カナート王国軍第二特殊中隊は、数年前に新設された迷宮攻略を専門とする部隊である。通称は「モグラ」。迷宮を這いずり回って冒険者の真似事をするからと他の隊につけられた蔑称だ。
(……ったく、気を緩めるなって言ってんのに)
モグラの副隊長──ステファン・ツァベリは、木に寄りかかって話をしている見張り二人を見て、ため息をついた。
フェイ中隊長の率いる迷宮内の隊はハレーザー市の冒険者や怪物と戦う可能性が高いため精強な人員が多いが、ステファンが仕切る入口の守備隊は、総じて能力と士気のどちらも低い。
「ツァベリの坊ちゃんもしかめっ面ばかりしてたら気が滅入りますよ。カード遊びでもしましょうよ」
木に寄りかかってカードをシャッフルしている女魔術師に話しかけられ、ステファンはぎろりと彼女を睨んだ。
「結構だ。カードを切る余力があるなら、敵が来たときのために温存しておけ」
「そんなの来ませんって。私たちがここに来てまだ二日目ですよ」
魔術師はのんびりと答える。だがハレーザー市側がいつから調査隊を送って迷宮攻略を始めたか分からない以上、増援を警戒しなくてはならない。
「敵が来ない保証はどこにある? 任務中に遊んでいたと中隊長に報告するぞ」
「……まったく、ツァベリの坊ちゃんは真面目ですねえ」
「当然のことを言っているだけだ。あと、その坊ちゃんと言う呼び方はやめろ。副隊長と呼べ」
はーい、と気のない返事をしてカードを懐に仕舞う魔術師を見て、ステファンはこめかみを押さえた。軍に入って役職を貰ったはいいが、部下にはかなり舐められている。
この隊で最年少だからか、家への忖度で副隊長という立場に収まったからか、もしくはその両方か。
さっさと手柄を立ててこのモグラ部隊とおさらばし、軍の花形である近衛隊に転入するというのがステファンの目標だった。
しかし手柄を挙げようにも、フェイ中隊長もナベリウス副隊長もツァベリ家の御曹司に危険な真似をさせたくないらしく、補給や報告書の作成の仕事を割り振ってくるため、目下のところ栄転の見込みは薄かった。
(こんなところで燻ってる場合じゃないのに)
そう思っていると、先ほどの魔術師が肩を叩いてきた。
「坊ちゃん、そこに木苺があったんですけど、食べません?」
虫の居所が悪かったステファンは、彼女が差し出してきた手を乱暴に振り払った。赤い粒の揃った木苺が数個、地面に落ちる。
「あらら。せっかく坊ちゃんのために取ってきたのに。疲れが取れますよ」
「任務中だ。あと坊ちゃん呼びをやめろと何度言えばわかる? だからモグラに配属されるんだ。この低能が」
「もう、言うことがきついなあ……」
ぼやきながら木苺を拾い集める魔術師を見てステファンがペンを握る手に力をこめたそのとき、風を切る音がした。
ステファンの傍にあった木箱に矢が立つ。木々の中から飛来したそれを見て息を飲んでいると、部下が叫んだ。
「敵だ!」
そちらを見ると、剣を持った戦士や弓使いが獣道から現れるところだった。鎧や服の意匠に統一感がないので、おそらくハレーザー市の冒険者だろう。
ほら見ろ、俺の言った通り敵が来たじゃないか──慌てて部下たちが立ち上がり、闖入者を迎え撃とうと前に集まっているのを見て呆れ、ふと違和感を覚えた。
「……動かされてる?」
正面からやってきた敵に対応するため部下たちは前に出ており、物資の傍にいるのはステファン一人だ。何かおかしい。
「何だこいつら……人形だぞ!」
敵と斬り合っていた部下の一人が叫ぶのを聞いて、違和感は確信に変わった。あれは陽動だ。人形が部下たちを引きつけている間に、操っている術者かその仲間がステファンを押さえるつもりなのだ。
それに気づいたステファンはペンを捨て、長剣を抜き放つ。
(……思いがけず、機会に恵まれた)
