【書籍化】迷宮で、死体を拾う   作:龍 圭介

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28スタフィアー⑦

 

 

 

 地獄には肉食の蚯蚓がいるという。目、鼻、耳。口、臍、肛門、尿道……ありとあらゆる穴から人間の身体に入り込み、肉と内臓を貪り喰う。罪人は蠢く蚯蚓に満たされた穴に放り込まれ、死ぬことも許されず苦しみ続ける。

 

 そんな神父の説教に震えあがっていた幼い頃の俺が見たらまさにその地獄だと言っていただろう。赤黒い蔦が血管のように壁を這いまわる光景を目にしながら、俺はつぶやいた。

 

「まさか、俺たちが一番乗りってことですかね」

「みたい、だな」

 

 見た目はおどろおどろしいが、冒険者たちとカナート軍の求める福音──生命の蔦の群生地が目の前にあるのだ。

 

 もしシノエに会わなければこの迷宮の存在すら知らなかったであろう俺や、迷宮の入り口を守っていたステファン。俺たちが両陣営の最終目標を見つけることになるとは、誰も予想していなかっただろう。

 

「……どうします?」

 

 俺がそう訊くと、ステファンは愚問だとでも言いたげに鼻を鳴らした。

 

「どうもこうもない。上へ続く道を探し続けるだけだ。そして、最初に合流できたほうが、この群生地を押さえられる……それだけの話だろう」

「まあ、そうですね」

 

 お互いの陣営のためを思うなら俺はステファンを、ステファンは俺を殺したほうがよいのだろうが、そこまでする義理はないのだ。

 

「はあ、じゃあここは戻って──」

 

 そのとき、スタフィアーの嘶きが奥から聞こえてきた。とっさに俺は目をつむったが、すぐにその鳴き声が断末魔であることに気が付いた。

 

 魔眼を見てしまうかもしれないので何が起きているのかは分からない。だが、弱まる鳴き声に重なるように、みしみしと凄まじい力で締めあげられるような音だけが耳に届き、やがて静かになった。

 

(……いや、まだ音が聞こえる)

 

 ざわざわと、壁面から無数の蟲が蠢くような気配がある。おそるおそる目を開けると、無数の生命の蔦が、腕を伸ばすように俺たちの足元に迫ってきていた。

 

「足元、気をつけて!」

 

 ステファンは目を開くと、つま先に絡みつこうとしている生命の蔦に気づき、飛びのく。

 

「なんだ、この成長速度は……」

 

 床を埋め尽くす無数の蔦の向こうで、スタフィアーの脚がやせ細り、萎れながら蔦で覆い隠されていくのが見えた。

 

「生命の蔦が、スタフィアーを捕食している……?」

 

 ヴィカスの説明では、スタフィアーが食べ、生命の蔦が食べられる関係だった。だが、今起きていることは全くの逆。

 

 生命の蔦がスタフィアーから養分──血液を吸い取っている。

 

「とりあえず、逃げましょう。あの蔦に捕まったら、まずいです」

「そうだな」

 

 俺とステファンは、来た道を取って返した。いくら成長速度が異常だと言っても、走る速度よりは遅いらしく、簡単に引き離すことができた。

 

「……一体、何なんでしょう、あれは」

 

 俺がそうぼやくと、ステファンは冷や汗を浮かべながらつぶやいた。

 

「群生相、というものかもな」

「群生相?」

「蝗や魔狼といった群れる生物が密集して生まれると、普通よりも獰猛で活動的になる。それが群生相だ。植物での例は見たことが無かったが……そう考えると合点がいく」

「しかしなぜ俺たちが入ってきたときに限ってこんなことが起きるんですかね」

 

 するとステファンは走りながらため息をついた。

 

「おそらく、俺たちが入ってきたからだろう。生命の蔦がこれまで過密状態にならなかったのは、スタフィアーが食べていたから。それをカナート軍と冒険者が殺しまくって頭数が減り、捕食・被食の均衡が崩れた」

