星色モラトリアム   作:らぶりー

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3/ CiRCLE

 

 ライブハウス『CiRCLE』。

 昔からある施設らしいが、見た目はその歴史を感じさせるほど古臭くない。防音材で設計された統一感のある黒色の空間はシックな雰囲気があって、ライブハウスのイメージとは裏腹に落ち着きがある。

 清潔感のあるドリンクカウンターで、冷えたメロンソーダを一口。幽かな涼しい舌触り。意外と馬鹿にできない味だ。あともう少しで始まるライブへの期待と高揚を、冷ますことなく落ち着かせてくれる。彼女と以前来たときはカフェテラスでお茶をしたが、それとはまた違った毛色がして意外にも楽しい。ライブハウスは飲食店としての扱いをされるらしいから、このライブハウスもそれでカフェテリアが併設されているのだろうか。一般的ではないらしいけれど。なんて、どうでもいいことを考えることすら新鮮。知らなかったことに触れるのは、どんな形でも日々を彩ってくれる。

 

 それが理由だからか、彼女と出会って以降撮る写真の種類が増えた気がする。

 星の写真を撮る機会が増えた。どんな写真なら喜ぶだろう、と考えるようになった。シャッターを切るのが、前よりも少し楽しくなった。

 いつもより世界を注視して、一週間に一回が三日に一回くらいの頻度になった鑑賞会を心待ちにする。それは初めに出会った公園であったり、どこかの飲食店だったり、ショッピングモールの楽器屋だったりするけれど。示し合わせた偶然に他愛もない話をしながら、近況報告を兼ねているのはいつものこと。最初の方は遠慮がちだった彼女も写真に入ってくれることが増えてきて、俺と彼女のスマホに記憶が形を持って収まっている。

 それを嬉しく思って、楽しく思って、好き好んで会いに行って──こんなにも、吐き気がする。

 

 ふ、と。会場全体が暗闇に包まれて、思考が現実に引き戻された。パンパンに膨れ上がった熱気と歓声が、重力から抜け出した鳥みたいに自由に跳ね回る。その声を頼りにして、そっとステージの方へ向かった。

 事前に彼女から教えてもらった知識によると、今日のライブは俺が知っているライブのイメージとは違って、ブッキングライブというものらしい。なんでも、一日の講演で多くのバンドが順番に演奏する方式だとか。順番まで聞くのを忘れてしまったので、こうして初めから聞くことにした。それを抜きにしても、知らないバンドだとしても聴いてみたいなんていう、心躍る自分が胸の中で暴れ回っていることを自覚している。小さく主張する胸のしこりからは意識を逸らして、ステージへ目を向けた。

 

 ライブハウス前に貼ってあったフライヤーどおりのいくつかのバンドの演奏を聴きながら、お目当てのバンドの登場まで待つ。

 歓声、ペンライト、最後方のドリンクバーまで届く観客たちの熱狂。音がぶつかってくる、と言っていた彼女の言葉の意味が分かったような気がした。どくどくと強く脈打つ心臓を、音が叩いて、耳を通して、脳を経て、身体の端まで痺れさせてくるような。

 

 ライブハウスに行きたいと思ったのは、単なる好奇心だけではなかった。

 ライブそのものへの好奇心と、彼女の言うバンドと、脳に響く感覚と、青空の中の星への羨望。同じ視座に立ちたかったのか。同じ景色を見てみたかったのか。見たものを共有したいなんていう、浅ましさの発露だったのか。

 ともあれ、こんなにも感情を動かされるなんて完全に誤算だ。無論、いい意味で。

 

 ステージに鳴り響く拍手の音。いつの間にかステージで歌を終えたバンドが、ゆるりと舞台袖へと消えた。代わりに入って来たのは、高校生五人のバンドグループ。蝶の形をした金色のアクセサリーと、白いワンピースを模したどこかノーブルさを感じる清廉な衣装。髪の色も背丈もバラバラで、けれどなぜだか統一感を感じる。観客の誰かが、バンドメンバーらしい名前を叫んだのが聞こえた。なんだ。まだまだとか謙遜してたけど、ちゃんとファンに好かれてるんだ。