この敵を撃退すれば手柄になる。今回もただ入口の前に立つだけで終わりかと思っていたので、襲撃してくれた敵に感謝したいくらいだった。
相手の作戦に気づいたことを悟られないようじっと戦いに見入るふりをしながら、ステファンは辺りの気配を探る。
がさり。
ステファンの耳は、左側面の草むらが揺れる音をとらえた。
「そこだ!」
振り返ると瞬時に剣を振り、音のした方向を薙ぎ払う。
だがそこに切り裂くべき敵はおらず、剣はむなしく空を切った。
「何?」
思わず困惑の声を挙げたそのとき、頭上から枝をへし折りながら何かが落ちてくる音が聞こえてきた。
見上げようとすると、衝撃とともに地面に押さえつけられる。
首を回して顔を上げると、鎧を着た青年がステファンを押さえていた。赤みのある瞳には、安堵の色が浮かんでいる。
「正解は、上です」
「貴様」
暴れようとしたが、彼は手早くステファンを後ろ手に縛りあげてしまったため叶わなかった。
「人形が囮ということに気づいたのは良かったけれど、惜しかったね」
そう言いながら、銀髪の女がゆっくりと降下してきた。続けてもう一人、黒髪の女も降りてくる。おそらくこの二人のどちらかが人形を操る術者で、もう一人が先ほど草むらを魔法で揺らし、ステファンの注意を頭上から逸らしたのだろう。
「何をする、つもりだ」
「何って、ご同行願うだけだよ。さ、アウグスト君、シノエ。そろそろ行こう、向こうも気づいたみたいだし」
銀髪女の言葉を聞いて部下たちの方を見ると、捕まったステファンを見た部下たちが泡を食ってこちらへ駆けてくるところだった。
「坊ちゃん!」
先ほどステファンと話していた女魔術師が、焦って杖を構える。
『こちらへ来たら、彼を、殺す』
銀髪女が片言のカナート語で言うと、彼女はぴたりと止まった。
『こちらは、仕事のため、迷宮に入る必要がある。だから、仕事が終われば、返す』
あまり人望がないとはいえ、上官を人質にされては身動きがとれないらしい。部下たちが手をこまねいていると、武器を収めた人形たちが、切り結んでいた敵を放ってこちらに来る。
「ああっ、ディンの頬に傷が……せっかくのイケメンが台無しです……」
落ち込んでいる黒髪女──シノエには構わず、銀髪のほうは満足そうにつぶやいた。
「よし、シノエの人形も集まったし、とりあえずこれで迷宮内に入れるね」
アウグストはうなずいてステファンを小脇に抱えた。
「じゃあ、行きましょう」
「離せ!」
力いっぱいもがくがアウグストの力は強く、びくともしない。そのまま洞窟に入り、辺りが暗くなると、銀髪女はステファンを含めた全員に暗視魔法をかけた。
アウグストは最後に暗視をかけてもらった後、首をかしげた。
「そういえば、グレシアさんってカナート語が分かるんですね。彼、何て言ってるんですか」
銀髪女──グレシアは、耳に手を当てて何かを聞くそぶりを見せ、くすっと笑った。
「お姫様抱っこがいいってさ」
「いい加減なことを言うな!」
ライベル語で叫ぶと、アウグストは目を丸くした。
「なんだ、普通にこっちの言葉で喋れるんですか。俺、カナート語は無理なんで助かります」
力の抜けた返しにステファンは毒気を抜かれた。だが、未だに抱えられて無様な格好を晒しているのを思い出し、腹が立った。
「逃げないから下ろせ。俺もこれで副隊長を務める身。つまらない嘘はつかん」
「副隊長? ずっと書類を書かされてたように見えていたけど」
グレシアの疑わしげな声色が癪に障り、思わず怒鳴ってしまう。
「報告書を書けるのが俺くらいだからだ! あのアホどもは文字も書けないからな」
「ふーん。まあ、逃げようとしてもすぐ捕まえられるし、そうしようか。いいよ、アウグスト君」
