星色モラトリアム 作:らぶりー
駅前の大きなウィンドウに、眉を顰めた自分の顔が映っている。白いシャツの上にワッフル生地のショールカーディガンを羽織って、下にはワイドデザインのテーパード。肩にはなるべく小さく収めたショルダーバッグ。……見慣れないファッション誌を参考にしたけど、ちょっとありきたりすぎたかもしれない。もっと凝ってくればよかったな。
いや、きっとこれで大丈夫だ。変に肩を張りすぎるのもよくない。
最後にもう一度、自分の全身をまじまじと見る。頬を柔らかく揉んだり、靴をかつかつと鳴らしてみたり。
「──大丈夫だ」
少しくらいはかっこつけられているだろうか。……こんなに自信が無いの、なんだかあの子みたいだ。ふと脳裏に浮かんだ笑顔に苦笑した。どうもすっかり彼女との交流に慣れてしまったらしい。
心臓が早鐘を打つ。左腕につけたメタリックな腕時計は、約束の30分前を示している。
───大丈夫。言い聞かせるように、何度も繰り返す。
どうも、変だ。自分らしくない。名前も知らない彼女との出会いに、こんなにも期待して──恐れて──いる。
顔を上げる。ちょうどお昼時だというのに、先週までの憎らしいほどの秋晴れは雲に隠されて、薄曇りの空が瞳に満ちた。晴れたらよかったのに、と思った。そんなことを考える自分に驚いた。今までなら、無感動に世界を見ていたはずだ。カメラに写るものが信じたい世界で、現実は辛く苦しいだけ──そんな若気の至りの価値観が脳を動かして。
……いつからか。写真に写る世界だけではなくて現実を大切にしたくなって。
彩度が明るい十月の末。赤づいたノバラの木と、足元に広がる黄色い葉。鼻をくすぐる銀杏の匂いに顔をしかめて、髪を通る冷たい風にため息を吐く。
……いつの間にか。カメラを構えずとも、この景色がひどく綺麗に思えて──。
「お、お待たせ」
遠慮がちな、柔らかい声。最後に唾を飲み込んで、ゆるりと後ろを振り返る。……ええと、確かこういう時は。
「全然待ってないよ」
「……ほんとう?」
「ほんとほんと」
口を結んで、む、と疑わし気な視線。青みがかった白いセミショート。少し低い視座にある青空に俺の瞳が映っている。
胸がちくりと痛んだ。
急いできたのだろうか、少しだけ荒い呼吸音が彼女に似つかわしくない。「座る?」「ううん、大丈夫だよ」待ってるのが見えたから急いじゃって、と口元が綻ぶ。
一段と主張する痛みを無視するようにして口を開いた。
「服、似合ってるよ」
「そ、そうかな……」
「もちろん。その……」
膝下丈サイズの紺色のスカート。上から羽織っている丸みを帯びた小さなファー襟のついた、かわいらしいトップス。温かみがあるセーターがその下で控えめに主張して、カジュアルながら淑やかさの印象もある。金色のヘアピンが白い髪のサイドからじっと俺を見つめてくる。所在なさげな瞳がちらちらと動いて、赤く染まった頬が視界に入り込んできた。
今思えば、どうして。
「その、なに?」
「可愛いと、思います」
「…………そ、そう、かな」
俺はこんなにも、彼女の笑顔に安堵していたのだろう。
「──そっか。バンド、またできそうなんだ」
「うん。るいさん戻ってきてくれて……また、みんなとモニカになれた」
「よかったよ。俺もすっかりファンだからさ」
「ほんと? それなら嬉しい……かな」
出かけよう、と彼女を誘ったのは俺からだった。バンドで一悶着あったらしい落ち込んだ彼女と少し話をして、それから、あのブルーベリーの木の前で出会って。先日よりもどことなく元気が出てきたようだから、気分転換くらいにはなってみせるつもりで、俺はこのデートに臨んでいた。
ただ、どうやら余計なお世話だったらしい。昼食場所にチョイスした喫茶店に向かう途中でそれとなく聞いてみれば、彼女は声を弾ませながら破顔していた。写真を撮った。くりくりとした目が見開いて、ライカの中に収まった。
「もう、ちょっと!」
「ごめん。良い顔だったからさ」
「最初はいつも確認してきたのに」
「好きに撮っていいよって言ってくれたからなあ」
「それは、そう……だけど……!」
