二つの世界の狭間で   作:夏目貴志

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四話

 

 

 

 レイコにとって、鯉伴との出会いは、ただの偶然のすれ違いでしかなかった。それ以上でも、それ以下でもない。しかし、今朝彼と再会した瞬間、彼から漂う無防備な雰囲気が、レイコの胸に何かを感じさせた。それは、微かな引力のようなものだった。

 

 一人で歩くいつもの帰り道。昨日の出来事を思い返しながら、ぼんやりと視線を落としていると、突然、鯉伴の姿が目の前に現れた。

 

「──よう、おはようさん」

 

 軽やかな声が冷たい朝の空気を突き抜けた。彼はまるで旧知の友のように片目を閉じ、ほのかに微笑んでいる。その仕草は彼の独特な癖であり、どこか親しみやすさを感じさせるものだった。これまで誰かに気軽に声をかけられることなどほとんどなかったレイコにとって、その親しげな仕草はあまりにも異質で、驚きとともに戸惑いが生まれる。

 

「……おはよう」

 

 レイコはぎこちない声で返事をする。

 

 鯉伴の白い作務衣には、饅頭を作る際についたであろう粉が袖に付着していた。その姿は、穏やかながらも堂々としていて、妙に親近感を抱かせる。それなのに、どうしてだろう。彼の存在が予想以上に心に強く残るような感覚だった。昨日の会話がたった一瞬の出来事だったとは思えないほど、彼の自然な態度が、心の奥に響いている。

 

 ――彼は、どうしてあんなにも自然体でいられるの……?

 

 レイコは無意識にそう思った。自分が「見える力」のせいで嘘つき呼ばわりされ、孤独に耐えてきた過去があるからこそ、鯉伴の飄々とした態度が理解しがたい。彼は自分が半妖であることに何の後ろめたさもないように見える。それが、レイコにとってはまぶしいほどだった。

 

「今朝()早ぇな」

 

 鯉伴の微笑みに合わせて放たれた軽口。レイコはその言葉に戸惑いながらも、心にじんわりと温かさが染み込む。彼といると、普段固く閉ざしている心の壁が少しだけ緩んでいるように思えた。それが、なぜだか怖かった。

 

「あなたも……いつもこんなに早いの?」

 

 努めて平静を装い、無表情で返したつもりだった。しかし、彼の気さくな態度に心のどこかが反応してしまう。彼との距離を保とうとする自分がいる一方で、ふと忍び込む彼の優しさに気づく。それでも、レイコは自分を守るために慎重に言葉を選んだ。

 

「早ぇのが性に合ってんだよ。それに、お前さんがここにいるとなりゃ、自然と足が向くもんでな」

 

 軽く笑いながら、飾らない表情で彼は言う。その言葉の背後には飄々とした軽さがあるが、どこか本当の意味で親しみやすさを感じさせた。それが、レイコの胸にじわりと染み込む。彼が軽口を叩くたびに、何か自分を包み込むような優しさを感じてしまう。それが、不思議で妙に心がざわつく。

 

 レイコは努めて平静を保とうとするが、鯉伴の言葉の余韻が心に残り続ける。彼の存在は、自分の閉ざしていた心の壁をそっと触れているかのようだった。これまで誰かと一緒にいることは、いつも緊張や不安を伴うものであり、心を許すことなど考えたこともなかった。だが、鯉伴といるときだけは、その感覚が不思議と薄れていく。それが戸惑いを呼ぶ一方で、どこか心地よさも感じていた。

 

「何かあったら、オレを頼りな。一人で抱え込む必要なんざねぇんだ」

 

 ふと、鯉伴が立ち止まり、レイコに向けて言葉を放った。彼の声は軽やかでありながら、その優しさがまっすぐにレイコの心に届いた。彼の言葉には偽りのない本心があることが、レイコにもわかった。

 

 一瞬、レイコは驚きと戸惑いを感じた。これまで、誰かに頼ることなど考えたこともなかった。それに、そうすることが自分を守る方法だと信じていた。鯉伴の言葉が心の奥に引っかかる。

 

「別に……困ってることなんて、ないわよ」

 

