悲観主義者でも空は青い   作:無知無知

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私が始まった場所

 消毒液のにおいが鼻腔をくすぐる。目を開けると、見慣れぬ形の照明が私を照らしていた。

 

「あれ……。私……」

 

 重い頭でなんとか記憶を探ろうとする。ここはどこなのだろうか、一体なにが起こったのだろうか。

 

 周りを見渡す。自分が寝かされているこの寝台、そこには『呼び出し』と書かれたボタンがついている装置が置かれていた。起き上がって背後の壁を見てみると『酸素供給』などと書かれた穴のようなものまである。多分ここにチューブか何かを差し込んで使うのだろう。

 

 どうやら自分は病院に連れてこられたようだ。部屋の雰囲気からして間違いない。

 

 何が起こったかも思い出した。道端で倒れたのだ。その後、誰かが私のために救急車を呼んでくれたのだろう。

 

 カーテンを開けると日は殆ど沈んでいた。もう十分も経たないうちに真っ暗になるだろう。

 

 病室……そういえば、初めて自分の母と“会った”場所も病室だった。私が“生まれた”場所と言ってもいいかもしれない。

 

 私の頭に残っている最初の記憶はこんなもの寂しい場所でのものだった。

 

 八歳の頃、頭に大きなけがを負って記憶を失った。といっても目覚めたばかりの頃は失ったことすら知らなかったから、何も違和感はなかった。ただぼんやりとしながら辺りを見ていたような気がする。

 

 頭の傷がズキズキしている中色々な人に話しかけられた。看護師さんとか、お医者さんとか、刑事さんとか。

 

『どうして怪我したの?』

 

『あの時のことを覚えている?』

 

『辛いことだろうけど、思い出せないかな?』

 

 どの質問もよく分からなくて、『分からない』としか言えなかった。そうしてると最後は皆可哀そうなものを見るような目で去っていった。

 

 しばらく時間が経ってから、綺麗な女の人がやってきた。表情は動いていないけど、体はブルブル震えていて、寒いのかなと子供心に思ったような気がする。

 

『ユイ……?』

 

 その人の声からは私のことを思いやる気持ちが一杯伝わって、だからその人のことを知りたかった。

 

『だあれ?』

 

 私がそう言うと、女の人は膝から崩れ落ちてボロボロと涙を零し始めた。その時はなんでか分からなかったけれど、すぐに入れ替わるように入ってきた看護師さんが答えを教えてくれた。

 

『あの人はあなたのお母さんなんだよ』

 

 病院から退院してそれから今までずっと、お母さんはあまり私に話しかけてくれなかった。事務的な会話ばかりで、すぐに背を向けてしまう。写真に写っている昔の私には笑顔を見せていたのに。

 

 私が忘れてしまったから怒っていたのだろうか。あの時、私が悲しませたから。でも私だって覚えていられるなら、覚えていたかったのに。

 

「……」

 

 ベッドの上から立ち上がる。本当なら誰かを呼ぶべきだったのかもしれないが、そんな気分じゃなかった。

 

 病室の椅子に着ていた上着がかけられていた。それを羽織って部屋の外に出る。誰かに見咎められるかもしれないと思ったが意外にも声はかけられなかった。皆自分の仕事で忙しいのだろう。

 

 廊下をグルグルと彷徨っている内に談話スペースという場所を見つけた。ソファが何個も置いてあって、外の景色がよく見えるように大きな窓がかけられている。公衆電話まで設置されていた。電話してもいい場所らしい。

 

 ポケットの中にある携帯電話を取り出して、翼に連絡する。彼はもう家に着いているのだろうか、私がいなくて心配していないだろうか。

 

 コール音がもどかしい。早く声を聴きたい。

 

「翼……?」

 

『えっと、唯』

 

 あまり電話することがないから、機械を挟んで聞く彼の声は少し新鮮だった。

 

「……もう家にいる?」

 

「ああ、実はまだ……って待った。唯は家にいないの?」

 

「急に倒れちゃって、今病院に……」

 

『病院!?』

 

 翼の声が裏返る。やっぱり心配してくれるんだ。胸の中に暖かい感情と僅かな痛みが広がる。

 

「……ちょっと気分が悪くなっただけで、大したことはないからそんなに心配しないで」

 

 ホントは一杯心配してほしいけど、それは言わないでおく。

 

「……そうだ。親切な人がいたの。茶髪でスラっとしてる、お喋りで変な男の子。多分、その人が助けを呼んでくれたんだと思う」

 

