華やかな英雄譚の裏でコツコツと金を稼ぐ無口な銃手の話 作:アンドララベリャ
誰も、動こうとはしなかった。
森の神は思いのほかあっさりと死んだ。どくどくとどす黒い血を流しながら地に横たわるその巨躯はぴくりともしない。
そうしてどれほどの時がたっただろうか。
「ライモン、シグナー。ここで待っていろ」
「おい、もうすこし待ってもいいじゃねえか。なにもそんな危ないことをしなくとも……」
「いや、誰かがいかなきゃいかないんだ」
父がしびれをきらしたように歩きだす。ライモンにそう言い残すと、狩人たちが固唾を飲んでみつめるなか倒れる森の神のそばによっていく。
シグナーも、胸をドキドキとさせながら父をみつめていた。
父がそうっと手にもつ短剣で森の神の毛をつつくが、それでも森の神は動こうとはしない。やがてついに父は森の神の瞳をのぞきこんだ。シグナーは口から心臓が飛びでてしまいそうだ。
永遠とも思える時の後、父はついに手をふって森の神が死んだことを知らせた。
わっと狩人たちが父のもとに集まっていった。シグナーはほっとため息をついて胸をなでおろす。もっと死人がでてもおかしくなかったのだ、この狩りは驚くほどうまくいった。
「よかったな、シグナー。やっぱり師はすげえや」
ライモンにぐしゃぐしゃと頭をなでまわされる。シグナーは父への誇らしさで胸が暖かくなった。
森の神は飢えの苦しみでゆがんだ顔をさらしたまま死んでいる。そのまわりで猟師たちはその亡骸をどうするかについて話しあっていた。
「森の神を狩ったのなら、それは貴族さまに捧げることになっている」
「まったく困ったことだぜ、こんなに苦労して狩ったっていうのにせっかくの獣は上が召しあげていきやがる」
「ライモン、言葉には気をつけろよ。それでどうやって館まで運んでいくかだが……」
シグナーは、そんな大人の話しあいから遠ざかったところで弓の手入れをしていた。いまだ子どもであるシグナーは狩りの腕はあれどああいった話しあいには入れないのだ。
ひとしきり弓の弦をはったところで、シグナーは強大だったであろう森の神のなれの果てをなんとなしにみつめた。
その巨大な爪は飢えで狂うより先は森の木々を倒し獣の肉につきたてられていたのだろう。シグナーはそっと口のなかをのぞきこんだ。
なにかがおかしい。
これまでたくさんのイバラグマを狩ってきたシグナーは、その森の神の牙がなぜか気になった。鋭く生えているその牙を目にしていると、なぜか怖気がしてくる。
もう森の神の魂はここにはいないはずだ、天に召されたのだから。
そう己に言い聞かせても、シグナーの頭はなにかを探して森の神の口についてずっと考えていた。そんなシグナーをいぶかしんだのか、ライモンが歩いてくる。
「どうした、シグナー。牙でも狩りの証に欲しいのか? どうせ貴族さまの館の奥にしまわれてそのままなんだ、いくつかもらってもいいと思うぜ」
違う、なにかが違う。
シグナーはようやく己がなにを恐れていたのか気がついた。この森の神の牙はまだ生えそろっていない、未熟なものだ。この森の神はまだ幼いのだ。
イバラグマは大人しい獣だ。
木の実を食い、ほかの獣を襲うことはほとんどない。人をみかけてもイバラグマのほうから逃げていくほどである。だが、とある時だけイバラグマはとんでもなく狂暴になる。
「……ライモンさん、この森の神、まだ子ども」
「ん? ああ、そうだな。かわいそうなことにな」
「違う、もしかしたらそばに母がいるかも」
シグナーの言わんとすることに気がついたのか、ライモンの顔が青くなる。シグナーが父に森の神のことを伝えようとしたその時、激しい鼻息がなぜか聞こえてきた。
血しぶきが舞う。
シグナーは目にしているものが信じられなかった。十もの猟師たちが、腕のたったひと振りで吹き飛ばされ、地に叩きつけられている。
そこにいたのは、悪魔だった。
頭から血でずぶ濡れで、黒い瞳はランランと輝いている。まるでのしかかってくるかのようなその影は、もはや獣だとは思えなかった。
べちゃりと、その熊の鋭い牙からオウギシカの亡骸がこぼれ落ちる。
恐らくは愛する我が子のため飢えをこらえて運んできたその人の背をふたつほどの大きさの肉をおいて、その母グマの瞳はただひたすらに死んだ子グマにむけられていた。
どんな狩人でも、とことん忌み嫌って避ける獣というものがある。そして、子連れのイバラグマほど恐ろしいものはいなかった。
「ライモンが矢の狙いをつけるまでの時を稼げ! もう生きる道はそれしかない!」
父が母たる森の神の気をひくように声をあげた。
もはや森の神の怒りにさらされては逃げることなど叶わない。背をむけたその時が、その人の性の終りであろう。ならば、狩人がするべきことはひとつである。
