二つの世界の狭間で   作:夏目貴志

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七話

 

 

 

 

 鯉伴と妖怪の言葉が交わされる中、レイコはその場に立ち尽くしていた。冷たい夜風が頬をかすめ、心の奥で何度も同じ言葉がこだまのように響き続ける。

 

――鯉伴が、私を……?

 

 レイコの心は混乱していた。ずっと誰にも心を許さないことで自分を守ってきた。信じることは痛みを伴う。誰も信用できないし、誰も信じたくない。だが、今この瞬間、鯉伴という存在が彼女の心を大きく揺さぶっていた。その揺らぎに戸惑いながらも、鯉伴の感情が真実であるならば、自分はどうすればいいのか――その答えが見つからないまま、心は不安定に揺れ続けていた。

 

 

 鯉伴は、妖怪の挑発を軽く笑い飛ばしている。しかし、ふと笑顔の裏に見えた微かな動揺を、レイコは見逃さなかった。

 

 彼の飄々とした態度の奥に隠されているもの――それは彼自身が築いた防壁だ。鯉伴もまた、何かを隠している。軽口の奥に張り巡らされたその壁の背後には、彼だけが知る本心が隠されているに違いない。そんな考えが、レイコの胸にじわじわと広がっていった。

 

「──てめえにどうこう言われる筋合いはねえと言ったはずだ。オレの生き方も、気持ちも、全部オレが決めるもんだ」

 

 妖怪は笑みを浮かべながらも、声を発することなくその姿を薄れさせていく。残されたのは冷たい風と、何事もなかったかのような深い静寂。鯉伴は無言でその場を見つめ、すべてが消え去ると、夜の闇に静寂だけが広がった。揺れる木々の音がかすかに聞こえ、まるで彼とレイコの間には何も残されていないかのように思われた。

 

「……あんた、本当にいつもそうなのね」

 

 無意識に口をついて出た言葉。自分でも驚いた。その言葉が、自らの口から自然に出てしまったことに。

 鯉伴はそれを聞いて一瞬だけ彼女を見つめた。その瞳には、いつもとは違う何かが宿っているよう。それは、彼の孤独が、彼女の孤独に触れた瞬間だったのかもしれない。彼もまた、同じ孤独を抱えている――それに気づいた瞬間、レイコの胸の奥に押し込めていた感情が少しだけ顔を覗かせた。

 

「怪我はねえかい?」

 

 鯉伴が軽く尋ねる。その声にはいつもの飄々とした調子が残っているが、そこには彼女を気遣う優しさが微かに滲んでいた。その優しさに触れた瞬間、レイコの心は再び揺れ動いた。今まで誰かにこうして気遣われたことがあっただろうか――そう思うと、胸の奥で何かが軋む。

 

「……別に、大したことはないわ」

 

「そうかい、ならいいんだ」

 鯉伴は軽く頷き、再び飄々とした態度を取り戻すかのように見えた。だが、レイコの心には何かが引っかかっている。彼の無邪気な笑顔が、どこかで本心を隠しているように思えてならない。

 

「……ねえ、さっきの妖怪が言ってたこと、本当?」

 

 レイコの声は微かに震えていた。冷静を装いながらも、鯉伴の反応を探ろうとしている自分に気づいていた。

 

 妖怪が投げかけた言葉――「愛しているように」という挑発的な一言が、彼女の心に深く刺さり、消えることなく残り続けている。彼が何も答えずにやり過ごそうとしているのを見て、レイコはそれを見逃すわけにはいかなかった。彼が本当はどう思っているのか、確かめたかった。

 

「……さあな。あいつの戯言なんざ、気にすることはねぇさ」

 

 やはり彼は、何かを隠している――レイコにはそう思った。鯉伴が真剣に向き合っていないと感じるたびに、レイコの胸には不安と苛立ちが静かに広がり、心の奥を締めつけていく。

 

「ふざけないで。私は真剣に聞いてるんだけど?」

 

 冷静さを保ちながらも、彼の態度を強く問い詰める。そうでもしなければ、彼は真実を話してくれない。鯉伴は一瞬黙り込んだが、やがてため息をつくと、飄々としたまま言葉を紡いだ。

