二つの世界の狭間で 作:夏目貴志
静寂に包まれた梔子の香りが漂う森の中、ふいに鈍い音が響いた。音が地面を打つような重い響き。それは足音のようでもあり、何か別のものの存在を告げる音のようでもあった。レイコと鯉伴はすぐにその音に反応し、無言のまま視線を音の方へと向けた。風がそっと葉を揺らし、微かな擦れ合う音が耳に届く。その風の中から、杖をついた老婆がゆっくりと姿を現した。古びた着物をまといながらも、彼女の佇まいには不思議な品格が漂い、その細められた目で二人を静かに見据えていた。
レイコは、老婆から感じる独特な雰囲気に注意深く目を細めた。彼女にとってこの手の異質な存在は珍しいものではなく、むしろ懐かしささえ感じる。横目で鯉伴の様子をちらりと確認したが、彼はいつものように飄々としており、特に反応する様子もない。レイコもまた、表情を変えることなく老婆の目をしっかりと見返した。
老婆の目がじっと鯉伴に向けられたまま、彼女は何かを思い出そうとするかのように眉をひそめ、そして驚いたように低い声でつぶやいた。
「……お主、もしや、ぬらりひょんか?」
その言葉が耳に届いた瞬間、レイコは反射的に鯉伴の顔を見やった。けれど彼はいつも通りの飄々とした笑みを浮かべているだけで、何一つ変わらない。その様子に、老婆は何かを確かめるようにじっと彼を見つめていた。そして、しばらくしてから再び口を開いた。
「暫く会わない間に、随分と小さくなったねぇ。昔はもっと……大きかった気もするが……」
鯉伴は片目を軽く閉じながら口元に緩やかな笑みを浮かべた。
「おいおい、誰と勘違いしてんだぃ? オレぁただの菓子屋の店主だぜ」
老婆は少し首をかしげる。
「そうかい? 確かにお主からはぬらりひょんの気配を感じるんだがねぇ……それに、どこか人間の臭いも混じっている。お主、なかなか不思議な存在だね」
老婆はじっと鯉伴を見据え、少しだけ眉をひそめた。レイコはその視線にどこか探るような気配を感じ取るが、鯉伴は変わらず飄々としている。
「お主からも人間の臭いが強くするが、今の時代、妖か人間か、はっきりと区別がつかなくなってきていてねぇ。ふぅむ、妖かい……?」
老婆の視線が今度はレイコに向けられた。何か違和感を覚える仕草に、ただの人間とは思えないものを感じ取る。おそらくそれは彼女が妖であることの暗示。彼女の中でその確信がゆっくりと形を成しつつあった。今まで数多くの妖を見てきた彼女にとって、この老婆も例外ではないと、すでに薄々気づいていた。
「で、婆さんよ、こんなとこでオレたちに何か用かい? さっきからずいぶん探ってるみてぇだが」
鯉伴は飄々とした口調のまま、老婆をじっと見つめて問いかける。その軽い調子とは裏腹に、どこか鋭さが漂う。
「ああ、そうだった、そうだった……実は、そこの妖が持ってる手鏡を貸して欲しいんだよ」
老婆はゆっくりと頷きながら、まるで昔話の続きを語るかのように、静かに切り出した。
「手鏡?」
「そうさ。その手鏡が必要なんだよ」
「ねえ、おばあさん。どうして手鏡を貸して欲しいんですか?」
問いかけると、老婆の目が静かに息を吐いた。
「アタシの住処の近くに、ずっと愛でてきたお気に入りの梔子の木があるんだが、そいつに悪霊が取り憑いてしまってねえ。そやつを追い払うには鏡がどうしても必要なんだよ」
老婆の言葉には、古びた祈りのような重みがあった。
「その梔子を見ているだけで、胸が締めつけられるようでね……。悪霊が取り憑いた時の冷たい気配が、まるで骨身に染みるように感じるんだ……」
その言葉に込められた悲しみと重さ。レイコは声の震えに気付き、梔子の木が老婆にとってどれほど大切なものかを感じ取った。
「けどね鏡さえあればアタシの梔子を救うことができるんだ」
老婆は穏やかな声を保ちながらも、その言葉の裏に微かな緊張が潜んでいた。小さな体は揺るぎないまま、ただその目に静かに込められた深い思いだけが、さりげなく浮かんでいる。
レイコは、老婆の言葉に小さな変化を感じた。心の奥にほんのわずかだが確かな波紋が広がっていくような感覚だ。決して大げさではない。それでも、静かに胸に染み入るその思いを、彼女は無言で受け止めていた。
「…………おばあさん、その木はあなたにとって大切な存在なんですね」
レイコはその場で言葉を選びながらも、どこか距離を感じたままそう言った。老婆の頷きは深く、彼女の長年の想いが込められているのが一目でわかる。その姿勢には、長い年月を共に過ごしてきた木への深い愛情が宿っているのが伝わってきた。だが一方で、心の中でほんの少し引っかかるものを感じている。相手の感情の深さを理解しようとはしているが、何か自分と異なる領域にいるような気がしていた。
