周囲にはオレと同じように制服を着た人間がちらほら見える。顔見知りではないが同じ学校の生徒も通っていた。この場を見られたら少し気まずいなと、珍しく恥ずかしさを覚えた。
今日学校で明にからかわれたことを思い出す。
『翼、随分ご機嫌だね。趣味を見つけたのかい? それとも恋人?』
普通にしていたつもりだがどうやら外から見ると浮ついているのが丸わかりだったらしい。反論はしたが何を言ってもニヤニヤと笑ってくるから、しばらく口を利かないことにした。子供っぽい対応であることは自覚していたがオレも我慢できない時くらいある。
しばらく待っているとコツコツと小さな足音が近づいてきた。
「……あ、どうもこんにちは、です」
「こんにちは、唯」
おどおどとした調子で挨拶した彼女に立ち上がって返事する。改めて見ると彼女の容姿は昔から大きく変わっていた。顔立ちこそそう変わっていないが輝いていたブロンドヘアは真っ黒に染まっている。目を覆う一歩手前まで伸びている髪と黒いフレームの眼鏡で表情が分かりづらい。
八年の間に視力が落ちてしまったのだろうか。髪も黒くなったのか?
「ねえ、前から気になってたんだけど……」
「……はい?」
「その髪の色、とか眼鏡とかどうしたの? 昔は金色だったし、眼鏡もつけてなかった」
そう問うと彼女は猫のように目を丸くしてから破顔した。
「……えへへそうなんです! 中学までは眼鏡もかけてなくて、髪も染めてなくて……ちゃんと知ってるんですね……」
「?」
なぜそこで喜ぶのかと首を傾げると、唯は俯いて低くか細い声を出した。
「…………母さんの嘘つき……」
僅かに見えた表情には恨みと失望が滲んでいた。呆然とそれを眺めていると彼女は慌てて顔を上げた。
「……ごめんなさい。なんでもないんですただ」
キュルルと可愛らしい音が鳴る。何事かと考えている間に彼女の顔はみるみる赤く染まっていった。
「……お腹空いてるの?」
「……お、お昼、あんまり食べられなくて……」
心底恥ずかしそうにきゅっと口許を結んだ。オレが知っている音羽唯とはまるで違う仕草に心が揺らされる。
「じゃあご飯でも食べようか。駅から出ればなにかあるでしょ。立って話すのもなんだし」
「は、はい。そうしましょう」
彼女がキラキラと表情を明るくして頷く。つい昔の癖で手を引こうとしかけたがなんとか自制した。そんなことが出来る間柄ではないことを忘れかけていた。
駅を出て手近な店を探している間、後ろから付いてくる唯のことを考えていた。
自分は彼女をどうしたいのだろうか? 助けになりたいと自分に言い聞かせていたが本当は昔のように恋仲になりたいなんて下心を持っているんじゃないだろうか。
だとするならば今すぐ彼女から離れるべきではないか。今の彼女は昔とは違う。オレじゃない人間をこれから好きになるかもしれないし、もうそういう相手がいるかもしれない。
「翼、さんっ。ちょっとっ歩くの速くてっ……待っ……て」
ハッとして振り向くと彼女が息を切らしながらオレの制服の裾を掴んでいた。彼女の歩くペースをまるで考えていなかった。
「ごめん……全然気づいてなくて」
「……だい、じょう、ぶ、で、すっ」
全然大丈夫そうじゃない。さっさと座れる場所を見つけようと視線を巡らせるとちょうどいい店が見つかった、が。流石にこれは……
「……えへへ、美味しい、です」
「喜んでくれて何よりだけど……そんなに?」
唯は満面の笑みでポテトをちまちまと口の中に運ぶ。確かにマクドナルドはオレも好きだがここまで喜ぶのは少しハードルが高い。小学生くらいまでなら話は違ったが……
そこで気づいた。幼少期の記憶がないということは子供らしくはしゃいだ経験も親から無条件に愛された過去も持っていないということ。外見は年相応でも内面はもっと幼いのではないか。