むー、と口先が尖る。反射的に人差し指が動きかけて、本当に怒られそうだったので手を止めた。あれだけ彼女の写真を撮ってきて、未だに新しい発見があるなんて。
「結局あの日にみんなと会えたんだ」
「うん。みんな、私のこと心配してきてくれて……」
バンドの友達──高校生になってできた友人たち。半年ほどの付き合いにも関わらずそんなに仲がいいなんて。……まあ、分かる気もする。彼女のことだ。俺にしたのと同じように、周りの人に心配されながらも手を引っ張って前を見ていて──誰かの道しるべになっていたに違いない。
言っても本人は認めないだろうな。それこそが彼女の美徳でもあるけど。
「でも、みんなびっくりしてたんだよ」
「びっくり? なんで」
「私が結構元気だったから」
「……それは、なに」
「ふふ、なんだか珍しい顔」
楽しそうに話しかけてくるのに頬が赤いあたりしまらない。手を後ろに組んで、上体を少し屈めながらこちらの顔を覗き込むように。
火照った頬のまま、その姿をまともに直視できなくて──胸を刺す罪悪感から気を逸らしたくて──視線を車線側に投げる。隣からくすりとした笑い声。これは一本取られた。
「だからね、ありがとう」
「こちらこそ」
「え? 私、何もしてないけど……」
「いや。今までもたくさん写真撮らせてもらったし。あと今日のデート、来てくれて嬉しかったからさ」
「でっ」
よし、一本取り返した。内心で小さくガッツポーズをして視線を隣に戻してみれば、セミショートの隙間から覗く耳の端まで真っ赤に染まっている。……お互い顔を真っ赤にしては顔を背けてを繰り返すの、はたから見たら怪しいんじゃないんだろうか。
「デ、デートって」
「いやほら、これデートだろ?」
「そ、そんなのじゃ……もしかしたらそうかもだけど……!」
そこまで言って、二人して口元が緩んだ顔を向け合った。変にムキになって、そのまま目を逸らさないままで。ついには、堪えきれずに息を漏らして、恥ずかしくなって顔を背ける。なぜかわからないけど、どうしようもなく安心する。普段通りのこんな調子で歩いていれば、喫茶店にはもうすぐ着くだろう。前を向いて、少し遠くに見える看板を確認する。そう、このまま到着する。普段と何も変わらない、名前を教えない浅い関係のまま。……なんて、矛盾。それなら最初から、俺はこんなことをすべきではなかったのに。
「大丈夫?」
肩に柔らかい感触。とんとんと指で突かれて、声の主に視線を戻す。眉を顰めて、心配そうな表情に普段と同じような笑顔をつくる。普段のまま……果たして今の俺は、普段の自分でいられているだろうか。
「ん、どうかした?」
「ぼうっとしてたかなって。や、やっぱり私と出かけるの疲れちゃうかな」
「そんなわけないよ」
わたわたとしながら、「だ、だって……」なんて続ける。
深呼吸して、ぼうっとしていた頭を叩き起こして急回転させる。こんな顔をさせたかったわけじゃないだろ。これは俺が全面的に悪い。……本当に、何をしているんだか。
「……楽しいし、嬉しいんだ」
顔がぱっと明るくなった。小動物みたいだ。嬉しそうにはにかむ彼女の顔に、もう一度シャッターを切ってみせた。もう、なんてたしなめるような口調。指先の背をお互いにかすめて、弾かれたように手を引っ込める。「ごめん」「ううん」二人して蚊の鳴くような声だった。そのまま会話が無くなるのがなんだかもったいなくて、そういえば、と会話を投げかけた。
「今日はさ、たくさん撮るつもりなんだ」
「写真?」
「そ、写真。特に君を」
「えっ」
「だから、嫌だったら言ってくれ。俺の自己満足だから気にしなくていい」
言うだけ言って、表情をなんとか繕って、奥歯をぎり、と噛みしめた。
嫌な感覚。息が詰まって、喉の奥が渇き切って、視界がぐらりと揺れる。写真を撮りたい。それは事実で、俺はそれをどこかで望んでいなくて……なんて、どうしようもない。未練がましい自己嫌悪が、今も胸の内で燻っている。
「ごめん、やっぱりなんでも───」
「嫌じゃないよ」