 

「……大事に思ってる、そりゃ嘘じゃねぇさ」

 

「大事に思ってるって、それだけなの?」

 レイコの問いは、まるで試すような響きがあった。彼女は鯉伴の返答にもっと確かなものを求めていた。鯉伴は一瞬考えるようにして、ふっと軽い笑みを浮かべた。その表情はどこか飄々としているが、レイコの問いに真摯に向き合おうとしているかのように思える。そして、ほんの少しの間を置いて鯉伴はゆっくりと彼女の方に歩み寄った。

 

「それを気にしてるってことは、オレのことが少しは気になってるってことかぃ?」

 

 レイコは軽く眉をひそめ、ため息をつきながら鯉伴を見つめ返した。

 

「質問を質問で返すなんて、ずいぶんと自信があるのね〜」

 レイコの声には、微かな苛立ちが混じる。彼の軽口に乗せられるわけにはいかない。けれど、彼のその態度が少しばかり癪に触る反面、心のどこかで彼の答えを待ち望んでいる自分がいる。

 

「本当に大事に思ってるって言うなら、ちゃんと答えなさいよ。そうでなければ、ただの冗談と同じよ」

 レイコは、自分の内にある不安と期待に気づきながら彼の次の言葉をじっと待っていた。

 

「冗談に聞こえるかもしれねぇが、オレにとっちゃ真剣だぜ。もっともオレの言葉が軽く感じるならそれもお前次第さ」

 

「なによ、また曖昧にはぐらかすつもり?」

 

 すると、鯉伴はさらに一歩近づき、軽く彼女を見下ろすようにして、低い声で言葉を紡いだ。

 

「いいや。言葉なんてな、どうとでも使えるもんだ。オレは言葉でごまかしたりしねえ。オレのやること為すこと見てりゃわかるだろう? 想いが本当かどうかってのは行動で示すもんだぜ。オレはいつでもレイコのそばにいる、それがオレのやり方さ」

 

 彼の声は静かでありながら、どこか確信を持って響く。

 言葉以上に行動で示す――それが鯉伴の信念であるのだろう。レイコは、その言葉の奥に隠された強い意志を感じ取る。

 

「っ……」

 レイコは一瞬言葉を失った。彼が冗談で言っているのではないこと――その言葉に確かな真実があることを、レイコは直感的に感じていた。けれど、彼を信じることは彼女にとって簡単なことではない。ずっと一人でいることに慣れてしまった彼女にとっ、他人を信じるという行為は、再び傷つく可能性を孕んでいた。

 

「……行動ね。そうやって、いつも肝心なことは言わないのね」

 

 レイコは視線を少しだけ下に落とし、俯き加減で静かに言った。彼の言葉をどう受け止めるべきか、まだ答えは出せない。それでも彼の誠実さを感じ取ろうとしている自分に気づいてしまった。自分の心の中で少しずつ変化が生まれていることに戸惑いながらも、その変化を否定できずにいる。

 

「ねえ……そんなに簡単に信じられると思う?」

 彼女の問いは、自分自身への問いかけでもあった。鯉伴を信じることができるのか――それともまた、裏切られるのか。彼女の心の中では、まだその答えは見つかっていない。

 

「いいんだよ、無理に信じさせようなんて思っちゃいねぇしな。オレはお前が笑ってりゃそれでいい」

 

「あんたって変な人」

 

「お前と同じもんを見てる人間がここにいんだ。それだけで十分だろう」

 

「……本当に、変な人」

 レイコの胸の奥に少しだけ温かさが広がっていく。鯉伴の言葉が、彼女の中に積もり積もっていた孤独の壁に、小さな亀裂を入れた。それは、長い間閉じ込めていた感情が、少しずつ解放されていく兆しだった。

 

 ――今は、少しだけ信じてみてもいいのかもしれない。

 

 レイコはそう静かに呟き、鯉伴の方へ一歩踏み出した。まだ不安や疑念が完全に消えたわけではない。それでも、前に進むための一歩が、彼女の中で生まれていた。

 

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