悲観主義者でも空は青い   作:無知無知

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あなたの名前は

 屋上で翼に抱きつき、胸の中で散々泣きわめいた後、すぐさま治療を受けた。

 

「いやー不思議なこともあるもんですね」

 

 転んだときに割れた頭は一週間、折れた腕は三週間近く完治までにかかるらしい。頭に至っては針まで縫う羽目になった。私史上最大の重傷だ。

 

 医者は運ばれたときには無傷だったのに、目覚めた後に大けがをした私を不思議そうに眺めていた。それも独りでに浮いた車いすにぶつかって骨折したというのだから、戸惑うのも無理はないだろう。

 

 病院側は屋上に出来たクレーターのような破壊痕について対応を決めかねているらしい。私の怪我の件も含め警察を呼べばいいのか迷っているとのことだ。

 

 別れ際に医者は

 

「神社か何かでお祓いをしてみたらどうです?」

 

 と提案してきた。気遣いは痛み入るが、医者がそんな非科学的な治療法を推薦していいのだろうか。

 

 数日分の痛み止めをもらって病院を後にした。

 

「痕が目立つ箇所じゃなくてよかったね」

 

 翼は心底安堵した様子で私に話しかける。彼の言う通りこめかみだから髪に隠れて見えることはない。不幸中の幸いと言うやつだろうか。

 

「……そ、そうだね」

 

 顔を直視するのが今は少し照れくさい。泣き縋ったのは初めてじゃないけれど恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。というか慣れすぎたら本当にダメになってしまいそう。

 

「ねえ、唯」

 

「……なに?」

 

 またからかわれるんじゃないかと思ってそっぽを向いた。けれど、予想に反して待っていた言葉は穏やかなものだった。

 

「生きててくれてありがとう。唯がオレを信じてくれなかったら、絶対間に合わなかった」

 

 右手をそっと握られた。優しい気持ちが柔らかい熱になって肌から伝わってくる。

 

 お礼を言われること自体あまりないし、生きていること自体を感謝されたことはそれこそ、生まれて初めてだった。

 

 私が生きている、それだけで喜んでくれる人がいる。その事実が何よりも嬉しくて、また泣いてしまいそうになる。

 

「? また泣くの?」

 

「そこで水差す!?」

 

 私の怒声を聞いて愉快そうに翼は笑う、けれど助かった。そうしてもらわなければ泣きすぎで死んでしまうところだったから。

 

「……結局誰が犯人かは分からなかったけど、終わって良かったよ」

 

 翼は大きく伸びをしながら言葉を吐き出す。それを聞いて私は歩みを止める。

 

「唯?」

 

「……多分まだ終わってない」

 

 直感ではあるが、アレを操っている本人自体はまだ死んでいないような気がする。あの怪物が塵になったとき、それは霞のように消えていくのではなく、どこかに向かって飛んで行った。持ち主のところに戻っていったのではないだろうか。

 

「またアレが来るのか?」

 

 首を横に振って否定する。今度はもう待つ必要はない。

 

「私、本当に分かったの……誰が皆を殺していたのか」

 

 さっき襲われて気づいた。なぜ気づかれずに私を含めた四人もの人間が傷をつけられたのか。それがどこで行われたのか。

 

「そいつは―その人の、名前は─」

 

 

 

 人影が部屋の中で悶えている。分け身とも言える怪人が腹を穿たれたからだ。

 

「アァアァァァ!!!」

 

 影の主は痛い、痛い、痛い、とそう何度も叫んだ。床に蹲って腹を抑えるが、痛みは止まない。本当に内臓が抉られてしまったみたいだ。

 

 しかし、その人物はこうも思っていた。こんな痛みもあの男と一緒にいたときよりは遙かにましだ。辱められて、汚されて、脅されて、心が擦り減っていったあの時に比べれば、と。

 

「……フフ、フフフフ」

 

 自分の名前はもうバレてしまった。あの二人がここに来るのも時間の問題だろう。

 

「……んー」

 

 けれどこんな狭い部屋で迎えるのも失礼だ。ほかの場所で待っていよう。そう思い立ち、身支度を軽く終わらせて部屋を出ようとした、が。

 

