Blue Archive / The Dark Knight: Requiem 作:藤子F藤浪
「お待ちしておりましたよ、暁のホルス──いえ、ホシノさんでしたね」
遮光カーテンに覆われ、僅かな光だけが隙間から零れ落ちる薄暗い部屋。ホシノはその最奥で、一人の「大人」と対峙していた。
大人と言っても、あの先生のように、生徒に対してどこまでも善良であろうとする手本のような存在ではない。倫理も道徳も、キヴォトスの法すらも嘲笑い、ただ自身の探求のためにすべてを天秤に掛ける。ホシノが最も嫌悪する人種だった。
「黒服……今度は何の用なのさ」
「色々と状況が変わりましてね。……再度、アビドス最高の神秘を宿すホシノさんに、有益なご提案をと思いましてね」
ひび割れた顔の奥から、品定めするような、こちらを人格ではなく単なる「実験体」としてしか見ていない下賤な視線が注がれる。そこには、子供を相手にする大人特有の、悍ましいほどの余裕が満ちていた。──虫唾が走る。
「提案? ふざけるな……! それはもう、二度と受け入れないと──」
「おっと、どうか落ち着いてください。貴方にとっても、決して悪くない話ですから」
黒服は激昂しかけたホシノを窘めるように、酷く穏やかな声で宥める。
──きっと、この反応すらも奴の想定通りなのだ。戸惑うことも、怯むこともない。ただ淡々と、冷徹な作業のように私との会話を誘導しているだけ。
ホシノは、深く息を吐いて冷静になろうと努める。
自分の知る、キヴォトスで最も賢く、最も用意周到なあの男なら、きっと今この瞬間も感情を殺して敵を観察するだろうから。
「……私の、お気に入りの映画にこんなセリフがありましてね。今回はそれを引用してみましょう。──『貴方に、決して拒めない提案をひとつ』非常に興味深い内容だと思いますので、どうか最後までご清聴下さい」
喜悦に歪む黒服の顔を、ホシノはただ静かに見据える。それが今、この場における最も賢い選択だと信じたからだ。
「──ああ、それと。おしゃべりはここまでにしておきましょうか」
黒服が徐に立ち上がり、自身の背中を部屋の壁へとぴったりと預ける。その奇妙な行動の意味を、ホシノの直感が探ろうとした、まさにその瞬間だった。
──気がついた時には、すでに遅かった。
首元に、ぞっとするような鉄の冷たさが完全に密着していた。
「クックック……実に見事なタイミングですね。狙ったのですか?」
「私を誰だと思っている。──狙ったに決まっているだろう」
黒服のねっとりとした声とは違う、嬉々とした、まるで理想の玩具を見つけた子供のような──剥き出しの、純粋な殺意が背後からホシノの身体を縫い止める。
(ああ……私は、ずっと愚かなままだ)
誰も信用できないと理解していたはずなのに。またしても、他人の底知れない悪意を見抜くことができなかった。
──ねえ、ユウリ。
どうやったら、君みたいになれるの?
ユメ先輩の死が私を強く、冷たくしたのだとしたら……君は一体、どれほどの地獄を潜り抜け、どんな代償を払ってその『仮面』を手に入れたの?
教えてよ、ユウリ……。
■
「明日の昼は、何も用意しなくていい。外で済ませてくる」
ユウリ様が突然そんなことを仰るので、私はポカンと口を開けるしかありませんでした。
……外食? あの、徹底して無駄を省き、味気の無い栄養摂取だけで生きていけるようなユウリ様が、ですか? 聞き間違いでしょうか…………?
