星色モラトリアム   作:らぶりー

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1/ ブルーベリー

 

 部活にも入っていない高校生は、案外放課後は暇だったりする。行く意味のないホームルームを終えて、棚の中身が移った鞄を背に足を向けていたのは、家とは別方向の寂れた道だった。

 

(あつ)……」

 

 季節外れにも額で滲む夏を指で拭きとってから、恨めし気に顔を上げた。うるさいほど鳴いていたセミの声だけが季節に置いて行かれたみたいな、日差しの強い日だ。九月も半ばというのに、夏が戻ってきている。こんな季節なら、夏休みだって延長してくれてもいいのに。冷たくも温くもない風だけが頬に快い。

 誰もいない通学路をゆっくりと歩きながら、もう半年になる見慣れた景色を俯瞰してみる。やや高所にあるこの道からは、町が一望できた。町が華やいで見えるのは、ノバラの実が色付いたからだろうか。気が遠くなるほど高く晴れ上がる空の下で、赤とんぼの群れが飛んでいる。高校一年生の半分も過ぎようとする今になって着心地が良くなってきたブレザー制服が、さあっと揺れる。足が止まっていることに気づいて歩き始めると、残暑が遠のいたような錯覚があった。

 

「あーもう、地球温暖化とか勘弁してくれよ……」

 

 しかし、だ。どれだけ景色は秋そのものであろうが暑いものは暑い。気温だけは真夏そのものだ。家に帰ればすぐにでも投げかけられる冷気がもはや懐かしい。今からでも家に引き返そうか、なんて考えて、せっかくここまで来たことだし、と自問自答。これで三回目。文句だけが漏れる自分にうんざりしながらも歩を進めていると、いつの間にかズボンの裾がススキを擦らせながら沿道に入っていた。この音だ、と顔を上げる。もうすぐ目的地にたどり着く。暑かったはずの日差しはすでに遠く、知覚するのは木の葉を掃いていく秋風だけで、鬱蒼としたカエデの森の中に自分だけひとりぼっち。

 その、先に──

 

 

「──ようやく、着いた」

 

 

 ──視界いっぱいに広がるは、俺の背丈を少しだけ上回るブルーベリーの木々。東京ドーム幾分個、なんていう比喩は似合わないけれど、視界いっぱいが埋め尽くされるくらいの群生地。

 そう、これだ。この景色を、ずっと見てきた。俺は毎日のようにこのブルーベリー畑の全景を、気に入った葉の色付きを、或いは虫が止まった細い葉脈を、今も鞄の中で息を潜めているライカに収めてきた。

 

 今でも、ここに来るようになった日のことを覚えている。

 カメラ越しの世界は案外美しく見えるものだ、と漠然と思っていた時期があった。現実は苦しくて辛いものであるけれど、写真の中では美しいものだけが見える。それは自分の眼が曇っているからか、絶え間なく動く世界が騒々しいと感じてしまうからか。あるいは、そのどちらもか。なんて、思春期特有の妙な拗らせ方をした思考回路を目まぐるしく稼働させながら、彷徨いの果てに俺はこの場所へたどり着き──その日、もう長いこと一緒にいる、父の形見である黒い小箱じみたカメラを握った。入学したばかりの高校からの帰り道。少しだけ帰路から逸れた、どこにでもあるような小さな公園。教科書でパンクしそうな鞄をベンチに放り投げて、そっと腰を落として、手の上に収まるミニチュアじみた世界を覗き込む──したことといえば、それだけ。それだけで、この景色のために足繫く回り道をして帰宅するようになってしまったのだ。

 

「もう、こんなに」

 

 漏れ出た言葉の先を紡ぐよりも先に、膝を立てて体重をかけてから鞄から取り出したライカを構えた。

 

 ファインダーを覗けば、目の前にあるのは街路樹の赤で普段よりも明るく見える、やや大きめの広場。黄色い野原と、真ん中で聳える紅の化粧を始めた一本のハナミヅキ。その大木の後ろに広がる、色ガラスを張り詰めたような青い空。手前に群れるブルーベリーの木々。その全てが、レンズからファインダーを遡って俺の瞳に流れてくる。

 

「───」

 

 息が止まる。

 写真を撮ることは好きだ。目の前に広がる現実を、画素の集合に貼りつけるだけ。言ってしまえばそれだけの行為が、この世界を美しいものたらしめている──そんな考えが好きだ、とも言える。

 