「なるほど。迷宮の守護者を殺した罰、と。うまくできているものですね」

「呑気なことを言っている場合か。この分だと、いずれ迷宮は蔦に覆われる。早く脱出しないと、帰り道も蔦に覆われて死ぬぞ」

 

 確かにそうだ。というかあのスタフィアーのように生命の蔦の養分にされるのは俺たちに限った話ではなく、迷宮にいる人間全員に当てはまる。

 

 グレシアの華奢な身体が蔦に潰される様を想像してしまい、少し走る速度が速まった。

 

「……早く、グレシアさんと合流しないと」

 

 

 

「クローナさんが、近くに来ていますわね」

 

 フェイとの戦いを終え、道を進む途中。カティアは胸から下がる邂逅の手がぴくぴくと動いているのを見てそうつぶやいた。

 

「一応、彼女にはヴィカス隊長と敵将の死を伝えたほうがいいでしょう。シノエさん、ちょっと伝令に出てくれませんか?」

「わ、私一人でですか?」

 

 不安そうに言う彼女に、カティアはマルティンへ目を向けた。

 

「では、マルティンさんに護衛についていってもらいましょう。どうぞ」

 

 カティアは首の後ろに手を回して邂逅の手を外すと、マルティンに手渡す。

 

「カナート軍と遭ったら面倒だよ」

 

 グレシアの言葉を聞いたマルティンは、余裕を示すように槍で肩を叩いた。

 

「大丈夫だろ。組織的に動いてこないなら烏合の衆だし、スタフィアーも見ないぜ」

「まとまっておいたほうがいいと思うけどな」

 

 すると、シノエは怪訝な顔をした。

 

「そ、そんなに私たちと離れたくない理由があるのですか?」

「特には。用心しておいたほうがいいと思っただけだよ」

 

 犯人が変な気を起こさないよう、まとまっておきたいのだ──そう言いたかったが、シノエに言うわけにはいかなかった。

 

 カティアは少し思案する様子を見せたが、まあ、よいでしょうとつぶやいた。

 

「グレシアさんの言うことにも一理ありますが、士気を上げるほうが大切です。行ってください」

 

 カティアの指示をうけたマルティンはうなずいた。

 

「了解。ちょっとシノエとデートしてくる」

「そ、そういう冗談言う人、大嫌いって……フレミーに言われますよ」

 

 2人と別れると、グレシアとカティアの間には沈黙が降りた。カティアはグレシアを嫌いだと明言しているし、グレシアのほうもカティアを好ましく思っているわけではない。

 

 だが他にも、彼女と言葉を交わす気になれない理由がある。

 

 それは、隣にいるカティアこそ、カナート軍副隊長ナベリウスを殺して迷宮戦争の引き金を引き、戦いの最中でヴィカスを含めた五人の冒険者を殺害した犯人だからである。

 

 グレシアがその真実に勘づいていることを知れば、カティアはすぐさまグレシアを殺害し、おそらくヴィカスにやったように死体の首を切り落として奈落に放り捨てるだろう。

 

(絶対に、真実を語ってはいけない。悟られてもいけない)

 

 そう思ったとき、カティアが口を開いた。

 

「ちなみに、さきほどグレシアさんはなぜ隊を分けることを嫌がったのですか?」

「……理由はさっき言った。危険だから──」

「いいえ。むしろあなたは、歓迎したはずです。だってグレシアさんは、アウグストさんを探すためにこの迷宮の探索を続けているのでしょうから」

 

 思わずカティアの方を見ると、彼女はじっとこちらの顔を覗き込んでいた。紫水晶のような瞳には、猜疑の色が浮かんでいる。

 

「……グレシアさんは用心深い。しかし、アウグストさんを失った後、あなたはヴィカスさんが提案したカナート軍を包囲する案ではなく、探索を続行するわたくしの案を選びました。そこでわたくしは、あなたがリスクを負ってでもアウグストさんの救出に賭けているのだと気づいたのです」

 

 洞窟の壁にカティアの声が反響し、不気味な響きが混じる。

 

