「無防備、無抵抗……?」
そういえば……。私もそんな言葉を口にしていたような……
首筋に触れる。今は出血していないが、三日前、怪我をした箇所だ。薄皮一枚しか切れていないようなほんの小さな傷。だというのに未だに塞がっていない。
あの時、翼に言われるまで気づきもしなかった。……あれは
心臓が悪寒で高鳴る。熱くもないのに汗が流れ落ちる。口内が緊張で渇き始めた。
眼球だけを動かして首の辺りを見る。“それ”が気づかないように、静かにゆっくりと。
金属質な刃が一対私の首を挟むように置かれていた。悲鳴が漏れるのを必死に抑える。
『唯、どうしたの……?』
携帯から聞こえる翼の声。それが合図になったのか鋏がピクリと動いた。もうこれ以上は待てない。
勢いよくしゃがみ込むのと同時に金属同士が擦れる音が聞こえた。震える手で首がまだ繋がっているか確認する。大丈夫だ。けれど……
振り返って後ろを見る。そこには予想通り、アイツがいた。
「……!」
黒い影のような怪物。それが巨大な鋏を携えてこちらを見つめていた。躱されたことに驚いているのか首を有り得ない角度に傾けている。何故かと問うように。
『唯!? どうした!?』
「……今ここに来た。アイツが……!」
『は!? 一体どういう』
「すぐここに来て!!」
廊下を走り出す。壁には3Fと書かれていた。N市大病院と書いてある。
『どの病院なんだよ!?』
「N市大病院!」
必要な情報をすべて伝えきれたわけではないがこれ以上話している余裕はない。耳元に当てていた携帯をポケットに入れる。腕を振り回して必死に逃げる。
「ちょっと!! 廊下は……」
「ごめんなさい!」
看護師の制止にも応えず、走り抜けた。病院の中を全速力で走り回るなんてマナー違反だと自分でも思うが、今は勘弁して欲しい。
『ウゥゥゥゥゥ』
怪人は鋏を引きずりながら歩いていた。走っては来ない。私を舐めているのか、それとも移動速度は大したことがないのか。
「でも、これなら……!」
なんとか逃げ切れるかもしれない。だが、そんな甘い期待はあっさりと裏切られた。
「え?」
怪物は看護師の手から車椅子を奪い取り、そしてそれを片手で高々と掲げる。
「あ」
ブンと風切り音が鳴る。咄嗟に右に跳んだが、すさまじい衝撃が左肩と頭を襲った。
「──!!!」
体が時計回りにぐるりと一回転し、床に倒れる。視界の隅で車輪が転がっている。車椅子を投げつけられたのだ。
声を上げることも呼吸することも出来ない。左腕は自分の体じゃないみたいに感覚がなくて、奇妙な形に折れ曲がっている。動かそうとすると激痛が走った。
転んだ時に頭も割れたみたいでこめかみからどくどくと血が漏れている。傷口がズキズキと脈打つたびに命の源が、体から出て行ってしまっているような気がして、歯がガチガチと音を鳴らす。
体中が痛みと恐怖で麻痺しているというのに、怪物の笑い声と足音は鳴りやまない。どんどんこっちに近づいてくる
「……っ! ぐぅっ!」
歯を食いしばって立ち上がる。怖くてたまらないのに立ち上がった。だけどもう限界だ。走りたくない。これいじょう痛い思いをしたくない。子供みたいにうずくまって大泣きしたい。けれど、今そんなことをやっていたら確実に死ぬ、殺される。だから逃げ終わった後散々泣きわめいてやろう、弱音も文句も全部そこで吐き出してやる。
「…………ふふっ。っ! ははっ!」
逃げ終わった後。この後のことを想像している自分の能天気さに驚いた。だってそうだろう。こんな目に遭っているというのにまだ生き延びられると思っているなんて。大馬鹿もいいとこだ。焼けるような痛みのせいで涙は止まらなかったが、それでも笑みを抑えきれない。