するとアウグストは腕の力を緩め、ステファンを解放すると注意した。
「迷宮内ではあまり騒がないでくださいね」
「なぜだ。カナート軍に気づかれるのが嫌なのか?」
「それもありますけど、怪物を呼び寄せるかもしれないので」
怪物。アウグストが口にしたその言葉を聞き、ステファンは周りを見回した。
苔むした壁。どこかで水滴の落ちる音。吸い込まれそうなほど長く続く道。ステファンは、すでに迷宮の中にいた。
(逆に考えよう)
涼やかな迷宮の空気が、茹っていたステファンの頭を冷やした。この状況は、捕まったのではなく、冒険者側に潜り込めたと見るべきだ。
情報を引きだせるだけ引きだし、隙をついてこの三人を倒す。それができれば、うっかり連れ去られた分も挽回できるだろう。
今に見ていろよ。そう思いながら、ステファンはアウグストとグレシアの背を睨んだ。
パーティは前列に俺、戦士人形。後列にグレシア、シノエ、弓人形、そして人質のステファン、という隊列になった。
ステファンはグレシアの見込み以上の立場──カナート軍の副隊長らしい。
それ以外の情報に関して話すつもりはないようだったが、俺たちもあくまで物資を届けるのが目的で、そこまでして知りたい何かがあるわけでもなかったので、それ以上の質問はしなかった。
でこぼことした道をしばらく歩いていると、やにわに通路の前方が明るくなってきた。さっきの入り口以外にも、外と繋がっているところがあるのかと思ったが、明るくなっているところまで進むと、その原因が分かった。
「天井が……光ってる?」
洞窟の天井が、橙色に光っている。後ろからついてきたグレシアも上を見上げ、ああと合点がいったように声をもらした。
「あれは松明苔だね。若干の水分と魔力があるところに自然発生する苔なんだけど、発光するんだ。あれが生えている迷宮は、地下であっても植物が生えている」
言われて見ると、松明苔がびっしりと生えて床を照らしているところから背の低い雑草が一面に生え、隙間を蟻が歩いたり、バッタが飛び跳ねたりしている。
「何か、迷宮って感じじゃないですね。地上と全然変わらないですよ」
「そうかな、ほら。怪物はちゃんといるよ」
グレシアが指した先を見ると、俺の腰くらいの高さのある鋼色の巨大な甲虫がごそごそと音を立ててこちらへやってくるところだった。
それを見たシノエは、嫌悪感もあらわに叫んだ。
「早くその虫を殺してください!」
かなりの虫嫌いらしい。まあ怪物であれば言われなくても倒すつもりだが……俺は剣の柄に手をかけながら、グレシアに訊いた。
「あれ、殺した方がいいですか?」
「甲冑蟲か。繁殖期は気が立っていることが多いから危険だけど、そうでなければ温厚だから殺さなくていい。体力の無駄だ」
「だそうですよ」
シノエは何も言わず人形を盾にしている。俺は苦笑いを浮かべ、すり寄って来る甲冑蟲のつぶらな瞳に目を落とした。
「危険じゃないなら、そんなに毛嫌いしなくていいんじゃないですか。よく見ると可愛いですし」
「……餌は主に樹液だけど、外骨格の主成分となる金属を補うために冒険者の鎧や銀貨等を溶かして食べることもある。金食い虫という言葉は、その怪物が由来だよ」
グレシアの補足を聞き、俺は伸ばした手を引っ込めた。
どうやらこいつは人懐っこいわけではなく、俺の鎧を食べるために近づいてきていたらしい。
「行きましょう」
「食べさせた金属の成分で色が変わるらしいんだけど……たいしていい物は食べてなさそうだね。珍しい金属を食べている個体なら好事家が高値で買ってくれるのにな」
グレシアは残念そうにつぶやき、俺の後についてくる。俺たちは甲冑蟲に別れを告げると、さらに奥へと進んでいくと、直進、右、左の三つの分岐に当たった。
「そういえば、シノエは地図を持っていないの?」