「であれば、隊を分けるのはグレシアさんには好都合なはずです。探索できる道が増えれば、アウグストさんの死体を拾える可能性が高まりますからね。グレシアさんが隊を分けるのを嫌がったのは、この状況──わたくしと一緒にいることを避けるため、では?」

「普通に考えて、面と向かって嫌いだって言われている相手と一緒にいたくないと思うことがそんなに不思議かい」

「ええ、グレシアさん……というか雪原の民は徹頭徹尾、損得で考えるでしょう。わたくしを毛嫌いしていようと、わたくしという武力の近くにいるのが安全であれば、何も言わない。あるとすれば、わたくしから実害を受ける可能性がある場合でしょう」

 

 カティアの言葉を聞いたグレシアは、呆れた顔を作った。

 

「君は私に危害を加えるつもりなのかい」

「時と、場合によっては」

 

 カティアの踏み込んだ返答に対し、グレシアは沈黙で返した。

 

「そういえば、ヴェラドンナ剤の瓶の数を数えていましたよね。あれは何のためだったのですか?」

「手持ちの医療品がどれだけ残っているか確かめるのは、普通だろう」

「それなのに、中身が減っていることについては気にしなかったのですか?」

「おおかた、人形が動いている間に瓶が割れて気化したんだろう。そんな気がする」

 

 グレシアがしらばっくれていると、カティアはにこりと笑い──ついにレイピアを抜いた。

 

「何のつもりだい」

「茶番はやめましょう。あなたは、私の正体を知るために必要な情報を得ている……頭のにぶいマルティンさんや保身に汲々とするシノエさんならともかく、グレシアさんが知ってしまったことが問題なのです」

「だから何のことだと言っているんだ。冗談はよしてくれ」

 

 突然のカティアの豹変に慌てふためく演技をするが、彼女は剣を収めない。

 

「面白くもない演技を続けるつもりなら、刺します。しかし話してくれるなら……生き延びる機会を与えますよ」

 

 カティアの目は本気だ。これ以上しらを切ることはできない、と判断したグレシアは、ため息をついた。

 

「……なんで犯人の正体について、犯人から問い詰められないといけないんだろうね。私は言われなくたって黙っておくつもりだったのに」

 

 グレシアの自白を得たカティアは、レイピアを収めた。

 

「流石です。やはり、わたくしのしたことに気が付いていたのですね」

「……気づいたきっかけは、ヴェラドンナ剤の減り方だった」

 

 最初は20本あったものがシノエが落として2本減り、ステファンに1本使った。カナート軍との交渉の後に11本減り、それから現在になるまでに3本減った。

 

「誰も石化していないし、治療もしていない。そう思っていたから私は悪意のある誰かが捨てたのだと推測したけれど……これには例外があった。私自身が石化していたら、私はその間のことを覚えていられない」

 

 ステファンは、魔眼を見た瞬間のことを覚えていなかった。

 

 彼の主観では、スタフィアーが突っ込んでくる瞬間からシノエがヴェラドンナ剤をかける瞬間まで時間が飛んだように感じただろう。

 

 カナート軍との交渉に赴いた際に、カティアはこの原理を応用したのだ。

 

「つまり君は、私たちの注目を集めたところで、スタフィアーの死体から抜き取った魔眼を見せたんだ。石化の呪いはたちまちその場にいた11人を彫像にした。ただ一人残った君だけが動いて、石化したままの副隊長ナベリウスを斬ったんだ」

 

 カティアはふっと笑った。

 

「よくご存じですね……グレシアさんだけ、石化が甘かったのでしょうか。石化の呪いを一度に解く方法も分かっているのですよね?」

 

「当然。一人一人にヴェラドンナ剤をかけていたら解呪の時間に差が出て、最初に呪いが解けた人は君以外の全員が石化しているところを目撃してしまうからね。だから君は、なるべく同時にヴェラドンナ剤を降り注がせるために、結界魔法を使った」

 

 結界魔法は自由に形状を変えることができ、任意の場所に動かすこともできる。そして、術者の好きなタイミングで消すこともできる。

 