『茶髪、お喋り……そいつ、どれくらいの歳だった?』

 

「……え、高校生くらいじゃない、かな」

 

『へー……ふーん……』

 

 なんだか不満そうな雰囲気が伝わってくる。なにか変なことを言ってしまっただろうか。

 

「……今度お礼を言わないと」

 

『いや、そんな奴には礼を言う必要はないね』

 

「……どういうこと?」

 

『いいから、この話は終わり』

 

 まるで意味が分からないが、言われた通り口を閉じた。確かに今はそれより重要なことがある。藤田のところへ早くいかないと。

 

「……翼、藤田のことなんだけど……」

 

『ええっと、その……あのう』

 

 やけに歯切れが悪い。一体なんだというのだろう。そして電話越しに聞こえるこの風の音。彼は外にいるのか。買い物に行くと言っていたが、まだ終っていなかったのだろうか。

 

「……翼、今どこにいるの?」

 

『あーそれは……』

 

「翼?」

 

 何を隠しているのか。段々と分かってきたような。あの時から怪しいと思っていたのだ。勢いで押し切られてしまったけど。

 

「本当は買い物なんて行ってないんでしょう?」

 

『……バレた?』

 

 開き直ったような声が返ってくる。コイツ、まさか。

 

「じゃあどこにいるの?」

 

『怒らないで聞いてくれる……?』

 

「……話次第」

 

 

 

『って話なんだけど……』

 

「…………は?」

 

 自分でも驚くほど低い声が漏れた。要約するとこの男はこう言ったわけか。独断専行したあげく、犯人への最後の手がかりを潰してしまったと。

 

『えっと……』

 

「私を騙して、勝手に一人で行って、その挙句失敗するなんて……」

 

『……あはは』

 

 正直な話、失敗したこと自体はどうでもよかった。相当な痛手ではあるが、それでも仕方ないことと受け入れられる。

 

「翼言ったよね? 二人一緒って。あれは何だったの? 口から出まかせ? 嘘?」

 

『唯……オレも……』

 

「私、すごい嬉しかったんだよ。それなのに……」

 

 許せないのは、私を置いていったことだ。どうせ殺人犯と会わせるのは危険すぎるとか、そんなことを考えていたのだろうが。私を信用してくれなかったのが悔しい、恨めしい。

 

『本当にごめん。唯……』

 

「……なにそれ、今更……」

 

『傷つけたことは謝る。だけど、オレは自分のやったことを後悔してない』

 

「なっ……」

 

『……唯にあんなやつの心を覗いてほしくなかった』

 

 それだけで何が言いたいかは分かった。藤田が仮に犯人ではなかったとしても、強姦を常習的に行ってきたことには変わらない。その記憶を読むことが私の負担になることは疑いようがないことだ。

 

「……でも、だからって」

 

『分かってる。ただの我儘だ。恩に着る必要はないし、怒る権利はある』

 

 何も言えなかった。ただ黙って彼の言葉を聞く。

 

『……それに、もしやり直せたとしても、多分同じことをやると思う』

 

「……」

 

 全く反省していないみたいだけれど、噓偽りのない呆れるほど真っすぐな声で語られていた。ズルい。そんな風に言われたら、許しちゃうに決まっているのに。

 

『でもごめん。唯』

 

「……もう、分かったから」

 

 少し前まで炎のようにジリジリと頭の中を焦がしていた怒りが噓のように消えてしまった。こうなってしまってはもう文句を言う気になれない。

 

 それに次は騙されなければいいだけだ。私を置いていくような素振りを見せたらすぐに心を操って無理やりでも連れて行かせる。

 

「……えへへ」

 

『なんか怖い笑い声が聞こえるんですけど……』

 

「……そんなことより何が起きたかを教えて。それ次第ではまだどうにかできるかも」

 

 翼からことのあらましを説明された。藤田にも傷がついていたこと、犯人を知っていたこと、神田さんのこと。

 

「……私が付いていれば、誰が犯人か分かったのに」

 

『それは……ゴメンナサイ』

 

 藤田は犯人ではなかった。女を道具としか思っていない殺人鬼。世間一般のイメージにぴったりで、第一の犠牲者と関係もあり、警察からも一時期疑われていた男。

 

 けれど、私はそこまで驚いていなかった。藤田は犯人ではないとはっきりとではないが、分かっていたからだ。

 

 第一の殺人までならまだ分かる。神田さんに対する性的暴行の露見を恐れてふとした拍子に衝動的に殺してしまったとか。

 

