息が乱れる。
身体を巡る二酸化炭素が早く吐き出せと肺を満たし、全身の細胞が酸素をよこせと信号を送る。
「はぁ、はぁ……はひぃ……」
ふらふらと、よたよたと、覚束ない足取りで少女は進む。
篠澤が走り出してから、既に20分の時が経過していた。
「ふふっ……苦しぃ……」
未だ走った距離は1500mの半分にも満たないにも関わらずこの調子である。
そんな篠澤の様子を、ただ一人相澤がじっと見つめていた。
既に走り終えたクラスメイト達は、相澤の指示により次のテストに向かわされたため。
いまここに居るのは篠澤と相澤、それと万が一の時ように相澤が呼び出した担架ロボットだけだった。
「篠澤広か……」
ちらりと、手元にある生徒資料を見る。
篠澤広、年齢15歳。幼少期からの優秀さを見込まれ、10歳でアメリカへ留学。
約2年で大学を卒業し、世界的な個性研究機関に入社。3年間のうちに個性やそれに準ずるさまざまな論文をいくつも発表し、近々自身の研究室を与えられる予定とされていたところで、なにを思ったのか雄英高校に入学したという異色の経歴の持ち主。
ヒーロー科という個性の強い子供達を育てる教員として、それなりの経歴を持つ相澤をしても扱いに困る生徒だった。
彼女の入学には外部……概ね元所属していた研究所からだが、辞めさせろという圧力もかけられている。
どうやら先方は篠澤を連れ戻したいと考えているようで、未だに職員室には毎日10回は国際電話がかかってくるほどだ。相当な期待をされていたのだと思われる。
根津校長は、いったいなにを思ってこの少女をスカウトしたのか……
そこまで考えて、相澤は小さく息を吐く。
「ふぅ……どんな生徒だろうと、俺のやる事は変わらん」
そう言って相澤は件の少女に目を向ける。
ガクガクとわかりやすいほどに震える足を、もはや走っているとは言えない速度で前に進める様子に、コイツは今までどうやって生きてたんだという感想を抱いた。
生まれたての鹿よりも頼りないその姿に、相澤が口を挟んだ。
「おい、篠澤。お前は自分がその距離を走り切るのは不可能だとわかってる筈だ」
「はぁ……はぁ……」
「なにを思ってヒーローを目指したのかは知らんが、この程度もできない人間にヒーローは務まらんぞ」
「はぁ……はぁ……ふふ……」
相澤の言葉に立ち止まった篠澤が、汗だくの顔に笑みを浮かべる。
「……なにが可笑しい?」
「はぁ、はぁ……先生は、優しいね」
「は?」
相澤がその意外すぎる言葉に、つい気の抜けた返事を返してしまう。
今までの言動のどの辺りに優しさを感じたのか、まるで理解出来なかった。
「はぁ……ふぅ……客観的に見ても、どう考えたって私はヒーローに向いていない」
「だろうな」
「私の知る大人達は、みんな無理だ諦めろって諭してきた」
「当たり前だな」
相澤が小さく頷く。その大人達の言葉は、一般的な感性を持つ大人としては当然の反応だ。
昨今はヒーローなどと持て囃されてはいるが、現実として危険な職である事に変わりはない。それが篠澤のように弱々しい存在なら、その心配はより一層強くなる筈だ。
相澤自身もヒーローの現実をよく知っているからこそ、まだ子供である生徒達に厳しい言葉を向けるのだから。
「でも、先生は一度もやめろとは言わなかった」
「……やめるべきだとは思っている」
「ふふ、酷い」
そう言いながらニヤける篠澤だが、その様子は既に死に体。
相澤は、これ以上のテストは無駄と判断して担架ロボットに静かに指示を出した。
『オラ、コノザコスケ! トットトノリナ、アノヨマデツレテッテヤルゼ!!』
「これ以上は時間の無駄だ、その担架で保健室まで移動しろ。除籍に関する手続きは追って説明を---」
「相澤先生」
「なんだ?」
『オイ、ノレッテイッテンダロ、コノスカタンガ!』
相澤は篠澤が除籍を拒み、嘆願をするのかと思っていた。多くの生徒は除籍を言い渡された時にそういった反応をよくしていたからだ。
だからこそ、その後に続く言葉に驚きと少しの興味を抱いた。
「テストについて確認したい」
「……言ってみろ」
「このテストをする際には、自分の力であるなら何を使ってもいい……だよね?」
「ああ、個性を含めて使える全てを使っていい」
「合格の条件は最後まで倒れない事と、自分の力だけで達成する事」
「そうだ」
「そっか……それじゃあ」
その言葉を聞いた篠澤は、少し悲しげに微笑んで言った。
「ごめんね?」
『ア? オイ、マテ! ナニヲスル、ヤメッ……アッ、アッ、アッ』
カチャカチャと音が響く。
担架ロボットの首元から手を突っ込んで、篠澤は何かを操作していた。
「篠澤、お前まさか最初からそれが狙いで!?」
「この学校に担架ロボットがいるのは入試試験の時に知ってた。合理性を求める先生なら事前に待機させる可能性も高い」
篠澤は己の弱さを計算し、相澤の優しさに賭けた。
そしてその賭けは、いま見事に的中する形となったのだ。
「本当は自分で走りきってみたかったけど……今の私には出来ないから」
篠澤はこの学校に来てからの、たった数時間の出来事を思い出していた。
騒がしいクラスメイト達に囲まれたこの半日は、短い期間ながらも今までにない楽しさがあった。
「私はまだみんなと一緒にいたい」
ヒーローになりたいという想いは本物だが、きっとそれだけならここまではしなかった。
篠澤は人生で初めて、自分のわがままのためにその力を使う。
「これが私の今の本気……だよ」
『シャア、カットバスゼ、ベイビー!』
篠澤を乗せた機体が唸りを上げる。
鈍い光を反射させながら、その機体はグラウンドを駆け抜けた。
ガッション、ガッション、ガッションと傷病人を刺激しない程度の速度でだが。
「……」
「……」
お互いに無言。
ただひたすらに、ゆっくり進む担架に腰をかける篠澤を相澤が眺めていた。
「ふふ、ままならないね」
篠澤広、持久走(1500m)31分48秒---最下位。
「私の全力、どうだった?」
「論外だ」
「一刀両断が過ぎる……」
篠澤のドヤ顔に視線を向けることもなく相澤が言い切る。
それもその筈、個性のない60代の女性ですら10分程度で終わる種目に、ズルをした上で3倍以上の時間をかけているのだから。
ヒーローどころか、まずはリハビリが必要なレベルの身体能力を誇らしげにできるのは、きっと彼女くらいなものだろう。
「……もしかして不合格?」
篠澤の嬉しげだった顔に、初めて不安がよぎった。
確かに篠澤は自分に出せる全てを出したが、相澤はそれで合格になるとは一言も言っていなかった。
どこか神秘的で掴みどころのなかった少女の年相応な反応に、相澤が短く返した。
「まだテストは終わってない。さっさと次に向かえ」
「……ふふ、ツンデレってやつだ」
「……」
篠澤の頭をバインダーが叩いた。
「痛い……」
「早くしろ、遅れるようなら除籍だ」
「ふふ、酷い……でも、そういうところ好き」
その後、篠澤は残りの種目をかろうじてこなしきり、テスト終了と同時に無事保健室送りとなった。
篠澤広。上体起こし0回、長座体前屈11cm---共に最下位。
総合成績---最下位。
1年A組、除籍処分者無し。
こうして篠澤広の雄英高校ヒーロー科の初日は終わりを告げたのだった。