悲観主義者でも空は青い   作:無知無知

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番外編
風邪引きサイキック


 一月四日、時刻は二十時を少し過ぎたころ。底冷えするような冷気が街を包み込んだ静かな夜。小さなトラブルがあるマンションの一室で起きていた。 

 

「……ごめん、翼。風邪、引いちゃった」

 

 小柄な少女が自室のベッドの上でかすれた声を出した。翼と呼ばれた少年はフルフルと首を振る。

 

「謝る事なんてないよ。無理させてるの気づかなくてごめん」

 

 新年を迎えて二人は色々な場所に出かけた。昔に負けないぐらい楽しい思い出を作るために、そしてお互いのことをより深く知るために。

 

 神社に行って、お神籤を引いた。おしゃれな喫茶店でパフェを食べた。一緒にご飯を作った。楽しい思い出を頭に焼き付けるのに夢中で、唯は自分が風邪を引いていることにすら気がつかなかったのだ。

 

 翼は唯の額に手を当てるとそれが稼働させすぎた電子機器のように熱を帯びているのを感じた。

 

「凄い熱い……家に薬置いてなかったかな……」

 

 家の中を探し回っても、薬は出てこなかった。少年は体質で病気になることが殆どないので、絆創膏と消毒液ぐらいしか置いていない。

 

「前貰った痛み止めはまだある?」

 

「……まだ、あるけど……もうすぐなくなりそう」

 

「なら薬局行ってくるよ。うち風邪薬がないから」

 

「……一緒にいてくれた方が嬉しい」

 

 熱を帯びた唯の声に翼は顔を赤くする。気恥ずかしさから頬をかいて誤魔化そうとしたが、少女には見透かされていた。

 

「……えへへ。照れてる」

 

「唯だって顔赤い……」

 

「……私は熱だから。当たり前」

 

 時折見せる蠱惑的な表情には心を乱され放しで、多分一生耐性はつかないのだろうと少年は予感した。

 

「でもやっぱり薬は必要だよ。三十九度もあるんだから。苦しいだろ? 明日になったら病院にも行かないと」

 

「……翼は風邪引くの?」

 

「ん……今はないけれど、昔はあったね。こうなる前は大したことない病気でも、治るのは一週間ぐらいかかった。走るのも満足に出来なくて、……健康な人が羨ましかったよ」

 

「……そう。じゃあお願いする。気をつけてね」

 

「うん。すぐ帰ってくるから」

 

 翼は最後に頭を一撫でして椅子から腰を上げる。簡単な身支度を済ませて家を出ると、すぐに一歩踏み出すのも億劫になるぐらい空気が冷たいことに気づいた。

 

 フッと息を吐くと白い靄が現れて、夜の街に消えていく。小さい頃はこれが楽しくて何度もやったなと思い出して笑った。

 

「風邪薬と冷えピタとあと……」

 

 買うべきものを口に出しながら、少年は夜道を歩き始めた。あまりゆっくりともしていられないからいつもより速く。最寄りのドラッグストアまで片道三分、買う時間も考えて

 

「十分……あれば帰れるかな」

 

 その計算が大きく外れることを少年はまだ知らなかった。

 

 

 

「……っ」

 

 熱のせいで肌が衣服にこすれるだけで痛みが生じる。おまけに頭痛とだるさが尋常じゃない。折れた腕もジンジンと熱を帯び始めてきた。

 

 そんな状態なのに気分は穏やかだった。病気になったおかげでいつも以上に優しくしてもらえるし、物理的な痛みには我慢が利く方だから。何より―

 

「……ひひひ」

 

 変な笑い声をあげて、枕元に置いてある音楽プレーヤーに頬ずりした。誕生日に翼からもらったものだ。アラーム機能のおかげで好きな曲で起きられるし、ダウンロードした曲を自動で種別分けしてチャンネルを作ることも出来る。しかもタッチパネル式だ。今までずっとボタンで操作してたからビックリした。

 

