悲観主義者でも空は青い   作:無知無知

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撃鉄を起こせ

「…………」

 

 あの埠頭で暦と相対したときから誰も血を流さずに事件が終わるとは思っていなかった。思ってはいなかったけれど……

 

 涙はもう出てこなかった。悲しくないわけじゃない。ただ何も考えられない。

 

 いつの間にかやりきれない顔をして翼が私の傍でしゃがんでいた。彼も大けがをしていたが命に関わるようなものではない。そのことを喜ぶべきなのだろうが、そんな気にはなれなかった。 

 

「……オレが殺したんだな」

 

 翼が消え入りそうな声で呟く。否定したかったが、それは出来なかった。

 

 暦の死因は十中八九失血だろう。頭部、腹部からの大量出血。頭の方はどうやってついた傷か知らないが、埠頭で会った時にはなかった。翼との戦いの中で負った傷だ。

 

 暦が注射したあの薬が関係している可能性もある。けれどそんなものがなくてもあの出血量ではどの道助からなかっただろう。

 

 それを理解しながら無責任に『アナタのせいじゃない』なんて言えなかった。

 

「切花さんが言ってた“あの人”っていうのは結局誰だったんだ?」

 

「……分からない。アキラっていう名前しか」

 

 暦の意識が朦朧としていて深いところまで読み取れなかったのもあるが、その男が相当な秘密主義だったことも大きい。サクラザカアキラ、という名前、暦より歳は低いということ、銀色の髪をしていたこと、彼女が知っていることはそれだけで名前すらも本当かどうか定かではない。

 

 あの注射器はそのアキラという男の物だったらしいが、これについても詳細は分からない。あんな危険で怪しいものを持っていたということはきっとろくでもない人間の筈なのだが……

 

 暦は最後まで男のことを想っていた。少なくとも彼女の目に映る男は穏やかで理性的な人物だった。心を壊された彼女が立ち直れるまで寄り添い、時には身を挺して守りさえしたようだ。打算的にこんなことは出来ない。アキラという男は本気で彼女のことを愛していたのだ。そう結論づけるとまたあの注射の存在が脳裏を掠める。堂々巡りだ。考えれば考えるほど頭が混乱してしまう。

 

「アキラ……そんな珍しい名前でもないし……苗字も……」

 

 眉を顰めながら彼がブツブツと呟いた。一音一音聞き取れている筈なのに意味のある文章に変換できない。知らない言語を聞いているみたいだ。疲れた。

 

 彼はそんな私の視線を感じ取ったのかなんでもないと頭を振った。しかし正直なところ彼の独り言に興味すら持てていなかった。ただなんとなく目を向けていただけだ。

 

 何をすればいいのか分からない。仮に分かっていたとしてももう何もしたくない。誰かを助けようとしていた筈なのに結局は人一人を死に追いやっただけ。こんなことなら最初からなにもしなければよかった。翼も同じような気持ちなのか座ったまま微動だにしなかった。

 

 ただ呆然とする私たちをよそに時間は無情にも過ぎていく。冷たい空気が体中にまとわりついて気力を奪っていく。暦の掌は血が通っていない分私達とは比にならないスピードで冷たくなっていった。本当にただのモノになってしまったみたいに。

 

 互いの息遣いすら感じられない完全な静寂の中を一つの音が駆け巡った。金属が何かに擦れて発せられる不快な高音。

 

「なんだ?」

 

 疑問の声をあげて翼が素早く立ち上がった。

 

「……?」

 

 一体何がこんな音を立てたのか。顔を上げるのも億劫だったが気力を振り絞って立ち上がり、彼と一緒に辺りを見渡した。けれど、何もない。ここには私と彼しか……

 

 そこでようやく気付いた。私たち二人しかいない、それが既に異常だということを。

 

 暦から離れて動きを止めたあの怪物、あれはどこに行った? 彼女と一緒に消えたのか。けれど私はその瞬間を目にしていない。だけど、そんなことが有り得るはず……

 

「唯!」

 

 私を呼ぶその声と風を裂く鋭い音はほぼ同時だった。何が起こっているかを把握する前に体が突き飛ばされる。

 

 地面に強かに腰を打ちつけられた痛みから声が出た。折れた左腕と頭にも衝撃が響いて涙が出そうになる。けれど目の前にはそんな痛みすら吹っ飛んでしまうくらい衝撃的な光景が映っていた。

 

 赤い液体が視界を埋め尽くすほどに空間一杯に広がっていた。それは翼の胸もとから出ていて、何秒も経ってからようやくそれが血液だということに気づいた。

 

「え?」

 

 後ろを振り返るとアレが立っていた。鋏の怪物、シューシューと奇怪な音を立てながら呼吸している。

 

「……は??」

 

 なんで。なんで。なんで。暦は死んでいた。間違いなく。触れて確かめたんだ。なのに―

 

 振り向いて確認した。やはり死んでいる。あの場から一ミリだって動いていない。

 

「どうして……!?」

 

『コロ……ス。コロスコロスコロスコロスコロスコロ』

 

 それは怪物なりの返答だったのか。一つの単語を機械のように吐き出し続けた。

 

 暦の力。傷をつけた人間に自分の心から作り出した化け物を送りつける能力。それを知ったとき、生き霊に似ているなと感じた覚えがある。源氏物語の六条御息所だったか。古文の授業で教科担当が話していた。

 

 生きている間でも心を体から分離できるのだったら、死んでからだって……? 