 反射的にそう答えたが、声にはかすかなためらいが混じる。鯉伴の言葉がじわじわと心の壁を崩していく感覚をどうしても抑えきれなかった。

 

「ほう、そうかい。だがな、困りごとってのはいつだって不意にやってくるもんだぜ。そんときゃオレがそばにいること、忘れんなよ」

 

 鯉伴はいたずらっぽく笑い、軽く肩をすくめた。その笑顔が、レイコの胸に柔らかな感触を残した。彼が何も期待していないことが逆に心をかすかに揺らす。鯉伴の存在が、少しずつレイコの中で重みを増していくのを感じた。

 

「……ねえ、なんでそんなに親切なの?」

 自然にそんな言葉が漏れていた。それは、彼女自身でも驚くほどの問いだった。誰かにこんなことを聞くなんて、自分でも思っていなかった。

 

 鯉伴は一瞬だけ目を細め、考えるような表情を浮かべたが、すぐに優しい笑みを浮かべ、答えた。

 

「オレはただ、お前さんが無理せずにいられるようにしてぇだけさ。一人で抱え込むことがねえように、ってな」

 

 その言葉には、押しつけがましさもなく、まるで自然に彼の口から出てきたかのようだった。それは、鯉伴の存在そのものがレイコを支えているように思えた。

 

 彼の瞳に映る優しさと穏やかさは、これまでレイコが知ってきたどんな優しさとも異なっていた。彼は無理にレイコの傷に触れようとはせず、ただ彼女がそのままでいることを許し、そばにいてくれる。それだけで心の重荷が少し軽くなったように思えた。

 

「じゃあな」

 鯉伴は軽く手を振り、その場を去った。レイコは、彼が見えなくなるまで見つめ続けた。彼の言葉が心の中で繰り返される。「何かあったら頼れ」――その言葉は軽やかに放たれたはずだったが、深く心に刻まれていた。

 

 誰かに頼る――それはレイコにとって未知の選択肢だった。ずっと孤独でいることが当たり前だった自分にとって、誰かを信じることは弱さをさらけ出すことであり、それが何よりも恐ろしかった。

 

「……どうして、私なの」

 ふと漏れたその言葉は、彼女の胸に深く響いた。

 

 レイコの呟きは、周囲の静寂の中でかすかに消えていった。自分でも答えが出せない問いが彼女の胸に残る。鯉伴がどうしてこれほど親しげに、自分に接してくれるのか。彼にとっては、ただの優しさなのだろうか。それとも、彼は本当に何も求めず、ただそこにいるだけなのだろうか。

 

 ――そんなの、ありえない。

 

 レイコは歩きながら、自分にそう言い聞かせた。彼のように強く、飄々としていて、誰にも寄りかからない存在が、自分のような孤独を理解することなどないだろう。鯉伴の言葉や態度が、まるで彼女の孤独や痛みを知っているかのように思えたのは、きっと気のせいに違いない。だが、その気のせいが、どうしてこんなにも心に残るのだろう。

 

 学校へ向かう途中、彼との会話を思い返すたびに、彼の存在が大きくなっていくのを意識せずにはいられなかった。それはまるで、冬の寒さにじんわりと温かさが広がっていくような微妙な変化だった。しかし、その温かさに安心してしまえば、再び傷つくのではないかという恐れが、レイコの心を抑えつける。それでも、彼の言葉には、今まで感じたことのない温もりがあった。自分を包み込むようなその優しさに、少しずつ心が緩んでいくのを感じた。

 

「……信じたって、どうせ裏切られるだけ……」

 

 小さな声で呟いた言葉は、彼女自身を慰めるための防御だった。彼を信じることは、きっとまた傷つくことにつながる。信じない方が傷つかずに済むと自分に言い聞かせた。しかし、鯉伴の優しい笑顔がどうしても頭から離れない。

 