 思えばちゃんとした誕生日プレゼントを貰ったのは初めてだ。母親は現金だけ渡して何も用意してくれなかったから。金額はまとまったもので何でも好きなものを買えたけれど、私が欲しかったのはプレゼントであってお金じゃなかった。

 

 イヤホンを耳につけて画面をスワイプする。以前使っていたもののデータはバックアップを取っていたので、これに全部引き継がれている。

 

 以前から使っていたプレイリストを再生する。聞き馴染んだ曲だけれど音質が良くなったおかげで数段素晴らしく思える。

 

「フフンフンフン♪ フ―ヒャッ! あ、電話か」

 

 舞い上がっていた最中に電話が鳴り出して身体が一瞬浮いてしまうほど驚いた。誰も聞いていないし、見てもいないけれどなんだか恥ずかしい。熱でハイになっているみたいだ。

 

「……えっと、私です……」

 

『唯、ごめん。本当に言いにくいんだけど……』

 

 深刻そうな口調だから何かまずいことでも起こったのかと身構えた。翼のスーパースピードで体当たりしちゃって病院送りにしたとか。もしくは新手の超能力者とか。

 

「……うん、なに?」

 

『あー、その……帰るの遅くなる。公園に中学生ぐらいの子がいてさ。もう夜も遅いし、家に送ってあげなきゃなって思って』

 

 と思ったらそんなことはなかった。素通りしてもいいのに人がいいというか何というか。

 

「……そう。私のことは気にしないでいいから」

 

『薬だけ置いていければよかったんだけど、ここ遠くて。ごめん』

 

「……ううん。大丈夫。早く送ってあげて」

 

『なるべく早く戻る』

 

「じゃあ……あ、性別! 男!? まさか女じゃないよね!? 聞いてる!? もしもし!?」

 

 会話は強引に終わらされてしまった。きっと相手は女だったんだろう。しかも中学生なら年もそんなに離れていない。私を差し置いて夜中に女と一緒にいるなんて……。でもこんな時間に女の子が一人でいるのも危ないし。そんな状況で見捨てさせることなんて出来ないし。もやもやした感情で腹の底が一杯になる。

 

「……」

 

 行き場のない衝動を開放するために携帯を投げた。予想していたより遠くに飛んでしまった。凄い音を立てて地面に激突したみたいだが、壊れていないだろうか。

 

 

 

 滅多に聞かない唯の大声に怯えながら電話を切った。今の彼女は相当嫉妬深いようだ。終いにはオレの携帯電話にある連絡先全て確認してくるかもしれない。

 

 件の少女はベンチに座って俯いていた。休日だというのに制服を着ている。塾かなにかに着ていくのだろうか。勉強熱心なことだ。

 

 少女はスマホを見るわけでもなく、ずっと座っているだけだった。表情はうかがえないが、あまり楽しそうには見えない。

 

「さて……」

 

 どう話しかけたものか。キミ、一人? というのも不審者っぽいし、お家何処? というのも、やっぱり気持ち悪いな。

 

 迷っている時間がもったいない。というか寒すぎてこれ以上じっとしているのがしんどくなってきた。

 

「キミ、家に帰らないの?」

 

「……アナタに関係ある?」

 

 できるだけ明るい声を出したつもりだが、辛辣な言葉が返ってきた。けれどこれぐらいで引き下がるぐらいなら最初から話しかけはしない。

 

「まあ、ないけど。でももう十時越えてるよ、親御さんが心配してるんじゃない?」

 

「……知らない」

 

 短い言葉、小さな声だったが吐き捨てるような口調で事情はなんとなく掴めた。

 

 どうやら家出のようだ。予想通りと言えば予想通りだが、厄介なことになってきた。迷子なら連れて行けばいいだけの話なのだが。

 

「……話、聞こうか?」

 

「……初対面の人間にそんなこと言わなきゃいけないの?」

 

「そりゃそうだ。ごめん」

 

 そう言って少女の隣に腰を下ろした。立ちっぱなしでも構わなかったが、見下ろしたまま話すのは行儀が悪いような気がしたから。

 

「何勝手に座ってんの?」

 

「公園の椅子は公共物だろ。キミの許可はいらない」

 

