悲観主義者でも空は青い   作:無知無知

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ベランダの幽霊

 ベランダからぼんやりと外を眺めていた。約束までの間、何もやることがなかったから。空が青から赤に色を変えて、とうとう藍色になってしまうまでずっとこうしている。

 

 何を考えていたのかは覚えていない。そもそも考えてなどいなかったのかもしれない。置物のようにただ座っていた。

 

「…あ」

 

 遠くで建物の上をなにかが飛び跳ねているのが見えた。私をこの家に住ませてくれている少年、黒羽翼だ。

 

 跳んで、跳んで、また跳んだ。こうして遠くから眺めているとあまりそうは見えないけれど、本当はとても速くて目にも追えないことを知っている。

 

「………」

 

 落ちるのが怖くはないのだろうか。いくら人間離れした身体能力を持っていてもあんなに高いところから落ちれば大けがは免れないだろうに。

 

 でもそんな疑問は小さなもので、気になっているのはもっと別のことだった。

 

 私もあんな風に走れたら、何も悩まずにいられるのだろうか。空を駆けるように飛べれば違う自分になれるのだろうか。

 

「…くだらない」

 

 そんな仮定は意味がない。そもそも“たられば”自体が無意味だ。そろそろ立ち上がって建設的なことをしよう。そう思った時、突然、奇妙なモノが視界に映った。

 

「え…?」

 

 黒い靄のようなものを身に纏った、怪物としか言いようがない生き物だった。人のように二本の足で立っている。“人のように”と言ったのはソレが人間には見えなかったからだ。背中を曲げている今でも百九十センチはあるように見えるし、手足が異様なまでに細く長い。

 

 それはじっとこちらを見つめている。敵意は感じられない。何をするでもなくただそこにいるだけ。

 

 普通なら叫び声を出してもおかしくないような状況だったのに、私は少しも恐怖を感じなかった。何故か知らないが親近感を覚えたのだ。

 

 目を凝らすと黒い靄の奥に寂しそうな瞳が見える。親に見捨てられた子供のような目だった。

 

 惹かれるように私は手を伸ばした。ソレも同じようにゆったりと手を伸ばす。指先が触れあう直前に

 

 世界に音が戻った。自動車が走る音、叫び声に似た隙間風の音、凍えるような冷たさが今ははっきりと認識できる。

 

 あれは幻覚だったのか?試しに目をこすってみたが、あの怪物は影も形もなかった。

 

「あれ、こんなところにいたの?」

 

 声がした。いつの間にか翼がベランダの柵を乗り越えて私の傍に立っていた。ビルの上を走って帰るときは玄関からではなくこっちから帰ってくるのだ。

 

「…寒く、ないの?」

 

 彼が遠慮がちな声を出す。それを私は

 

「……別に、大したことじゃない」

 

 いい返し方を思い付かなかった。そもそも人との会話自体に、発声することにすら慣れていない。無愛想で会話の広げようがない最低な返答だ。気遣ってくれているというのに。

 

「そっか。ならいいんだけど」

 

 なんでもないような言葉。少しも乱れのない声。機嫌を損ねてはいないようだけど。

 

「そういえばさ、唯」

 

 彼が何かを言いかけた時だった。グーと獣が唸るような音が響く。いや、獣と言うのは正しくなかった。虫の音だ。私の腹の。

 

「……………」

 

 視線を合わせたまま沈黙だけが続く。すごく、恥ずかしい。顔だけじゃなく体中が熱かった。

 

「お腹空いてるの?」

 

「…」

 

 声は発さず頷きだけで答えた。昼間からずっとここで座っていてご飯を食べるのを忘れていた。

 

 そんな私を見て彼はフッと笑った。人の生理現象を笑いものにするとは、失礼な人だ。

 

「…なにその小馬鹿にしたような笑い方」

 

「いやごめん。なんか予想通りだなって思って」

 

 よく分からないことを言いながら翼は靴を脱いで部屋の中に入る。私もそれに続く。

 

「でもそれならご飯作るのは難しそうか。オレ急いで作るから、唯はお菓子でも食べて…」

 

「ダメ」

 

 私と彼は小さな約束をした。“一緒に夕ご飯を作る”という約束を。言い出しっぺは私なのだし今更撤回は出来ない。

 

「分かった。でもその前にお腹が鳴らないようになにか食べようか」

 

「…デリカシー」

 

 私の小さな抗議を彼は笑って受け流す。腹立たしいけどちょっとだけ嬉しかった。

 

 




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