二つの世界の狭間で   作:夏目貴志

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一話 裏

 

 夕闇が一層濃くなるにつれ、神社を包む冷たい空気が鯉伴の肌にじわりとしみ込んでいく。境内に漂う静けさは、まるで時間そのものが止まってしまったかのように深く、重たいものだった。

 

 石灯篭に腰を下ろし、奴良鯉伴はじっと紺色に染まった空を見上げていた。梢を揺らす風の音ですら、今は遠く、鯉伴を取り巻く静寂に消えていく。

 

 そして彼はただ、待っていた。あの少女――夏目レイコが、この神社へと足を運んでくる瞬間を。

 

 彼女の名を耳にした瞬間、鯉伴の心の奥底に眠っていた記憶が呼び覚まされた。かつて読んでいた物語、あの世界で生きていた彼女――夏目レイコ。その名が現実に響いた今、彼の中でその響きは、単なる記憶の断片以上の意味を帯び始めていた。

 

 物語の中でしか存在しなかった彼女の姿が、今は現実に息づいている。孤独に苛まれ、人々から疎まれながらも、この世界でひっそりと生き続ける少女――夏目レイコが、そこにいるのだ。

 

 鯉伴は彼女の運命を知っている。孤独な道を歩み、心の安らぎを得られないまま、どこかで運命に呑み込まれていく彼女の未来を。しかし、それをただ見守ることができるほど、彼は冷たい存在ではなかった。

 

 レイコの未来を変えたい――その思いが、鯉伴の胸に強く宿っていた。彼女に温かな未来を与え、孤独から救い出すことができるのは、今ここにいる自分だけだと思っていた。

 

 彼女の運命を変え、救いたい。鯉伴はそう決意しながら、目を境内の奥へと向けた。そこに、レイコの姿が浮かび上がるのを感じていた。

 

 この神社は、レイコの住まいからそう遠くはない。夜になると、彼女はひそかに家を抜け出して、この場所に足を運んでいた。誰にも理解されない閉塞感から逃れ、孤独を癒すための静寂を求めて。

 

 梢を揺らす風が、彼女の姿を鯉伴の視界に運んできた。レイコの足音が、石畳に響く。暗い夜の中で、一つ一つの足音が孤独の象徴のように耳に残る。その歩みは重く、肩にかかる髪が風に揺れていた。彼女の表情には、いつもの無表情とは違う、何かが押し寄せていた。

 

 レイコの足音が静かに神社の空気を震わせる。その姿がぼんやりとした灯りに浮かび上がり、鯉伴の目に焼き付いた。彼女の存在感は、一人で抱えた孤独そのもののようだった。どこにも向けることのできない想いが、静かに彼女をこの場所へと導いたのだろう。

 

 

 レイコはふと足を止め、境内の中央で立ち尽くす。深く息を吸い込む彼女の姿に、鯉伴は胸の奥で何かが軋むのを感じた。彼女が背負っている重さ、その痛みを鯉伴も共に感じていた。彼女が一人で抱え込んでいるものは、かつて自分が知っていた「物語」ではなく、今を生きる彼女の現実そのものだった。

 

 レイコはまだ鯉伴の存在に気づいていない。静かに、夜空を見上げるその背中を、鯉伴はただ見つめ続けた。どこか遠くを見つめる彼女の姿に、鯉伴は無意識のうちに一歩を踏み出そうとしたが、その足を止める。彼女の孤独を理解しつつ、どう関わればいいのか、彼は未だに迷っていた。

 

 どうすれば、彼女を救えるのだろうか。胸の中でその問いが響くが、答えは風に消され、ただ冷たい夜の空気が二人の間を通り過ぎていった。

 

「だ……」

 レイコの小さな呟きが、風に乗って鯉伴の耳に届いた。その言葉の意味をすぐに理解することはできなかったが、鯉伴には彼女が何を感じているのかがわかっていた。孤独に耐えかね、他者から理解されない苦しみ。鯉伴自身も、その孤独を感じ取っていた。彼女が感じる重さを、自分の心の中でも反響しているように感じていたのだ。

 

 鯉伴は、そっと息をつき、静かに立ち上がった。

 もう我慢なんてできなかった。今はまだ彼女にすべてを語る時ではないが、レイコがこの先、さらに孤独に苛まれる未来を黙って見過ごすことはできなかった。彼女を守りたい――その思いが、鯉伴を突き動かす。ただ彼女に寄り添いたかった。孤独を理解してあげたかった。

 

 

 

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