悲観主義者でも空は青い   作:無知無知

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微かな希望

 屋上で仰向けになって、空を見上げながらさっきの出来事を考えていた。

 

「記憶喪失……」

 

 八年もの間探し続けた幼馴染みはオレだけでなく八歳以前の記憶を全て失っていた。再会は叶い、失踪の疑問は解けた。それでも胸に穴の空いたようなこの痛みは収まらない。

 

 悲しいのだろうか。だとしたら何に悲しんでいるのだろう。彼女がオレのことを忘れてしまったことか。いや、それもあるが一番の理由じゃない。

 

「…………辛そうだった」

 

 あんなにキラキラと輝いていた音羽唯が心細そうに震えて、悲しい表情をしているのを見るのが辛かった。

 

 普段どんな風に過ごしているのだろう。オレの前だけじゃなく家や学校でもあんな風に悲しい顔をしているのだろうか。

 

 それにしても彼女はオレともう一度会いたいと、遠慮がちにそう言った時は酷く驚かされた。もうオレには彼女と会う資格がないと諦めていたから。『幼馴染みなのだからまた会わせてくれ』なんて押しつけがましいこと言えるはずがない。

 

 考えている間にすっかり周りが暗くなっていた。どれくらいの間ここにいたのだろう。

 

「帰るか……」

 

 立ち上がって家の方に視線を向ける。何はどうあれ唯とまた顔を合わせられるのは嬉しい。なにか悩みを抱えているようだったし助けになれればいいのだが。

 

 少し弾んだ気持ちで走り出す。曇天ばかりの人生に、ようやく光明が差したような感覚がした。

 

 彼と別れた後私も家に帰った。外観も内装も特筆するようなことがない7階建てのマンションの一室。ここで母さんと私は暮らしている。マンションである以上シングルマザーが買うには高い物件なのだろうから母さんは凄く苦労しているのだろう。そのことを思うと申し訳なさで胸が苦しくなる。

 

 扉を開けて部屋の中に入る。薄暗かったがキッチンに明かりが点いている。母さんがいるみたいだ。近づいて声をかけた。

 

「……ただいま」

 

「……おかえり」

 

 母はいつも通りこちらに目を合わせず無表情で返事をした。

 

 母は、音羽冴耶は、藍色のスーツを着たまま黙々と野菜を刻んでいた。いつものように仕事帰りで着の身着のまま料理を作っているのだろう。大変だろうから私も手伝う、と何度も言ったけれどその度に撥ね除けられてしまってもう今は諦めている。

 

 規則的に流れ続ける包丁の音を聞きながら息を整える。母さんに個人的な質問をすることなんて久しぶりだから緊張する。

 

「……ねえ、母さん」

 

「……なに」

 

 平坦な声は否応なく分厚い壁、隔たった距離を感じさせる。生まれてからずっと一緒に居るはずなのになぜこうも他人行儀なのだろう。

 

「……あ、あのね母さん。私、昔の……私が記憶をなくす前の知り合いっていう人に会って」

 

「……」

 

 ぴたりと包丁の音が止んだ。何を話しても眉一つ動かさない母にしては珍しい反応だった。

 

 やっぱり母さんはなにか隠していた。さっき翼という少年と会ってから抱いていた疑念は確信に変わった。

 

「……その人が何度も私に連絡しようとしてたって言っていたけど、母さんはなんで教えてくれなかったの?」

 

「……そんなこと知らないわ。嘘をついているんでしょう」

 

「……そんなこと……ない……!」

 

 頭ごなしに否定されたこともイヤだったが、彼が嘘をついているというのが何より受け入れがたかった。

 

「……いいからそんなこと忘れなさい……昔のことなんて思い出さない方がいいんだから」

 

 母さんはようやくこちらに視線を向けた。いつもの平坦な声で語られた言葉なのにいつもより少しだけ重みを感じる。

 

 結局いつもこれだ。記憶をなくす前のことを聞いても『今となにも変わらない』、父親は誰なのかと聞いても『そんな人はいない』の一点張り。私の質問になにも答えない。せめて答えられない理由を教えてくれれば納得出来るのに。

 

「……でも」

 

「……知らないって言ったでしょ。同じことを何度も言わせないで」

 

「…………」

 

 母さんはそう言ったきりもう私に目を向けることはなかった。いつもと同じ。母さんに答えてもらえると思ったのが間違いだった。

 

 部屋に入って鞄とブレザーを放り投げ、ベッドに腰掛けた。どうしようもなく憂鬱な気分になって枕元に置いていたカッターナイフを拾い上げる。

 

「……」

 

 死にたいとまで思うことはそう多くないが、なぜ生きているのかは時々分からなくなる。人を信用できないから誰にも信用されない。楽しいと思えることもない。実の親ですら私を見てくれない。

 

 死んでしまえば楽になれると思って刃を手首に突き立てることがある。もちろん力は入れないし、そんな勇気もない。けれどその気になれば人生という舞台から降りられると思うと少しは気が楽になれた。

 

 それにもし死んじゃいそうなくらい血を流せば、母さんが振り向いてくれるんじゃないかという期待もある。

 

