二つの世界の狭間で   作:夏目貴志

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三話

 

 

 

 レイコは七辻屋の席に腰掛けながら、心の中で渦巻く疑念に囚われていた。温かい饅頭の香りが漂ってくるが、彼女の心は一向に落ち着かなかった。鯉伴の言葉や態度は優しく、まるで彼女の心を手に取るように見透かしているかのようだったが、どこか引っかかるものがあった。彼を本当に信じて良いのだろうか?

 

 彼女はずっと、誰にも心を許さず、孤独に生きてきた。人に寄りかかることの恐ろしさを何度も味わってきたからだ。あの日、鯉伴が彼女に声をかけて以来、確かに何かが変わった。しかし、それが彼の純粋な気持ちからなのか、それとも単なる気まぐれなのか、レイコには判断がつかなかった。

 

 ――何かが引っかかるのよね。

 

 レイコは再び呟いた。そもそも、なぜあの日、あの場所で彼女に話しかけたのか。そしてなぜ、「見える」ことを知っていたのか――その疑問が、次第に膨らんでいった。膨らめば膨らむほど、芋づる式に他の疑問も顔を出してくる。単なる偶然だったのか? それとも何か理由があって神社に現れたのか? なぜ、彼は自分に対してこんなに親しげに接してくるのか。彼の態度は、まるで最初から彼女のことを知っていたかのように自然で、好奇心以上の何かが隠されているように感じられた。

 

 彼の妖怪としての力が……関係しているのかもしれない。レイコはふと、そんな考えに至った。彼が半妖である以上、妖力が自分に影響している可能性があってもおかしくはない。もしそうなら、今自分が自然に彼を信じようとしているこの感情も、妖力の影響なのかもしれない――そう思った瞬間、レイコの背筋に冷たい感覚が走った。

 

 彼女は、自分の内に揺れ動く感情をそっと手繰り寄せるように探り始めた。鯉伴に対するこの信用が、本当に自分の心から湧き出たものなのか、それとも見えない妖力に惑わされているのか、次第に判断がつかなくなっていた。心の奥底に巣食う疑念は、じわじわと彼女を追い詰め、その答えを求めて囁き続けていた。

 

 鯉伴が「孤独に寄り添いたい」と言ったとき、その言葉には一抹の真実味が感じられた。しかし、彼の優しさが本物か、それとも気まぐれかを見極めるためには、何かしら試さなければならない――そう考えると、レイコの中にひっそりとした決意が芽生えた。

 

 

 レイコはゆっくりと深呼吸をし、心の中に浮かぶ疑念を押し隠すように、冷静な表情を作り直した。鯉伴が本当に孤独に寄り添いたいと考えているのならば、どんな態度を取っても彼は諦めないはずだ。これまでに出会ってきた多くの人々は、彼女に無理に踏み込もうとしては、いつしか離れていった。だが、鯉伴は違うはずだ――そう信じたかった。そう試すために、レイコは自ら距離を置き、冷たく振る舞うことに決めた。

 

 数分後、鯉伴が仕事を終えて戻ってきた。

「待たせちまったな」と、彼は片目を軽く閉じてニッと笑みを浮かべながらレイコに声をかけたが、レイコはその言葉に対してただ軽く頷いただけで、目を合わせようとはしなかった。

 

「おいおい、どうした? さっきまで話してた時と、ずいぶん様子が違うじゃねぇか」

 

 鯉伴はすぐに彼女の変化に気付いたが、レイコは表情を崩さず、少し冷たい口調で答えた。

 

「別に。ただ、疲れただけよ。あなたとこれ以上話す気分じゃないの」

 わざと素っ気なく言い放ったその言葉が、どれほど鯉伴に響いたのかは、彼女にはわからなかった。だが、彼の返事を待たずに、レイコはさらに続けた。

 

「それに……そもそも、どうしてあなたがそんなに私に構うのか、よく分からないわ。私に寄り添いたいなんて言うけど、それって本気なの?」

 

 挑発的な言葉を口にしながらも、レイコの胸の奥でざわめく不安と疑念が言葉となって漏れ出した。鯉伴がどんな答えを出すのか、それによって彼の本心を確かめるための手がかりが得られるかもしれない。レイコは心の中でそう感じていた。

 

 鯉伴は彼女の言葉に一瞬黙り込んだ。しばし静寂が流れる。彼女は鯉伴がどう出るのかを待ちながら、内心では少し怯えていた。彼がこの挑発にどう応じるのか。それ次第で、彼の本心が見えるかもしれない。そして、その先に待つものが何なのか、彼女にはまったく分からなかった。

 