 不機嫌そうに鼻を鳴らして彼女は顔を逸らした。歓迎されていないことだけはよく分かった。

 

 しばらく何も喋らないまま時間が過ぎていった。空の上から雪が降り出したのを皮切りにようやく少女が口を開く。

 

「……その袋何入ってるの?」

 

「風邪薬だけど」

 

「……風邪引いてるの?」

 

「オレじゃないよ、かの……じゃなくて家族がね」

 

 一瞬彼女と言いそうになったが、同棲していることを説明するのは面倒だ。話が逸れそうだから止めておこう。

 

「……こんな時間に?」

 

「少し遅いよね、もうちょっと早く家を出ればよかった」

 

「……いいなあ」

 

 そう言ってまた黙り込んでしまった。今の会話でなにか羨むようなことがあっただろうか、見当もつかない。変わった子だなと、勝手な印象を抱いた。

 

「そこの二人、ちょっといいかな?」

 

 穏やかだが、決して侮れないような男の声が聞こえた。声の方向に顔を向けると、水色の服を着た中肉中背の男がいる。聞こえていることを示すためにオレは立ち上がって首を縦に振った

 

「この辺りが物騒なのは知ってるよね? 危ないから早く家に戻らないと」

 

 渡りに船とはまさにこのことだ。事情を説明してこの子は警察に任せよう。助かった、ようやく家に帰れる。

 

「君は……なんで笑ってるのかな?」

 

「いえ、いいタイミングだと思いまして……」

 

「? まあ、いいや。二人はどういう関係なのか、聞かせてもらえるかな?」

 

「もちろんです、この子は……」

 

 少女は唐突にオレの手を強く握って、身体をすり寄せてまで来る。

 

「カノジョです」

 

「え?」

 

 驚きのあまり間抜けな声がでた。今、この子なんて言った。

 

「家に送って貰ってる途中に足が痛くなっちゃって、ここで休んでたんです、もう帰りますから心配しないでください」

 

 さっきまでの態度が嘘のように甘い声を出す少女。というより喋っている内容は全て嘘そのものなのだが。

 

「いや、オレは……」

 

「……話、合わせないと襲われたって言うよ」

 

 オレにしか聞こえない小さな声で耳元に囁く。一体全体なんのつもりなんだ。

 

 慌てふためいているオレの態度に警官が訝しげな視線を向ける。

 

 全くもって事実無根の話だ。仮に少女がさっき言った言葉をそのまま実行したとしても、オレが罪に問われることはない、と思うが。

 

 誤解を解くためにはそれなりの時間がかかるだろう。短くても数刻、長ければ夜が明けるまで。

 

 それはよくない。唯を待たせているのだ。オレがいたところで治りが早くなるわけではないが、身の回りの世話をしなきゃいけない。それに泣かれたら困る。

 

「はい、そうです……」

 

「そうか。じゃあ早めに帰るように」

 

 背を向けて去るお巡りさんを引き留めたい衝動が沸き上がったが、ぐっとこらえる。帰るのはもっと先になりそうだ。

 

 少女は身体を離して、得意げな笑みを浮かべる。思ったより逞しそうな子だし、帰ってもいいんじゃないか。

 

「なんであんな嘘ついたの?」

 

「帰りたくなかったから」

 

 得心がいったと同時に舌を巻く。咄嗟にあんな嘘と脅しを考えつくなんて。そして、そんなに家に帰りたくないのか。

 

 オレがいようがいまいが、警察官はどのみち彼女に声をかけていただろう。いくら彼女の舌が回るといっても女子中学生が夜中に一人でいたら補導されるのは避けられない。

 

 結果論ではあるが、さっさと帰っていればよかった。そうすればことは丸く収まったものを。

 

「お腹すいたから何か奢ってよ。年上なんでしょ」

 

「はあ!?」

 

「帰ってほしいんでしょ? 奢ってくれたら考えてあげてもいいから」

 

 オレの姉、美月が考えてやってもいいと言う時はほとんどがNOという意味になる。この女の子はそうでないことを祈るばかりだ。

 

