二つの世界の狭間で 作:夏目貴志
放課後、昇降口を出た瞬間、冷たい風が肌を撫でた。誰も自分に気づかない。いや、気づいても無視しているのだろう。『見える力』のせいで、これまで嘘つきだと罵られ、距離を取られてきた。その傷が深く残っている。自分に近づいてくる者などいないし、誰かが近づいてきても、結局は去っていく。だから、誰にも期待などしていない。
ふと遠くに鯉伴の姿を見つけた。彼は木の下で立ち、軽く背をもたせかけて空を見上げていた。鯉伴の飄々とした姿は、まるで時間や場所に縛られることなく、ただそこに佇んでいるかのようだ。彼が誰かを待っているとは思えなかったが、その姿は自然と目を引く。現に、クラスメイトや通りすがりの生徒たちが彼をチラリと見ては、何やら囁き合っている。
――ねえ、誰だれ、あの人?
――うわあ、とってもハンサムね……!
――かっこいいわあ〜
というクラスメイトたちの囁きが風に乗ってレイコの耳に届いた。
鯉伴には存在感がある。彼には自然と周囲の視線を集める不思議な魅力があった。レイコは心の中で軽くため息をつく。彼があれほど注目されるのは当然だが、そのことが彼女にとって少し居心地が悪かった。
レイコは視線を一度地面に落とし、軽く眉をひそめた。彼に話しかけるべきか、それともそのまま通り過ぎるべきか——。
少しだけ距離を置いて歩きたいと思ったが彼の姿はやはり目を引く。心の中で迷いながらもレイコは足を踏み出そうとしたが、その理由を自分でもはっきりと捉えられなかった。何かが背中を押したのか、あるいはただ流れに身を任せたのか――深く考えることもなく、彼女は自然と一歩を踏み出していた。
鯉伴がふいにこちらを見た。視線が一瞬で絡み合い、その飄々とした笑みは、まるで初めから彼女のことを待っていたかのようだった。
「よう、レイコ。遅かったな」
彼は、まるで旧知の友に対するような軽やかな口調で声をかけてきた。その態度に、レイコは少しだけ息を呑む。まさか、自分がここを通ることを待っていたのか? いや、きっと違う。彼はただ、そう見せかけているだけなのだ。
「……別に、待たせた覚えはないけど?」
彼女はわずかに眉をひそめながらも、落ち着いた声でそう言い放った。冷静を装おうとする一方で、その言葉にこもる微かな苛立ちと戸惑いを、鯉伴がどこまで感じ取っているのかはわからない。
しかし、鯉伴はいつものようにその態度を崩さず、ただ柔らかい笑みを浮かべたままだった。彼の飄々とした笑みを見た瞬間、レイコの心に微かな温かさが広がった。これまで感じたことのない不思議な感覚だ。鯉伴といると、普段の冷たい孤独が少しだけ和らぐ気がする。
でも――彼が本当に信じられるのか? これまで何度も裏切られてきた自分に、彼を信じる勇気があるのだろうか。鯉伴の曖昧な態度は、彼女の疑念を募らせるばかりだ。何度も裏切られてきた過去が、彼を信じることを許さない――それでも、彼の存在が心を揺さぶる。信じたい。だがその先にはまた痛みが待っているかもしれない。
レイコが言葉を紡いだその瞬間、背後から囁き声が聞こえた。
――ねえ、あの人、夏目と知り合いみたいよ?
――本当? あの狐目つきと?
――うん、見てよ、今も一緒にいるじゃない。まさか、友達とか……?