即答で返事が返ってくる。言い切った彼女は、驚いて目を見開いた俺と顔を合わせて、それから眉をへにゃりと下げて笑いかけてきた。ああ、我ながら単純だ。この表情を見ただけで、胸が軽くなったような錯覚があるなんて。
「……じゃあ、撮らせて、もらいます」
「うん。いっぱい撮っても……いいよ」
「えらく積極的だ」
「だ、だって、その……デート、だし」
「だし?」
「写真の中の私を見たら、なんだか元気出てくる気がするし……」
上手に撮ってくれるから、とはにかむ顔。
ほう、と息を吐いてならよかった、とだけ返す。頬が赤らんで口角が上がっているのを自覚していた。自然に返せる言葉を探していた。自然と胸が高鳴るような会話。楽しすぎて泣いてしまいたいほど。
俺は、どうしたいのだろう。この少女に、どう伝えればいいのだろう。
「あ、ここだよね。探してくれた喫茶店」
「そ、ここ。じゃ入るか」
「うん」
木製のドアノブの感覚。喫茶店らしいベルの音。朗らかな笑顔で席を案内してくる店員さん。
わくわくした様子で席に着く彼女を見て、来てよかったと思った。早鐘を打つ胸が嫌な跳ね方をした。
「どれがおすすめなんだっけ?」
「パニーニが美味しいらしいよ。えっと、たしか──」
どうすれば、俺は。
この笑顔を翳らせないまま、決別することができるのだろうか。
シャッターを静かに押した。液晶には顔を綻ばせながらパニーニを口に含む彼女の顔。自分の目には、口の端に付いたソースと、抗議めいたじとりとした眼。
「誰にも見せないから」
「まだ何も言ってないけど……今日は、本当によく撮るね。ちょっと意外かも」
「そうか?」
「うん。もっと食べ物に集中するかと思ってたから」
「なに、そのイメージ……いや」
確かに、彼女とご飯を食べながら写真を撮ることは少なかった。理由は単純で、食事と会話をしていたら時間が無くなるから。……それとも。とっくに写真よりも優先したいものになっていたからなのか。
「……珍しいな、そういえば」
「やっぱりそうだよね」
「まあでも、自分の分食べちゃったからな。手持無沙汰で」
「お行儀悪いって言われちゃうよ」
言ってから、彼女は残り手のひらサイズとなったパニーニを、小さな口ではむはむと食べ進めた。食後のカフェラテはもう頼んであるから、そろそろ来る頃合いだろうか。
お昼時を少し過ぎているからか、駅前からやや離れたところにあるからか。人気店らしいこの喫茶店も、周りにお客さんがちらほら見える程度でそこまで混んでいない。店内の雰囲気も残しておこうか、とライカを構えて──食事を終えたらしい、こちらも手持無沙汰となった少女と視線が合った。
「撮ってほしい?」
「ち、違うよ!?」
「ふふ、冗談だよ」
待たせてしまうのも申し訳ないので、簡単に撮ることにした。柔らかいイメージの木目調のセラミックタイル、構えられたエスプレッソマシン、落ち着いたペンダントライト。その一角を写すようにして、ファインダーを覗いて、ピントを合わせて、静かにシャッターを切る。
「やっぱり、違う」
「何が?」
「えっと……写真の撮り方って言うのかな。カメラを向けるところとか、向きとか。私の友達とは違うから」
「ん、まあ、慣れだと思うけど……。なんて言うのかな」
言葉を切る。すぐにでも飲み干せそうなエスプレッソに、なんてことはない、恰好だけちゃんとした高校一年生の顔が映っている。カフェラテまでの空白を埋めるように口を開いて顔を上げると、思った以上に彼女の顔が近くて鼓動が跳ねた。いまだに慣れない気恥しさを見なくて済むように、大きな瞳から視線を逸らす。
「景色の見つめ方……向き合い方って言ってもいいかもしれない」
「向き合い方?」
「そう。景色を俯瞰して、一枚の静止画にする。俺にとっての写真はそれで、そんなに誇れるものじゃなかった。俺の世界は、写真だけだったから」
不必要な会話。どうしようもない悔いを懺悔するような自己満足。この逢瀬に相応しいはずもない吐露。最近になってようやく自覚した、俺にとっての写真。無価値なその独り言を、彼女は邪魔しなかった。時折優しい声で相槌を打って、こちらの言葉を促してくる優しさがあった。