「……なるべく安い所にしてくれよ……」

 

「やった! よろしくね、お人よしなお兄さん」

 

 奢ってもらえると知った途端にこの態度。随分現金だな。

 

 近場のドラッグストアがなぜか全滅していて、二十分もかけてようやく見つけたと思ったら、今度は中学生にたかられる羽目になるとは。今日は猛烈についていない。

 

「ほら早く!」

 

「はあ……」

 

 帰るのはもっと先になりそうだ。ため息をついた後、鮮やかにステップする女の子の背中を追った。

 

 あっという間に豚丼をガツガツと平らげて家出少女は手を合わせた。

 

「ご馳走様」

 

「お粗末様でした……」

 

 人の金だからってトッピングをじゃんじゃんつけてついでに最大サイズの特盛で頼みやがった。別に構わないが。全くもって構わないが。

 

「お腹も膨れただろうし、もう帰って……」

 

「いや。考えてあげるとしか私は言ってないし」

 

 そう来たか。というか、九分九厘こうなると踏んでいた。だったら何故要求を飲んだのかと聞きたくなるかもしれないが、これは仕方のないことなのだ。こういう女性達とは本題に入るためにまず一つ言うことを聞いておかなければならない。そうしないと話すらしてくれないから。

 

 この少女もそういう……そういえば名前すら知らないことに今更気づいた。

 

「キミ、名前は?」

 

「ミドリ。身バレしたくないから名字は言わない」

 

「さいですか……」

 

 ため息を吐くのをなんとか堪える。別に仲良しこよしになりたいわけじゃないがここまで邪険に扱われると気が滅入る。

 

「お兄さんは?」

 

「翼。黒羽翼。生憎バレても困るような大した身の上じゃないから隠さないよ」

 

「ナニソレ嫌み? 年長者の癖して器ちっさ。もっと大らかになりなよ」

 

 …………もう帰ってもいいんじゃないだろうか。こんなに図太い子ならきっと放っておいても……

 

 数日前に起こったあの、事件を思い出す。何人もの人間が首を切られ、あるものはもっと酷い死に方をして、最後は犯人自身も息絶えた残酷な出来事。

 

 あれほどの凶事が起こることはそうそうないだろうが、こんな華奢な女の子くらい飲み込んでしまうくらいの不幸や悪意なんてありふれている。

 

 乗り掛かった舟だ。行きつく先は分からないが最後まで付き合うとしよう。

 

「じゃあミドリ……さんでいいかな?」

 

「ん~何でもいいよ」

 

 彼女はスマホをいじりながら心底どうでもよさそうな声を出した。僅かに見えた画面上にはいくつもの音符が滑っていた。音楽関連の動画でも見ているのだろうか。

 

「こうしよう。キミの頼みを後一つ聞いてもいい。その後帰ることを約束してくれるならね」

 

「ふーん。でももし私が約束を破ったら」

 

「その時は警察に来てもらう。なにかの事件に巻き込まれるよりは補導の方がマシだろ」

 

 オレとてそんなことはしたくないが、やむをえない。家の場所さえ分かっているなら無理矢理でも連れて行くのだが生憎知らない。強引に聞き出すわけにもいかないし。

 

「…………」

 

 ミドリはやや不満げに息を漏らし、黙り込んだ。一体どんな答えが返ってくるのやら。戦々恐々という心持ちだったが。

 

「……いいよ、それで」

 

 意外にも素直な返事だった。拍子抜けしてしまうほどに。

 

「じゃあ聞いてくれるんだよね、お願い」

 

「……まあ、公序良俗に反さず、金がなるべくかからないものなら」

 

「ケチだね?」

 

「こっちは貧乏学生だぞ。石油王じゃないんだ」

 

 金も切実な問題だが、時間の方も重要だ。もう予定より一時間以上遅れている。病気の上に怪我までしている唯をこれ以上放っておくことは出来ない。

 

「ま、いいや。じゃあさ……」

 

