なぜいきなりあんな怪物が現れたのか、唯の言葉の意味は何だったのか、どちらもまるで分からないが反射的に駆け出した。人が危ない目に遭っているのは確かだ。考えるのは助けた後でいい。
間に合う。怪物のすぐそばにまで近づいたとき、そう思った。アイツはこっちを見ていないし、鋏をもって両手が塞がっている。よしんば、オレを認識できていたとしても、突き飛ばすのはそう難しくないことだと油断した。
けれど誤算が一つだけあった。手が塞がっていれば抵抗できない、人間ならそうだろう。でも相手は怪物なんだ。そんな常識ぐらい無視できることを念頭に置いておくべきだった。
「っ!!?」
女性を吊り上げていた黒い糸の塊、その一部が鞭のようにしなって、蠅叩きのようにオレを突き飛ばす。体を宙に浮かされたが、なんとか受け身をとって着地することができた。だが、ロスタイムは致命的なまでに大きい。
「クッソ!」
顔を上げてもう一度近づこうとしたときにはもう手遅れだった。鮮血が巻き上がる。血の雨が降り注いで、目に入るすべてが赤く染まった。生温かい体液がわずかに付着したが外気に晒されてすぐに冷たくなった。一つの命が消えたことを言葉以上に雄弁に語っているような気がした。
出血の勢いが衰えたころにはもう怪物は消えてしまっていた。残ったのは無惨にも首を切り落とされた死体だけ。グロテスクなこと極まりない光景なのに吐き気はこみ上げてこなかった。首なしの死体は現実感がなさすぎたからかもしれない。ただ申し訳ないという気持ちはあった。
「ごめん……」
オレがもう少し速ければ、助かっていたかもしれないのに。謝って済むような問題ではないし、そもそもそんな資格がないことは分かっているが言わずにはいられなかった。
せめて目に焼き付けておこう。何が起こったかを忘れないために。曲がりなりにも死を見届けた人間として最低限のことはしておきたい。
死体を見つめる。首は切断されたが、頭髪は巻き込まれていなかった。首さえつなげれば棺に入った時、生きていたころと変わりない姿のまま送り出せる。遺族には何の慰めにもならないとは思うが。
もう少しの間感傷に浸っていたかったが状況はそれを許さない。悲鳴があちこちから聞こえて、すぐにそれが怒号に変わる。
群衆はパニックに陥っていた。誰も彼もが恐怖の表情を浮かべて、走っている。こんなものを見せられて平気でいられる方が異常だとは思うが、これじゃあまるで戦場か爆破テロの爆心地みたいだ。
大勢の人が互いを押しのけ合って、死体を中心に放射状に広がっていく。下手をすれば死人が出かねないぐらいの勢いだ。
振り向くと、唯は涙を流しながら無気力に膝をついている。自分の身を守ることも今の彼女にはできなさそうだ。
押し寄せる人の波に引きつぶされそうになった彼女をすんでのところで抱えて車道に出る。さっきの事故のおかげで歩道側の車線に車は走ってなかった。
無機質で甲高いサイレン音が街中に響き渡る。救急車、パトカーどちらかは分からないが、ここに近づいてきていることは分かった。
「離れないと……」
ここに留まっていたら面倒なことになるのは火を見るより明らかだ。さっさと退散したいところなのだが、公共交通機関は使えない。駅には人がごった返していると思うし、バスもこんな状況じゃ客を入れないだろう。
気が付けばここの近くはオレたち以外誰もいなくなっていた。死体から遠ざかっていく人がほとんどなのだから、当然と言えば当然なのだが。
押し殺したような泣き声が聞こえる。腕の中で縮こまっている彼女のものだった。
「……唯」
泣いているのは悲しいのか怖いのか、多分その両方だろう。ついさっきまでは普通に歩いていた人が原型を失って、ただの肉塊に成り果てる瞬間は言葉では言い表せないほど衝撃的で、惨かったから。感受性がそれほど豊かではないオレですらわずかながら手が震えていた。
「……怖い、助けて」
か細く、震えている彼女の声に突き動かされて、駆け出した。路地裏に入り、屋上に飛び移る。場所によって建物の高さはまちまちだ。隣接している建物の間が深すぎたり、高さに差が開き過ぎたりしているとスムースに移動が出来ない。なので普段から跳びやすいルートを探し、頭に入れている。日常的に通うような場所は大体制覇した。ここから家までの道筋も覚えている。こんな道楽が役に立つ日が来るとは思わなかった。
「少しだけ目を瞑って我慢してくれ」
何も考えずただ走り続ける。高さと速度のせいで、風が痛い程ぶつかって、冷気が体に染みる。それがいつも以上に気になるのはさっきのことと無関係ではないだろう。