 昔高熱を出したとき母が仕事を休んで付きっきりで看病してくれたことがあった。本当に苦しくて頭が割れそうなくらい痛かったけれど母さんがずっと私を見守ってくれた。起きている間はあまり触れてくれなかったけれど、眠りについたフリをすると優しく頭を撫でてくれた。あの時ほど幸せを感じたことはない。

 

 一度だけ誕生日を祝ってくれたこともあった。十歳の時だった。

 

 真っ暗な部屋の中で蝋燭の火を吹き消して、ケーキを一緒に食べた。イチゴが乗ったチョコレートケーキ。蝋燭を一度じゃ全部消せなくて何度も必死に息を吹いた。橙色の明かりに照らされた私を見る母さんの目はとても穏やかだったことをよく覚えている。

 

 私は母さんが大好きで大嫌いだった。いつも無関心で何に対しても答えてくれないのに時折優しい顔を見せてくる。いっそのことずっと冷たく接してくれれば憎めたのにそれすら許してくれない。

 

 キリキリと音を立てながら刃を出して、それを手首に当てる。意識が刃を当てている皮膚に集中していって視界が狭まる。そのままぐっと力を入れようとした瞬間、電話のコール音が鳴った。

 

 驚いた弾みでカッターナイフを落とす。正気に戻って青ざめながら着信表示を見た。

 

「……あ」

 

 間違いなくあの少年、翼のものだった。さっき必死に暗記したものだからすぐ分かった。震える指で通話ボタンを押して声を絞り出す。

 

「……もしもし、音羽、です」

 

『ああ、唯? 繋がってよかった。ごめん急に電話かけて。驚いたよね』

 

「……そんなことない、です」

 

 驚きはしたが、それ以上に胸が躍っていた。こちらから連絡をかけるのは気恥ずかしいし恐れ多いから助かった。

 

「……ど、どんなご用ですか?」

 

『また会おうって言ってくれたでしょ。都合のいい日とかあるなら聞いておこうかなって』

 

「…………」

 

『……聞こえている?』

 

 涼しげな声に惹かれて完全に思考が止まってしまっていた。慌てて返事をする。

 

「……え、ええ! そうですね、えっと……」

 

 学習塾は火曜と木曜に通っていて、他の曜日は文芸部に出入りしている。正直何をやるでもなくただ本を読んだり喋ったりするだけのたまり場みたいな所だが案外気に入っていた。

 

 友人と言えるような人間はいないがたまに話しかけてくれる人がいて苦手なタイプの人間がいない。私が学校で落ち着ける数少ない場所の一つだ。

 

 だがいつも顔を出しているわけではないしその必要もない緩い部活だ。空けようと思えば空けられる。

 

「火曜、と木曜以外はいつでも大丈夫です……あ、もちろん放課後っていう意味で」

 

『うん、分かった。じゃあ……二日後でどうかな? 待ち合わせ場所は最初に会ったあの駅で。あそこオレの帰り道の途中にあるし、唯も帰るとき通るんだよね?』

 

「………………」

 

 どうしてかこの人に名前を呼ばれると頭がぼうっとしてしまう。訳が分からないくらい胸がかき乱されてしまうのに、それがちっとも嫌じゃなかった。

 

『唯、大丈夫?』

 

 電話越しでも感じる暖かい気持ち。それにあてられて熱を帯びた頭は冷静な判断が出来なくなっていた

 

「……名前、が」

 

『名前? ああごめん。会ってすぐだっていうのに馴れ馴れしかったよね……音羽さんって呼んだ方が……』

 

「……呼んでくれるの、すごく嬉しい、です」

 

 自分が途轍もなく恥ずかしいことを言っているのは自覚していたがそれでも言わずにはいられなかった。

 

『……そう、ならよかった。うん。それならいいけど……』

 

 若干、というかかなり引いているような声音でさっと頭の中が冷える。気持ち悪いやつだと思われたらどうしよう。

 

「えっと、別に今のは深い意味とかはなくて、そ、そのただ嬉しいなって思って……」

 

 早口の弁明を彼は笑い流した。

 

『キミは面白いね。本当にそう思うよ』

 

「……ほ、褒められている気がしません……!」

 

 ちょっとむかっ腹は立ったが不快感はない。私も釣られて笑っていた。

 

『じゃあ二日後の午後……四時半くらいでどう?』

 

「だ、大丈夫です」

 

 

 

『じゃあおやすみ、唯』

 

「……おやすみ、なさい、翼」

 

 電話が切れる。名残惜しいがそれよりも明後日のことが楽しみでにやけ顔が止まらない。ばたばたと子供のように足を振ってしまうくらいに嬉しかった。けれどその途中なにかがつま先に当たった。

 

「いたっ……」

 

 足下に視線を向けるとカッターナイフが落ちていた。さっき落としたのを忘れていた。

 

 刃を手首に押し当てて自己憐憫に浸っていたさっきまでのことを思い出して、また粘着質な絶望が頭の中を這い回り始めた。こんな馬鹿みたいなことをやっている人間と知ったら彼はどんな顔をするだろうか

 

 ナイフを拾って勉強机にある引き出しを開ける。こんなことをやっている事実そのものを消し去るために奥の方へ、見えないところにねじ込んだ。

 

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