 我に返って呼吸を再開したのは、瞳が渇きに耐えられず瞬きをしてからだった。そっとピントリングに手を添えて、ファインダーの向こうの解像度を上げていく。カメラを使い慣れている人間は、ファインダーをのぞく前に目測でピントを合わせておくというのが基本らしい。何度も来ている場所であるのならなおのこと。ただ、こうしてピントを合わせていくまでの過程が──俺にはどうも、楽しい。世界がよく見えるようになって、美しいものが視界に入ってくるような感覚。

 気が付けばくるくると滑らかに回るピントレンズは、その役割を終えるところだった。あとは少し微調整をして、目の前の風景を小箱に収める。使い古したライカ越しに見る50㎜程度の見慣れた景色は、ここ半年毎日のように見てきたというのにいまだ飽きたとは思わない。紅葉がここまで綺麗に色付いたのは初めて見た。温かくも鋭さを伴った南風が、耳にかかる髪を揺らす。

 

「うん。今日は、此処から撮ろう」

 

 ピントの合った景色にとりあえずは満足。構図は問題ないし、風も強くない。ここしかないと、俺はシャッターに人差し指の先端を触れ合わせ──。

 

「……あ」

「……え」

 

 呆けた声二つと静かなシャッター音の束が、反響したように耳を叩いた。

 ライカのレンズを向けた先。躍り出てきたのは一人の女の子で、半ば反射的にシャッターを押してしまったことに、声を出してから知覚した。

 肩口近くで切り揃えた青がかった白色の髪、長い睫毛の奥できらめく波のような深い蒼。なんとも色彩が綺麗な女の子だ。制服から判断するに近くのお嬢様学校の子らしいけど、年上かどうかは判断つかない。

 

「ご、ごめんなさい……! 写真撮ってるの、気づかなくて……」

「いやいや、そんな気にしなくても」

「でも、写真台無しにしちゃって……」

「また撮りなおせばいいだけだから、そんな気にしないで」

 

 こうもあわあわと謝られると、なんだかよくないことをしているように感じるので居心地が悪い。

 

「ほら全然、これだって悪い写真じゃない──」

 

 励ましのつもりだったのかもしれない。俺はゆるやかに、彼女の視線をライカに誘導させようとして。

 

 ──真昼の星があった。

 

 快晴の下、中央に写るのはカメラを後ろから追い越したような彼女の背中。白色を基調にした少女の駆ける首筋を消失点として、あらゆる景色が広がっていく広角レンズで撮ったかのような見惚れるほどのパース。瞳から星を流し込まれたみたいだった。心のどこか暗いところで、優しく輝くような。

 

「…………」

「……も、もしかして壊れちゃった……?」

「…………い、や。ぜんぜん、問題は、なくて」

「そ、そう……?」

 

 「えっと」とか「あの」とか、戸惑いを隠せない声が横から聴こえてきたので、何とか呼吸を落ち着かせる。このままでは彼女にいらぬ迷惑をかけてしまう。

 

「ごめん、急に」

「う、ううん……どっちかというと、私が悪いし」

「あのさ、相談なんだけど」

「?」

「消さないで持っててもいい、か。この写真」

「え」

 

 俺の言葉にぱちくりと瞬きをしてから、信じられないとでも言うように顔を真っ赤にした少女は、「な、なんで……」とわなわなと震えた声を絞り出した。

 ……まあ、こういう反応になるか。

 

「いちおう、こういう写真なんだけど」

「わ、綺麗……!」

「顔も写ってないし、どこかに公開したりするわけでもないから」

 

 どうかな、と問いかけてみると、彼女は困ったように眉根を下げながら次の言葉を考えているような表情を見せた。困らせることを言っている自覚はあるけれど、やっぱりこういうのは失礼にあたるんだろうか。とりあえず「うーん」と呻る彼女の、次の言葉を待ってみる。

 

「うう、誰にも見せないなら……」

「ほんとに?」

「な、なんでそんな驚くの」

「いや、結構失礼なこと言ってる自覚あったから。いいんだ、と思って」

「ええ……」

 

 意外と表情豊かなタイプらしい。呆れたように息を吐いたのを見て、そんなことを思った。

 

「いいの? 自分の写真、名前も知らない人に撮られて」

「そう言われると……でも、大丈夫」

「それは、顔が写ってないから?」

「……うん。それもあるけど」

 

 そこで一度言葉を切って、彼女はライカを覗き込むように俺の隣にしゃがみこんだ。

 3インチの液晶モニターの中にいるのは、一人の少女。星の瞬きを切り取ったかのような、刹那のスナップショット。ほう、と漏れでた息は果たしてどちらのものだろうか。

 