 グレシア自身が付与術師であり、自分を守る盾として使ってきた魔法なので、その性質は知悉していた。

 

「例えば、結界魔法で大皿を作り、それをヴェラドンナ剤で満たす……いや、石化させた人数と同じ11本分の薬を律儀に使っているということは、結界魔法で11個の球を作って、薬を密閉したのかな……まあ重要なのは、『いつでも消せる容器に入ったヴェラドンナ剤を、全員の頭上に浮かべておくことができた』ということ」

 

 その後──全員に同時にヴェラドンナ剤を浴びせるという仕事は、空中に投げ出された物体は同じ速度で落ちるという、平等にして絶対の法則に任せればいい。

 

「カティアが結界を解くと、降ってきたヴェラドンナ剤が私たちを元に戻した。零れた分はすぐに気化して痕跡を残さない。そして石になっていたときはただの切れ目だった傷が致命傷に変わり、ナベリウスは命を落とした……これが見えない斬撃の正体」

 

 要するに、彼女は疑似的に時間を止めてみせたのだ。

 

 フェイの煙草を止めたのは、石化の前後で煙の形が急激に変化したように見えてしまうのを防ぐためだろう。

 

 ぱちぱちとカティアは拍手をした。正解、ということらしい。

 

「正直、ナベリウスだけを殺すくらいならフェイや他のカナート兵も殺せばいいんじゃないかと思ったんだけど」

 

 グレシアがそう言うと、カティアはつまらない質問をする、とでもいうように片頬を歪めた。

 

「それでは駄目です。カナート軍が指揮官を二人とも失えば、戦いにならないではありませんか」

 

 カティアは一点の曇りもない笑みを浮かべた。

 

「わたくしは、戦争がしたかったのです。騎士の本分は戦い、勝利し、栄光を掴むこと。自分の輝ける場所を欲するのは当然でしょう?」

「……そういうことか」

 

 アウグストがグレシアの下で働いているのは戦争が無く、騎士として食べていくことができなかったためだ。だがカティアは、戦争がないのであれば自分で起こせばよい、と考えたのだろう。

 

「この迷宮での戦いが終わってもカナート王国とハレーザー市の間にはしこりが残るでしょうし、もしその二国が対立するならば、同盟や漁夫の利を狙って他の国も軍を動かすかもしれない。そして戦禍はわたくしたち騎士を必要とする……あなたに私の奥の手を見られるまでは順調だったのですがね」

 

 肩を落とすカティアの言葉に、グレシアは首肯した。

 

「君の計画は、魔眼を見ていない人間がいたり、結界解除のタイミングがずれていたり、外のカナート軍が入ってきたりしたら台無しになる危険な賭けだ。けれど成立さえすれば想像のしようがないという点だけは、群を抜いているね」

 

 カティアは戦闘競技会でも結界魔法を一切使わないほど、徹底して術戦士であることを隠していた。フェイの率いるカナート軍との戦闘では使わざるをえなかったようだが、あれが無ければグレシアもカティアの犯行に気づくことはなかっただろう。

 

 ……気づきたくはなかったが。

 

「そこまで分かっているなら、ヴィカスさんの件もお分かりなのでしょうね」

「ああ。やったことはナベリウスのときと同じ。タイミングは夜営中の皆が起きているときかな。ヴィカスの隊が近くに来た。ヴィカスのもつ邂逅の手と君のもつ邂逅の手が反応して。君はそれに気づいた。そして私たちを石化させ……夜営していた小部屋を抜け出した」

 

 当然、グレシアはカティアに石化させられたときの記憶はない。だが、11人の視線が集まっている瞬間を狙うことに比べると、3人の視線を集めるのははるかに楽だっただろう。

 

「君はヴィカス隊を見つけ、襲撃した。頭を斬り落としたのは後から蘇生されることを防ぐためで、あちこちに開いている穴に落として処理したんだろう。荷物を持ち去らなかったのは、君一人で持つことはできないから」

 

 するとカティアはむっとしたように付け加えた。

 