 だが、第二、第三、第四の殺人はおかしい。いくら自分から疑いの目を外すためとはいえやりすぎだ。その目的なら二回で十分だろうに。

 

 それに経歴から見える藤田という男の人物像と殺人はどこか結びつかない。ああいう男はもっと小賢しいやり口で悪事を働くものだ。

 

「ねえ。どんな風に殺されたの? 藤田は?」

 

『……右足を切られてから、胸のど真ん中から、上下に裂かれた』

 

「……それは」

 

 あまりにも残酷な殺し方だ。想像するだけで怖気が走る。見なくてよかったかもしれないとすら一瞬思ってしまった。

 

「……傷って言っていたけど、どんな傷? 何でつけられたの?」

 

『手紙に仕込まれていたカミソリで掌を切られていた』

 

 やはり傷を負わせなければいけないというのは間違いないみたいだ。直接じゃなくてもいいということまでは予想できなかったが。

 

 他は手の甲だったのに藤田は手のひら。部位は何処でもいいということなのか。

 

 その後も703号室で起こったことを細かいところまで質問したが、犯人に直接繋がるような目新しい情報はなかった。

 

 藤田はおそらく犯人を知っていた。神田の次は自分が殺されると思い、ホテルに逃げ込んだが、逃亡の甲斐なく殺された。殺し方と言いすさまじい執念だ。相当恨んでいるとみて間違いない。

 

「藤田、神田……」

 

 この二人だけは傷のつけられ方、殺され方が他の被害者たちと大きく異なっている。ここをもっと詳しく詰めていけば犯人の正体に近づけるのではないか。

 

 今度はインカレサークルが起こした例の事件の捜査関係者から情報を抜き出さないといけなさそうだ。分かってはいたことだが一朝一夕というわけにはいかない。長丁場になることを覚悟しなければ。

 

『そういえばさ、唯、また見えなかったんだよ』

 

 通話中だというのに思索にふけっていた。慌てて返事をする。

 

「ごめんなさい、何?」

 

『あの怪物のことだよ。最初の一回だけで、それっきり見えないんだ。なんでなんだろう?』

 

「……藤田も見えてなかったんだよね?」

 

『うん』

 

 あの黒い怪物、その姿を見ることが出来る条件、それがよく分からない。翼が一回しか見えていないことから、同じ人間でも時と場合によっては見えないことが読み取れる。それが原因で法則がいまいちつかめなかった。

 

『唯だけはいつだって見えるのに、不思議だな』

 

 その言葉で思い出す。私自身、最初はあの怪物は自分にしか見えないものだと思っていた。実際、私以外であれを目にできた人間はほとんどいないのだ。けれど

 

 映画館前のあの事件、あの時だけは居合わせた全員がその姿を目にしていた。……あの日だけしか起こっていないイレギュラー。何故……何故か。

 

 そういえば怪物が現れる直前、私の力が暴走して大勢の人が巻き込まれていた。私の力は色々なことが出来るが、基本は心を繋げることだ。それはつまりものの見方も共有するということ。あの日あの場所にいた人間は私と同じ視座を一時期に手に入れていたということになる。

 

 そう考えれば、辻褄が合う。やはりあの怪物は私にしか目に出来ない……

 

「…………」

 

 あの怪物、初めて出会ったとき感じたのは恐怖ではなく、親近感だった。どこか自分に似ていると思ったことを思い出す。

 

 だから藤田のような男があの影の持ち主であることは有り得ない。いやあってほしくないとさえ思っていた。

 

 大体藤田にはあの犯行は物理的に出来ないのだ。藤田は仮釈放されてからずっとホテルに籠っていたようだと翼は言っていた。なら他の被害者たちに傷を負わすことなどできない筈だ。それに藤田のような男がいきなり近づいて切りつけたのなら、彼女らの記憶に残っていない筈がない。

 

 なら本物の犯人はどうやって傷をつけた。相当な隙を晒していなければ手の甲に傷をつけるなんてことは出来ないはずだ。

 

 交際相手……? ちがう。三人共通の交際相手などいない。友人や家族もそれと同じ理由で除外。

 

 犯人はこの三人とは全く接点のない人間……。そんな人間に若い女性が無防備な状態を晒すだろうか。

 

 チクタクと時計の音だけが聞こえる。何の意味も感情も含まれていないはずの無機質な音が妙に私の心をかき乱す。急かされてるみたいだ。

 

 

 

 




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