 折角だ。彼らに楽しんでもらうためにも色々用意しておこう。わざわざ足を運んでくれるんだから手ぶらで帰すのは可哀そうだ。

 

 少し前まで使っていた日記帳を引っ張り出して、机の真ん中に置く。自分の文章と私生活を覗き見されるのは気恥ずかしいが、彼らには、中でもあの子にはちゃんと自分のことを理解してほしかった。

 

 最後のページに自分が向かう場所を記しておく。日記を閉じたとき、一枚の写真がスルリとページの隙間から抜け落ちた。

 

「……」

 

 屈んでそれを拾う。写真には自分と大切な人が写っていた。付き合っている間撮ったのはこれ一枚だけで、物理媒体でも電子媒体でも他には保存していない。

 

 台所から使いさしのマッチ箱を取り出して、マッチを一本手に取る。長い間写真を見つめ、瞼の裏に焼き付けた後、それに火をつけた。オレンジ色の光は思い出を消していくようにゆっくりとインクを舐めとって紙を灰にしてしまう。

 

 ベランダに出て、燃え尽きるまで火を見守った。一分経たない内に写真は完全に元の形を失った。

 

 強い風が吹いて、塵が舞う。それでお終い。

 

 玄関に向かい、ドアノブを握る。

 

「行ってきます」

 

 誰もいない部屋に最後の挨拶をした。

 

 

 

 少年と少女は暗い部屋の中に立っていた。電気はついておらず、部屋の主も見当たらない。

 

 家具の並びや食器の積み方などを見るに、この部屋の主はそれなりに几帳面な性格だったことが分かる。あのそそっかしい仕草を思い出すとそれが少し意外なようにも思えるし、仕事をしていた時の細やかな手つきを思い出すと自然なようにも思えた。

 

 家の中でも一際目を引いたのはウィッグをつけたマネキンだった。練習部屋と思われる部屋の中には何体も置いてあって不気味ではあったが、努力していた証でもある。その事実がなぜだか突き刺さった杭のように胸に痛みを走らせる。

 

 何分か探したが今の居場所の手がかりになるようなものは置いていなかった。食卓の上にこれ見よがしに置いてある日記以外には。

 

「……」

 

「読めってことなのかな……」

 

 少年が呟く。少女は頷き、躊躇いつつも手を伸ばした。開いてしまったら最後、もう二度と後戻りは出来ないという予感をしながら。

 

 

 

 流麗で小さな文字がページを埋めていた。一日の記録は多いときで五六行、少ないときで二三行といったくらいで決して文章量自体は多くなかったが、毎日欠かさず使ってあったみたいだ。パラパラと十ページほどめくって見る限り日付が飛んでいる箇所は一つもない。

 

『お仕事をするために今日からここに暮らすことになった。新生活というやつだ。不安な気持ちもあるが、それ以上にワクワクもしている。ああ、でも私はドジだから一杯怒られてしまうかもしれない。好印象を持ってもらうためにも初日くらいはちゃんと挨拶をしておかないと……やっぱり不安な気持ちの方が大きいかもしれない』

 

『先輩と仲良くなれた!! 鶴海さんという人だ。優しくて腕も上手いし、喋るのが上手だ。私のミスもフォローしてくれる。私も何年か経てばこんな風になれるだろうか』

 

 不安そうな文章の時は線がか細くなって、嬉しいときは文字が大きく、筆圧も強くなっている。ただの文字だというのに書いている人間の表情まで伝わってくるような微笑ましいものだった。

 

 しばらくの間は退屈なくらい平穏な内容が続いた。『シャンプーのかけすぎで手が荒れた、職業病というやつか』、『最近は忙しくて友達に会えない』、『気になるアクセサリーを見つけたけれど、買うかどうか迷って二時間も立っていた』などだ。

 

 そこから日付が半年ほどたった時、不穏な記述を見つけた。

 

『専門学校時代の知り合いから連絡が来た。神田美音という子だ。あまり仲がいいとは言えない関係だったから少し不気味だ。合コンに参加してほしいという話だけれど、本当のことをいうとあまり行きたくない。けれど断る勇気もないから結局行くことになるんだろうな』

 