左腕をかばいながら、踊り場にたどり着く。下に降りるか、上に登るか。
私は迷わず上を選んだ。普通に考えれば逃げ場のない屋上に行くのは愚策だ。選択肢として有り得ない。
だけど、あの人は高いところが好きだから。きっと、そこに行けば会える。私を助けてくれる。
屋上は一フロア上にある。たったそれだけの距離を上るのも、今の私には重労働だった。
視界が悪い。貧血のせいで周りがぼやけて見えるし、流れた血が左目に入って、開けていられない。
足が重い。走り疲れて鉛みたいになってるのに、震えは止まってくれない。階段を踏み外してしまいそうだ。
ようやく屋上に出るための扉にたどり着いた。幸いなことに鍵が掛かっていない。
扉を開け放ち、屋上に出る。自分以外は誰もいない。冬の凜とした空気も相まって、静謐な雰囲気を湛えていた。
重たい足を引きずってなんとか前に進む。丁度この空間の中央の辺りで体力が切れた。膝から力が抜けてそのまま床の上にへたり込んだ。
息を長く吐くと、白い靄が空に消えていく。見上げると薄ぼんやりと月が光っていた。
「……」
ゴンと鉄をぶつけたような重い音がした。ゆったりと振り返ると、怪人は手を伸ばせば届くくらい近い位置に立っている。
怪物は不思議そうな表情を浮かべていた。いや、表情が分かるほど顔の輪郭はつかめないが、そんな顔をしているような気がしたのだ。走るのを止めたことを疑問に思っているのだろうか。
「……疲れたし。もう走る必要がないから座ってるの」
体はボロボロで、もう一歩も動けないけれど、それを感じさせないように堂々と答える。
私の見え透いた痩せ我慢に怪人は顔を近づけ音を立てて笑った。嘲りと憐れみが混じった複雑な音。
この怪物は人を殺す前にいつも笑っていたけれど、楽しいからそうしていたわけじゃないことは最初から知っていた。苦しんでいることを隠すために虚勢を張っているだけだ。そういうことをする気持ちは私にも分かる。
間近で見た怪物の目はやはりどこか寂しそうで悲しそうだった。いつか鏡で見た自分の目によく似ている。
『フフフッ、グフフフッ』
「……無理して笑わなくていいよ」
『?』
怪物の笑い声が止まる。体が石のように固まった。
「アナタが誰かはもう分かってるから──」
この怪人の正体、裏で操っているその人物の名前、それを口にし終えた瞬間怪人から黒い触手が、いや髪の毛が伸びて私を吊り上げた。
「あっ、ぐ」
怒りか恐怖か、それとも羞恥からか、怪物の息が荒くなる。不気味な笑みは顔から剥がれ落ちて、剥き出しの殺意が私に降りかかった。
彼女は取り乱したように鋏を私の頸にあてがった。少し力を加えるだけで私の命はあっけなく消えるだろう。そんな状況だと言うのに不思議と心は穏やかだった。
目を瞑り静かに待つ。諦めたからじゃない。信じているからだ。
たった数ヶ月、ほんのわずかなときしか共に過ごしていないけれど、この世の何よりも信じられる私のヒーロー。きっともうすぐ助けに来てくれる。
『ガアッ!』
獣のような咆哮とともに刃は無慈悲に閉じられた。
『……ウ?』
怪物は気づいた。血飛沫も肉を断つ音もやってこない。刃は空を切り、爆発的に伸びた頭髪は千切れ落ちていた。
前方を見据えると、そこには少年がいた。先刻まで手許にいたはずの金髪の少女を抱きしめて、息を切らしている。
「……大丈夫?」
か細く震える少年の声に、少女は涙を流しながら微笑む。
「……うん。来てくれるって分かってた」
少年も泣きそうな顔をして笑い返した。
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