「そうさ。アタシにとって、その木はずっとそばにいる友のような存在なんだ。長い歳月をこの地で共に生きてきた。……だから、どうか鏡を貸しておくれ。あの木を救ってやりたいんだ」
老婆が「友達」と呼ぶその木に、まるで人間と同じような感情を抱いている。レイコは、そういう感情に簡単に共感できるほど感情的ではない。彼女にとって、「守りたいもの」といえばもっと現実的であり、冷静に対処すべきものだと思っている。
──友達、か。
レイコにはまだ理解しきれない感情だが、老婆にとってその木は特別な存在であることはよく分かる。自分にもこんなふうに守りたいと思うものがあるのだろうか、と一瞬だけ考えたが、すぐにその思考を閉じた。そんなことを今、考える必要はないのだ。
少なくとも目の前で困っている人を見過ごすことも、完全に拒むこともできない。目の前にいる老婆に手を差し伸べること、それが今できる唯一のことだ。レイコは無言のまましばらく考えた後、そっと息を吐いた。
「…………分かりました。この鏡であなたの友達を守れるなら、どうぞ使ってください」
「いいのかい! 本当にありがとう。お主がいてくれて良かった……!」
老婆が深々と礼を言う姿を見て、レイコは少しだけ微笑みを返した。
「そんな。これくらい気にしないでください。あなたの大切な友達を守れるなら、それで十分ですから」
老婆はその言葉に感謝の気持ちを込めて深く頷き、静かに鯉伴とレイコにもう一度礼を言った。そして杖をつきながら、ゆっくりと森の奥へと歩き去っていった。レイコはその姿を黙って見送る。助けたとはいえ、心のどこかでまだ完全には相手の感情に寄り添えない自分を感じ取っていた。老婆の深い感情と自分の間には、目に見えない薄い壁があるように思えた。
再び静寂が訪れ、梔子の香りが風に乗って漂ってくる。レイコはふと、辺りの静けさと香りを感じながら呟いた。
「……よっぽど大切なのね」
「まぁあの婆さんにとっては大事なモンなんだろうな。オレたちがこれ以上首突っ込むこともねぇだろう」
鯉伴は軽い調子で言ったが、その中に微かに含まれた優しさが感じ取れた。レイコはその言葉に小さく頷いた。彼の言葉にはいつも表面的な軽さの裏に本質をつく何かが隠れている。
「これで一件落着だな。あとは婆さん次第ってとこか」
レイコは一瞬視線を落としたが、深く考えることはなかった。確かに老婆の願いには応えたが、だからといってこれで何かが変わるわけではない。妖も人も、結局は自分の問題を自分で解決しなければならない。それが、レイコが長い間感じてきた現実だ。
「……そうね」
鯉伴の軽い調子に合わせるように、レイコも短く返した。
それ以上、深く話すことも考えることもなく、二人は言葉少なに歩き始めた。森の静かな空気が、ふたりの間を満たしている。鯉伴はいつもの軽やかな足取りで、木々のざわめきと足元で折れる小枝の音が静かに響いている。しばらく無言で並んで歩いていたが、ふいに鯉伴がぽつりと口を開いた。
「───なあ、レイコ。最近うちの店、妙に寂しくなっちまったんだ」
レイコは一瞬だけ鯉伴の顔を見て、それから少し視線をそらし、わざと気にしていないように答えた。
「…………別に変わりはしないでしょ。お客さんなんて他にもいるんだから」
鯉伴はレイコのそっけない返事に軽く笑う。
「ま、そうなんだけどな。なんだかお前が来なくなってから、店の空気がちっと変わっちまった気がしてな。甘いもんが好きな奴が来ると店も落ち着くんだが、不思議なもんだよ」
「そんな風に気を使わなくてもいいわよ」
そっけなく返事をしたが、鯉伴の言葉がどこか心の片隅にそっと残った。
彼の軽い調子に乗せられるのは癪だったが、自分が七辻屋にとって何か意味のある存在だと言われたことに驚き、少しだけ嬉しく感じた自分がいるのも否めない。
「気を使うなんて柄じゃねぇよ」
鯉伴は笑いながら返した。
「ただオレぁ甘いもんを食ってるお前さんを見るのが楽しみってだけの話だ。そういうのありがたいって、言わねぇかい」
鯉伴は一瞬、遠くを見つめるような仕草をしながら続けた。
「世の中には色んな考えを持ってる奴がいるもんだが……全部気にしてたら、甘いもんだって味がしなくなるだろう? 結局、何を大事にするかは自分で決めるもんさ」
レイコは一瞬言葉に詰まった。鯉伴は自分が七辻屋に行かなくなった理由を察しているようで、その無頓着な表情の裏に、何かを見抜いているような鋭さがあった。彼が自分を迷惑に感じていないこと、その言葉に込められた優しさが確かに伝わってくるのが分かるから、反論する気持ちも弱くなる。
「レイコ、お前は優し過ぎるから世の中の全部を気にしすぎちまう。たまには自分にも甘くしてやんな」