 鯉伴は静かに彼女を見つめていた。その表情は変わらず穏やかで、いつもと同じ優しさが漂っている。しかし、その奥に微かな哀愁が滲んでいた。

 

「そうか……そういう風に思わせちまったか。すまねぇな、無理に構おうとしてるつもりはなかったんだが……」

 

 彼の言葉は、まるで彼女の冷たさを受け止めるかのように、落ち着いていた。鯉伴の穏やかな反応は、彼女の挑発に逆らうことなく、ただそっと受け入れるようだった。

 

 その穏やかな態度が、逆にレイコの胸に微かな波を立てた。思わず眉を寄せたものの、言葉が喉の奥で詰まる。鯉伴の優しさがあまりにも自然で、自分の冷たさがむなしく感じられてしまったのだ。

 

「本気かどうかなんて聞かれりゃ、答えはひとつだ。オレはお前さんに寄り添いてぇんだよ。それが嘘じゃねぇってことを、どうやって証明すりゃいいのか……正直オレにもわかんねぇがな」

 鯉伴は少し間を置き、レイコの目をしっかりと捉えた。

 

 彼の瞳には、強い決意と優しさが入り混じっており、まるで何も隠すことなく、すべてをさらけ出しているかのようだった。言葉よりも、目に宿る誠実さがレイコの心を静かに揺さぶってくる。彼の眼差しは、まっすぐで重く、レイコはその強い視線を避けることができなかった。

 

 ――どうしてそんなふうにまっすぐでいられるの?

 

 彼女の心の中で問いが浮かんだ。冷たさや拒絶を向けているはずなのに、彼は少しも揺らぐ様子がない。それどころか、その穏やかな態度が、彼女の心に微かな裂け目を作っているようだった。何かに吸い込まれそうなその感覚に、レイコは胸がきゅっと締め付けられるようだった。彼女が意図的に作り上げた冷たさが、鯉伴の目の前では無力に感じられる。試すつもりで投げかけた言葉が、逆に自分を揺さぶり始めている――その事実が彼女の心に小さな戸惑いを生んでいた。

 

「オレを試したいってんなら、好きにしな。お前さんが不安なら、ゆっくり確かめりゃいい。どんだけ時間がかかろうと、オレの気持ちは変わんねぇよ」

 鯉伴の声はいつも通りの穏やかさを保ちながらも、その言葉の裏には揺るぎない信念が感じられた。レイコは一瞬、彼の瞳を見つめ返したが、その真っ直ぐな視線に圧倒され、すぐに目をそらした。

 

 少しの間、静寂が訪れる。レイコはそっと視線を下に落とし、考え込むように指先で机の端を軽くなぞった。一見、気まぐれに見える動作だったが、その背後には彼女が抱える深い疑念があった。

 

「……それにしても、どうしてあの日、あの場所で私に話しかけてきたのかしら? まるで、最初から知っていたかのように」さりげなく付け加えたその言葉は、まるで思い付きで言ったかのようだったが、実際には彼女の胸にある確かな疑念が反映されていた。彼がどう答えるのか、その反応をじっと待っていた。

 

 鯉伴が何か答えようとしたとき、レイコはさらに続けた。

 

「それに……私が“見える”こと、どうして分かったのかしら?」

 

 その問いも、さりげなく口にしたように見せかけていたが、実際は彼の真意を探るためのものだった。彼の行動が偶然なのか、それとも何か別の理由があったのかを確認したくて仕方がなかった。彼女の声にはわずかな揺らぎが含まれていたが、その奥にはしっかりとした疑念が根を張っていた。鯉伴がどう応じるのか――その答え次第で、彼女の心にある壁が少し動くかもしれない。レイコは彼の返事を待ちながら、静かに息をつめた。

 

 鯉伴は少し目を細め、レイコの問いかけに対してほんの少しの沈黙を挟んだ。彼女の視線をしっかりと受け止めながら、彼はふっと息を吐いた。

 

「お前さんに声かけたのは、ただの単純なことだ。あの日、ひとりでポツンとしてる姿が目に入ってな……寂しそうに見えたからよ、そりゃあ放っとけるわけねぇだろう?」

 

 彼の言葉は穏やかで、飾り気のない口調だったが、そこには確かな真実が込められていた。

 

「“見える”ってことをオレが知ったのは、ただの偶然じゃねぇよ。街の噂や妖どもの囁きで、お前さんのことは耳にしてたさ。だがな、それだけで近づいたわけじゃねぇんだ」

 

 鯉伴はそう言いながら、真剣な眼差しをレイコに向けた。

 