――あり得ないよ、夏目が誰かと仲良くするなんて。そもそもあいつ、いつも一人だし、ちょっと気味悪いよね。
――夏目も変わり者だし、やっぱり似た者同士ってことなのかな……。
その声が風に乗ってレイコの耳に届いた。心の中で小さくうずく痛みを感じながらも、何とか平静を保とうとしたが、その言葉が彼女の中で深く刺さるのを止められなかった。鯉伴がいることで、いつも以上に自分が周りから浮いている感覚が強まる。
「レイコ、お前と一緒にいるとどうしてか周りが騒ぐみてーだな」
その言葉とともに、鯉伴は周囲に向けて一瞥をくれるが、すぐに興味を失ったように再びレイコに視線を戻した。そして、まるで風が吹き抜けたかのように気にする素振りを見せず、飄々と笑みを浮かべた。軽く髪をかき上げながら、レイコに向かって一歩近づき、彼女の顔を覗き込むようにして言った。
「ま、言いたがる奴はいつでもいるもんさ。オレたちが気にすることじゃねーな」
鯉伴は、柔らかく笑う。その一瞬、彼は自然にレイコの方へ向き直り、まるで何気ないかのように一歩踏み出して立ち位置を変えた。その位置取りは、周囲の視線をさりげなく遮り、レイコを守るかのようなものだった。
あくまでも自然な仕草。だが、そこには明らかな気遣いが滲んでいた。レイコに見えないところで、彼がどれほど周囲を気にかけ、彼女を庇っているのかが無言のうちに伝わってくる。彼の軽口とは裏腹に、鯉伴の行動には深い配慮があった。
「そんで、どうだ? せっかく一緒なんだし少し寄り道してみるかい。風が気持ちいいし、オレと歩くならそんなに悪い時間じゃねぇだろう?」
彼の言葉にふと感じる優しさが、心の奥深くに響く。鯉伴の何気ない言葉に、レイコの心は少しだけ緩んでしまう。でも、その優しさに甘えてしまったら、また裏切られるのではないかという恐れが胸を締め付ける。彼の無邪気な笑顔が、まるで自分の苦しみを軽んじているように感じられ、彼の真意が見えないことに不安が増していく。信じたい――でも、信じた瞬間に、再び裏切られる痛みが押し寄せるかもしれないという恐れが、胸の奥をじわじわと締め付ける。その思いが彼女の心に渦巻いていた。
「……寄り道なんて、別に一人で充分よ。誰かと一緒なんて考えたことないし」
「そいつは結構。だが誰かと一緒に歩く寄り道ってのも、たまには悪くないもんだぜ」
鯉伴は軽い笑みを浮かべながら、ちらりとレイコに視線を向けた。その瞳には冗談めいた気楽さが宿っている一方で、どこかに真剣な思いが混ざっているようだった。
「別に、ひとりでいる方が気楽なのよ。誰かと一緒に歩く必要なんてないわ……」
レイコは視線をそらしながら、少し冷めた口調で答えた。しかし、その言葉には自分でも意識できない微かな戸惑いが混ざっている。鯉伴の飄々とした態度に反発するつもりだったが、完全に拒絶する気持ちも湧いてこない。
「だから……期待されても困るだけ」
「期待? オレはただ、お前さんと一緒に歩くのが面白そうだって思っただけさ。そんなに気負わず、風でも感じながらのんびり歩けばいいんだよ」
彼はそう言ってから、少しだけ鷹揚に笑って見せた。
「……そう。あなたがそうしたいなら、勝手にすればいいわ。私は私で歩くから」
「そうかい。けど気づいた時には案外悪くねえって思ってるかもな──」
「……」
鯉伴は、そんなに深く考えていないように見える。その態度にレイコは反発しようとしたが、何も言葉が出てこなかった。
自分ではそれを認めたくなかったが、ただ、一緒に歩くだけで心が少し落ち着くのが不思議だった。彼の飄々とした態度にはどうしても抗えない魅力があるらしい。だが、その裏に何か別の意図が隠れているのではないか――その考えが拭えなかった。これまで出会ってきた誰もが彼女を避け、嘘つきだと扱ってきた経験が、簡単に人を信じることを許してくれない。
