物事を完成するために、最後に加える大切な仕上げのたとえ。また、物事の最も肝要なところのたとえ。文章や話などで肝心なところに手を入れて、全体をいっそう引き立てるたとえ。
引用元:三省堂『新明解四字熟語辞典』
人は、何を持ってして「美しい」を定義するのでしょうか。それは色? 造形? 値段? それとも目には見えない何か? しがない若造である僕には、皆目見当もつかないのです。
だからこそ、僕は美しさを知るために筆を取る。白いキャンバスに、ただ色を塗りたくる。赤、青、黄色、緑、混ぜて、塗って、塗っては、重ねて。
ああ、今日も何かが足りない。色めく木の葉を描いてみても、何も響かない。夕暮れの空模様を描いてみても、どこか他人事。僕は、未だ本物の美しさに出会えていない。
ああ、みにくい。なんてみにくいのだろう。こんな絵も、こんな絵を描く自分も、こんな絵を評価する人々も。絵の具をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせたようなこの世界が、そもそもみにくいのだろうか。
濁り切ったグレー、くすんだ緑、刺々しいピンク。僕の周りはこんな色ばっかり。目障りだ。消えてくれ。いっそ、この筆で目を突き刺して視界ごと全部奪ってやろうか。
そう、思っていた。君に出会うまでは。
ある月が綺麗な夜のこと。ふらりふらりと街を彷徨っていた時の話だ。汚い色が溢れる暗闇の中、ひとつだけ美しい光を放つひとがいた。それが君だった。その日初めて、僕はひとを美しいと思った。本物の美しさに、初めて出会った。まさしく君は、運命のヴィーナスそのものだった。
瀬田薫。噛み締めるように君の名前を呟く。ふふ、綺麗だ。字体まで綺麗だ。僕は今まで無神論者だったのだけれど、君に出会って初めて本物の神様に出会えた気がする。それぐらい、君は衝撃的だった。
君はね、僕が出会ったどの人間よりも綺麗な色をしているんだ。誇り高いヴァイオレット。澄み切ったカーマイン。透き通る白い肌には、ソナタの影が差す。こうして写真を見るだけでもドキドキしてしまうよ。君は罪作りな人だね。
だからね、こうして僕は君を描こうとしているわけなのだけど。なかなかうまくいかないんだよ、それが。どれだけ描いても、どれだけ色を重ねても、君にならない。君が、描けないんだ。
そこに本物の君がいたら、また違う色を描けるのだろうか。いいや、それは違う。きっと君を間近で見てしまったら、絵を描くよりも先に僕の気が狂ってしまう。その長いまつ毛がはねる様子が、そのしなやかな指先の血管の筋が見えてしまったら、僕は、僕は。
そもそも、完成されたものを描くこと自体が無理な話なのだろうか。僕にはわからない。ただ、そこにあるのは君が美しいと言う事実だけ。君の美しさに目を灼かれた男がひとりで気持ち悪く蠢いているだけ。
君のポスターを見る。世界で一番美しいとされているギターを手に、君は微笑んでいた。ああ、綺麗だ。君は綺麗だ。なんて綺麗なんだろう。なんで綺麗なんだろう。
混ぜる。色を。ぐるぐると筆を回す。ただ絵の具を一心不乱にねじり出して筆を回す。ぐる、ぐる、ぐる、ぐる。ああ、違う。こんな色じゃない。君は、もっと、綺麗で、美しくて、穢れていなくて。
──べちゃり。
嫌な音がした。その穢い液体が落ちていく場所は、なんとなく予想ができた。だからこそ、見たくなかった。ああ僕はダメだ、ただでさえ穢い色で、ただでさえ穢い僕が、穢れのない君を穢すだなんて。
おそるおそる、首を傾ける。ごくり、と唾を飲む音がアトリエに響いた。美しいままのホワイトファルコン。キラキラと笑うメンバーたち。ああ、よかった。ポスターは綺麗なままだった。ある、一点を除いては。
この世界の何より美しいと思っている君の顔を、穢い絵の具が塗りつぶした。いまや、誇り高いヴァイオレットも澄み切ったカーマインも透き通る白いソナタも、濁ってくすんでぐちゃぐちゃに混ざった絵の具で見えない。
冒涜だ。これは君に対する、冒涜だ。到底許されるはずのない、下賤な行為。僕は、最低最悪の芸術家に堕ちてしまった。
絵の具の下にある君の顔を思い出す。ああ、綺麗。とても綺麗。綺麗な顔が、穢い絵の具で穢されてしまった。綺麗な君が、穢い絵の具で。美しい君が、穢い絵の具で。
そのなめらかな髪が長いまつ毛がやわい唇が細い首筋が華奢な肩が折れてしまいそうな腕がしなやかな指先がふんわりとしたバストが艶めかしい腰つきがやわらかな腿がすらっとした足首が瀬田薫という女神が君というヴィーナスが僕に美しさを教えてくれたひとが僕の、落とした、穢い、絵の具で、こんなにも、ぐちゃぐちゃに、よごされてしまった。
胸がぎゅう、と苦しくなる。息がぎゅう、と荒くなる。はあ、はあ、はあ、と息を吐く。ぜえ、ぜえ、ぜえと息を吐く。後悔の念が、僕を苛んでいるのだろうか? 否、違う。僕は興奮しているのだ。この背徳的な行為に。自分の犯してしまった過ちに。
だって、しょうがないだろ。だって、仕方がないだろ。ぐちゃぐちゃでどろどろの絵の具に穢される君が、僕というクズに穢される君が、今まで見たどんな君の姿より、綺麗に見えてしまったのだったのだから。
〜