 レイコは鯉伴の言葉を聞きながら、心の中で複雑な感情が渦巻いた。街で囁かれている噂――「狐目の女」や「変わり者」、さらには「不吉を呼ぶ女」とまで呼ばれている。周囲から避けられ、石を投げられることも少なくなかった。誰も自分のことを理解しようとせず、ただ恐れと偏見で彼女を見ていた。

 

 そんな中で、鯉伴の存在はあまりにも異質だった。彼の目には、噂によって歪められたレイコの姿ではなく、ありのままの彼女が映っているようだった。彼女の言葉には、自分を守るための防壁がまだしっかりと立ち塞がっていた。孤独の中で傷ついてきた過去が、彼女を無意識にそうさせていたのだ。

 

「……噂なら、知ってるわ。私は変わり者だって、誰もが思ってる。みんな私を怖がって、近づこうとしない。だから、あの日あんたが話しかけてきたときも、正直驚いたの」

 

 レイコの言葉には、冷たい自嘲の響きがあった。彼女の瞳は遠くを見つめ、無意識に自分を守るための壁を作り上げていた。彼女はそれまでの人生で、ずっと孤独の中にいた。誰にも頼らず、誰にも寄り添わずに生きてきた。その孤独が、今も彼女を縛りつけている。

 

「……だから、私は人を信じることなんてできない。あんたも、ただの興味本位で近づいたんじゃないかって、思ってしまうのよ」

 

 鯉伴は黙ってレイコの言葉を受け止め、彼女が感じる痛みと孤独を理解するかのように、優しく微笑んだ。そして、静かに口を開く。

 

「街の噂なんざ、オレには関係ねぇよ。大事なのは、お前さんがどう感じてるかだ。どんだけ強がっても、その裏にある寂しさが見えちまうんだよ。だからこそ、ほっとけなかった。それだけのことさ」

 

 鯉伴の声は穏やかだったが、その裏には深い思いやりが感じられた。彼はレイコの内にある孤独を見透かし、その痛みを感じ取っている。彼が近づいたのは噂のせいではなく、彼女が抱える孤独を理解していたからだった。

 

「…………」

 今まで誰かが自分にこんなに真剣に向き合ってくれたことなどなかった。だが、それでも心の奥底にある不安と疑念が完全に消えることはない。

 

「……それでも、私は……信じられない。あんたの言葉が本当だって思いたいけど、私にはまだ……」

 

 レイコの言葉は途切れた。彼女の心には、ずっと自分を守り続けてきた壁があり、それが彼女を縛っている。しかし、鯉伴はそれを無理に壊そうとはしなかった。

 

「いいんだよ、ゆっくりでかまわねぇ。無理に信じさせようなんて思っちゃいねぇしな。信じたいって思う時が来るまで、オレはただ、お前さんの隣にいるだけさ」

 

 それでも、レイコはまだ自分を守るための壁を完全には壊すことができなかった。だが、鯉伴がその壁の前に立ち続けてくれることが、彼女にとっては少しだけ、救いのように思えたのだった。

 

「………ふふっ」

 

「ん?」

 

「ごめんなさい、なんだか、寄り添いたいとか隣にいるとか……まるで告白みたいで、ちょっと面白くなっちゃって」

 

 レイコはそう言って、口元を少し隠しながらクスッと笑った。彼女の笑みには、まだ少しだけ警戒心が残っているようだったが、その一方で少しずつ心を開いている証でもあった。

 

 鯉伴は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに口元に柔らかな笑みを浮かべた。

 

「告白か……まぁ、そう聞こえたなら悪かったな」

 そう言いながらも、鯉伴は笑った。その笑みに嘘はなく、レイコの心にほんの少しだけ安堵が広がった。それでもまだ、彼女の中にはどこか信じ切れない自分がいる。これまで誰かに頼ることなく孤独を抱えて生きてきた彼女にとって、鯉伴の優しさは眩しすぎる。

 

「オレはここにいる。それだけでいいんだよ。ひとりで抱え込むより、二人で分け合った方が楽だろう? 振り返った時にオレがそばに()()。それで十分さ」

 

 鯉伴の言葉は、静かにレイコの心に染み込んでいった。強引に何かを求めるわけでもなく、ただ彼女の隣にいるというそのシンプルさが、逆に彼女の胸に響いた。鯉伴の真っ直ぐな眼差しに、レイコは少し照れくさくなり、思わず小さく笑みをこぼした。

 

「そうやって……格好つけちゃって」

 

 レイコは微笑みを湛えながら、自分の心を見つめていた。鯉伴の言葉に心が温かくなるのを感じる一方で、彼が全てを話しているとは思えなかった。どこかに隠された本心があるはずだと、直感的に感じ取っていた。