 

 セッティングが終わったらしい。彼女たちは目を合わせて、微笑みあって、ステージ下へ目を向けた。騒がしかった観客も、演奏の気配を汲み取ったのか緊張が走る。こういうところで音を出してしまうと雰囲気が台無しになりそうなものだけど、それすらない耳が痛いくらいの沈黙が、張りつめた糸のようにがんじがらめに体を縛っていた。

 

「Morfonicaでーす! よろしくお願いします!」

 

 元気溌剌をこれでもかと詰め込みつつ、抑揚に育ちの良さも感じるようなはきはきとした声。俺の初めてのライブ鑑賞は、そんな金髪の少女の言葉で始まった。

 

 華やかなバイオリンの音と、地響きみたいなベース。それを追いかけるように、ギターとドラムが飛び出してくる。遅れて、コーラス。真夏の太陽じみたスポットライトが、彼女たちの姿を照らしている。真っ暗闇のスタジオの中で、彼女たちだけが立っている。

 

 その中央に、否応なく視線が縫い付けられた。何度も見てきた瞳と髪の色。夜空の中で白く輝く、青色の一等星。堂々と佇んだ、星の音源。

 彼女の口が開く。迸るように、声があらゆる音に乗って体中を駆けまわっていく。繊細で、力強くて、透き通って、激しくて、柔らかくて、軽やかで──綺麗で。

 ああ、コレか。

 俺には音楽鑑賞の経験はない。

 技術の巧拙なんてまるで分らないし、歌う上でのテクニックもなにも知らない。それでも、名前の知らない何度も会ったことのある少女の歌声で、胸中であらゆる感情が渦巻いていた。

 彼女の歌には色があった。彼女の声には形があった。果たして、人間の歌はこれほど明瞭だっただろうか。

 思わず手を伸ばしてしまいそうになる。それほまるで──真昼に見えるはずもない一等星に焦がれるような。

 

「みんな、ありがとー! もうサイッコー!」

 

 気が付けば一曲目は終了したらしい。拍手が鳴りやんで、MCパートに入っていく。なるほど、この構成はどこのバンドも似たようなものなんだな。

 金髪の子が観客にパフォーマンスをしてみせて、観客がそれに思いっきり応える。結構慣れてるんだろうか、こういうの。高校一年生と聞いてたけど、それにしては肝が据わっているというか場慣れしてるというか。お嬢様学校ってみんなこんな感じなのか。

 俺の知る彼女は、そうじゃないみたいだけど。観客に笑いかけながらも、やや眉根を下げているのが彼女らしい。

 

「………」

「……おーい」

 

 周りの人に気が付かれないくらいの声量で、控えめに手を振ってみる。観客側は暗いし騒がしいし、気づかれるはずもない。ちょっとした出来心だ。観客の歓声にこたえる彼女は、MCの子とドラムの子のやり取りに苦笑しながらも何かを探しているように視線を動かして──

 

 ──目が合った。視線を落として、俺の手元を見る。頬がかあっと紅潮した。

 

「じゃあ、ここでシロからも一言……って、シロ?」

「えっ? わ、私?!?」

「しろちゃん、なんかぼーっとしてた?」

「えっ、えっと……」

 

 ……ちょっと悪いことしたな。ごめん、とジェスチャーをしてみれば、ちらりとこちらを見た彼女が淡く笑った。

 

 

 

 

 

 Morfonicaのライブが終わったのは、それから二曲ほど歌った後だった。どの曲も好評で、予定していた曲は終えたようだ。満足そうに笑って、彼女たちは舞台袖まで消えていった。その後もいくつかのバンドが演奏をして、今日のプログラムは(つつが)なく終了したらしい。無感動にライブの終了を告げるMCを聴きながら、ライブハウスを後にする。

 

 何枚か写真を撮ったライブハウスを出て、茜色の空を見上げた。昼過ぎくらいにここに来たから、二時間近くライブハウスにいたんだろうか。我ながら珍しい。ライブハウス併設のカフェで夕食をとることも考えたけど、今はこの余韻に包まれたまま写真を撮りたい。