「いつからか覚えてないんだ。少し前に父さんが死んでからか、それより後か。いつからか現実が苦しくて、世界を直視できなくて。風景を俯瞰して、遠いところに行きたかった」
「…………」
「どうしたの」
「えっと、お父さんのこと……」
「あれ、言ってなかったか」
やらかした。俺からすれば数年前でとっくに受け入れたことだったけど、彼女が動揺するのも無理はない。
「ごめん、気を遣わせちゃって。結構前のことだから、そんな気にしないで」
「……う、うん」
「えっと……どこまで言ったっけ」
「……遠いところ?」
「うん、そう。例えばだけど……高いところから見る景色に、何を連想する?」
「高いところ……山とか?」
「それでもいいし、電波塔だっていい」
「うーん……」
深呼吸して落ち着いたらしい。俺の問いに、彼女は困ったように眉根を寄せる。つられて、自分も少し思い出す。幼い頃。山の上から自分の街を見下ろして、何を思ったか。自分の家が見つからなくて、肩を落としたくらいだったろうか。
あっ、と小さな声。考えがまとまったらしい。
「綺麗って思うかも。町がきらきらしてる夜景とか、えっと……圧倒される感じ」
「やっぱり、そう思うよな」
高所から見る景色は壮観だ。なんでもない景色でさえ素晴らしいものに感じる。だけど、自分が住んでいる世界を一望したときに感じる衝動はきっとそれだけではなくて。
「俺は、遠いって思ったんだ。自分の身の回りに何もなかったから、自分の街が世界に見えなくなって。たぶん、写真も同じだった」
例えば、自分の部屋と、自分が俯瞰している街並みを見ても、前者の方をリアルに受け取るように。写真も同じで、俯瞰した世界の切れ端だ。
写真で撮った町はなんて小さいのだろう。あの鳥はあんな姿をしていただろうか。あの木の葉っぱがあんなふうに揺れるなんて知らなかった。これではまるで知らない世界だ。なんだか遠い──とても、きれいなところを撮っているみたいだ。なんて、そんな風に。
自分が見る広い世界に、自分が体感できる世界よりも固執する──そんな錯覚に、俺は写真を撮って逃避した。
「写真を撮って、そんなふうに思って……たぶんそれが理由で、俺は写真を撮ってたんだ。見ている世界から離れて、俯瞰した風景だけを全てにしたくて」
「……うん」
「でも、最近はそれだけじゃなくて」
耳を傾けてくれていた彼女を見つめる。こちらの視線に気が付いて、こてんと首を傾げる。青い瞳がぱちくりと瞬きをして、金色の髪留めが照明を反射して光った。
「それだけじゃ、なくて?」
「君のおかげで、ちょっと変わった」
「え?」
深呼吸する。どう言葉にするべきか、どう伝えるべきかなんて今の俺には分からなかった。
息が詰まって、言葉が出ない。口を開けて、乾いた舌のために残りわずかのコーヒーを呷って、視線が宙をさまよって言葉を探して、結局、俺の中の赤裸々な心の裡を拾って、やっと形にした。
「バンドとか、ライブとか。自分の見た世界を大切にしてて……いいなって思った。それから、写真の撮り方が変わったんだ」
「そ、そうかな……私、世界の見方とか、そんな難しいこと気にしてなかったけど」
「でも、変われたんだ」
景色を見るためのものから、思い出を残すためのものに。俯瞰した景色から、少女が仄かに浮かべる笑顔に。逃避のためではなくて、前進のために。
食後のカフェラテが届いた。「ありがとうございます」「あ、ありがとうございます」カップを持って、そういえばホットを頼んでいたことを思い出した。火照った頬を冷ますには役不足かも。アイスにすべきだったな。彼女も同じ結論に至ったらしい。二人して示し合わせたようにソーサーにカップを置きなおして、目が合って、軽い息が漏れた。
「……ありがとう」
視線を逸らされた。口元をふにゃふにゃと動かして、口角が上がる。「……どういたしまして」「照れてる?」「そ、そんなことないよ~?」顔をほんのりと赤くして、眼を細める。言葉のわりに上機嫌だ。良かった。俺のミスは何とか挽回できたらしい。
「この後はどうするの?」
「ちょっと離れたショッピングモールで、雑貨でも買おうかなって、せっかくだから、可愛い小物とかプレゼントさせてほしいな」