 豚丼か牛丼のおかわりだろうか。そういえば唯はお腹空いていないだろうか。最近食が太くなったから心配だ。帰りに何か買って帰

 

「私とデートしてよ」

 

「は!?」

 

 

 

 

 

「は!?」

 

 今何か猛烈に腹立たしい展開が起こっているような、そんな嫌な予感が走って目が醒めた。

 

 時刻は九時半、翼が出かけてから一時間以上経っている。電話をかけようと思ったが、手許にない。さっき投げてしまったことを今更思いだした。拾いに行こうにもそのエネルギーがない。

 

「はーやーくーかーえーってーきーてー!!」

 

 

 

「……はぁ……これいつになったら終わるんだ?」

 

「だってアナタが言ったんでしょ。一つ、お願いを聞くって」

 

 ゲームセンターに連れまわされ(当然オレの金)、コンビニスイーツの買い食いにも付き合わされ(もちろんオレの金)、街中をあちこち連れ回された(タクシーなど移動にかかる費用も……)。

 

「お兄さんゲーム強すぎ。チート使ってんの?」

 

「……筐体でそんなの出来るわけないだろ」

 

 シューティングゲームでスコアを競ったり、格闘ゲームで対戦したりしたが一度も負けることはなかった。体質のおかげでゲームの最小構成単位である一フレームから認識出来るのだ。『小足見てから昇竜余裕でした』というやつだ。

 

 もっともそんな結果の分かりきった勝負で勝ったところで楽しくないし、相手によるが、ムキになって更に時間を喰われることもあるからあまり好きではない。ミドリはどうにも勝ち負けを気にしている様子はなかったが。ただリズムゲームだけは本気で勝ちを取りに来ていたように思えた。思わずこちらも本気になってしまう程に。

 

「あーあ。リベンジしたいのにゲーセンしまっちゃった。次何処行こっかなー」

 

 このままじゃ日が昇るまで帰られそうにない。そろそろ多少強引にでもケリをつけなくては。

 

 意を決してミドリに声をかける。彼女は間延びした声で返事をして、振り向いた。

 

「はい?」

 

「ミドリさん。こんな風にふらついてたってなにも解決しないし、第一キミが楽しくないだろ」

 

 現実逃避したいのか、ただオレを困らせたいのかは分からないが、出会ったばかりの他人を連れまわしても楽しくなどないだろう。ましてやオレなんかが相手では。

 

「……ナニソレ?」

 

「もう帰ろう。待ってくれている人がいるんだ。キミだってそうだろ?」

 

 空気がひりつく。オレの問いには答えずミドリはそっぽを向いた。その反応を見て自分の失言に気づかされた。この少女は家出までしたのだ。少なくとも居心地のいい家ではないだろうし、最悪誰も待ってなどいないかもしれない。こんな知った風な口を利かせれば嫌気が差すに決まっている。

 

「……待たれたって、こっちは帰りたくないんだよ」

 

 泣きそうな声をして小さな背中を震わせる。それが収まったのと同時に彼女は逃げるように駆けだした。

 

「ちょ……」

 

 呼びかける間も、謝罪する間もなく後ろ姿は夜の中に消えていく。その気になればすぐに追いつけるだろうが……

 

 時刻は十時半。もう家を出てから二時間以上経っている。あれからまだ電話はかかっていないが、むしろそれが気がかりだった。ひょっとしたら病状が悪化して電話することも出来ないのかもしれない。

 

「……」

 

 もう潮時だろう。見ず知らずの他人よりも大事にしなきゃいけない相手が自分にはいる。それに他人の家の問題にまで首を突っ込む権利も義理もない。やれるだけはやった。それでダメなら仕方がないじゃないか。

 

 踵を返し、家に帰ろうとして、唯と顔を合わせた時の自分を想像した。

 

 この有様でちゃんと胸を張って会えるだろうか。やるだけやったが上手く行かなかったから見捨てました、とでも言うのか。

 

「……嫌だな、それは」

 

 ため息を気が済むまで吐いて、走り出した。

 

 




一章の後日談というかなんというか。本筋には関わらない番外編のような話です。
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