「言っておくが、聞き間違いじゃないぞ。アビドスの件で、新しく護衛を雇っただろう? スレイドの情報を、彼女たちにも早急に共有しておきたくてな」
……ああ、なるほど。
ぽんと掌を叩き、納得の意を示す。どうやら、純粋なプライベートで外食をするわけではないようで安心しました。もしそんな「奇跡」が起ころうものなら、キヴォトス中の大事件です。私は今すぐ山のようなクラッカーを買い込み、ユウリ様の好物であるロブスターの丸焼きを準備したことでしょう。
……しかし、納得したからといって、肝心なことを聞き流すわけにはいきません。
「その、お相手の方々は──全員、女性ですよね?」
「そうだな」
「では、ダメです」
「…………何故?」
ツンとそっぽを向いた私を見て、ユウリ様は心底不可解そうに眉を寄せ、困った顔をする。
だって、そうでしょう?
「ユウリ様。いくら巷では『大富豪のプレイボーイ』などというデタラメな名を冠していても、年頃の女性たちと不健全なお付き合いをするべきではありません」
「……俺は誰とも交際していないはずだが」
本当にそうでしょうか。
様々な業界の社交パーティーからチャリティーイベントに至るまで、ユウリ様の傍らには常に群がるように誰かしらの女性の姿があります。玉の輿を狙っている連中はともかくとして──本当に恋をしてしまっている方々は、かなり厄介です。
恋は、無邪気な少女を「一人の女性」に変えてしまう。私はそれを、身をもって知っているわけですから。
「ユウリ様。このキヴォトスで、貴方と最も多くの時間を過ごしている女性は誰ですか?」
「……君だ」
「ユウリ様の、二年前のあの未熟な一年目の失敗も、隠したい黒歴史も、すべてを熟知している女性は誰ですか?」
「……………………君だ」
「では、ユウリ様がこの世界で、最も愛している女性は誰ですか?」
「君……なのか?」
「──そういうことです」
「どういうことなんだ、一体」
よろしい、と一まず深く頷きつつも、私は警戒を怠りません。
この自覚なき「初恋キラーマシーン」が、本当の意味で恋愛を理解し、その身の振り方を改めるまで、彼の周囲で発生する被害者の数には歯止めがかからないことが分りきっているのですから。
「──ということがあった」
『柴関ラーメン』のカウンター席。注文したラーメンを待つ間、先ほど自宅で交わしたトキとのやり取りを、便利屋の面々に話していた。ほんの軽い気持ち──相談などという重苦しいものではなく、単なる雑談の話題を提供するつもりだったのだが…………。
「……本気で言ってる? 誰かを弄んでるとかじゃなくて、天然でそれ?」
「うわぁ……流石の私も、ちょっとそれは引くというか、なんというか………」
「あ、あの! あまり、そういう、女性の心を弄ぶのは、よ、良くないと思います……っ!」
「え、えっと……? それって、惚気ってやつよね……!?」
…………ふむ。どうやら私の意図が正しく伝わらなかったらしい。
四人四様の、ひどく困惑した視線が突き刺さっている。
「惚気というのは、世間一般的には恋人や妻のことをいい気になって話すことだろう?別に今の話はそれに該当しない筈だ」
「………住んでる世界が違いすぎて、色々おかしくなってるとか?カヨコっち、何か適当な問題出してみたら?」
「えぇ……じゃあ、123,456,789×999,999,999÷111,111,111は?」
「1,111,111,101」
「はやっ!?」
これで俺の脳に異常はなく、思考が正常に機能していることは証明されたわけだ。
ちなみに今の算式は、先に後半の割り算を処理して9を導き出し、123,456,789×(10-1) の形に変形すれば暗算も容易い。根本的な仕組みさえ理解すれば小学生でも瞬時に解ける、構造の美しい良問だ。
「じ、実はあまり恋愛経験がない……い、いいえ!す、すみません!!滅相もないことを言ってしまって!!」
「ハルカっち~、それはないよー。だってプレイボーイって言われてるんだよ?ね、ウェインちゃん?」
「──そうだな。確かに仕事柄女性と関わる機会が多いのは事実だが、それが恋愛感情にまで発展したことは……一度もないかもしれない」
思い返せば、確かに恋愛と呼ばれる経験をした覚えがない。
女性に言い寄られることや、想いを告げられることはあっても、逸らし続けてきた。
──バットマンである以上、それは不要なことだと思ったから。
ブルースは、俺はそれを教えなかったから。
しかし……この反応を見るに、それは些か不自然なのかもしれない。