 

 一人、夕暮れの中を歩く。時折写真を撮りながら、道を辿るように歩みを進めた。

 この辺にはあまり来たことが無かったけど、意外と新築の家が多い。ところどころにギターケースを背負った女子高生を見かけるあたり、思っていた以上に活気のある場所だ。この街に、こんないい場所があったなんて。もっと来ればよかったな。もちろんライブハウスにも。少なくとも、日に日に段ボール箱が増えていくだけの自室よりは、ずっと良い。

 

 ゆっくりと歩いていく。頭の中で、ライブの光景を思い浮かべながら。どこに行くかも考えず、脳のリソースをすべて割いて目蓋の裏に今日の音を焼き付ける。今になって、こんなに良いものを貰えるなんて思わなかった。ファインダーの先。それだけがこの世界のすべてだと思っていたけれど。

 

「……次は」

 

 溶けるような独り言。”次”を期待している自分が嫌になる。

 次ライブを見た後は、カフェテラスに行こうか。

 次彼女に会ったら、何を言おうか。

 次写真を撮るなら、何を撮ろうか。

 次──、

 

「そういえば、しろって言うのかな、あの子」

 

 逃げ出すように。空を仰いで。音になりそこねた後悔が零れ落ちた。 

 

 

 

 

 

 次の日、日曜日。一人、以前よりも紅くなったブルーベリーの木々を撮る。聴き慣れたシャッター音、撮り慣れた構図。けれど、写るものは同じじゃない。

 いくつか葉の落ちたハナミヅキ。紅色が鮮やかになったカエデ。ブルーベリーの木に止まる赤トンボが、今日は4匹。世界の些細な変化を写真に収めて、その事実と、瞳よりも鮮やかな色彩を実感する。はあ、とため息をつく。久しく忘れていたような感覚に、いつも息を忘れる。

 

 ライカを鞄に仕舞ってから、立ち上がってぐぐっと伸びをする。「あー」なんて声が知らず漏れ出して、なんだか恥ずかしくなって口を閉じた。鼻で息を思いっきり吸って、風に乗った秋の匂いに鼻がつんとする。日に照らされた雑草と、木の葉が擦れ合う匂い。強い香りは銀杏のもの。そんな主張しなくたっていいのに。

 

 深呼吸をして、五感から現実をひとつひとつ拾いなおしてみる。

 目に映る赤色がぽつぽつと浮かんだ街と、雲の一つさえない青空。

 肌を撫でる涼やかな風と、以前よりも優し気に照り付けてくる日の光。

 耳に届く落ち葉を踏む音。聴き慣れた足音に導かれて、そっと背後を振り返る。

 

「また来たんだ」

「集合場所決めてなかったから」

 

 世界がそれだけになったみたいだった。肩口で切り揃えた白い髪と、大きな青色の瞳。

 

「もしかして、俺ここに住んでると思われてる?」

「そんなこと、ないよ……?」

「怪しい間だなあ」

 

 近くにあるベンチに座った。いつもどおり彼女が隣に腰かける。一人分の間隔。それが、ここ二週間で俺と彼女が歩みあった適切な距離感だった。ベンチでも、喫茶店でも、ドリンクカウンターでも変わらない空白。どちらも無理に埋めようとしないそれを、俺は案外気に入っている。

 

「今日は何を撮ってるの?」

「そんな変わり映えしないよ。ここの景色とか……ああでも、紅葉が結構進んできてるから、その辺」

「確かに、前よりも赤い気がするかも……」

「もう秋も折り返しだしな。冬も近いし」

「寒くても星は撮るの?」

「むしろ冬の方が撮りやすかったりするんだよ」

「そうなんだ……知らなかったな」

 

 距離感を測り合うようにカメラを構える。いつものこと。このまま幾ばくか過ごして、どちらかが発した言葉に引っ掛けた他愛もない雑談を広げる。それだっていつものことだ。だからそれでいい……なんて、能天気に考えてられるわけがない。