 学校に着いたレイコは、いつもと変わらない教室のドアを開けた。中に入ると、クラスメイトたちの楽しげな笑い声が途端に途切れ、一瞬の静寂が訪れる。まるで何事もなかったかのように、彼らはすぐにまた話し始めたが、その空気の冷たさを感じ取らずにはいられなかった。クラスメイトたちの無関心は、まるで透明な壁のように彼女を囲んでいる。誰も傷つけることはないが、誰も近づこうとはしない――その無関心が、彼女をさらに孤独へと追い込んでいく。

 

 ――まただ。

 

 レイコは何事もなかったように自分の席へ向かい、心をさらに硬く閉ざした。彼らの無視や冷たい態度には慣れているはずなのに、今日はその冷たさが一段と身に沁みた。鯉伴と過ごした朝の温かさとは対照的に、この教室の空気は冷たく、まるで自分だけが違う世界にいるような感覚だった。

 

 窓の外を見つめながら、レイコはぼんやりと青空を眺めた。澄み渡る空が、どこか非現実的な遠い世界のようだった。教室の中での孤独感が、再び彼女の胸に押し寄せる。

 

 ――彼の言葉は、本当に信じてもいいのかな……。

 

 その疑問が、心の中で繰り返し湧き上がっては消えていく。鯉伴の言葉や態度は、確かに彼女にこれまで感じたことのない安心感を与えていた。彼の言葉は、単なる慰めではなかった。鯉伴の優しさは、彼女の孤独を理解し、その痛みを和らげるかのようだった。彼がいることで、レイコは少しずつ自分が一人ではないかもしれないと感じ始めていた。

 

 しかし、過去に人を信じて裏切られた記憶が、彼女の心に深く根を張っている。もう二度と同じ痛みを味わいたくないという恐れが、信じることをためらわせていた。

 

 かつて、誰かを信じたことがあった。その結果が裏切りと孤独に終わったことを、レイコは忘れてはいない。だからこそ、彼を信じることに対して、心のどこかで警鐘が鳴り続けていた。

 

「でも……鯉伴は……」

 脳裏に浮かぶのは、彼の穏やかな笑顔。飄々としていながら、彼が見せる優しさは、これまで出会った誰の優しさとも違っていた。鯉伴は無理にレイコの傷に触れようとしない。ただ彼女がそのままでいることを許し、そばにいるという。それだけで、心の中の孤独が少しずつ薄れていくような感覚があった。

 

 レイコは窓の外を見つめ続けたまま、深く考え込む。彼を信じたい気持ちと、信じてまた傷つくのが怖いという恐れ。その二つの感情が彼女の中で交差し、葛藤を生んでいた。

 

 しかし、不安が胸を占める一方で、鯉伴が他の誰とも違うことは確かだった。

 

 鯉伴は彼女の痛みを理解しているかのように、彼女の「見える力」を決して否定しない。それどころか、自分も半妖であることを明かし、レイコの孤独を共有するように寄り添っていた。これまでの人生で、家族も友人も、彼女の言葉を信じず、彼女を「嘘つき」と呼んで孤立させた。それでも、鯉伴は違った。彼はただそばにいて、彼女がそのままでいることを許してくれる。無理に心を開かせようとせず、ゆっくりと距離を詰めてくる彼の優しさが、レイコには今まで感じたことのない安心感をもたらしていた。

 

 彼の言葉にかけてみるのも、悪くはないかもしれない。

 

 そんな考えがふと心に浮かんだ瞬間、レイコは自分自身に驚いた。他人を信じようと思うことが、自分にとってどれほど異例のことか、それまで考えたこともなかったからだ。

 

 レイコはそっと目を閉じ、心の中で自分の感情と向き合った。鯉伴との出会いが、自分に少しずつ変化をもたらしている――そのことを、彼女は無意識のうちに感じていた。

 

「………結論を出すのは、まだ早いわね」

 その呟きは、まだかすかなものだったが、確かに彼女の中で何かが動き始めた兆しだった。鯉伴との出会いが、レイコに少しずつ変化をもたらしている。それが自分でも分かり始めていたのだ。

 

 教室の静寂の中で、レイコはその思いを抱えながら、深く息を吸い込んだ。彼に対する警戒心はまだ残っているが、心のどこかで少しずつ彼を信じたいという気持ちが芽生えつつあった。

 

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