「そもそも騎士たるもの、必要がなければ殺した相手の持ち物を奪うことはありません」

「そう。まあ捨てるにしてもあまり時間はかけられなかったんだろうね。私たちが野営地にしていた袋小路は外から見えづらくしてはあったけど、時間が経てば石化した私たちを誰かに見られる可能性があるから。……君の動機は推測できないだろうから聞くけど、ヴィカスはなんで殺したの?」

 

 グレシアは聞き返す。カティアの動機を聞いても一銭にもならないので興味は欠片もないが、話を続ける限り、カティアはグレシアを殺そうとはしないだろう。

 

 であればなるべく話を引き延ばして誰かが来るのを待つか、この場を乗り切るための策を思いつくための時間を稼ぐしかなかった。

 

「ヴィカスさんを斬ったのは、わたくしの犯行にうっすらと気が付いていたからですわ。わたくしが殺しておいたスタフィアーの死骸から目が抜かれているものを見つけていたようです。全く、あんな危ない物、わざわざ調べる人間はいないと思っていましたのに……そしてナベリウスの死に様を聞いて、わたくしの犯行だと察したようでした」

「ヴィカスは君が結界魔法を使えることは知らなかったのでは?」

「もちろん、グレシアさんほど厳密に私の犯行内容を理解していたわけではありません。ただわたくしが魔眼を持っていたことと、戦いたがりであることからかなり怪しんでいたようですわ。そしてナベリウス殺害については後に調査して、証拠が出れば命令違反としてギルド長へ報告する、と隊の再編成をする際に伝えられました」

 

 そういえば、ヴィカスは隊の再編成のとき、カティアだけを呼んで密談していた。そのときに問い詰めたのだろう。

 

「全く、つまらないことで騒ぎ立てますよね。誰が手を出したかなんて、どうでもよいではありませんか」

「どうでもよくないからヴィカスたちを殺したんだろう」

「……ふふ、まあギルド長に命令違反をする人間だと知られると困りますからね」

 

 裏を返せば、グレシアも生かして返すつもりはないということだ。

 

 グレシアは周囲を窺ったが、人が来る様子はない。

 

 浮遊魔法で石をぶつけ抵抗する、背を向けて逃げ出す、結界魔法でジリ貧になるまで粘る、地べたに額をこすりつけて命乞いする、大声をあげて怪物を呼び、どさくさに逃げる……グレシアは湧き出てくる作戦を全て却下した。

 

 相手はアウグストに匹敵する戦闘能力の持ち主だ。どんな小細工をしようと、殺されるに決まっている。

 

「さてと、そろそろお話は終わりですね」

 

 グレシアが必死で考えていると、カティアは持っていたレイピアを腰から外した。

 

「……私を生かして返すつもりは、ないんだろうね」

「ええ。わたくしは生き残るための機会を設ける、と言っただけですわ」

 

 カティアはレイピアを放り投げた。危うく取り落としそうになったが、グレシアは両手で受け止める。

 

「今のお話で、グレシアさんが死ななければならない理由は説明しました。あとはあなたの命をいただくだけなのですが、武器を持たない相手を殺すのは卑怯でしょう? ですから、わたくしの武器を貸して差し上げます」

 

 刀剣類の中では比較的細身なレイピアでも、剣を振り慣れていないグレシアにはずっしりと重い。グレシアはレイピアを置くと、ため息をついた。

 

「剣を渡されても、全然フェアじゃない。あと足場も悪いし……もっといい場所を探さない?」

「一理ありますが、その次は何を要求するのでしょうか? 強くなるための時間? 食事? 休息? キリがないですわ。決闘は今、ここで行います」

 

 音もなく、清廉騎士は二本目の剣を抜き放った。グレシアはカティアの観察を続け──カティアの腰に下がる、小さな携行用の革袋に気が付いた。

 

 そういえば交渉の前、彼女は革袋を探っていた。あの中に魔眼を隠し持っているのではないだろうか。

 

 揺れ方を見るに、水袋ではない。何か固形のものが入っている──もちろん、携行食糧や薬など、別のものが入っている可能性は排除できない。

 