 ちらりと横を盗み見てみれば、彼女はどこか期待するような、緊張するような面持ちで。俺はカメラに伸ばしかけた手を引っ込めて、瞳に収めた昨日のことを思い出した。

 

「……良かったよ、昨日のライブ」

 

 そんな言葉が口をついて出た。

 予定していた言葉とか、話の繋げ方とか、そんなものは全部放り投げて。自分で認識するよりも先に、素直な感想だけが漏れ落ちる。

 彼女は不意をつかれたように湖を思わせる青い目を丸くして、それから照れたように微笑を浮かべた。良かった、正解だったらしい。

 

「ライブがすごいって言ってた理由、分かった。チケットもありがとう」

「大丈夫、しょうがないよ。CiRCLEで売ってるの、全部売り切れてたし」

 

 受付で彼女が困り果てて慌てていたのは記憶に新しい。結局のところ、二人で行ったライブハウスでのチケットは売り切れていて、ライブ参加予定だった彼女がいくつかチケットを入手して、その一枚を俺に渡してくれた。

 ライブハウスのシステムにもいろいろあるんだ、と変に感動したのを覚えている。

 

「あと、あれもよかった。MCパート」

「あ、あれ? あれは……私なんか、まだ全然だよ。透子ちゃんの無茶ぶりだし……自信もないし」

「そうか? 結構よかったけどな。ちゃんとさまになってたし堂々としてた」

「……そ、そうかな」

 

 でもたしかに、と言って口が弧を描く。

 

「最近は少しずつ、話せるようになってきて……平凡な私なんかでも、誰かの光になれるのかなって」

「なれるよ」

 

 それだけは、確信をもって告げられた。俺は、あのライブでのきみと、俺といる時のきみしか知らないけれど。

 

「『Day light』だっけ、二曲目のうた」

「? うん」

「あなたの輝きが、道を照らすから……いい歌詞だって思って」

 

 輝きが道を照らす──彼女が作詞したらしい言葉。希望に溢れた、夢見る星。誰かの道を照らすみちしるべ。それはまるで、あの日見た真昼の星のような。

 

「だから、その」

「……?」

 

 困惑に浮かぶさざ波をじっと見つめて、口を開く。

 音楽の良し悪しも、適切な感想も、彼女が欲している言葉も分からないけれど。それだけは、言葉を選ぶことさえ億劫なほどに伝わってほしかった。

 俺から見た、君は。

 

「……眩しかったよ、いつも見ている星より、ずっと」

 

 伝わっただろうか。なんて、考えながら視線を適当に逸らしてみる。横目でちらりと見た彼女は顔を真っ赤にして俯いていて、か細い声で返事をしてくれた。

 沈黙に耐えきれないように、一際強い風が吹く。頬の火照りが遠くなった錯覚がある。

 

「……どうして写真を撮り始めたのかって、聞いたことがあったよな」

「……うん」

「最近まで忘れてたんだけど、つい最近見当がつくことがあって」

 

 照れくさい空気を紛らわすように適当に放った会話を、しかし彼女は顔を上げて受け取ってくれた。俺が思う彼女の美点の一つ。知らず口角が上がるのを自覚しながら、いつかの焼き直しをする。

 

「写真と絵の違いって、なんだと思う?」

「絵の種類は多い、とかかな」

「うん、そう。クールベみたいな写実的な絵もあれば、ゴッホみたいに印象派、なんて人の書いた絵もある。写真よりも絵の方が表現の幅が広くて、自由度もある」

 

 写真は絵画よりも不自由だ、と言われたことがある。その言い分も、理屈も理解している。でもきっと、それだけで測れないものもあって。

 

「現実を花だとすると、たぶん写真は押し花なんだ。どんなにありえない光景でも、写真に写っている以上は現実で。信じられないほどきれいなものを、現実だと証明してくれるもの。俺にとって写真って、そういうのだったんだ」

 

 ルビーみたいに煌めく夕日。真昼の曇り空でかすかに見える星。ありえないような原風景を、それでも確かにあるのだと確信させてくれる、そんな風景が見たくて。

 自分の眼で見た世界を綺麗だと思えなかったから、それを証明するための拠り所。昨日までは、それだけのものだった。

 