数分ほどでマンションの屋上にたどり着く。人目につくかもしれないから彼女を下ろそうと思ったが泣き声は未だに続いていた。まだ立てないみたいだ。仕方がないのでそのまま階段を降りて部屋に向かった。幸いなことにその間他の入居者とすれ違うことはなかった。
「ふぅ……」
家の中に入ってドアと鍵を閉めた。安全圏にたどり着いて気が緩んだせいか意識せずに深く息を吐き出してしまう。
外の騒ぎはここまでは広がっていないみたいで、辺りは静寂に包まれていた。居間の窓からは月明かりが優しく降り注いでいた。それに魅かれて窓辺に近寄る。
「もう着いたよ」
そう言っても、唯はオレの腕から離れようとしなかった。抱きかかえたままその場に座る。
「唯……」
「私……私……のせい、で、死ん、じゃ……った」
涙交じりの声で唯が訳の分からないことを口にする。よほど混乱しているのか、夢を見ているような虚ろな口調だった。
「どうしてそんな風に思うんだよ?」
「だ、って消えちゃえって、私が言った、から」
「そんなことで人が死ぬ訳ないだろ」
「で、も、でも!」
堰を切ったように唯が声を上げる。見上げる顔は涙に塗れていて、月光がそれをキラキラと輝かせていた。
場違いな感想だとは自分でも思うが綺麗だった。金糸のような髪が湿った肌に張り付いている様も、濡れて揺れ動く碧い瞳も、火照って桃色に上気した頬も、苦し気に息を吐く小さな口も、その全てが可憐で愛おしい。
「皆が急に倒れたのも、私が、やったから、だし! 翼の記憶を消したのも、私、だもん!」
「だからって……」
「それなのに! なんで……私なん、かにいつまでも構うの!? 悪いこと、ばかりしかしてないのに……訳わかんない!!」
「そんなの……」
決まっている。正直なところ少しばかり頭にきていた。テレパスだというのにこの子は察しが悪すぎる。劣等感のせいで周りが見えていないのか、そんなに万能な力じゃないのか詳しい理由は分からないし、どうでもいい。
彼女の左手を握った。氷のように冷たくなった手。離れないように、離さないように指を絡ませる。
「……好きだからに決まってる。前もそう言っただろ」
彼女はこれ以上ないくらい顔を真っ赤にさせて目を見開いた。しかしすぐさま頭を何度も激しく横に振る。
「そ、そんなの! どうせ、昔の私でしょ!」
「違う! “今”のキミが好きなんだ! 表情がコロコロ変わるところも、少し世間知らずでドジなところも、背伸びしようとして失敗するところも全部!」
「…………そ、それ、全然褒め言葉になってない!」
「あれ、そ、そうかな? いや、そうかもしれないけれど!」
好きなところを並べてみたのだが、どうにも反応が悪い。言わない方がよかったかもしれない。
けど、一つだけ絶対に伝えたいことがあった。
「キミが笑っているだけで、オレも嬉しいと心の底から思うんだ。それだけじゃ、駄目かな?」
彼女を説得する言葉としては十分ではないかもしれない。それでも伝えたかった。
得があるから一緒にいてほしいとか、迷惑だから離れて欲しいとかそんな打算的なことじゃない。記憶があるとかないとか、そんなこともどうでもいい。
ただ単純に彼女の笑顔が好きだった。喜んで欲しい。悲しんで欲しくない。何をしていても彼女のことが気になって、どうしているのか考えてしまう。それぐらい夢中になっていた。
彼女は下唇を噛んで、なにかを必死に堪えようとしていた。けれどすぐ、堤防が決壊したみたいに、言葉と涙が溢れだす。
「あ、あ、うっ……うぅぅ!! ご、ごめんな、さい! ごめん、なさい! ごめんなさい! 何度も伝えてくれてたのに、怖くて、信じ、られなかった」
繋いだ手はそのままで震える背中を抱きしめる。床も風も普段なら我慢できないほど冷たいはずなのに、今は少しも気にならない。
繋いだ手から柔らかい熱が伝わって体中が暖かくなる。物理的な熱だけじゃなくて、彼女の心の温度まで伝わってくるようだった。
「好き……好き……大好き」
耳元で何度もささやく彼女の頭をそっと撫でる。長い間遠回りをしてしまったけれど、ようやく想いを伝えることができた。
不意に彼女の声が途切れて体の力が抜ける。泣き疲れて眠ってしまったようだ。ものごころついたばかりの子供みたいでとても微笑ましい。
「おやすみ、唯」
その寝顔を見ているうちにオレまで眠たくなってきた。彼女の眠気まで移ったみたいだ。床で眠りたいぐらいだが、翌朝体がしんどくなるだろう。寝ぼけた頭でそう考えた。
彼女を抱えたまま自分の部屋に入り、そのままベッドの上に身を投げ出す。女の子と一緒に眠ってしまうのは少しまずいかな、と頭の端に浮かんだが、そんな些末事はすぐにかき消えてしまった。
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