「……こういうところ数えるほどしか連れられてきたことないし、自分から足を運ぶこともないから、なんだかワクワクしちゃいます……」
「そう、なんだ。本当によかった……」
段々と彼女が心配になってきた。明らかに人慣れしていない態度。たどたどしい言葉遣い。世間知らずな言動。悪意を持った人間に目を付けられたらあっさりと騙されて酷い目に遭わされてしまいそうだ。
そもそも普通なら『記憶を失う前のあなたを知っている』なんて言われても信じない。少しは警戒してもいいだろう。
「その、大丈夫? 人に騙されやすかったりとかしない?」
「? 大丈夫、ですよ」
今の彼女らしからぬ確信を持った口調だった。
「……私、昔から人が考えていることとか、どんな人なのか、とか、なんとなく分かるんです……分かる気がするっていうだけなんですけど……でもあんまり外れたこと、ないんです……」
その言葉でようやく思い出した。彼女は人の心を読む特殊な力の持ち主だった。こんなことを忘れるとは自分でも驚きだが、それも仕方ないかもしれない。
今と違い八年前の彼女はどこか超然とした態度を取っていてなにか特別な力を持っていても不思議ではない、と思わせるなにかがあった。
しかしこの口ぶりではどうやら自分の力をはっきりと自覚できているわけではないらしい。彼女の母親は確か知っていたはずだが……
「その、変な話をしてもいいかな?」
「……はい?」
「唯は昔、触れた人の心を読むことが出来たんだ」
馬鹿馬鹿しい科白だとは自覚しているがこれしか言い様がない。
「……やっぱりそうだったんですか」
すんなりと受け入れられるとは思っていなかったが、彼女は素直にオレの言葉を受けとめた。
「……人に触られるといつも気持ち悪い感じがするんです。なにかが頭の中に入ってくるような……」
初耳だ。昔唯から話しを聞いた時はそんなことは言っていなかった。それに触れて苦痛を感じているような素振りも見たことがない。
「私、それが嫌で人と関わるのが怖くなっちゃって、体育の授業とかも受けられなくて……」
彼女は訥々と自分の人生を語る。初めて話すからかその語り口は綺麗とは言えなかったが、彼女が感じてきた悲哀と絶望は十分伝わった。
「お母さんからはそんなの全部妄想だって言われてたからずっと自分が狂っているんだって……いつも思ってて……」
聞かされていないだけじゃなく、嘘までつかれていたとは。一体何のために。娘が苦しむとは少しも思わなかったのだろうか。
「嘘じゃないんだよね……信じてもいいん、だよね……?」
縋るような視線、か細い声を否定することなど出来なかった。たとえ嘘だったとしても頷いていたと思う。
「……うん、本当だよ」
彼女は本当に嬉しそうに口角を上げてじっと自分の手のひらを見つめていた。そして遠慮がちに質問する
「……あ、あの、手、触っていいですか? 確かめたい、から」
「いいけど……」
心臓がドクンと脈打つのを感じたが平静を装って手を差し出した。そこに彼女の柔らかい手の平が重なる。
「……とっても暖かくて安心、する。……アナタも特別なの?」
「えっ、ああ! うん、そうだけど……」
病的なまでに白い華奢な手。細い指が震えながらオレの手に絡もうとする。どこか蕩けたような声はとても色っぽくて否応なしにどぎまぎさせられる。
「照れてるんだ……ふふふ」
唯はそう言いながらも顔を真っ赤にして手を離した。多分オレも似たような感じになっているのだろうけれど。
「……翼はずっと、私のこと探してくれてたんだ……? 八年間ずっと」
「……うん」
「……本当に嬉しい。ずっと一人だと思ってたから……」
そう言うと彼女はポロポロと大粒の涙を流し始めた。泣きながら笑っている。