ふと、鯉伴が歩みを止めた。レイコもその場で立ち止まり、彼の視線の先を追う。少し先に、小さな公園が見えた。鯉伴はその公園を指し示しながら、軽く首を傾げて笑った。
「どうだ? あそこに寄っていかねぇか? 少し座って休むにはちょうどいい場所だ」
レイコは迷った。普段なら誰かと一緒にこうして時間を過ごすことなど考えもしなかったが、鯉伴の何気ない提案には不思議な魅力があった。彼女は無言でうなずき、公園へ向かうことにした。
公園に着くと、鯉伴はベンチに腰掛け、腕を伸ばして大きく伸びをした。レイコもその隣に座り、しばし風の音と木々の揺れる音を聞きながら、ぼんやりと空を見上げた。こうして自然の中で静かに過ごす時間は、彼女にとっては二日ぶりのことだった。
鯉伴と寄り道した公園で、レイコはしばらく風の音に耳を傾けていた。隣に座る彼の態度が、妙に心を落ち着かせるものがあったが、彼女の心にある疑念は拭えないでいる。
なぜ、鯉伴は自分にここまで構うのか。これまで誰もが避けてきた彼女に、なぜこの男はこんなに自然に近づいてくるのだろうか。自分一人で生きてきた彼女にとって、鯉伴の存在は異質だ。どうして彼が、自分にここまで関心を持つのか――その答えを彼女はどうしても知りたかった。
レイコは視線を空から鯉伴に移し、思わず口を開いた。
「……ねえ、また聞くけど、どうして私なんかに構うの? 本当に、ただ寄り添いたいだけ?」
レイコは、空を見ていた視線を鯉伴に向け、静かに問いかけた。その声には冷静さを保とうとする意志が感じられたが、ほんの僅かに不安が交じっている。
彼女は、これまで誰も自分に本気で近づこうとしなかったことを知っている。近づく者がいても、それは下心によるものが殆どだった。だからこそ、鯉伴の存在が彼女にとってはあまりにも自然でありながら、同時に信じがたいものに思えてならない。
「昨日も似たようなこと聞いたな。そんなに気になるかい?」
「……当然でしょ。誰も私に構おうとなんてしないのに、あなたはまるで当然のように接してくるから」
「そうだな……」
鯉伴は一瞬視線を外し、少しだけ困ったように笑みを浮かべた。普段の軽口とは違う、どこか真剣な色が彼の目に浮かんでいた。
「オレはただ、お前のそばにいてやりてーだけだ……。そんなに深く考えてるわけじゃねえんだが……」
鯉伴の言葉は軽く口をついて出た。彼のいつもの飄々とした態度には、真剣さが滲んでいるようにも感じられたが、その軽さがレイコの胸に引っかかった。
「お前が一人で歩いてる姿を見ると、どうにも放っとけねえ。それ以上の理由がいるかい?」
軽やかで曖昧なその言葉が、レイコの心に小さな火種を投げ込んだ。鯉伴の何気ない口調が、まるで自分の孤独を軽視されているように思えてならない。胸の奥がじわじわと熱を帯び、苛立ちが静かに広がっていく。それは、まるで心の中に溜め込んだ不安と孤独が、一気に沸き上がるような感覚だった。
「そんなに簡単に消えるものじゃないわ……私の周りから人がいなくなるのは」
レイコの声には、かすかな震えが混じっていたが、冷静さを保とうとしているのが伝わる。
「誰にも理解されなかったのに、今さら誰かに寄り添われるなんて、そんなの信じられるわけない」
鯉伴の曖昧な態度――優しげな笑顔と無邪気な口調が、彼女の心の中で蓄積されていた不信感を引き出していた。彼が自分に寄り添おうとしているのはわかっていたが、その軽々しい態度がどうしても許せなかった。
「もし本当に私を気にしているなら、どうしてそんなに曖昧なの? ちゃんと理由を教えて」