「………………それでも、私はあなたには迷惑をかけたくないの」
「迷惑? お前がそう思うならしょうがねぇが、オレからすりゃあ、むしろ七辻屋も華が咲くってもんだ」
鯉伴は片目を閉じながら笑みを浮かべた。
「だから無理して自分を抑えるこたぁねえよ。お前の好きなようにすりゃあいい。それが一番、誰にとっても楽なんだよ」
レイコは一瞬迷った。
鯉伴はいつも軽く言うけれど自分が抱えてきたものをそんなに簡単に処理できるわけじゃない。でもその言葉に優しさが感じられてまた反論できなくなる。ため息をつきながらも、少しだけ心が軽くなった気がした。
「…………いつだってあんたは、そんな風に軽く言うのね」
「オレはそういう生き方しか知らねぇからな」
レイコはしばらく鯉伴を見つめてから、ふっと思いついたように微笑んで言った。
「……ねえ、鯉伴」
言葉を選びながら、彼女はぽつりと続けた。
「私、羊羹が食べたいわ」
鯉伴は意外そうに一瞬目を見開いたが、すぐにいつものように無造作な笑みを浮かべた。
「珍しいねえ、羊羹かい。そりゃお安い御用だ。七辻屋に帰って、たっぷり用意してやるよ──」
◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇ ◆◇
レイコは、再び七辻屋に通い始めた。相変わらず学校では「狐目憑き」の噂が絶えず変わり者扱いされているがそれはいつものことだ。七辻屋に出入りしていることも話題に上がり、彼女に対する好奇の目が絶えなかった。
しかしレイコ自身はその噂に対して普段通り、気にも止めなかった。七辻屋は隣町の人々からも評判の良い和菓子屋であり、常に客が訪れていた。よくよく考えてみれば、自分が店に通うことで売り上げに悪影響を与えることもなくむしろ彼女が来ることを気に留める人はほとんどいなかった。
「……お店は大丈夫みたいね」と、ある日、七辻屋のカウンターに座りながら、レイコはため息混じりにぽつりと呟いた。
鯉伴は和菓子を作る手を止めることなく、飄々とした口調で返した。
「だから言ったろう。噂なんざ気にするなって。うちの店は隣町からも人が来るし、そんなの誰も気にしちゃいないさ。むしろレイコが来るおかげで、甘いもん好きが増えるんじゃねぇか?」
「そうかもね。でも、あんたが言うと軽すぎて、本当にそうなのかって気になるのよ」
鯉伴は笑いながら、手元の作業を続けた。
「オレの言葉は軽くても、中身はしっかりしてるから心配すんな。ま、甘いもんでも食ってゆっくりしていきな」
その軽口に、レイコは目を細め、自然と肩の力が抜けていくのを感じた。
彼女にとって、七辻屋はただの和菓子屋ではなく、いつしか心を落ち着けられる場所となっていた。学校ではどこか息苦しく孤独だったがこの場所では違う。鯉伴の飄々とした態度が、彼女にとって無理のない時間を作ってくれるのだ。
そんなある日のこと、ふと鯉伴が妖を退治していた時の姿を思い出したレイコは、意を決して尋ねてみた。
「ねえ、鯉伴。あの時、刀を使ってたわよね。私も何か武器を持った方がいいのかな?」
鯉伴は一瞬、手を止めると、意外と真剣な表情で彼女を見た。
「レイコが武器ねぇ……。そうだな、バットなんてどうだ?」
その突拍子もない提案に、レイコは少しムッとしながら眉をひそめた。
「バット? それ本気で言ってるの?」
「何言ってんだ、もちろん本気さ」と、鯉伴は笑みを浮かべたまま続けた。
「バットなら軽いし、レイコでも持ちやすいだろう? 刀みてぇに重くて扱いにくいのより、よっぽど動きやすくていいんじゃねえか」
その意外な説明に、レイコは思わず考え込んだ。鯉伴の言葉は、飄々としながらも的を射ていることが多い。軽いバットであれば、確かに力をあまり使わずに素早く動かせる。
「なるほどね」
レイコは呟くように返した。
「それにバットってのは振り回すだけじゃなく、守るのにも使える。力を込めすぎず、軽く振り抜けるからな」
鯉伴はそう言いながら、軽く手を振って見せた。
「……まぁそれも一理あるわね」と、渋々ながらも納得し、ため息をついた。
「でも、バットって……どうにもピンと来ないのよね。他にないの?」
すると、鯉伴はいつものように笑った。
「まあ、まずは試してみな。意外としっくりくるかもしれねぇぞ。それに武器なんて使いこなすもんだ。どんな道具だって、使い方次第で最強の相棒になるもんさ」
レイコはその言葉に再びため息をつきながらも、心のどこかで彼の提案を試してみようという気持ちが芽生えていた。
「わかったわ。やってみる」
鯉伴との関係が少しずつ深まっていることを実感しながら、彼女は新たな一歩を踏み出そうとしていた。