「寒いなー風邪引いたかもなー。誰かさんが池に落とさなければなー」
翼がわざとらしく自分の身体を擦っている。もうあれから六時間近く経っているというのに、少しくどいと思う。
「……自業自得。それに風邪引くほどヤワじゃないでしょ」
「そうだけど……少しは加減というものを……」
今現在私達は殺人事件も怪物のことも頭の隅に追いやってクリスマスの雰囲気を愉しんでいた。昨日の怪事件を怖がって閉じこもっている人が多いかと予想していたのだが、街は例年通り賑わっている。暢気なものだと言いたくなったが、自分たちにそのまま返ってくることに気づいて口を噤んだ。
イブを過ぎたおかげで安くなっていたケーキやチキンを買い、殺風景な家を彩るためにゲーム機まで購入した。私も彼も普段からゲームをやる人間ではないから本当に使うのか怪しい。
クリスマスにはおもちゃがないと寂しいけれど、欲しいものがない。一般的な高校生はゲーム機を欲しがるものではないだろうか。ならそれを買ってみようという、考えだ。
彼のことはもちろん好きなのだが、それを言い出したときはロボットが人間の生活を摸倣しようとしているみたいで気味が悪いと思ってしまった。
「ねえ、唯。ケーキ食べるのさ、外でやらない? やってみたいことがあるんだ」
買い物袋を両手に持った彼が少し照れくさそうに頬を掻く。外でロウソクを付けたりするのだろうか。想像してみるとなんだか楽しそうだった。
「……うん。でも、外って何処?」
「上だよ」
彼にしては珍しく得意げに声を弾ませて、薄暗くなった空を指指す。まったくもって意味が分からず私は頭を捻らせた、
三時間後
「唯、準備できたから行こう」
低い建物に挟まれた人気のない路地裏に翼の朗々とした声が響く。
ようやく意図を掴めた。なんてことはない。上というのは文字通りここより高い場所。つまりビルの屋上ということだったのだ。
家に帰って夕食を済ませた後、彼はケーキとバッグを持って外に飛び出していった。今思えば屋上にあらかじめ荷物を置いていったのだろう。
「……一応聞いておく。どうやって……上まで行くの?」
「ジャンプして」
さも当然のことのように彼は言ってのけた。私も大概だが彼もどこか常識が抜け落ちているような気がする。
高いところは苦手だ。学校の三階ぐらいの高さから下を見下ろしてもゾッとするし、足が竦む。それになぜかは知らないが昔から落下する悪夢を何度も見ている。嫌なほど鮮明な。
「大丈夫だよ。百回近く建物の上を走ったけど、落ちたのは一回しかないんだから」
「そこは嘘でもゼロって言ってよ! 落下率一パーセントって飛行機の千倍以上危ないじゃない!!」
「……だって嘘言ってもバレるし……」
色々突っ込みたいところはあったが、目を瞑って観念した。他ならぬ彼の頼みだ。最初から断るつもりはない。
それに一緒に住む少し前、と言うより直前に、屋上から落ちたところを彼に助けて貰ったことがある。昨日も抱えられて飛び回っていたし。高いところを今更怖がるのもおかしな話だ。
「……連れてって」
「え? いいの?」
「……大丈夫」
彼はゆっくりと私の身体に手を回してヒョイと抱え上げる。自分が発泡スチロールにでもなったのかと勘違いしてしまうくらい素早く胸の高さまで引き上げられた。
「……あ、でも、行く前に一つだけ約束して」
「なにを?」
「……もし足を踏み外して、落ちることになっても絶対離さないで。そうしてくれるなら……どこだって構わない」
「……分かった。約束する」
その言葉を合図に、彼は一息に六メートルはある建物の上に飛び移る。私達の周りだけ重力がなくなってしまったみたいだ。
「よし、行くよ」
動き出す。景色が次々と流れていき、風が身体を打つ。凄まじい速さだった。スポーツカーや新幹線には流石に及ばないだろうが、窓などの遮るものがない分、体感速度はそれ以上に感じる。
「うっ……わっ!」
身体がフワリと浮いたと思うと、衝撃とともに浮遊感がなくなる。ビルの隙間を跳んで着地しているのだ。そのままの勢いを活かして彼は更に助走し、跳躍し、着地する。それの繰り返し。高さがいつもと違うだけで、ずっと続く走り幅跳びのようなものだ。
相当な距離を走っているのに彼の息は少しも乱れておらず、走る速度も落ちないどころかどんどん速くなっていった。
目を薄く開くと普段見上げなければ天辺が見えないほどの高さだった構造物が、視線と同じくらいの高さに落ちていた。それだけでどれほど高いところにいるのかがよく分かる。
「……っ!」
恐怖で反射的に瞼が落ちた。心臓が早鐘のように打って背筋が凍る。直視するのは耐えられない。
「絶対落とさないから」
静かだけど芯の通った強い声だった。それを信じて彼の首に回している腕の力を抜く。身をよじらせて、下を向いた。
「きれい……」
恐ろしくもあったが、素晴らしい景色だった。暗い町並を色とりどりの光の点が照らしていて、まるで宝石が鏤められているみたいだ。そしてその輝きは都心に進めば進むほど増していく。
普通車はおろか、トラックなどの大型車ですら手の中に収まってしまいそうなほど小さく見える。巨人にでもなった気分だ。
「アハハハ!! すごいすごい!」
壮麗、爽快、荘厳、驚異的、神秘的、自分の貧弱な語彙力ではとても言い表せない程に素晴らしい景色だった。
私の笑い声に釣られて、彼も小さく笑う。とても楽しそうで嬉しそうな顔だった。