「じゃあ、女性と遊ぶことすらしてないの?………それのどこがプレイボーイ?」
「分からない。愛想を振りまいていたら、いつの間にかそう呼ばれるようになった」
「振りまいてた自覚はあるんだ?」
「俺が手本にしていた人がそうしていたからな」
自慢げにそう答える俺とは対照的に、4人は「理解できない」とでも言いたげな顔……トキが言うところの「ドン引き」の表情で、先程までの興味は鳴りを潜めた冷めた目を使いだした。何故だ。
「──へい、おまち」
そうしていれば、いつの間にか暫しの時間が過ぎていたようで、テーブルには人数分の山盛りのラーメンが並んでいた。大将と呼ばれる、この柴関ラーメンの
そして、俺はここの看板メニューであり、店名にもなっている柴関ラーメンに対面した。
凄い、と心の中で純粋にそう感嘆した。こんな食べ物は生まれて初めて見た。しかし、その感動を共有しようと便利屋のメンバーを見渡せば、「来たあ!!」とただ到着したことに喜ぶムツキやアル、さっさと食べ始めようとするカヨコやハルカの姿が映る。
──ああ、そうか。彼女達はこの食べ物を知っているのか。
簡単な答えながら、面白いと思った。自分の世界にはなかったものが、別の人……世間の大多数には知っていて、ある種普遍の象徴的な要素まで含んでいる。しかし、俺は今までそれを知らなかった。ブルースと生活する最中も、バットマンとして生きてきた今までにも、必要になる瞬間がなかったからだ。
人との繋がりで新たな世界が広がるのなら、俺は今までどうやって自分の世界を切り開いてきたのだろう?
ブルースが教えた?だが、あの人は俺と似ている。自分に必要なこと以外を知ろうとはしない人種だ。なにより、育てられた俺があまり世の中の所謂、日常を知らないのだ。
では、ルーシャス?……それも違う気がする。確かにブルースがゴッサムへ戻った後、彼は俺にとっての親代わりの様な存在だった。しかし、彼は俺に富豪としての地位や資金の提供を手助けしても、直接何か影響を与えることはなかった。支援はしても、直に俺という人間の内面にまで干渉することはなかった。
「ん?食べないの?ウェインちゃん」
「………いや、その……どうやって食べるのかが分からない」
「マジで?」
──一体、俺は誰に影響されたのだろう。それだけが不思議で仕方がない。
「いやぁー!ムツキちゃん満腹!これで暫くは何も食べなくて済むかも?」
「甘いわねムツキ。今の私達にはウェインさんという強力なパトロンが居る……朝昼晩も可能よ」
「一日三食ラーメンは馬鹿だよ、アル」
「あ、アル様が望むなら、私は何でも……え、えへへ………」
食後に飲む冷えた水の喉越しを感じながら、便利屋の仲睦まじい会話が聞こえる。内容から推測するに、普段はあまり食べていないのだろうか。というより、食費の金すらない?彼女達程の実力があれば、そこそこ依頼も来そうなものだが……
「でも、こんなに美味しいのにお客さんはいないね」
「場所が悪いんじゃない?廃校寸前の学校の近くだし。……そういえば、ここに”本物”の社長さんがいるんだった。ウェインちゃんの推測的には何かあったりする?」
「ちょっと、まるで私が偽物の社長みたいに聞こえるんだけど?」
「えぇー、アルちゃんの名前なんて1ミリも出してないけど~?」
クフフと小悪魔的な笑みを浮かべるムツキと憤慨するアルを尻目に、俺は「そうだな」と前置きした上で、少し探偵気取りで推論する。
「………やはり、立地が大きいな。アビドスは土地面積に対して極端に人口が少ない。飲食業に限った話ではないが、そもそものアビドス由来の自営業を含めた企業数もかなり少ない。しかも、ほとんどがここのような個人経営の小規模なものだ」
「へぇ、つまり単純な立地というよりも、アビドスそのものに問題があるってこと?」
「それもあるが、一番はカイザーのせいだろう。アビドスの産業を資金力に物を言わせて根絶やしにして、新たな芽も摘もうと画策している。古くからある商店街が新興の巨大デパートの影響で廃れるのは聞くだろう?カイザーはあれをアビドス相手にやってるんだ。かなり悪質な方法でな」
「柴関ラーメンにもその手は及んでいるかもしれない」と付け加える。可能性としてはあり得ない話ではない。先生に付けた盗聴器から聞いた話によれば、この柴関ラーメンでアルバイトをしている黒見セリカを誘拐したのはヘルメット団。そして、その裏にいるのはカイザーだ。非効率的でも、アビドスや対策委員会の不利益になるならば、カイザーはやるだろう。
──その目的は何だ?
