪物の体の中から湧き出る。それは爆発的な速度で広がり、無防備な女の体を捉えた。
糸は軽々と女を宙に吊るす。その光景はどこか絞首台にかけられた罪人のようにも見えた。
「や、いやぁ! たす……たすけ……ゆるしてぇ!」
腹の底から絞り出すような悲鳴。涙と鼻水に塗れた顔。足をじたばたとさせながら、必死に体の自由を取り戻そうとしている。
しかし群衆は誰一人として怪物と女に近づこうとはしない。巻き込まれたくないからか、今起きていることを現実として認識できていないのか、あるいはその両方か。
恥も外聞もかなぐり捨てた命乞いの叫びに対して怪物は声をあげて応じる。おかしくてたまらないとでも言っているような笑い声だった。眩暈すら感じさせる大きく耳障りな音が駆け巡って周囲の人間たちは皆耳を抑えて蹲ってしまった。
そんな中で私だけが目を閉じることも耳を塞ぐこともせず怪物を見つめ続けた。怖くなかったわけではない。何かがひっかかったからだ。アレは本当に―
「止めろ!」
ぼんやりとした思考を強い声が断ち切る。翼が立ち上がって走り出した。肉食獣のように素早く、軽さを感じさせる動きだ。瞬く間に距離を詰めていく。
それでも間に合わないという確信があった。翼が遅いからじゃない。距離が遠いからでもない。きっと私たちの目と鼻の先で、同じことが起きたとしても、隕石があれの頭上に降ってきて、その頭を砕いたとしても、女の人はきっと助からない。
あの影には強い意志があるからだ。なにがなんでも殺してやろうという、狂気じみた執念を怪物は持っている。
翼が影のもとまで文字通りあと一歩という距離まで近づいたとき、それは起きた。起こってしまった。
肉が裂ける水っぽい音、骨が断たれる破砕音、そして視界を埋め尽くす真っ赤な液体。
「あ」
首が落ちた。鋏で落とされたのだ。胴体から離れた首は地面をころころと転がった。絶望的な表情を顔に張り付けたまま。首の後を追うように胴体も地に落ちた。首を切られた直後ほどは出血の勢いは激しくないが、それでも多量の血液が切断面から流れ出て、道路を赤く染めている。
「…………え? ……え? ……え?」
あまりにも現実味のないことで、頭はそれを否定しようと必死だったけれど、頬にはねた赤黒い血がそうさせてくれなかった。
転がった首と目が合った。生まれつき、視線だけでも何かしらの感情は読み取れる、けれどあの光が消えた目からは何も感じない。体が空っぽの抜け殻になること、それが死ぬっていうことなんだ。
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