どちらの分岐を選ぶべきか思案しているらしく、通路の先を覗きながらグレシアは問う。
「先遣隊が撤退するときに地図を紛失したらしいので……事前情報はなしです」
彼女の言葉に、グレシアは渋い顔をする。
「地図を紛失? 先遣隊の意味がないじゃないか」
「先遣隊は途中でスタフィアーに遭遇して命からがら逃げ戻ったらしいので……仕方ないですよ」
「ああ、そういうことか」
スタフィアー、という名前を聞いたグレシアは納得したようだった。だが、迷宮探索歴の長い彼女にとってはなじみのある言葉なのだろうが、当然俺は知らない。
「ええとその……スタフィアーってどんな怪物なんですか?」
そう訊くと、グレシアは説明してくれた。
「馬の怪物だね。普通の馬よりも体格が良くて、蹄で蹴られたらプレートメイルでも穴が空くくらい力がある。でも一番の特徴は、スタフィアーは額に三つ目の目……魔眼を持っているってこと」
「魔眼?」
「呪いの一種だよ。その眼を見た者は、瞬時に石になってしまう。ちなみにスタフィアーが死んでも魔眼には石化の呪いが残り続けるから、倒した後は目を潰すか閉じるかする必要がある。だから戦うのは難しいし、厄介な怪物だよ」
確かに眼を見たら即石化するとなれば、うかつに姿を見ることもできない。まともな戦闘は難しいだろう。
しかも不意に現れてパーティ全員がその眼を見てしまえば、全員が石化して全滅が確定する。恐ろしい相手だ。
「昔話の中にも、スタフィアーと出会ったであろうと思われる例がある。森で老婆に遭遇した騎士が村までおぶっていこうとした。だけど歩いているうちに背負われた老婆が石になって、騎士は押しつぶされてしまう……というお話」
「あ、それは聞いたことがあります。老婆が怪物なんじゃなくて、たまたま老婆だけがスタフィアーの眼を見てしまった、というわけですか」
昔話の意外な真実に感心してから、俺は不安になった。
「ちなみに石になった後、元に戻れるんですか?」
「ああ。高位の回復魔法、もしくはヴェラドンナ剤をかけることで治癒できる……正確には解呪って言うほうが正しいか。解呪にかかる時間は個人差なくきっかり十秒。シノエはスタフィアーがいることを知っているんだから当然持ってきているよね」
グレシアが訊くと、シノエはうなずいて人形の背中を開き、緑色の瓶を取り出して見せた。
「もちろんです。二十本あります」
「じゃあ二本くれるかな。私とアウグスト君で一本ずつ持っておけば、誰かが石化させられてもすぐ回復できるだろう」
「わかりました」
シノエは両手に一本ずつ瓶を持つと人形とともにこちらに歩いてくる。
その瞬間だった。
彼女の足元が沈み込んだかと思うと、破砕音と共に地面が崩れた。
突然現れた奈落にシノエの身体ががくんと下へ引っぱられるのを見て、俺はとっさに手を伸ばす。彼女の持っていた薬は二本とも地の底へと落ちていったが、かろうじて彼女の腕を掴んで踏ん張ることはできた。
「ひっ」
俺に腕を掴まれ宙ぶらりんになったシノエの喉奥で、悲鳴がつまる音が聞こえる。
「グレシアさん!」
「分かってる」
グレシアが応えた瞬間、シノエの体重が消えるのを感じた。グレシアは浮遊魔法をかけると断裂からシノエを持ち上げ、俺たちの傍にそっと置く。
「大丈夫ですか」
「は、はい……何とか」
今になって墜落の恐怖が蘇ってきたのか、シノエはかちかちと歯を鳴らし始める。そのとき、地面の底から瓶の割れる音が聞こえてきた。
耳をすませていたグレシアは、真剣な表情でつぶやいた。
「薬の瓶が割れるまでにかかった時間から計算すると、相当深い縦穴だね。たぶん似たような自然発生の
おそらくこの洞窟の地盤は元々緩いのだろう。落ちたらまず間違いなく即死。俺はごくりと唾を飲みこんだ。