そもそもの話、何故奴らはここまでしてアビドスを狙う。広大な土地の為?更なる影響力、存在感を強くする為?……アビドスを狙う理由としては弱い。アビドスが学園として弱いことを加味しても、ここまで躍起になっているなら、理由は他にもある筈だ。
俺は……いや、”私”は何を見落としている?
現在進行形で啜っている筈のラーメンの味すら分からなくなる程、思考が深くなっていく。判明しないそれはただの杞憂に過ぎないのか、或いは私が致命的なミスを犯している証拠なのか。
深く、深く底なしの思考の沼に没頭し、とうとう無意識に食べ進めていたラーメンの器が空になった頃、デバイスに搭載されたGPSの機能のある違和感を発見した。
(──ホシノ)
GPSの指示していた位置は、カイザーが所有するビルの一室。
何故、彼女がここに──
そして、そこには
──
キヴォトスに住む生徒たちが普遍的に宿す力。ブルースや先生のような外の世界の人間がたった一発の銃弾で命の危険に晒されるのに対し、ここの生徒たちは掠り傷程度で済む。その性質や強度には個人差があるが、ホシノはその中でも「別格」とまで称される神秘の持ち主であったはずだ。
──狙いがホシノだとすれば?
納得はできる。
──では、行くしかない
脳の最奥に響く指令に導かれるように、俺は席を立ち上がった。上着のポケットから財布を抜き取り、中から無造作につかみ出した厚みのある紙の束を、カウンターへ叩きつける。
「すまない、急用が入った。それだけあれば足りるだろうか」
「…………え?」
アルがユウリの置いた札束を手に取り、ポカンと口を開けたまま一枚ずつ数え始める。その金額、ざっと十万円。どう見てもラーメン五杯分には多すぎる暴挙に動休しながらも、大富豪の嫌がらせか何かかと疑ったが、ユウリの表情は真剣そのものだった。どう反応すべきか分からないまま、アルは上擦った声で返答する。
「た、足りるっていうか……えっと、お釣り──」
「大した額じゃない。取っておいてくれ」
それだけを言い残し、文字通り風のように店を飛び出していったユウリの後ろ姿を、便利屋の面々はしばらくの間、ただ呆然と見送るしかなかった。
「……どうする? 社長」
「う、うーん……まあ、いいんじゃないかしら? ほら、報酬的な何かよ、きっと!」
『まあ、貰えるものは貰っておこう』
全員が口にせずとも、阿吽の呼吸で一致した結論に至った一同は、再び目の前のラーメンに箸を伸ばした。まさか、先ほどまで同じ卓でラーメンの食べ方に頭を抱えていた世間知らずの少年が、今この瞬間、漆黒のコウモリのマスクを被ろうとしているなどとは、夢にも思わずに。
バットコンピューター、および低軌道衛星と常時接続された戦術AIが、リアルタイムの空間情報をスクリーン上へ目まぐるしく投影していく。それを冷徹な瞳で確認しながら、バットマンはさらにアクセルを踏み込んだ。
GPSの光点が、絶えず移動している。
三次元的な高低差、建物から市街地への激しい変位。ログの乱れを見るだけで、そこがどれほど過酷で、凄惨な戦場になっているかが容易に想像できた。
(戦闘は、既に始まっている──)
最悪の結末が脳裏をよぎる。そして、現在の私はそれに対する対策を持っていない。
バットマンは神ではない。死者を蘇生させる奇跡など、持ち合わせてはいないのだ。もし、あの少女に万が一のことがあれば──
「最短距離で行く。廃墟ならそのまま突っ切れ」