「そ、そんなのいいよ……でも、雑貨店?」
「自分用には生活用品とかさ」
「? 一人暮らしじゃないのに、珍しいね」
「……まあ」
美味しい、とカフェラテを飲んだ彼女が呟く。つられて、カップを口に運んだ。まろやかな酸味を包み込むようなミルクの舌触り。飲んだ後の喉に残る後味に落ち着くような。
「うん、おいしい」
「私、初めてだから緊張してたんだけど……美味しくてよかった」
いつもよりもほんの少し高い声が耳朶を撫でる。楽しそうな声色と長い睫毛のアイライン。
また来ようよ、なんて言葉が喉に詰まって、カフェラテで奥に流し込んだ。
十月も末に近づけば、意外と上に羽織るものが必要になる。特にここ数年は寒暖差が激しくて、上に着るものも考えないと風邪を引く。放ったそんな会話から、二人でショッピングモールを回ることにした。お目当ては雑貨店と、服屋だ。とはいえ買うか買わないかに特に重きは置いていなくて、二人で何か見ながら歩ければ良いらしい。
「お待たせ……って、あれ」
「ふふ、かわいい」
必要な生活用品の会計を済ませて振り返ってみれば、視界に入って来たのは、そこそこ大きめの猫のぬいぐるみとにらめっこをする彼女の後ろ姿。待たせてしまったことに対する申し訳なさと、小さな子供を見てるような微笑ましさ。……どうしよう。
謝罪から先に言うとして、あんな様子の彼女に次の場所に行こうなんて無神経なこと言えるだろうか。対人経験が少ないことが恨めしい。数秒間逡巡してから、素直に声をかけることにした。
「欲しいの? そのぬいぐるみ」
「うん。……でも来月、みんなと一緒に遊ぶ予定あるから」
「プレゼントさせてくれないか?」
「い、いいよ! そんなの悪い、し……」
ぎこちない動作で首が回る。どうやら先ほどまでの会話は無意識だったらしい。こちらを向いて、至近距離で目が合って、首から目元までかあっと紅潮した。
「わ、忘れて……!」
「この子? ちょっと毛がハネてる」
「えっと、そのとなりの白い毛の……」
「ああ、こっちの子か」
「うん……って、そうじゃないのに……!」
不満げな目線に肩をすくめる。この雑貨店に関しては完全に自分の予定に付き合わせているだけだし、せっかくだから、と投げかけた申し出は、いいよ、とだけ言った彼女ににべもなく断られた。
けれど、このぬいぐるみに関しては……遠慮がちな彼女にしては珍しく、未だに目を逸らせていない。
「ぬいぐるみ、好きなんだ」
「うう……知られたくなかったのに」
「なんで?」
「だって、子供っぽいって思われそう」
「あー、そういう」
高校生でぬいぐるみ。言われてみれば珍しい気もするけれど、彼女の雰囲気から推測するとそこまで意外でもない。
「別にいいんじゃないか。可愛いと思う」
「……ほ、ほんと?」
「どんな子がいるんだ?」
「えっとね」
ポーチから携帯を取り出して、液晶をこちらに向けてくる。彼女の部屋らしい小さな空間にあるぬいぐるみを見て、思わず息が漏れた。部屋の片隅から丁寧に並べられているペンギンやら仔犬やら……いや結構多い。ベッドの端まで並んでいるのは初めて見た。
「可愛いじゃん」
「うん。みんなお気に入りだから」
それなら、より一層渡したくなる。たとえ自分の自己満足だとしても──彼女にとってのこの出会いが、少しでも良い価値を持ってくれたら、なんて。いつかの思考を思い出すように。
「どう?」
「う、うーん……」
「お金は気にしなくてもいいのに」
「そういう問題じゃ……」
「まあまあ。付き合ってもらったお礼だと思って」
「でも……」
「ほら、デートでくらいかっこつけさせると思って」
「……なんだか、私のことだまそうとしてない?」
「してないって」
意外にも強情だ。
子猫のぬいぐるみと俺の顔を交互にみて、うーん、と声を漏らす。どうも決まり切らないようで、「や、やっぱりだめ……」なんて自分に言い聞かせたかと思えば、今度は「でもこう言ってくれてるし……」と呟く。なんだか見ていて面白い。
「あの、今度……」
「ん?」
「また今度、出かけたときにお返ししてもいい……?」