「しかもこの深さだと、穴の底は濃い瘴気で満たされている可能性が高い。底に落ちてしまったら私が浮遊魔法で降下して助けに行くこともできない……。つまり、
俺だけでなく、シノエとステファンは顔を青くした。奈落の底で静かに朽ち果てていくしかない状況を想像すると、流石に背筋が冷たくなる。
「まあ、こういう罠があると早めに分かったのはよかった。さっきはいきなりのことだったから対応できなかったけれど、意識していれば浮遊魔法で助けられる。全員、死にたくなければ私の視界の外に出ないことだね」
グレシアはそう言いながら、右の道を指さした。
「さあ、ヴィカスと合流しないと話にならない。道が分からないなら、ひとまず右へ進もう」
松明苔という疑似的な太陽に照らされているためか、他の迷宮と比べてこのジュダーム迷宮の生き物の種類は多様だ。そして、うろつく怪物もその例に漏れない。
「シッ!」
飛びかかってきた紫色の蛇──影岩蛇を叩き斬ると、両断された頭部が落ちて地面でびちびちと跳ねた。他二匹もシノエの操る人形に刺し貫かれ、ぐったりと脱力する。
「よし、誰も噛まれていないね」
戦いが終わると、グレシアは全員の無事を確認し、歩みを進めようとした。すると、後方をちらちらと見ていたステファンが、俺の背中をつついた。
「後ろ……何かいるぞ」
振り向くと、耳の垂れた、灰色の毛並みの狐がついてきていた。じっと見つめていると、くるるるる、と低く鳴きながら物陰に隠れる。
俺が前を向くふりをして後ろに注意を払っていると、ふたたび姿を現した。
「可愛い追跡者がいますね」
「追跡者?」
俺のつぶやきに反応し、グレシアは後ろを向く。そして、眉をしかめた。
「何が可愛いもんか。あれは、
「……その口ぶりで読めましたよ。あの狐もやばい怪物なんですね」
「いや。死人狐自体はたいして強くない。その代わり狡猾なんだ。自分じゃ殺せない獲物を見つけたら、その特徴を見極めて鳴き声を上げ、獲物を狩れるだけの強さをもつ怪物を呼ぶ。呼び出した怪物に標的を殺してもらって、自分はおこぼれの死肉にあずかるわけだ」
説明を受けると、くるるる、という低い鳴き声が急に不気味なものに思えてきた。
「うるさい!」
慌てたステファンが石を拾って狐に投げつけるが、ひらりとかわされた。
死人狐は金色の双眸をこちらに向けながら、付かず離れずの距離を保ち続ける。その間も死神を呼ぶ鳴き声を発し続けていた。
「腕のいい攻撃術師か射手がいればさっさと殺せるんだけどね。この分だと、強敵が来るのは時間の問題……」
そのとき、通路の反対側から、軽快に地面を叩く蹄の音が聞こえてきた。グレシアもそれに気づいたらしく、鋭く叫ぶ。
「皆、前を見るな。頭を下げろ!」
「何だと?」
後方の狐に気を取られていたステファンは、グレシアの指示を無視して無造作に振り向く。
その瞬間、彼は灰色の彫像と化した。
「スタフィアーだ!」
高い嘶きをあげると、スタフィアーは戦士人形と顔をそむけた俺の傍を駆け抜け、後衛の二人へと襲い掛かる。
「グレシアさん!」
思わず振り向くと、真っ黒な馬の進行方向にはシノエを伏せさせ、眼をつむって地面に這いつくばるグレシアの姿があった。
轢き殺される──そう思ったが、スタフィアーの蹄は鈍い音とともに空中を踏み、二人の頭を砕くことなく通り過ぎていく。
(そうか、結界か)
安堵していると、眼を開けたグレシアと視線がぶつかった。
「アウグスト君。今のスタフィアーはすぐ転回して戻ってくる。私の結界もそう何度も使えるものじゃないし、ここで倒してくれ」
「そう言ったって、まともに相手を見られないんじゃ難しいですよ」
「いや、魔眼があるのは顔の真ん中だから、スタフィアーが通り過ぎた一瞬、つまり背を向けたときに攻撃を仕掛けられるはずだ。次の突進は結界で防御してあげるから、後ろから斬りかかるんだ」