(賭けは嫌いだけど……賭けるしかないか)

 

「剣を取ってください。抜かないのであれば、こちらから行きますよ?」

 

 カティアの声には、苛立ちが含まれている。焦らずグレシアはカティアの背後を一瞥し、ちょうどよさそうな石を見つける。

 

(一瞬でもいい。カティアの気をそらすことができれば)

 

 こつん。

 

 浮遊魔法で動かした小石が、まるで誰かが蹴とばしたような軽い音を立てた。カティアは素早く背後を窺う。

 

 今だ。

 

 浮遊魔法を発動させた瞬間、革袋は括り付けられた紐を抜け出し、グレシアの手元へと飛んできた。

 

 そのまま左手の中に納まった革袋の中からは、丸くて柔らかい感触がした。

 

 死体を日常的に扱うグレシアだから分かる。これは眼球だ。どんな豪傑や魔術師も石にしてしまう、最恐の魔眼。

 

(これさえあれば)

 

 しかしグレシアが革袋の紐を緩めようとした瞬間、右手に鋭利な痛みが走った。

 

「あぐっ……!」

 

 思わず、革袋を取り落としてしまう。

 

 魔眼を取り出そうとしていた右手には幾筋もの裂傷が生じ、ぽたぽたと血を滴らせている。

 

「さすが、薄汚い雪原の民の末裔だけありますね。決闘の場で、相手の持ち物を掏り取ろうだなんて」

 

 カティアは、右手を押さえながら後ずさるグレシアに侮蔑の視線を送りながら、レイピアを拾う。

 

(そうか、結界魔法の応用……)

 

 革袋の周囲を見ると、何本もの半透明のナイフが浮かんでいた。カティアは薄く引き伸ばし、刃のように研ぎ澄ませた結界を空中に発生させていたのだ。

 

 最後の策を防がれ、ついに打つ手を無くしたグレシアの前に立ちはだかると、カティアはレイピアを構える。

 

「もういいです。死んでください」

 

 しかしカティアの突きは、グレシアの結界魔法で弾かれた。剣を引き戻しながら、カティアは不快そうに眉をひそめる。

 

「無駄です。少し命が伸びるだけですわ」

「私は、可能性があるなら最後まで粘る主義でね」

 

 カティアは慌てる様子もなく、何度もグレシアに突きを見舞う。

 

(……駄目か)

 

 カティアの攻撃は重く、防御するたびに魔力がごっそりと削られていくのが分かる。

 

 グレシアは拳を握りしめながら、耐え続け──ついに数十秒後、硝子の割れるような音とともにグレシアを守る最後の壁は砕け散った。

 

 カティアは顔をこわばらせるグレシアに満足そうな笑みを浮かべると、無造作に剣を構えた。

 

「さようなら、グレシアさん」

 

 自分の心臓を狙うレイピアの切っ先を前に、グレシアは目をつむる。避け得ない死に直面し、最初に思い浮かんだのは彼の姿だった。

 

 グレシアは神を信じていない。死後の世界も信じてはいない。

 

 だがもしも都合のよいときだけ都合よく祈ってもよいという神がいるなら、一言でもいいから、彼ともう一度話をしたかった。

 

「アウグスト君……」

 

 無意識につぶやいたその瞬間、うなじに風を感じ──

 

 直後、顔の傍で甲高い金属音が聞こえた。

 

「あらあらあら……まさか、そんな、びっくりですわね」

 

 目を開けると、カティアが驚愕に目をみはっていた。彼女のレイピアはカティアの手から弾き飛ばされ、地面に刺さっている。

 

 グレシアを刺し貫くはずだった剣を弾き飛ばしたのは、騎士剣を持つ右腕。背後から伸びるその腕には、見覚えがあった。

 

 振り返ると、上ずってしまった声で彼に文句を言った。

 

「……生きていたなら、早く来てくれよ」

「すみません」

 

 奈落へと落ちたはずの、グレシアの騎士──アウグスト・アーベラインは、ぽりと頭をかいて笑った。

 

 

 

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