「──それ、は」
「そ、それなら欲しい、かな……」
「………」
「どうしたの?」
「あ、いや……」
間違えた、と悟ったのは一瞬。何でもいいから気の利いた言葉を返すべきだった。照れたようにはにかんでいた口元が、きゅっと結ばれる。細めていた眼が開かれて、眉間に薄いしわが寄る。店内の洒落たケルト音楽のBGMが耳から遠ざかって、心臓の音だけが煩い。視界が狭くなって、頭がくらりと揺れた。
「……今日、変だなって思った」
「急に、なに」
「私にだって分かるよ。こんな風にちゃんと予定を立てて誘ってくれたのも、自分のことをたくさん話してくれたのも初めてだったし、プレゼントだってすごく強情だし……写真もいっぱい撮ってたから」
会話の些細な噛み違い。妙な気の使い方。我ながらひどい空回りだ。
泣いてしまいそうなほど胸が痛んで、奥歯を音が鳴るまでかみしめて、口を飛び出しそうな言葉をすんでのところで抑えこんだ。
なんて滑稽。焦点の合わないレンズで写真を撮るような。
出会うべきではなくて、だけど話すのが楽しくて。そんな我儘と自己矛盾の果てに、彼女に気を遣わせている。
胸がちくりと痛んだ。心臓が泣いていた。熱くなりかけた目頭を押さえて、ぼやけた視界で柔らかな声だけを聴いていた。
「教えてほしいな。少しだけでいいから……私じゃ、何の役にも立てないかもしれないけど」
舌が上あごに張り付いて声が出ない。目を逸らしていた現実が壁となって迫ってくるような緊迫感。
──何がしたかったんだ。普段通りなんてとても演じられていなくて、結局このざま。
耳に届く声が遠い異国の言葉に聞こえる。胸が詰まって息ができないから、酸素が足りない。どうにか絞り出す呼吸音は自分の耳にすら届かない。ひどい嵐の中で星の光すらも見えないような寂寥。
彼女の眼には、どう映っているだろうか。ひどく不恰好でどうしようもなくて、機嫌を損ねていないといいのだけれど。顔を見ないようにして──情けない顔を見られたくなくて──顔を俯いたまま、びくりと喉を震わせた。
「……明日から、引っ越すんだ」
あまりにもか細い声。まともに発することはできたのか、息を呑む音が聞こえた。
何とか顔を上げて、ピントを合わせて彼女を見る。目尻を下げて、口元を震わせて。震える息を漏らしながら、細い肩が少し上がっている。
初めて見るその表情を、写真に残そうとは思えなかった。
夕暮れが遠くに見えて、ああ、日の入りが早くなったな、と場違いな納得をした。少し呆けて立ち止まって、歩き出す。それはきっと──
「母親の仕事の都合でさ。新幹線で四時間くらいのとこ」
「……そうなんだ」
結局ぬいぐるみは買わなかった。二人して俯いたまま立ち止まっているものだから店員さんが来てくれたけど、大丈夫ですと言って歩き始めたのはどちらだったか。……遠ざかる背中を追いかけたのはどちらだったか。
無言のまま、気がつけば電車を乗り継げば三十分程度で帰れる道を、わざわざ二時間掛けて歩こうとしていた。
会話は無かった。何を話せばいいのかわからなくて、お互いにごちゃごちゃした気持ちを整理したくて。こうなりたくなかったのなら、この逢瀬そのものが間違いだったのか。……どうしようもない自問に逃げる思考回路が嫌になる。
普段はあまり来ない場所だったけれど、覚えのある名前の通りを標識伝いに辿ると街並みの色も見慣れたそれに変わってくる。もう少し歩けば、あのブルーベリーの木の公園に到着する頃合い。ここまで来てようやく、何か言おうと思い立った。
「ごめん。ずっと言い出せなくて。ほんとはもっと落ち着けるところで言うつもりだったんだけど」
締まらないな、と自嘲気味に呟いてみる。曇り空の隙間からルビーみたいな茜色が差し込んできて、目を細めた。
路地を左に曲がる。ススキが伸びた歩き慣れた道。
「……返せなくなっちゃうんだ」
「……ごめん」
声色は固い。怒っているというよりも、親に怒られた子供みたいな──寂しそうで、ワントーン下がった抑揚の付け方。表情は髪に隠れて見えなかった。それとも、見るのが怖いだけなのか。