あまりに痛ましい姿だった。八年の間、この少女は一体どういう人生を送ってきたのだろう。
ずっと気になっていた。唯はどういう風に暮らしているのか。連絡が取れなくても、二度と会えなくてもせめて元気でいてくれればとずっと祈っていた。
現実は違った。彼女は自分が何者かすら知らずに自身を異常だと思い込んだまま、孤独に彷徨っていた
何故なのだろう。口ぶりからして彼女の母親は健在らしい。知っていた筈なのになぜ彼女の力のことを教えてやらなかった。なぜオレの連絡は届かなかった。なぜオレに教えてくれなかった。
憤りすら覚えたが、結果は結果だ。受け入れるほかない。なにかやむを得ない理由があったのかもしれないのだし。
眼鏡を取りゴシゴシと袖で涙を拭う唯にハンカチを差し出した。こんなことしか出来ない自分に果てしなく無力感を覚える。
「……いる?」
「ご、ごめんなさい」
眼鏡を外したおかげでさっきより目元がよく見えるようになった。澄み切った碧い瞳は今も昔も変わっていない。それで一つ疑問を思い出した。
「……オレばっかり質問して悪いんだけど……なんで眼鏡つけてるの? 視力が落ちたとか?」
「……えっと、目は悪くないんですけど……色が違うのを人に気づかれると、近寄られるから……それが嫌で」
「……じゃあ髪も?」
「染めてます……地毛だって学校には言ったけど結局通らなくて……髪は傷むけど、目立たないし……」
俄には地毛と信じにくい髪色だが染めることを強制するのはあんまりじゃないか。今時そんな教員がいるとは。母親も母親だ。なぜ娘を庇ってやらない。
不快な事実に舌打ちしたくなるほど腹が立ったが堪えた。ここで怒っても彼女を怖がらせるだけだ。
「……眼鏡くらいは取ってもいいんじゃないかな? 視界が狭くなって邪魔でしょ」
「でも……」
「それに……ほいっと」
口ごもりながら反論しようとしている彼女の隙を突いて、眼鏡をヒョイと取り上げる。
「あっ」
「うん。やっぱりない方がいいと思うよ。せっかく綺麗な目してるのに勿体ない」
大きくて碧い瞳は透き通った海か星空みたいにキラキラと光を反射させている。これを隠したままでいるのは世辞抜きで勿体ないと思う。
唯は耳まで真っ赤にして恥ずかしがった。本当にからかい甲斐のある子だ。昔の唯にはいつもからかわれてばかりだったから逆転できて愉快な気持ちになった。
「……し、知らない……」
あまり迫力のない怒り顔を見せながらオレの手から眼鏡を取り戻した。けれど眼鏡はつけ直さずにぽつりと呟いた。
「か、考えとく……」
「いつの間に敬語なくなっているね、唯」
「意地悪だから、もう使わない……」
その後も長い間話し合って、気づいたら六時手前まで時間が進んでいた。まだ話したいことはあったが、彼女の親が心配するといけないから今日はお開きということにした。
「結局オレが聞いてばかりだったね。本当にごめん」
「……ううん。楽しかった、し、まだ聞ける機会はこれからもあるん、だよね?」
「うん。キミがよければ喜んで」
遠慮がちに手を振って去って行く唯を見送る。色々気がかりなところはあるが笑っている彼女を見て安心した。
再会が叶ってから、それこそ夢みたいに色々なことが上手く運んでいるように感じる。
このままならきっと何もかも元通りに、唯の記憶だっていつか―
「……雨」
冷たい雨が頬を伝う。いつの間にか雨雲が立ちこめていたようだ。
ポツポツと降っていた小雨は次第に勢いを増して、いつの間にか大雨と言えるようなものに変わっていた。
雨から逃れるため物陰に走る。天気などで未来の出来事を想像して一喜一憂するのは馬鹿馬鹿しいことだと理解はしているが、なにか不穏なものを感じずには居られなかった。