機械が出す無機質な駆動音も、他人の喋り声も、大勢の足音もなにも聞こえない。二人の笑い声だけがずっと響いていた。
超高層ビル、とまではいかなくても地上から五十メートルほど離れた、それなりの高所に今オレ達は座っている。もっと高いところにも行けたかもしれないが、彼女を抱えたままでは危険だと判断し、取りやめた。
レジャーシートにLEDランタン、毛布などを用意したおかげで室外ではあるがそれほど不便には感じない。ちょっとしたキャンプのようなものだ。
嬉しいことに今日は風も然程吹いていない。屋外でクリスマスパーティーなんて酔狂なことをやるのには、絶好のコンディションだ。
ケーキを食べ終わった後、唯は小さく船を漕いでそのまま眠ってしまった。この三日間、毎日外を歩き回っていたから疲れが溜まっていたのだろう。今日ばかりはゆっくりさせてあげた方がよかったかもしれない。
彼女はオレの肩にもたれかかって静かに眠っている。寒空の下ではその体温が何よりありがたい。
ケーキを食べる前に彼女は「おめでとうクリスマス」をとても楽しそうに歌っていた、しかも英語で。やけに発音とノリがよかったから、思い返すと今でも愉快な気分になる。やっぱり面白い子だ。
空になったケーキ箱をゴミ袋に入れている内にあるものが足りないことに気づいた。
「ああ、そうだった」
肩にもたれかかっている唯をそっと寝かして、バッグの中を探る。硬く丸い、ざらざらとした手触りのものを掴んだ。
「……懐かしいな……」
取り出してみると、それは古びた野球ボールだった。中学時代、野球部に入ったときになんとなく買ったものだ。結局、部活動の時間外に部員と練習するようなことはなくて、美月とキャッチボールをするためにしか使われなかったのだが。すぐ止めてしまったのだ。
家の中にあったアウトドア用のショルダーバッグを適当に見繕ってきたが、ボールをどうやら入れっぱなしにしていたらしい。もう使わないだろうし、今度捨てておこう。
「これじゃなくて……」
ボールを上着のポケットの中に突っ込んで、もう一度バッグに手を入れる。今度こそ目当てものを取り出した。
昼間買ったボーティブキャンドルだ。グラスの中に蝋が詰められていてなんでも数十時間も火が消えないらしい。
雰囲気作りのために買ったのだが、ランタンだけで十分視界を確保できていたから存在をすっかり忘れてしまっていた。
ふところからマッチを取り出して、火を付ける。小さいけれど、暖かいオレンジの明かりが周囲を照らした。
「……翼?」
唯が眠たそうな声をあげて、抱きついてくる。どうやら起こしてしまったみたいだ。
「……ロウソク、綺麗だね」
「そうだね」
人間の原始的な本能に起因するものだったか、揺らめく炎を見ていると心が休まるような気がする。
「……ねえ、翼」
唯は炎を見つめたまま静かに口を開いた。オレは首肯して続きを促す。
「……?」
「あの男の人、斉藤さんの心と繋がったとき、思ったんだ」
「なにを?」
「……大切な人がなんで殺されたかも分からないなんて酷いなって」
彼女の視線がキャンドルからオレに移される。どこか遠くを見ているようだけれど、虚ろなわけではない、夢を見るような眼差しだった。
「……もし、私達であの怪物の正体を突き止められたら、倒せたら、少しは残された人達の為になるかな……?」
驚いた。目の前で人が殺されそうになっているならともかく、自分と関係のない事柄に積極的に関わろうなんて発想が自分にはなかったからだ。被害者達のことを可哀想だとは思うし、悼みもするが、あくまで他人の問題であってオレが踏み入ることではないと線引きしていた。
でも、唯の性格から考えるとそう不思議がることでもないのかもしれない。彼女はとても傷つきやすくて他人との接触を怖がっているが、それはひとえに共感能力が高すぎるからだ。悪意や敵意に影響されやすいが、心の痛みにも敏感で、傷ついている人がいると放っておけないのだろう。
誰よりも脆いから誰よりも優しくなれる素質があるのかもしれない。
あともう一つ。「私」と自分一人だけじゃなくて、「私達」とオレも含めてくれたのが少し嬉しかった。
「……二人で、か。いいね。じゃあオレと唯はコンビだ」
「え?」
「唯が探偵役で、オレが助手」
「……私の方が成績いいし。妥当な配役」
「それもあるけど、唯はおっちょこちょいだからね。助手みたいな裏方は務まらないよ」
「なにそれ、ムカつく! 私そんな間抜けじゃないし」
「そうかな? 昨日だって、演技するの途中で忘れてたじゃないか。口開く度にボロが出てたし」
「その話はしないでよ……!」
首を傾けて不思議そうな顔をしたり、自慢げに鼻を鳴らしたり、諸手をあげて怒ったり、涙目になって落ち込んだり、感情の移り変わりが忙しい。
もっとからかってみたいという嗜虐心と、流石にこれ以上は止めておこうという自制心、どちらの声に耳を傾けようか思い悩んでいたところ、一陣の強い風が吹いた。
キャンドルの弱々しい明かりが吹き消され、身体から体温がごっそりと削られる。ビル風の音はまるで亡霊の呼び声みたいで、根拠のない不吉な予感が胸の中に湧き出てくる。
「……唯、寒くなりそうだからもう帰ろうか……」
「…………」
彼女はいつの間にか立ち上がってどこか遠くを眺めていた。
「唯?」
「……アイツがいる」
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