舗装された道から、手入れの荒い道へ。ほんの少しだけ傾斜のついた上り坂を、二人して当然のように登った。
赤茶けて穂を垂らしたイネ科の草本。木枯らしに葉を奪われたツル植物。残り花を付けたアワダチソウ。枯れ葉。靴がドングリの実を蹴る感覚。
「すっかり景色変わっちゃったね」
「……確かに。会った時はまだ暑かったのに」
「うん。あの頃は、私も知らない道だった」
もう慣れちゃったけど。隣で薄くはにかんだ顔に、ようやく視線を合わせられた。
彼女との縁が切れることを、俺はかなり惜しんでいるらしかった。そんなことに、今更になって気が付いた。彼女に教えてもらった世界の見方と同じくらいきれいなものが欲しかったのだろうと思う。それが何かまでは、まだ分からないけれど。
カエデの森を抜けて視界が開く。少し広い広場。とってつけたような寂れたベンチ。
葉擦れの音は夏のそれよりもずっと控えめで、石を転がすような川のせせらぎが耳を撫でる。なんの虫かも分からない合唱と、高い空の向こうから渡り鳥の鳴き声。
「今日は、見えるかな」
「何が?」
「星。アルフェラッツ……だっけ」
「……うん。覚えててくれたんだ」
「何だろうって思ったから。真昼の星、なんて言ってたよね」
撮った写真に気を遣うようになったのはそれからだった気がする。
思えば好き勝手に語りすぎた。もっと他愛もない話をした筈だけれど、どんなだったか。きっと記憶の端にも残らない、些細なものだった。それさえも、このライカに収められたら。音も、感情も、確かに紡いだのだと──証明できたのなら。
ベンチにハンカチを敷いた。偶然出会ったまま一緒に歩いて、見繕ったもの。
落ち葉の重く鈍い甘さ。肺の奥を刺すような水の気配。草の冷えた匂い。熟しすぎた果実の懐古。夕焼けに照らされた洋服の香り。
「ライブの写真は撮れなかったな」
「あんまり向いてない気がするね」
「……でも、覚えてる」
「ほんと? それなら良かった……かな」
ベンチに彼女が腰かけると、見上げてからふにゃりと微笑んだ。視線に促されるまま隣に腰を下ろす。誰が置いたのか分からないけれど、見た目ほど古くはないらしい。三人くらいは詰めて座れそうなベンチは、深く座っても嫌な音は立てなかった。
「──新幹線で四時間だから、会えないわけじゃないんだ」
「……でも」
「まあ、日帰りだとあんまり遊べないか」
意図して避けていた会話に、彼女は表情を強張らせる。できるだけ軽い調子で続けてみても、口は固く結ばれたまま。
「ごめん。ずっと言えなくて」
「ううん。寂しいのは本当だけど……ちょっと、嬉しかった」
「なにが?」
「お別れするのが辛いって思ってるの、私だけじゃなかったから」
なにを今更、なんて言いかけて、彼女らしいと思い直して笑った。
遠くに冬の星が薄らかに見える。雲が風に吹かれて、茜色が頭上を通り過ぎる。あれは何の星だったか。秋も終わりに差し掛かって、空が普段よりもはっきりと見えるから、これからは星もたくさん撮れる。引っ越した先の天体観測は少し寂しくなるかもしれない。
風が葉を揺らす音。すっかり葉を落としたブルーベリーの木に、ひどく目元が緩んだ。この感傷が郷愁と呼ばれるものなんだと、何となく自覚する。
あと数分で
「──会えて、よかった」
「……え?」
自分の口から漏れ出た言葉に、哀愁は無かったように思う。モラトリアムの眩しさに目を細めながら呟くような、ぽつりとした水滴。
「いろんなこと教えてもらって、いろんなもの見れるようになって、いろんな景色が近くなって」
逃避で写真を撮って、遠くあった世界の中で近くにいてくれて。──きっと、そのときから俺の瞳には彼女の姿が流れ込んでいた。ライカに収めることができない真昼の星を大切に胸に仕舞いたくて。
「嬉しかった。楽しかった。話す時間が好きだった」
もうずっと前にも錯覚する数週間前。母親に引っ越しの旨を伝えられた時、自分がひどく無感動に受け取っていたのを今も覚えている。学校やらクラスメートやらを写真に撮ることはなくて、自分が思っているよりもあっさりと割り切れたから。
それはたぶん、俺に現実を直視する勇気が無かっただけのこと。