「でも昨日のライブは、写真撮るの忘れてたんだ。目で見た景色だけで、綺麗だと思えて」

 

 だから、だろうか。

 

「今日の景色も、いつもより綺麗に見えて。だから、ありがとう」

「……う、うん」

 

 困ったような笑顔。どうしてここまで、なんて思ってるんだろうな。俺だってよく分からない。些細なものでしかないこの出会いを、胸に大切に仕舞っておきたいと思う自分がこんなにもいるなんて。

 それきり言葉はなかった。二人して景色を見ながら、時折隣に視線を向けるだけ。

 時間がゆっくりと流れる感覚に身を任せて、いつも通りの沈黙を共有する。不器用ないつも通りを、どうしてか必死に繕いながら。

 

「ごめん。変な話だったよな」

「えっ? そんなことないと思うけど」

「いやでも、知らない人の話聞いたって」

「ううん、知らない人じゃないよ」

 

 雲が風に吹かれたらしい。控えめだった日の光が強くなって、眼の端に映る髪がアイスブルーに見える。目蓋に黒色の前髪がかかって、手で軽く梳いた。隣に座る少女から目を逸らさないように。

 

「自信を持つことに、まだ慣れてなくて」

 

 凛とした声には、少しばかりの苦悩が含まれていたように思う。けれど以前聞いた声よりもずっと明瞭な、前向きな音色。

 

「CiRCLEでのライブも3回目で、ちょっとずつ慣れてきて、お客さんの前で話せるようにもなってきて。私にもこんなことができるようになったんだって思ったけど」

「十分だと思うけどな」

「そんなことないよ。私なんてまだまだで、透子ちゃんみたいに上手に話せないし……」

 

 そこまで言って、彼女はでも、と遠慮がちに言葉を続けた。

 

「少しは、自信が持てるようになった……かも」

「もっと持ってもいいのに」

「む、無理だよ……そんなすぐ変われないし」

「いや……いいと思うよ、それで」

 

 たとえ彼女が、自分に自信がなくて、そんな自分をすぐに変えることはできないと思っているのだとしても。たぶん、彼女が思っている以上に彼女は変われている。

 バンドをする友人。学校で話すであろうクラスメート。そして、公園で隣に座る自分。──ああ。いつからか、俺はもういかれてしまっている。彼女と過ごした誰かが、こんな風にどうしようもない眩しさを覚えているだろう──そんな確信が、脳裏に焼き付いて離れない。

 

「気休めにしかならないけどさ。今の君のまま、でも極論良いと思うんだ」

「でも、それは……」

「良いっていうのは君にとって、じゃなくて周りにとって」

「どういうこと?」

「……なんていうか。話したり、過ごす時間だけで好きな人だっているんじゃないか」

「そ、そうかな……」

「俺はよく知らないけど、Morfonicaだってそういう人が集まってるはずだし……」

 

 ああ、くそ。うまく言葉がまとまらない。もっと単純に、簡潔に、言いたいことはあるはずなのに。その声を作るための声帯だけをどこかへ置いてきてしまったみたいに、口が動かない。

 ……いや、違う。そんなことを言うべきではない。それを認めてしまうのはいけない。他ならない自分自身が、この関係にこれ以上踏み込みたくないと怯えている。

 

 ちらりと、前を見る。

 

「……少なくとも」

 

 口が勝手に動く。自分の意思よりも優先したいものが、俺の隣にいる。その事実に、心の裡でそっと自嘲した。

 

「俺はこの時間、結構好きなんだ」

「………そう、なんだ」

「そうなんだよ」

「……」

「だから、きっと大丈夫。焦らなくても変わっていける」

 

 なんて白々しい。

 説得力もなにもない、出会ってから2週間しか経っていない人間の戯言。それはきっと、彼女にとっては気休めどころか、覚える価値を付けるまでもないもので。誰よりも自分がその事実を確信しているから。

 

「……ありがとう。ちょっと自信、出たかも」

 

 そう言って、あたたかくはにかむ笑顔に返す言葉を、今も見つけられないままでいる。

 

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