 

 ――そっか……。傷の舐め合い……ね。

 

 レイコは心の中で、そう呟いた。鯉伴もまた、孤独を抱えているように思えた。彼の優しさの裏には、誰にも言えない秘密や悲しみが隠されている。それが彼が半妖であることだろう。彼が自分に寄り添おうとしてくれるのは、自分だけでなく彼自身も孤独だからなのではないか――レイコはそんな思いを抱いた。

 

 鯉伴の背負う半妖としての宿命や、彼の生き方の中に、どれだけの痛みや葛藤があったのだろうか。彼の優しさの裏に隠された哀愁が、彼女には少しずつ感じ取れるようになっていた。

 

「ねぇ、鯉伴……」

 レイコはそっと呟くように彼の名を呼んだ。

 

「私……あんたのこと、まだ全部は分からない。でも、少しだけわかった気がする。あんたも、私と同じで、どこか寂しいんだね」

 

 鯉伴はレイコの言葉を聞いて、一瞬だけ瞳を細めた。少し間を置いてから、彼は口元に粋な笑みを浮かべ、軽く肩をすくめて言った。

 

「寂しいかどうかなんてよ、まぁ、誰だって心に一つや二つ、どうにもならねぇもんはあるもんさ。だが、お前さんの言う『寂しい』ってのとは、ちょっと違うかもしれねぇな」

 

 鯉伴はレイコの方へ顔を向け、優しい目で彼女を見つめながら続けた。

 

「オレが寄り添いてぇのは、ただ寂しさを分け合うためじゃねぇんだ。お前さんがこれから歩く道に、誰かが一緒にいても悪くねぇって思ってくれりゃあいい。それだけでオレは十分さ」

 

 鯉伴は続けた。彼の声は、穏やかでありながら芯の通った響きを持っていた。

 

「レイコ、お前さんは人間が好きかい?」

 

 レイコは一瞬考えるように目を伏せた後、冷静に、しかしどこか寂しげな笑みを浮かべながら答えた。

 

「……好きじゃないわ。だって、みんな表面しか見てないし、噂話ばかり。それに、私のことを怖がって、遠ざけていく。そんな人たちをどうやって好きになれっていうの?」

 

 鯉伴はレイコの言葉を静かに受け止めた。彼女が感じてきた孤独や疎外感が滲んでいたが、どこか諦めにも似た静けさが漂っている。

 

「そうか……そりゃ、無理もねぇな。人間ってのは、自分の理解できねぇもんを怖がる生き物だからな。お前さんが感じてる孤独も、そいつらには簡単には分かりゃしねぇだろう。でもな、レイコ――全部がそうだとは限らねぇよ」

 

 鯉伴の声は穏やかでありながら、どこか芯の通った響きを持っていた。その言葉に込められた優しさは、無理にレイコを急かすものではなく、彼女の気持ちをゆっくりと包み込むような温かさがあった。

 

「人間ってのは、誰もが同じじゃねぇように、世の中にゃ、出会う奴だってそれぞれ違うもんさ。お前さんをちゃんと見て、理解しようとする奴も、どっかにいるかもしれねぇ。だからよ、そんなに焦って答えを出すこたぁねぇんだよ」

 

「…………そうね」

 

 レイコは彼の言葉に耳を傾けながら、少し俯いて考え込んだ。彼女はこれまでの人生で、人間という存在に対してどれほど多くの失望を感じてきたのだろう。しかし、鯉伴の言葉には、彼女の中で固く閉ざされていた何かが少しずつほころび始めるような温かさがあった。

 

 とはいえ、一度信頼を裏切られた彼女がすぐに心を開くのは難しいことだった。彼の言葉を信じたい気持ちがある反面、その裏に何か隠された意図があるのではないかという疑念も消えなかった。

 

「ねぇ、鯉伴……」

 

 レイコは少しの間を置いてから、再び彼の名を呼んだ。彼の言葉が胸に響いた一方で、心の奥にわだかまる不安は拭えない。彼女は、鯉伴が全てをさらけ出しているわけではないと感じていた。

 

「私が……どうして“見える”ことを知っていたのか、もう一度、それを教えてくれる?」

 

レイコの問いかけには、冷静さの中にも鋭い疑念が込められていた。彼女は、鯉伴の言動が自然すぎることに引っかかりを覚えていたのだ。偶然にしては出来すぎているように感じていた。

 

 鯉伴は一瞬、表情を曇らせたが、すぐにその瞳に優しい光を戻し、言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

 

「見えることを知ってたのは……まぁ、妖怪の囁きってやつだ。街じゃお前さんの噂を耳にすることもある。噂話ってやつさ」

 