 ページを手繰る少女の体が強張る。これ以上読みたくないと言わんばかりに首を振り、日記から手を離した。

 

「……」

 

 少年も迷った。この先に書かれていることがなんなのかがもう分かっているからだ。きっと恐ろしくて悲しくてどうしようもない話が待ち受けていることを知っているからだ。

 

 だが、少年は読み続けることを選択した。何故だかは本人も上手く言語化できないが、少なくとも人の不幸を見て楽しもうという下卑た好奇心からではない。ただ知る必要があるという義務感に突き動かされたのだ。

 

「唯……辛いだろうけど」

 

「…………分かってる」

 

 少年と少女はこの日記の持ち主のことを知るためにやってきた。残酷なことが待ち受けていることは百も承知だったはずだ。今更尻込みするわけにはいかない。

 

 二人は震えを抑えながらそっとページをめくる。そして同時に小さく声を漏らした。

 

「え?」

 

 整然とまとめられていた文章がぐちゃぐちゃに散らばっている。日付も付いていない。文字の大きさも不揃いで、蚯蚓がのたくったようになっていた。

 

 目を凝らしてなんとか書かれていることを読み取った。

 

『気持ち悪い 怖い 気持ち悪い 気持ち悪い どうすればいいのか 病院 行かなきゃ  いけないかもしれない けー察 いかないと』

 

 この文章だけではなにが起こったかは分からない人間の方が多いだろう。けれど少年にはこの日記の書き手がなにをされたのかが想像できた。誰がこんなことをしたのかも

 

『一日 たっても おえつが止まらない なにかたべようとしても ぜんぶ はいちゃう はじめて おしごと やすんじゃった』

 

『けいたい で 休んだことを みんなに あやまろうと したら いっぱい しゃしん がおくられてきた わたしの ばらしたら みんなにみせるって おどされた   どうしよう 』

 

「……」

 

 ページにところどころ丸い染みが出来ていた。多分泣いていたのだろう。少年はあまりの惨さにいっそのこと目を潰してしまいたくなっていた。

 

 ネットに写真をばら撒きなどすれば犯人も捕まってしまうのだからこんな脅しは無意味だというのに、彼女はそれに気づくことが出来なかったみたいだ。いや気づいていたのかもしれない。けれど理屈で理解していても心は固まってしまうことなど珍しくもない。

 

 何度も手が止まりそうになったが、堪えた。しかし何度ページをめくっても話はいい方向に向かわない。

 

 合コンを主催していた男に付きまとわれた、性行為をまた強要された、金銭を要求された、体重が七キロ減った、仕事でミスが増えた、神田さんの誘い自体が罠だったと教えられた、自傷行為をするようになった。

 

 少年は奥歯をかみつぶす勢いで歯を食いしばった。自分がただぼんやりと暮らしていた中、こんなことが起こっていた、その事実に無性に腹が立つ。

 

 気づけば日記は日記ではなくなっていた。死にたい、悔しい、気持ち悪い、怖い、そんな単語ばかりが敷き詰められている。真っ黒に塗りつぶされているページまであった。

 

「これって……」

 

 頁をめくる手が止まった。そこには文字ではなく、ある一つの絵が書かれていた。

 

「……そっくり」

 

 少女が呟いた。体全体を覆うほどの長い髪、その隙間から覗き出る点のような目、身の丈を越えるほど大きさの鋏。細部は異なるが、その姿は二人が目にしたあの怪物のものだった。

 

 なぜこんなものを描いたのか、少年には分からなかった。少女は朧げに理解した。

 

 その数ページ先にはある文章が書かれていた。単語をただ書き連ねたものでも、絵でもない。最初の頃のようなまともなものだ、

 

 

 

『あれから何か月か経って、覚悟が決まった、実際にやることは覚悟からほど遠いけど』

 

 

 

『私の家の近くの公園には大きな橋がある。ここに越してきてから一二度しか足を運んでいなかったけれど、眺めがいい場所でまた行きたいと前から思っていた。だからあそこで死ぬことにした』

 

 

 