「この写真が綺麗だなって思って」

「消しちゃうのは勿体ない?」

「うん。写真、詳しくないんだけど……そう思ったの」

「詳しくないなんて、そんなこと気にしなくてもいいのに」

「そう、かな……」

「そう。撮った張本人だって同じ感想なんだから」

 

 短い言葉の応酬。なるほど、あまり初対面の人と話すのが得意ではないのかも。これきりでおしまいにしてもいいどうでもいい会話を、なぜだかまだ少しだけ続けたくなった。

 

「もしかして、ここに来たのは初めて?」

「う、うん」

「ここ、結構歩くと思うんだけど」

「確かに、長かったかも」

「だいたい、どうしてここに? この辺りなにもないのに」

「えっと、いつの間にか」

 

 大人しそうな第一印象とは裏腹に、行動力はあるみたい。結構不思議な子だ。曲げていた膝を伸ばして立ち上がって、いまだしゃがみこんだままの彼女の方に顔を向ける。

 

「よかったら、ちょっと付き合ってくれないか」

 

 彼女は空みたいな青い瞳をこちらに向けて、きょとんとした表情を浮かべた。

 

「ここの写真、まだ撮りたいからさ。君さえ良ければ、良い感じのスポットを一緒に探してもらえないかなって」

「い、いいよ……私、写真のこと全然知らないし」

「知らなくても、君が綺麗だと思った所でいい」

 

 舞い上がっていないとは言えなかった。突発的な出会いと予想外のトラブルが非日常めいていて、冷静な判断を下す神経までも熱に浮かされているみたいで。どうやら自分は代わり映えの無い日常に飽きが来ていたらしいということに、今更になって気が付いた。

 今まで誰かに写真を見せたこともなかったし、誰かを撮るなんてことはもってのほかだった。そんな自分がこの写真を撮ったことが、坩堝のなかで輝く星になるんじゃないかと淡い期待が芽生えている。

 

「撮ってみたいから。俺じゃない誰かも、綺麗だと思うもの」

 

 膝についた土を払って歩き出す。えっ、と驚いたような声と共に、背後で立ち上がる音。シャッターを押した人差し指が、ブルーベリーの葉を葉脈に沿ってなぞった。

 

「この紅葉してる木、ブルーベリーの木なんだよ」

「え? ブルーベリーって、紅葉するんだ」

「結構意外だと思うんだけど、こういうことって他にもあって」

 

 例えば、雑木林を構成する木の名前とか。葉に付く虫の種類は決まっていることとか。色付き方の些細な変化とか。

 

「写真を撮ってると、そういう違いに気づくこともある。今日の葉っぱは色が違うなとか、前も見た虫がいるな、とか」

 

 その感覚が好きだった。写真を撮ることでその世界を一枚の窓に閉じ込めているみたいな、普段は気にもしなかった世界の美しさを目の当たりにできるみたいな感覚。

 

「だから、知りたいんだ。この写真を綺麗と言ってくれた君が、何を綺麗だって思うのか。それを撮ってみたい」

「…………」

「こんなこと言っといてアレだけど、無理強いするわけじゃないから予定あるなら断ってくれても──」

「本当に、何もわからなくてもいいの?」

「うん、もちろん」

「それなら、えっと……少しだけ」

 

 消え入るような肯定。躊躇いがちではあるものの、無理をしているわけではなさそうに見えた。さっきの話に、少しでも思うところがあったのか。そうであったらいいと漠然と思う。

 手の中で静かに出番を待つライカをそっと包みこむ。指先が熱いのも、頬が火照るのも、この天気だけのせいじゃない。妙にふわふわとした、浮足立つ気持ち。まるで幼い頃、初めて星に向かって手を伸ばそうとした時みたいな。今はようやく夕暮れで、まだ星は見えそうにないけれど。

 シャッターを押した感覚が残っている人差し指が痺れたように震えている。ああ、今日はこのまま星を撮ってもいいかもしれない。ライカでも案外綺麗に撮れるんだよな。

 

「じゃあまずは……俺のおすすめの場所とか、どう?」

 

 測りにくい妙な距離感。そんな空白を埋めるような言葉に、彼女は少しの逡巡を経て、無言のままこくりと首肯した。

 

 

 

 

 

 写真を撮ることについて、深く考えたことはなかったと思う。言われてみれば私が畏まった写真を撮ってもらったのは月ノ森に入学した時が最後で、透子ちゃんに付き合って色々と写真を撮ったりすることもあるけれど、それだけ。私にとって写真は特別大切なものではなくて、日常の中でも特に比重を占めないことだった。

 

「写真を撮る理由?」

「うん。私はあんまり、写真にこだわりがあるわけじゃないから」

 