「薫くん、これ、また落書き……なんだか最近薫くんの写真に落書きする人、増えたよね? どうしてそんなことするんだろう……」
「はぐみ、君が心配しなくても大丈夫さ。美しいものを汚したくなる……それは人の性なのだから」
「でもっ! 最近の落書きはどう考えても多すぎるよ……っ!」
「……そう、だね……」
僕は生まれ変わった! 君のおかげでね。君のおかげで、僕は本物の美しさに、本当の芸術に気づいてしまったんだ。そう。君というヴィーナスを穢すという行為が、僕にとっての芸術だったんだ。
ああ、どうか泣かないで。どうか笑って。僕は君の笑顔が好きなんだ。その笑顔に、穢い色を乗せるのが大好きなんだ。
今日はどの君に色をつけよう。街中の演劇ポスター? それとも、ライブハウスのフライヤー? グッズとして販売している生写真もいいよね。どの君も綺麗だから、穢しがいがあるなあ。
そうだなあ。今日は、結婚式場のポスターにしよう。ふふ、高校生の君も綺麗だなあ。爽やかな笑顔がよく似合ってるよ。きっとその白いタキシードには、僕の色がよく映えるね。そう口にしながら画材を取り出す。
グロテスクな色に染まったパレットに、一心不乱に絵の具をぶちまける。赤、青、黄色、緑……いいや、全部混ぜちゃえ。ぐる、ぐる、ぐる、ぐる、今日の君を彩る色は、どんな色にしようかなあ。ドブみたいな茶色もいいし、粘液みたいな緑もいいね。濁った黄色もドス黒い赤も、ぜーんぶ似合うんだろうな。だって、君は綺麗だから。
ぬりぬり、ぬりぬり。これでまた、君が僕色に染まっていく。この穢い色ぜーんぶ僕だと思って、優しく受け止めてね。はーあ、僕の女神様は、どんな色になっても綺麗だなあ。
ああそうそう、僕を受け止めてって話で思い出したんだけど、最近は絵の具以外でも君を穢すことができるようになったんだ! 恥ずかしくて僕の口からは言えないけれど……きっと君はそんな僕も受け入れてくれるんだろうなあ。君は、綺麗だからね。
はあ、写真の君を穢すのは楽しい。でも、なんだか最近物足りなくなっちゃったなあ。やっぱり、本物の君に触れたい。そのふわふわとした頬にべちゃりと絵の具をぶちまけたい。そのすうっと通った鎖骨にそおっと筆をそわせたい。君に絵の具をたくさん塗りたくった後は、君の存在ごと僕で穢したい。
ああどうしよう! もしそんなことができてしまったら、ついに君は芸術作品として完成してしまう! そうなったらどうしよう、僕はおかしくなってしまうかもしれない。もう、とっくにおかしくなっていたりしてね。
ありがとう、女神様。ありがとう、瀬田薫。全部、君のおかげだよ。今日も明日も明後日も、君と一緒に作品を作っていければいいなあ。そう思っていた、秋の日のこと。
「……もう、私の顔に絵の具を描き足すのはやめてくれないか」
いつものポスターの前に、本物の君が立っていた。ああ、君は気づいていたんだ、僕の存在に。ふふ、嬉しい。嬉しいねえ。
僕はこんなに嬉しいのに、なぜだか君はひどく苦しそうな顔をしていた。なんで? どうして? 君は僕の芸術そのものなのに。写真で見る君は、もっとキラキラと笑っているはずだよ。
君のカーマインが、ぐるぐると泳ぐ。まるで僕から逃げるみたいに、あちらこちら踊り回って、まるで僕と目を合わせてくれない。
「どうして? 僕は君の美しさを芸術に昇華させているだけだよ」
だから僕は君に真っ直ぐ目を合わせて、こう微笑んでみせる。君は芸術が大好きだからきっとわかってくれるはず。
僕はね、君の美しさを周りのバカどもに伝えるお手伝いをしてるんだよ。みんなバカだからさあ、綺麗なものは三日で飽きてその美しさの価値すら忘れちゃうの。だから僕が穢して、君の美しさをバカたちにわからせているんだよ。
「……もし、あなたにとってのその行為が芸術だったとしても……私には、それが怖いよ」
……怖い? 君の言っている意味が、僕にはよくわからなかった。芸術になることが? 理解されることが? 美しくなることが? ううん、どれが怖いんだろう。
でも、安心して。君には僕がついているよ。その怖い気持ちがなくなるように、もっともっと君を綺麗にしてあげるから。このパレットで、この筆で。
「私を、けがさないでくれ」
君らしくない、ひどく小さな声だった。喉の奥からきゅっと絞り出すような声だった。普段の堂々とした立ち振る舞いからは想像できないほど、か細くて繊細な声だった。
胸がぎゅう、と苦しくなる。息がぎゅう、と荒くなる。はあ、はあ、はあ、と息を吐く。ぜえ、ぜえ、ぜえと息を吐く。ああ、僕は、僕は、僕は。
ぐちゃぐちゃの絵の具で、脳みそが掻き回されていく。パサパサの筆が、心臓を抉る。君の声が、反芻する。私をけがさないで。私をけがさないで。私をけがさないで、って。
初めて知る感情が、僕を支配する。初めて知る表情が、僕を埋め尽くす。結局のところ、今更君に何を言われても僕はもう戻れないとこまで来ちゃってるんだよ。だからどうか、僕を受け入れて。僕を受け止めて。
目を開ける。そこには、絵の具まみれの君がいる。芸術作品と成った君がいる。僕はその頬をそおっと撫でて、にこりと微笑んでみせた。
「ああ、やっぱり。君は、綺麗だなあ」