『友達や仕事仲間、家族に未練がないわけでもないけれど皆の為に生きようという気にはどうにもなれない。私が酷い目に遭わされた時、助けてくれなかったんだから、そう思うともう大切だとは思えなくなっちゃった。酷いよね、ごめんなさい』

 

 こんな目に遭ってもまだこの人は謝っていた。日記の中でくらい恨み言の一つでも書いてしまってもいいのに。

 

『今日は仕事に行く最後の日だ。文字通り本当に最後の。この日記が遺書替わり』

 

 日付は七月の中頃。本当にこの日記の主は死ぬつもりだったのだろう。心の均衡を取り戻したように見えるのも全てを諦めたからだ。

 

 だというのにこの人物は未だに生きていて、人を殺し続けている。それが分からなかった。一体何が起きたのだろうか。

 

 頁をまためくる。本来有り得ない筈の次の日の記録、たった一文だけが書かれていた。

 

『好きな人が出来た』

 

 七月の中頃ぐらいだったろうか。私は暗い並木道の上を歩いていた。数歩先の景色すらまともに見えない。木が一杯立っているから日が落ちたら暗いのは当たり前だ。

 

 この暗闇の中に誰かがいたらどうしようかといつもなら不安になって引き返しただろうけど、もう今はどうでもよかった。だって今から死ぬんだから。後先を心配したりなにかに怖がったりするのはこれからも生きていく予定がある人間だけだ。私はそうじゃない。

 

 道を抜けると大きな橋がある、向こう岸へと渡るためのものだ。クリスマスになるとライトアップもされたりするし、写真を撮っている人もたまに見かける。それなりに人気なんだろう。

 

 橋の真ん中まで歩いてそこで足を止める。手すりから下を覗くと真っ黒な川が私を見つめ返していた。自殺でここを選んだ理由はなんとなくだ。手首を一度切ったことはあるけど中々死ねない。痛いだけだった。自宅から飛び降りることも考えたけど住んでいる人の迷惑になってしまう。電車も同じ理由で気が進まなかった。だから近所にあるここを選んだ。

 

 入水自殺は苦しいだろうがもう生きていることに耐えられない。触れられた箇所だけじゃなくて細胞全部取り替えてほしいくらいに自分の体が穢れている気がしてならない。尊厳を踏み躙られて人間以下だということを毎日思い知らされるのはもういやだ。溺れ死ぬことなんてそれに比べたらなんてことない。

 

「どうしてこうなっちゃったんだろう」

 

 そんな今更でわかりきったことを吐き捨てて、空を見上げる。結局私が馬鹿で弱かったからなんだろう。神田美音から誘いが来た時なにかがおかしいと気づいていた。連れられた場所に着いた時も危ないと感じたのに気が弱いから逃げることも出来ず嬲られる羽目になった。

 

 一応遺書めいたものは残してあるからあの人達は捕まるだろう。多分。けれどその光景を想像しても少しも晴れやかな気持ちになんてなれなかった。

 

「まあ死んだ後のことなんてどうでもいいよね……」

 

 さっさと済ませようと思い、欄干に足をかけ、身を乗り出す、けれどこれが中々どうして上手くいかない。

 

 こんなこともまともにこなせないのかと自分に呆れてつい笑ってしまう。

 

「本当に鈍臭いなあ、私」

 

 モタモタしているから誰かに見られてるかもしれないと思って首を左右に振って確認する。止められたとしても止めるつもりはないが、警察でも呼ばれたら面倒だ。

 

 あくせくと手すりを跨いでいる最中、陳腐な言い回しだが、そこには思いも寄らぬ光景があった。

 

「え?」

 

 洒落た服を着た真っ白な髪をした少年が反対側にある欄干の上を歩いていた。ポケットに手を入れながらなんでもないように口笛を吹いて。

 

 どこかで聞いたことがあるような気がするメロディー。古い映画で使われていた歌。たしか雨に……もう少しで出てきそうなのに。あと一歩のところでとまってしまう。

 

 あんな髪の色で学校の先生は怒らないのだろうか、あの歳でブリーチなんてかけてたら近いうちに髪の毛がボロボロになりそうだな、なんてことをボンヤリと考えている内に少年は立ち止まった。そして片足を浮かして体を川の方に傾けている。まるでわざと落ちようとしているみたいに。