 出会ってまだ1時間ほどしか経っていない、隣でカメラを構える同い年らしい男の子に問いかけてみる。写真を撮るのにいい場所を探して欲しいなんて言われてもそんな心得とかないし、私には無理だって思っていたけど、案外何とかなっていた。少なくともこの一時間、写真を撮るたびに私の見ている世界が一枚絵に落とし込まれる様に、どこか惹かれ始めている自分がいる。

 

「俺もこだわりがあるわけじゃないよ。ただなんとなく、写真を撮るのが好きってだけで」

「そうなんだ……」

「意外だった?」

「うん。すごく特別な理由なのかと思ってた」

 

 本当になんとなく、ではあるけれど。写真を撮ることについて話していたときのあの顔は、心底嬉しそうに見えたから。それはまるで、大切な夢を語るみたいに。あるいは、知らない星を探すみたいに。だからだろうか。私がらしくもなく知らない人と話したのも、目の前の少年に大きな緊張を覚えなかったのも。

 なんて、考え事に耽っていた脳みそは、耳朶を優しく震わせるシャッター音でその機能を切り替えた。視界が揺れて、ピンボケしていた世界が鮮明になって、私の目が野原に立つ大きな大木を捉えた。耳には二人分の呼吸音。鼻にはブルーベリーの甘い香り。うなじに夕暮れ時の肌寒い秋風。

 そうして一つ一つ感覚を拾って現実に戻ってきたところで、カメラを見やる隣の男の子に視線を戻す。

 

「……よし、こんなもんかな」

「どんな写真?」

「ほら」

 

 差し出されたカメラの液晶をじっと見つめてみる。液晶に映るその景色は私が決めた何度目かのスポットで、ハナミヅキの裏で沈む夕日だった。そう、私のリクエストはそれだけのものだった。

 

「……どう?」

 

 問いかけてくる声に、気の利いた言葉を返すことはできなかった。金色の野原と、その中心の大木。柔らかな風が吹いた一瞬を撮ったのか、葉のざわめきまでもカメラに閉じ込めたみたい。沈む夕日が赤枝の影を手前に伸ばしてきていて、今にもこちらを包み込んできそう。……これだ。私が綺麗と思ったものを軽々しく上回ってくるような形で、彼は写真を撮ってきていた。

 何も答えられないのは初めてではない。最初は失礼かもと思ったけど、笑いながら「嬉しいよ」なんて言ってもらえたので、こうして声が詰まってしまうのは苦ではなかった。

 

「意外と写真撮るのを見るだけでも楽しいでしょ」

「……うん。見ている景色と、少し違くて」

「そう」

 

 結構癖になるんだよな、と彼は口角を上げた。

 

「写真に撮ってみると、景色の細かいところまで見えるだろ?」

「そうかも」

「いいものだよ、写真を撮ること。知らないものを知ること」

 

 うん、と言葉にもならない相槌を打ってから、ゆるりと空を仰いだ。空の色は見慣れたものだけど、こうして知らない人と見る茜色の空は新鮮だった。どこか外出してこのくらいの時間になるのは大抵、家族で出かけたときの車窓とか、Morfonicaの練習を終えたライブハウスの窓とか、透子ちゃんにあちらこちらに連れまわされたりした後の瞳だとかを通して見たものだから、ファインダーを通した後の空をつぶさに観察するように見つめるのは、どこか不思議な感じがした。

 

 夕焼けの光も、木漏れ日も、茜色の東雲も、風に揺れるススキも。星を閉じ込めた宝石みたい。

 あのカメラの中で、風が吹いている。日が昇って、鳥が歌うように鳴いている。

 確かにこの目で見たものだけど、それよりも綺麗に見える現実。彼の言う通り、世界を知ることなのかもしれない、なんて漠然と考えてみる。知らなかった景色を見て、もう一度世界を俯瞰して見る。視線を正面に向けて一呼吸。早鐘を打ちそうだった心臓が落ち着いた。

 

 ぼうっとしてたら着いた場所だったけど、何とかなってよかった。道も教えてもらったし。

 道さえ教えてもらえれば足早に立ち去ってもよかったな、なんて思考が浮かんで、確かにと思った。どうして私はこの人との写真撮影に乗り気だったんだろう。知らない人と話すのなんて苦手だし、男の人ならもってのほか。むむむ、と我ながら自分の行動原理に頭を抱えてしまう。変に暑くておかしくなっちゃったのかな。しばらくは分からなそう。

 

 カメラを下げて、男の子がすっくと立ちあがった。夕日はもうすぐ落ちてしまいそうで、ここには電灯もない。彼もそろそろ帰るのだろうか。

 