 

 有り得ないと一笑に付したかったが、それこそ無理な話だった。私だってその不条理を扱う側の人間だ。有り得ないと言うなら、そもそも私たちの存在だって有り得ない。

 

 暦の意思ではない。死ぬ間際の彼女にはもう敵意は一欠けらもなかった。けれど彼女の心に巣食っていた闇はもう一人歩きできるほどに成長していたのだ。

 

『アアアアアアアアア!!』

 

 怪物はこの世全てを呪うような産声を轟かせた。怪物を縛る鎖は暦の死と同時に断ち切れた。もう今までのような制限もなく好きなだけ人を傷付け、殺すことが出来るだろう。

 

「……やめてよ。もう無理だよ」

 

 もう立てない。恐ろしいというだけではない。目の前であんなふうに人が死んだばかりで、息をするのも苦しいくらいなのに戦えるわけがないだろう。

 

 だいたい腕も頭も怪我しているんだ。骨が折れてるし、針も縫った。もう嫌だ。何でこんな目に。人を助けるなんて、そもそも考えなければ……

 

 弱気な言葉が頭を埋め尽くしかけたとき、翼の存在を思い出した。身を挺して私を守ってくれた。居場所をくれた。今の私を認めてくれた、何よりも大事な人。

 

「…………」

 

 その彼が血だらけで倒れている。命を失おうとしている。全部、アイツのせいだ。

 

 

 

「──ぶっ殺す」

 

 

 

 自分の中で何かがブツリと切れた。混乱と恐怖は綺麗さっぱり消え失せて、視界も思考もクリアになる。簡単なことだ。殺される前に殺せばいい。

 

 立ち上がって左手の人差し指を怪物に向ける。子供がごっこ遊びで銃を撃つときのように。

 

 二日前に一回、それ以前にも一度だけ触れずに人を操れたことがある。どちらもやろうと思ってできたことではない。心が乱れに乱れたせいで発現した偶然によるものであることは理解している。

 

 だが、そのうえで今の私なら出来るという確信があった。得体のしれない高揚感と万能感が体一杯に広がっている。

 

『ゥゥゥ……ゆーチャん、いっしょニ来て? ともダチでしょウ?』

 

「…………」

 

 私が動揺すると思ったのか、暦の声で、暦のような物言いをして私に近づいてきた。しかし一音一音継ぎ接ぎしたような不自然さを隠せていない。なによりその声の裏には暦が抱えていた孤独も悔恨も愛憎も何一つ感じ取れない。

 

 いくら意思があるように振る舞って見せてもコレはただのモノだ。暦が抱いていた憎悪だけが焼き付いたレコード盤。無差別に人間を殺すだけの装置、伽藍洞だ。

 

 胸の中で生まれた怒りがジリジリと身体の内を焦がす。暦とはもう別れを済ませた。あんな風な別れ方はイヤだったけれど、それでもあの時私はあの人を見送ったんだ。それなのに、暦の声を使ってこんな巫山戯たことを口にするなんて。

 

 深呼吸をして、視線を、指先を、思惟を、全て眼前の目標に傾ける。そして撃鉄を起こす代わりに絶縁の言葉を口にした。

 

「“消えて”」

 

 本物の銃じゃないのだから音も煙も衝撃さえもない。しかしなにかが放たれた感触はあった。

 

 だから怪物が怯むことなく近づいてきても、怯えはしなかった。もう終わっていることは分かっていたから。

 

 手を下ろしてから一秒、怪物の足が崩れた。

 

 二秒、動けないことに気づいてどす黒い髪の毛を振り回した。私に届く前に塵になった。

 

 三秒、鋏を投げつけた。苦し紛れの攻撃。それすらも砂のように消えた。

 

 四秒、瞬きをしたら、存在そのものがなくなっていた。最初からいなかったみたいに。

 

「終わった……」

 

 体が疲労と訳の分からない脱力感で一杯になって、膝から力が抜ける。上体を起こす力もなくなってそのまま仰向けに倒れた。

 

 毛布もなくて、布団も敷かれていないコンクリートの上だけれど、眠くてしょうがなかった。

 

 三日は眠っていたい。昼間まで眠って、翼と一緒に―

 

 そうだ。助けを呼ばないといけなかったんだ。このままじゃ死んでしまう。死んでしまったら……

 

 助けを呼びに行こうとしても体が鉛のように重くなって少しも動かない。頭も働くのを止めたみたいで意識がだんだんと消えていく。

 

 ちゃんと一人で倒したのに、初めて翼を守ることが出来たのに、また台無しになってしまう。

 

 血だまりの上に倒れ伏す彼に手を伸ばす。けれどあともう少しのところで触れられない。

 

「……私、頑張ったんだよ……だから……起きて……わた、しの……こと」

 

 最後まで想いを口にすることが出来ないまま、私は眠りについた。

 

 

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