確かに今、振り向いてスタフィアーの後ろ姿を見たときには、俺は石にならずに済んだ。しかしあれだけ迅く走る馬に後ろから斬りかかるというのも簡単とは言いがたい。
「難しい注文ですね」
そう言うと、グレシアは頭を抱えて伏せたままにやりと笑った。
「君ならできるだろ?」
「あまり買い被られても困りますよ」
そうつぶやいたとき、スタフィアーが走り去った方から再び蹄の音が聞こえてきた。俺は目を閉じると、疾走する怪物を待ち受ける。
周りに張られた結界に体当たりしたらしく、衝撃が走る。
俺の真横を巨体が駆け抜ける気配がした。
「ここだ」
俺は目を開いた。
振り向くと、背を向けたスタフィアーが走り去ろうとするところだった。俺は踏み込み、逃がすまいと斬りかかる。
と、魔眼の怪物は足を止めて身体を沈めた。
まずい、と思った刹那、後ろ脚での鋭い蹴りが飛んできた。硬い蹄が俺の剣を強かに打ちすえ、甲高い悲鳴をあげる。
「馬の後ろには立つな、か」
スタフィアーは魔眼をもつ怪物である前に、馬なのだ。
久しく乗っていなかったから忘れていたが、馬の背後を取れば当然、後ろ脚で蹴られる。
(でも、それさえ防げば問題なしだ)
蹴りの直後、伸びきってどんな動きも不可能になった「死に足」が目の前にあるのだから。
後ろ脚を斬り飛ばすと、スタフィアーは体勢を崩した。その隙を逃さず、目をつむって首筋に剣を刺しこむ。断末魔があがった。
倒れこむスタフィア―の首筋に食らいついたまま、刀身をくるりと回す。やがて、スタフィアーは動かなくなった。
俺が剣を抜き、立ち上がるとグレシアとシノエも起き上がった。
「ありがとう。厄介な奴も片付いた」
グレシアの指さした先には、死人狐の形をした石が転がっていた。スタフィアーの蹄に打ち砕かれ、腹から下は細かい小石と化している。自分で呼んだ怪物に轢き殺されたらしい。
狐の死骸から目を離すと、呆けた顔のまま石になったステファンの前でシノエが腰に手を当て、首をひねっていた。
「彼、どうしましょうか?」
「うーん……まあ一応石化は解いてあげよう。石化状態になっている彼を運ぶと余計魔力を使いそうだし」
「そうですか」
シノエは瓶の蓋を取り、ヴェラドンナ剤をステファンの頭からかけた。
こぼれた分はすぐに気化して消えたが、紫色の液体が染みこむと、灰色だった身体は急速に色を取り戻し、きっかり十秒後、彼は動き始めた。
石化が解けたステファンは目の前にシノエがいることに気づくと、慌てて後ずさった。
「スタフィアーはどうした!」
「アウグストさんが倒しました」
ステファンは俺の背後で横たわっているスタフィアーの死骸を見ると状況を理解したらしい。あっさり石化させられたことを恥じるように、顔をそむけた。
「そういえば、魔眼ってどんな見た目なんでしょうか」
死後も魔眼の呪いが残っているので直接見ることはできない。スタフィアーの魔眼を見たであろうステファンに問うと、彼は不機嫌そうに言った。
「知らん」
「でも見たんでしょう」
「二度言わせるな。それに、わざわざお前に教える義理はないだろう」
確かに名目的には敵だが、そんなつまらないことで意地を張らなくてもいいだろうに。俺がため息をついていると、スタフィアーのまぶたを閉じたグレシアが振り向いた。
「たぶん、ステファンは本当に覚えていないよ。魔眼の呪いは『見た瞬間』に石にされるものだから、普通に見たら魔眼を見たことすら覚えていられないんだ」
それを聞いていたシノエは、首をかしげた。
「じゃあ、どうして魔眼があるって分かったのでしょう? 見た瞬間のことを覚えていられないなら、魔眼の存在も知られないのでは?」