《了解しました》
バットモービルのアフターバーナーが爆炎を噴き上げる。
立ち塞がる廃屋を文字通り瓦礫の山へと変え、崩落したビルの屋上を跳躍しながら、漆黒の怪物はホシノの座標へと最短距離を驀進する。
そして──けたたましい破壊音の果てに、バットマンの視界は、ついにその光景を捉えた。
全身から血を流し、力なく地面に伏せる、ホシノの姿を。
「──ホシノ」
バットモービルを蹴るようにして降り、背後の警戒すら放棄してホシノの元へと駆け寄る。
今、この空間のどこかにデスストロークが潜んでいる。合理的であるべき探偵の思考は、それが最悪の悪手だと叫んでいた。しかし、今の俺にとって、何よりも優先すべきは──
ホシノの小さな身体を抱き起こし、手袋を外した指先でその首元に触れる。
──微かな、だが確かな脈拍。
マスクを押し当てるようにして、彼女の胸の鼓動を測る。
──ドク、ドクと、弱々しくも刻まれる心音。
「──生きている」
自分が今バットマンであることすら忘れ、ユウリとしての感情がマスク越しに現れる。しかし、果たしてそれがユウリだったのか、誰も知る由はない。
その時だった。
ガラガラと音を立てて瓦礫の山が崩れ落ち、その中から、一人の人影が姿を現した。
「小鳥遊…!ホシノ…!!」
煤と血に塗れて現れたのは、デスストローク。
彼女もまた、ホシノと同等か、それ以上に凄惨な流血を強いられていた。強固な装甲マスクは無惨に叩き割られ、その破片の隙間から、憎悪に燃える素顔が覗いている。キヴォトスの頂点に君臨する『神秘』と、人間を超越した『人工の超人』。互いの意地と殺意が激突した戦場が、どれほど想像を絶する地獄だったか、その五体が雄弁に物語っていた。
倒れたホシノを背中に隠すようにして、バットマンはデスストロークの前に立ちはだかる。
「遅かったな、バットマン。見ての通り、勝ったのは私だ。小鳥遊ホシノをこちらへ渡せ」
「遺言はそれだけか、デスストローク。……いや、スレイド・ウィルソン」
「──ッ!」
デスストロークの顔が露骨に歪む。どうやら、過去を知られたことは想定外だったらしい。
「大人しくこの場から去れ。その傷で私と戦うのなら止めはしないがな」
「………それは、私の能力を把握した上での発言か。バットマン」
異常なまでの自己治癒能力。成程、常人であればショック死していてもおかしくない致命傷を負いながら、なおも戦意を失わず、狂気的なまでのプレッシャーを放ち続けているのはその肉体故か。
──だが、それがどうした。
「私は決して、貴様のような『悪』には屈しない。能力でも神秘でも、使えるものはすべて使え。──相手をしてやる」
一歩、地響きを立てるようにバットマンがデスストロークへ詰め寄り、鉄の拳を強く握り締めた。
ケープの隙間から滲み出す、容赦のない純粋な威圧。その圧倒的な存在感を前に、スレイドは自身の肉体が、本能的な恐怖によってわずかに硬直するのを感じた。それと同時に、限界を迎えているはずの心臓が、歓喜のドクドクという動悸を刻み始める。
小鳥遊ホシノは強敵だった。
かつてSRTの精鋭たちと殺し合った時よりも、デスストロークとして闇の世界で請け負ってきた数多の暗殺任務と比較しても、ここまで自分を追い詰めた標的は初めてだった。『アビドスの一生徒』という枠組みを外し、彼女を『キヴォトス最強』と称することに、スレイドは何の異論もない。
──では、バットマンはどうだ?