シグナーはすぐさま矢を番えた。
森の神を殺すことのできるのは薬師が昼も夜も煮続けた毒だけであり、それが塗られた矢は数が限られている。父はそれをもっとも優れた弓の腕をもつライモンに預けた。
ならば、道はひとつ。ライモンが矢の狙いをつけるまでの時を稼ぐのだ。
シグナーはすぐさまそばの森の神にむけて矢を射かける。狙い違わずどんどんと森の神の毛に刺さっていく矢はしかし、すこしも傷をつけていないようだった。
森の神がぶるりと身を震わせると、シグナーの放った矢は吹き飛んでしまった。シグナーはそれでも諦めない、背からさらに矢を手にしてどんどんと弓を撃っていく。
しかし、狩人の誰しもがシグナーほどに勇敢なわけではなかった。
「あ、あああ……」
若い猟師が声を震わせて森の神の瞳をぼうっとみつめている。この世ならざる魔の者に魅入られたその狩人は、瞬きのうちに大地の染みとなった。
愛する我が子を殺した憎き敵を己の剛腕にて頭から潰した森の神は、咆哮する。
そのまま動こうとしない猟師たちにむけて森の神が駆けだした。その猟師たちはまるで己から捧げられにきた生贄であるかのようにたちつくしていた。
「おい、しっかりしろ!」
そんな狩人たちの腕を掴んで、父がぎりぎりのところで森の神の腕から逃れる。
無様にべちょりとそばの血だまりに飛びこんだ父はそのまま腰がぬけてへたりこむ猟師の胸もとを掴んで怒鳴りつけた。虚ろな瞳の猟師に額をつきあわせる。
「なに考えてんだ、死ぬつもりか! おまえには家に帰りを待ってる子どもが五人いるんだろ、諦めんなよ! はやく弓をとって戦え!」
そんな父の後ろから、じわりと森の神が迫っていた。
シグナーが気が狂ったかのように矢を射かけるも、森の神はとまらない。父もようやく気がついたようだったが遅いのだ、このままでは殺されてしまう。
シグナーがそうして父の死という恐怖に震えたその時だった。
ギリギリと矢を番える音が聞こえてきた。顔をあげたシグナーが目にしたのは、この狂乱にあっても顔を青くするだけで気をしっかりとさせているライモンの姿である。
もう頼れるのはライモンの腕と、手にする毒矢しかない。
シグナーは神に祈った。どうかライモンにひと時でもよいから神の力をくださるよう、ライモンの矢が森の神を射ぬき、父を救うよう。
すっと、ライモンが弓の狙いをさげた。
シグナーは初め、ライモンがなにを考えているのかわからなかった。このままでは父が死んでしまうのだ、森の神を一撃で殺すには瞳から脳を射るしかないというのに。
ライモンの弓から森の神すらも殺す毒矢がはなたれる。
その時、シグナーは初めてライモンの狙いを知るとともになにもかもがわからなくなった。
「おい、今のうちに逃げろ! こんなやつと戦えるはずがない!」
トス、とライモンの矢が父の足に刺さった。森の神を殺すための毒だ、人がくらってただでいられるはずがない。
「な、ライモン、なにを……!」
「あいつを森の神が喰ってるうちに逃げるんだ! そもそもこんな森の神を狩るなんて馬鹿みたいな話を始めたのはあいつだ、あいつが死んだっていいじゃねえか!」
ライモンの声に、時の止まっていた猟師たちが動きだす。ともすると生き生きとした風に散り散りに逃げだした猟師たちは、父にすこしも目をやることはなかった。
「……ライモン、さん?」
シグナーの乾いた唇から、かすれた声が漏れる。ライモンは、シグナーの声に耳をやることなく、それまでの親しみが嘘かのように逃げていった。
「ガアアアッ!」
残されたのは腕を生きながらに森の神に喰らわれる父と、シグナーだけである。
シグナーはおぼつかない手で、そっとライモンの捨てていった毒矢を手にとった。心はこれまでにないほどはっきりと、くっきりとしていた。
そうか、そうだったのだ。
シグナーは学ぼうとしていた。
「ガッ……」
父の声が止まる。ぐしゃりとその頭を骨ごと噛み砕いた森の神は、まるでただひとり残されたシグナーを嘲け笑うかのように猛った。
狩りで誰も信じてはいけない。狩人にあるのは、獣を狩るか狩られるか。
誰よりも愛し誇らしく思っていた父はもう死んだ。シグナーは弓をその父の敵にむけ、毒矢をひきしぼる。
シグナーの心は静まりきっていた。
もう、シグナーに狙えないものはなにもない。神がとりついたかのようにシグナーの頭は冴えている。森の神がシグナーに襲いかかってきても、すこしも怖くない。
狩人は、いつもひとりで生きなければならないのだ。
シグナーがすっと手をはなした。その矢は、シグナーのこれまではなってきたどんな矢よりも速く、強く、そして正しく。
森の神の瞳をつらぬき、その奥の脳を潰した。