「世界が変わって……大切な時間だった」
写真を褒めてくれて、音楽を聴かせてくれて、弱音を吐いてくれて。
ダメだ。俺はこの事実からだけは逃避できない。自分はとっくに──。
「だから、ありがとう」
目を合わせる。頬を赤く染めた彼女は、二、三度視線を逸らして、結局じっとこちらを見た。優しい目。晴れやかな青空に映る世界が、俺は好きだった。この思い出はきっと、星の色をしていた。
「……私も。楽しかったし、元気ももらえた。わがままとか、自信がないこととか。全部まとめて……なんだか、自分で好きになれそう」
「なら、良かった……かな」
「それ、私の真似?」
「さあ?」
「……ふふ」
控えめなその言葉を建前だとは思わなかった。
俺の情けない逃避の果てに、少しくらいは価値のあるものを残せたなんて。そんな勘違いを、今くらいは真に受けても許されるだろうか。
勝手に言うだけ言って、なんだか安心して、小さなため息が漏れた。それに合わせるように、隣から小さな笑い声が漏れる。ようやく呼吸が落ち着いて、気を張っていたことを思い出した。
「また来るよ。此処で撮りたい写真があるから」
「そのときは教えてくれる?」
「もちろん」
ベンチから立ち上がる。茜色はすっかり空から見えなくなって、空を仰げばいくつか星が煌めいている。
北東の空にアルフェラッツが見えた。写真を撮りかけて、やめる。今日はもう、十分すぎるほどの写真を撮った。無意味に背筋を伸ばして、「あー」なんて声が漏れた。口を手で覆う俺に笑ってから、隣で立ち上がる気配。
「そういえば……遠いところ、行くんだよね」
「うん」
「それなら、えっと……また会うために」
「……連絡手段が必要だな」
目が合って、すいっと逸れる。なんだか、顔が赤い。
冬も近いというのに心なしか顔が火照る。しどろもどろな会話に肩の力が抜けて、口角が上がった。
一緒にどこかへ行くとか、写真を撮るとか。──また会う日を約束するとか。これからもそんなことを続けるためにスマートフォンを取り出して、チャットアプリを開いた。彼女の方が一足早く、ずいっと液晶を向けてくる。名前は──
「私……倉田ましろっていいます」
「ああ……だから、しろ」
「? 何の話?」
「ほら、ライブの話」
どうでもいいことを思い出して一人笑った。らしくもなく咳払いして、まっすぐに彼女の顔を見つめる。
肩口で切り揃えた綺麗な白いセミショート。長い睫毛の下に広がる青空。照れると赤くなる白い頬と、意外にもよく動く小さな口元。内向的で、思慮深くて、照れ屋で、褒めると薄くはにかんで、自信が無くて──それでも前を向いて力強く歌ってみせる一等星。
告げられるだろうか。この決別が怖くて名前を教えられなかった臆病者に──いや。
彼女になら言える。
遠い世界の中で近くにいてくれて。新しい世界に手を引っ張ってくれて。無価値な逃避を前進へと変えてくれた、彼女になら。
「俺の名前は───」
胸を渦巻く緊張感。鞄の中のライカは背中を押してはくれない。前を向いて、息を吸った。その日、初めてツーショットを撮った。
「寒くなるから気を付けるのよ」
「うん、行ってきます」
お母さんの送り出しに応えてから、舗道を歩く。季節はすっかり冬になって、朝だから頬に刺す空気は少しひりひりする。遠くからの長旅を経てやって来たパステルカラーのマフラーを口元まで上げて、テンポの速いスニーカーの靴音を聞いた。
冷たい風が顔に押し付けられる。くすぐったいなと思っていたら、前髪がぶわっと広がった。ヘアピンを留めなおして、久しぶりの路地を曲がる。
道の脇のススキはもう茶色くなってしまった。カエデの木は枯れてしまって、背筋を刺すしんとした静けさ。引き返そうかと思ったけど、やめる。今度からは違う場所を待ち合わせの場所にしよう。
色彩を落とす茶色い葉っぱ。すっかり聞こえなくなった虫の声。枯れ木の森を抜けて、少し開けた場所が見えた。その向こうに、一人の男の子が見える。古い木造のベンチに座って、カメラを構えているような後ろ姿。
「──久しぶり」
冬休み。私はまた、不意なシャッター音を聴いた。