「そろそろかな。付き合わせちゃってごめん」

「え、えっと」

「それと、今日はありがとう。俺だけ楽しくなっちゃって。勝手にいろいろ話して、嫌じゃなかった?」

「──ううん」

 

 私の意志よりも先に声が漏れ出る。それだけは、首を横に振って否定できた。たしかに、この一時間は私にとって無駄だったし、知らない人と話すのだってやけに緊張するし、何の得もなかったかもしれないけれど。けれど……写真。ブルーベリーの紅葉。空の見え方。景色の色。それを知ったこと。綺麗な写真を見たこと。世界を落とし込む作業。その全ては、学校の勉強にも歌の練習にも役に立たない無駄でしかないけれど。途方もなく──

 

「……楽しかった、から」

 

 行きついた結論を心の中で打ち止める前に、口は動いていた。

 そうだ。あの時だって選択肢はいくつもあった。最初の会話を切り上げて道を聞いたって良かったし、誘いだって断ればよかった。ほんの少しの申し訳なさはあったけど、予定があるからって言えばどうにでもなったはずだ。それでも断らなかったのは、きっと。

 

 ──倉田さん、一緒にライブハウス行こう!

 

 脳裏で浮かんだ光景がおかしくて、思わずくすりと笑ってしまう。彼はつくしちゃんとは似ても似つかないのに。でも、知らない世界へ手を引っ張ってくれるような予感。ほんのささやかな希望に手を伸ばしてみようって思えたのはあの時と同じだった。

 

「だ、だから……ありがとう」

「……こちらこそ。スマホ持ってたら、今日撮った写真貰ってくれないか」

「ほ、ほんと?」

「ほんとほんと」

 

 カバンの中からスマートフォンを取り出したところで、液晶の中央にあったのは押してくださいと言わんばかりの写真アプリから共有を許可するかどうかの確認通知。迷うことなく許可ボタンを押せば、私のスマホに彼が撮った景色が閉じ込められた。すごい。最近のカメラってこんなこともできるんだ。

 

「……ひとつだけ、頼みたいことがあるんだけど」

「? なに?」

「もし偶然会うことがあったら、そのときもまた」

「そ、そんなことでいいの?」

「まあ、うん。楽しかったから」

 

 茜色の差し日が眩しくて、思わず目を細める。通学カバンを提げなおして、身体を捻りながら紺色の制服に汚れが付いていないかどうか確認する……よかった、大丈夫そうだ。

 

「それじゃあ……あれ? まだ帰らないの?」

「今日はよく晴れてるからな。星でも撮ろうかなって」

「星って……」

「結構コレでも撮れるんだよ」

 

 言いながら、彼はカバンの中から小さなレンズを取り出した。カメラで撮るにもレンズの種類は多いらしい。でも凄い。あんなに小さなカメラでも星って撮れるんだ。透子ちゃんがスマホで星をうまく撮れなくてひどく残念がっていたことを思い出す。いやいや、そうじゃなくって!

 

「あと何時間ここに居るつもり?」

「んー、そろそろ日が暮れる頃だからな。あと3時間くらいはここで待ってるよ」

「え……おうちの人、心配しないの?」

「まあ、いつものことだから」

 

 秋になって日は短くなったといっても、まだ夏のそれと大差はないはずだ。星がはっきりと見えるようになるには、電灯がない此処でも11時は過ぎるんじゃないだろうか。

 

「でも、まだ夕方だよ」

「夕方でもちょっとは星が見えるだろ? このカメラだったら撮れる、なんてこともある」

 

 悪戯っぽく、彼は笑う。切れ長のまなじりが空を映す。それに倣って、日が沈む方とは反対側に目を向けてみる。ススキの上を飛んでいくトンボの群れ。二人ぼっちの広場。町を俯瞰できる高台。諦めの悪いセールスマンみたいに押し付けてくる、冷たい風。流れていくやけに高い暗い雲。そのささやかな切れ目に、ぽつんと光る何かがある。目を凝らしてみて、ようやく分かるかどうかの小さな光。針を通すかのような雲の穴の先。普段なら気に留めることさえしないもの。私たちに届くことはない、何光年も前の瞬き。

 その光をずっと見ていた。自分でもなぜだか分からないくらい、目を逸らさないように。目蓋の裏にまで焼き付けるかのように。だからだろうか。

 

「昼間から、星が見えたら良かったのに」

 

 不思議と。隣で誰に聞かせるつもりもなく零れた彼の言葉が、澄んだ耳元でやけに反響しているようだった。

 

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