「スタフィアーを調べた学者がスケッチを書き残しているんだ。赤い瞳と、横長の瞳孔。悪魔の眼と似ているから、『魔眼』と命名された」
「なるほど。それで学者さんは、どうやってスケッチを残したのですか?」
シノエの問いに、グレシアはくいっと何かを飲む真似をした。
「ヴェラドンナ剤を口に含んで、石化に耐えながら眼の絵を描いたんだ。まあその後、ヴェラドンナの毒で死んだらしいけど」
「馬鹿みたいですね」
「先人の知恵というのは、馬鹿な人が積み上げてきたんだよ」
「……人類の叡智の礎になれるとしても、そんな先人の仲間入りをするのはごめんですね」
シノエはじっとスタフィアーの死骸を見つめながら、そうつぶやいた。
迷宮も奥まってくると、怪物だけでなくカナート軍とも遭遇することが増えてきた。
鎧の擦れる音。杖を突く音。意味のくみ取れない話し声。
かすかだが、通路の向こうから聞こえてくる音をとらえ、俺は立ち止まった。しかも、だんだんとその音は大きくなってくる。
「まずいです。前からカナート軍が来ました。いったん引き返して脇道を進みましょう」
足音に紛れて聞こえてくる言葉の意味が分かれば味方──ヴィカス率いる冒険者だと分かるが、俺が聞いてさっぱり分からない言葉であれば、当然カナート軍である。
いざとなれば戦えないこともないが、戦闘は避けるに越したことはない。
グレシアとシノエはうなずき、踵を返す。ステファンは動く気配を見せなかったので、やむなくフードを引っ張った。
「──ッ」
ちなみに今、彼にはカナート軍に位置を知らせられないよう、猿ぐつわを嵌めさせてもらっている。強く嵌められた布の下で声にならない抗議の声をあげながら、ステファンは俺の背中をぽかぽかと叩く。
ああもう面倒くさいなあ、と思いながら、俺は戦士人形たちとともに最後尾へと回り、隊列の方向を入れ替えた。
そして分岐まで戻ってくると、さっきは選ばなかったほうの道に入る。
これで撒けただろうかと思ったが、後ろを窺っていたグレシアは、険しい顔をした。
「どうやら、向こうはこちらに気づいて追ってきているみたいだね。たぶん、識別音を打ち返してこなかったから、敵だと認識したんだ」
耳を澄ませると、鍋を金槌で叩くような金属音が聞こえてきた。おそらくあの音で連絡を取り合っているのだろう。
シノエは弓人形の照準を後方に合わせると、浮かない表情でグレシアに話しかける。
「勝手の分からない迷宮で追っ手を振り切るのは難しいですし、ここで迎え撃った方がいいのではないでしょうか?」
「そうだね。だけど下りに傾斜しているここで戦ったら、相手に高所の利を与えることになる。もう少し進んで、平地になっているところがあったらそこで待ち伏せしよう」
となると、もう少し進まなければならないわけだ。俺は走る速度を上げようとして、立ち止まった。
シノエと話していて前を見ていなかったらしいグレシアが、俺の背中にぶつかってきた。少し赤くなった鼻を押さえながら、グレシアは非難がましく俺を睨む。
「なんで急に止まるんだ。鼻が折れるかと思ったよ」
「……前からも足音が聞こえてきました」
通路がねじ曲がっているせいで姿は見えないが、前方のすぐ近くに人間の集団の気配がある。俺は歯噛みし、剣を抜く。
挟み撃ちの格好になってしまった。思えばカナート軍は信号音で連絡を取り合えるのだから、こうした事態も想定しておくべきだった。
(切り抜けられるかどうかは、怪しいな)
どんな精鋭パーティでも、包囲・挟撃されると脆い。しかも相手が軍となると、簡単に崩すこともできないだろう。
俺自身は無理にせよ、せめてグレシアだけは脱出できるよう道を切り開くしかない。
覚悟を決めて前方の様子を窺っていると、曲がり角の向こうから影が差した。