 鯉伴の言葉には、確かな真実が込められているように聞こえたが、それでもレイコの疑念が完全に晴れるわけではなかった。

 

「噂話……ね。妖怪たちの囁き……」

 

 レイコは静かに呟きながら、目を伏せた。彼の説明はもっともらしいが、それだけで全てが納得できるわけではない。彼女はまだ、鯉伴が自分に寄り添おうとする理由をすべて理解したわけではなかった。

 

「わかったわ。けど……それでも私は、まだあなたを信じられない」

 

 その言葉には、彼女自身の不安と迷いが込められていた。レイコは何度も人に裏切られ、孤独を抱えて生きてきた。簡単に誰かを信じることはできない。

 

「いいんだよ、焦らなくていい。お前さんがゆっくり考えてくれりゃいいのさ」

 

 鯉伴は、レイコを急かすことなく、彼女の心が開かれるのを待つ姿勢を見せていた。その姿は、レイコにとって心地よいものであったが、同時にその優しさが怖くもあった。

 

「……優しいのね、あなた」

 

 レイコは少しだけ微笑んで、その言葉を口にした。しかし、その優しさに寄りかかってしまえば、再び傷つくことになるのではないかという恐れが、彼女の胸の奥に渦巻いていた。

 

「優しさだけじゃ足りねぇんだよ。オレはお前さんをきっちり分かってやりてぇと思ってんだ」

 鯉伴の言葉は、力強くも穏やかだった。それはまるで、レイコが信じる準備ができるまで、彼がどれだけでも待つと言わんばかりの決意が込められていた。

 

 レイコはその言葉に、静かに頷いた。彼の優しさを受け入れたい気持ちと、それに対する恐れがせめぎ合っていた。彼女の中で生まれたその葛藤が、また新たな波を作り出し、心を揺さぶっていた。レイコは静かに頷いたが、その胸の内にはまだ不安が消えないままであった。彼女が心を開くには時間が必要だったし、鯉伴の優しさに対する警戒心も拭えなかった。

 

「優しさだけじゃ足りねぇんだよ」と鯉伴は言ったが、レイコにとってはその優しさが怖かった。人間はみんな、最初は優しい。だが、その優しさの裏に何が隠れているのかを知るたびに、彼女は傷ついてきた。

 

 鯉伴の言葉に、レイコは静かに微笑みながらも、自分の中の警戒心を捨てきれないまま、視線を落とした。そして、鯉伴の言葉を静かに受け止めながら、もう少しだけ自分を守ろうと決めた。

 

「……分かったわ。でも、私はあなたが言うようにすぐに心を開くことなんてできない。まだ、あなたのことが分からないもの」

 

 レイコの言葉には、慎重さと防御の姿勢が表れていた。彼女の中で鯉伴に対する疑念や不安が完全に消えるわけではなく、それをすぐに取り除ける方法も見つからなかった。

 

「いいさ、それでもかまやしねぇよ」

 鯉伴の返事は、いつも通りの穏やかさを保ち、彼女を急かすこともなかった。

 

「オレはここにいるぜ。お前さんが信じたいと思うときが来るまで、ただ傍にいさせてもらうだけさ」

 

 その言葉に、レイコの胸は少しだけ温かくなった。しかし、それでもまだ彼女は完全に心を開くことができなかった。彼女が鯉伴を信じられる日が来るのか、それともまた誰かに裏切られるのか、未来は分からない。

 

 レイコは自分自身の心と向き合うため、ゆっくりと深呼吸をし、穏やかな気持ちを取り戻そうと努めた。しかし、心の中にはまだ見えない恐怖が潜んでいた。彼女が心を開くためには、時間が必要だった。

 

「……ありがとう。とりあえず、それでいいわ」と、レイコはかすかに微笑んだ。それが本心からの感謝の言葉だったのか、それとも単なる気遣いの言葉だったのかは、彼女自身にも分からなかったが、少なくとも今の彼女にとって、その言葉を口にすることが最善の方法だった。

 

 鯉伴はレイコの微笑みを見つめ、彼女がまだ壁を崩せずにいることを理解していた。彼女が自分自身と向き合うのに時間がかかることも承知していた。

 

「焦るこたぁねぇよ。オレは、待ってるさ」

 鯉伴はそれだけを言い残し、席を立った。彼はレイコに何も強制せず、彼女の時間を尊重して去っていった。

 

 レイコはその背中を見つめ、心の中で静かに問いかけた。自分が彼を信じられる日が来るのか、それとも――。

 

 

 

 

 




書き溜め分は投下完了です。
まだまだ続きますのでお付き合いくださいませ。
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