レイコの声は静かだが、どこか鋭く冷たい響きがあった。自分の孤独がどれほど深く、彼には何もわかっていない――そんな思いが彼女の胸を締め付けていた。
「そばにいたい? それで私がどうにかなるとでも思ってるわけ?」
鯉伴の軽口に対して皮肉交じりの言葉を投げかけたものの、彼の優しさを感じないわけではなかった。彼が自分を大切に思ってくれていることは、頭では理解している。でも、心はそう簡単に受け入れられない。信じたい。でも信じたら、また傷つくだけだ。彼が本当に自分を理解してくれているのか、それともただの同情か――その答えが欲しいのに、鯉伴は何も教えてくれない。その真意が見えないことが、ますます彼女を不安にさせる。
「……どうして答えてくれないの?」
レイコの声には、ほんのわずかな揺らぎがあった。彼女はいつも冷静さを保とうとしていたが、鯉伴が曖昧なままにしていることが、次第に彼女の心を掻き乱していた。
「お前のことを大事に思ってる、それじゃ足りないか?」
鯉伴の口調は柔らかだったが、その言葉には具体性がなく、レイコの疑念を晴らすには至らなかった。鯉伴の口調はいつも軽やかだが、肝心なことには決して踏み込んでこない。その曖昧さが、レイコにとってはまるで本気で向き合っていないように感じられ、彼に対する疑念がますます強くなっていく。
「……それだけじゃ足りない。曖昧なままで、私に何を期待してるの?」
レイコは鯉伴の顔をじっと見つめたが、彼の表情には変わらぬ軽さが漂っていた。彼が何を考えているのか、その真意がつかめないことが、レイコをさらに遠ざける要因になっていた。
何度も誰かに期待しては裏切られてきた。だからこそ、もう誰にも期待しないと決めたはずなのに、なぜか鯉伴にはその気持ちが揺らいでしまう。彼が違う人間であってほしい、そう願う気持ちが心のどこかに確かに存在していた。でも、それを認めることはあまりにも怖かった。彼に期待してしまったら、また裏切られるかもしれない。その考えが頭をよぎり、再び心を硬く閉ざした。
「もういいわ……」
そう言ったレイコの声には、絶望が滲んでいた。何度も誰かに期待しては裏切られてきた。鯉伴が違うとは思いたい。でも、結局、彼も他の人と同じなのではないかという疑念が心に残る。彼が自分を救うことなどできない。
「……期待なんて、最初からしてない。無駄だって、ずっと前に知ってたから」
背を向けて歩き始めた瞬間、胸に広がる冷たい孤独感が一層強まった。鯉伴の存在があったからこそ、その孤独が今までよりも苦しいものに感じられた。鯉伴が何かを言おうとするのがわかったが、もう聞きたくなかった。曖昧な言葉や態度で彼女の心を揺さぶることは、今の彼女にとって耐えられないものだった。
「レイコ、待て!」
鯉伴の声が背後から追いかけてきたが、レイコはそのまま歩みを止めなかった。彼の言葉が彼女に届くことはなかった。彼が本当に自分を気にかけているのか、それともただ口先だけなのか――もう確かめる気力はなかった。
「なあ、待てって!」
「……私のことなんて、わかっていないくせに」
レイコは小さく呟き、冷たい風が頬を撫でていくのを感じた。鯉伴との距離が広がるにつれて、彼女の胸に渦巻く感情が徐々に静まっていった。彼を信じることができれば良かったかもしれない――けれど、それはあまりにも難しかった。
彼が近くにいた時、レイコは不思議と孤独が少し和らいでいたのだと、今になって気づいた。彼の存在が、知らず知らずのうちに自分を支えていたことに気づいた時、胸が苦しく締めつけられるようだった。今ではその支えを失い、以前にも増して冷たい孤独が彼女を包み込んでいた。
鯉伴の元から離れたレイコは、再び一人きりになったが、その孤独には少しばかり慣れていた。