 

「……!」

 

 死のうとしているのだということに気づいて鳥肌が立つ。自分のことを棚に上げておいて変な話だが自分と他人では話が違う。

 

「あ」

 

 少年が体勢を完全に崩す。いや、自分から崩したのだろうか。少年には踏ん張ろうという気概が最後まで見られなかった。

 

 落ちていく寸前に目が合う。少年はそこでようやく無表情を崩して少し驚いたような顔をした。

 

 彼が何に驚いたのか考える間もなく―

 

 落ちた。重いものが水に叩きつけられる音がする。バシャッと激しい音が鳴ってそれだけ。悲鳴ももがいて水をかき分ける音も聞こえない。

 

「―!」

 

 死んじゃったのだろうか。いや、死んでしまうのだろうか、こんなことで。

 

 さっきまで自殺しようと思っていたのに、少年のあの落下があまりにもあっけなくて死という現実が急に恐ろしくなった。

 

「……どうしよう」

 

 救急車をよべばいいのだろうか。来た頃には手遅れになっていないだろうか。というかこんな遅くに来てくれるのか……

 

 考えても仕方がない。何かしないと。咄嗟に取った私の行動は

 

「大丈夫ですかー!!!!」

 

 叫ぶことだった。声を出してすぐにバカな行動だと気づく。橋から落ちて大丈夫なわけがない。そもそもこんなことしても川から出られないし。

 

 もうこうなったらやけっぱちだ。川に飛び込んで助けに行こう。どうせ死ぬつもりだったんだ。結果がどうなろうと人を助けるためならただ死ぬよりはずっといい。

 

「今行きますから!! だいじょうぶですよ!!」

 

 また声を張り上げて無謀な飛び込みを行おうとしたその時―

 

「キミこそ大丈夫? 止めた方がいいよ、飛び降りなんて」

 

 私の肩を誰かの手がそっと撫でた。驚いて振り向くとそこには落ちたはずの少年が立っている。

 

 少年の身体は少しも濡れていなかった。確かに川に落ちたはずなのに。それにどうやってここまで這い上がってきたのだろう。そもそも最初から落ちてなんていなかった? 

 

 この少年はもしかして

 

「…………お化け!?」

 

「いや、違うけど。面白いね」

 

 くつくつと笑うこの不思議な少年を見て、私は何かが変わることを強く予感した。

 

 

 

 ある埠頭の中に置かれている、人気のない倉庫街、その中で私は海を眺めていた。波の音はそこまでうるさくないし、真っ暗な水面に街の光がキラキラと反射している。寒くはあったが、ぼうっとするには丁度いい環境だ。

 

「海……あっくんとは一度も行けなかったな」

 

 どこにいても、何をしていても、いつもあの人のことを考えてしまう。

 

 自ら命を絶とうとした私を助けてくれた人。私に集る悪い人たちをやっつけてくれた強い人。汚れている私をそれでも愛してくれた人。

 

 細長い指、優しい声、あの銀盤のように冷たい綺麗な髪。なにもかも愛していた。

 

「っ……!」

 

 お腹が痛い。あの少年に殴られてからずっとだ。そういえば野球ボールを投げられたり、膝蹴りを入れられたりもした。悪い人だったのかもしれない。あとで懲らしめてやろう。

 

 冷たい潮風が通り過ぎて、寒さのあまりに思わず体を縮めた。もし彼がいたなら身体を抱き寄せてくれただろうに。そんな想像が頭を過って悲しくなってしまう。

 

「一人は寂しいです……」

 

 ほんの少し前、彼は私の下からいなくなってしまった。一度一緒にいてくれる幸せを知った分、離別の苦しみは大きかった。アイツらからいじめられていた時よりずっと辛い。けれどもうすぐだ。きっともうすぐ私の下に帰ってきてくれる。そうしたらまた幸せが戻って……

 

「……こんばんは」

 

 鈴を転がしたような少女の綺麗な声が背後からした。振り向くと、怖そうな顔をしてあの子が立っている。隣にいる男の子も幽霊でも見るような目で私を見ていた。

 

「こんばんはゆーちゃん」

 

「……暦」

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