キヴォトスの夜を恐怖で支配し、犯罪者にとっての悪夢として君臨する
興奮に、身体の芯が震える。
あのバットマンという名の『聖域』に挑み、その首を狩る己の姿が見たい。
ここで四肢を折られようが、取り返しのつかない後遺症を負おうが、命を落とそうが──最期に立っていたのが自分であるならば、それだけで私の人生は完成する。
「素敵な申し出だ、バットマン。一度、お前のその仮面の下の素顔が見てみたかった。さぞかし、女泣かせの色男なのだろうな」
デスストロークが、限界寸前の足取りでバットマンへと歩み寄る。
両者の距離は、呼吸の熱が届くほどの極限にまで縮まり、一触即発の火花が散る。空間そのものが歪んでいると錯覚するほどの、濃密な殺意の応酬。
そして、デスストロークは背中から刀を抜き出し──
カラン、と乾いた音を立てて、それを地面へ放り投げた。
「……残念だが、ここは引かせて貰おう。今の私では、お前を最高の方法で殺せない」
直後、限界を超えた身体能力を爆発させ、スレイドはビルの屋上を伝い、夜霧の向こうへと消え去った。追う必要はない。どうせこの女とは、いずれ命を削り合うことになる。決着は、その時でいい。それよりも、今は──
ホシノの身体を、そっと横抱きにする。
……驚くほど、細く、軽い身体だった。当たり前だ。仮面を剥ぎ取れば、彼女は自分と同じ、ただの17歳の少女に過ぎないのだから。砂漠の崩壊という、キヴォトス全体の重荷を背負い続けるには、あまりにもその背中は小さすぎる。だが、この滅亡を待つだけの寂れた学園を、たった一人で守り続けていたのは、まごうことなきこの少女なのだ。誰からの称賛もなき偉業を成し遂げた、アビドスの孤独な英雄。
「帰ろう、ホシノ。後は私…いや、”俺”に任せてくれ」
バットモービルの助手席に彼女を寝かせ、生命維持システムを起動する。
ヘルメットを外し、ユウリの目であらためてホシノの顔を見る。そっとその桃色の髪に手を伸ばし、生きていてくれたことに、心の底から胸を撫で下ろす。
だが、そんな微かな日常を切り裂くように、バットコンピューターの冷徹なAI音声が車内に響き渡った。
《アビドス郊外にて対策委員会とゲヘナ学園・風紀委員会の武力衝突が発生。戦闘規模、拡大中。座標を指定します。直ちに救援に向かってください》
一瞬だけ躊躇い、そして私は、再びあの悍ましい漆黒のマスクを顔に装着した。
ステアリングを強く握り締め、アクセルを踏み込む。
──もう、後戻りはできない。
「ああ、分かっている」
ユウリ・ウェインは、一人の人間に戻るチャンスを完全に失ったのだ。
ホシノと普通の友人として笑い合い、ユメ先輩の後輩として、砂漠の中で平凡な青春を生きる道を、私は自ら手放した。
あの輝かしい『黄金時代』がとっくに終わってしまったことなど、自分が誰よりも理解しているのだから。
今回長すぎた。次回からはまた5000と6000の間くらいの文字数になると思います。
誤字脱字報告してくれる方には感謝しかありません。かんしゃ~。