二つの世界の狭間で   作:夏目貴志

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八話

 

 

 

 帰り道、レイコの頭にはずっと鯉伴の姿が浮かんでいた。あの飄々とした態度の裏に潜む強さと優しさ、それがどうしても忘れられない。なぜだか自分でも分からないが彼の言葉や笑顔が心に引っかかる。授業中もクラスメイトの雑談も教師の説明も、すべてが耳をすり抜けていくようだった。

 

「まったく……何を考えてるんだか」

 そうつぶやき、ため息をひとつついたが心の中のもやもやは晴れなかった。家に帰るつもりで足を進めたものの、どうにも物足りない。何かが欠けている気がする。その感覚を無視したくてもどこかで無視できずにいる自分がいた。いつもなら森や神社に足を運ぶのだが、今日はそんな気にもなれず気づけば七辻屋の前に立っていた。

 

 店の前に立つと、ふわりと甘い香りが風に乗って漂ってきた。その香りはどこか懐かしく心をほっと落ち着けるような優しさを纏っていた。まるで疲れた心にそっと寄り添うように、レイコの胸の奥に静かに広がっていく。

 

 扉を押し開けると甘い香りが一層漂ってきた。木のぬくもりが感じられる静かな店内は外の喧騒を忘れさせ、別世界に迷い込んだような錯覚を抱かせた。

 

「よぉ、いらっしゃい」

 カウンター越しに見慣れた鯉伴が、いつものように無造作な笑みを浮かべていた。その気取らない挨拶がレイコの心にささやかな安堵をもたらす。最初に訪れたときの緊張感はもう薄れ、今では彼の飄々とした態度が妙に心地良い。

 

「どうだ? 甘いもんでも食ってくか?」

 

 鯉伴は作業の手を止めることなく、軽くレイコに視線を投げながら声をかけてきた。無頓着なその言葉は逆に彼女を自然体でいられるようにさせる。ここでは肩の力を抜いて過ごしてもいい、そんな雰囲気があった。

 

「……別に、食べるつもりで来たわけじゃないけど」

 レイコは視線を外し、そっけなく返事をした。

 

「ま、そう言うなって。せっかくだから、ちっとは肩の力抜いてけよ。お前が来るの、オレも楽しみにしてんだぜ」

 鯉伴は笑いながらカウンターにもたれ、飄々とした口調で続ける。レイコは何かを言い返そうと口を開いたが、思わず言葉を飲み込んだ。気がつけば、彼の軽やかな空気の中で自分の心が少しずつ和らいでいた。

 

「……ほんと、あんたは何を考えているのか、さっぱりわからないわ」

 

「深く考えると疲れちまうよ、何事もな」

 彼のように生きられたらどれだけ楽だろうか。そんなことを一瞬だけ思った。しかし自分の性格をそう簡単には変えられないこともまた、レイコはよくわかっていた。

 

「ふぅん……それで生きていけるなら、楽でいいわね」

 レイコが皮肉を込めて言うと、鯉伴は笑った。その無造作な笑顔が心に引っかかる。どうしてこんなに気になるのかレイコには理由がわからない。

 

「ま、楽に生きられるってのも才能のひとつだろう? 少し真似してみたらどうだい、肩の力抜いてな」

 

「あいにく、私はそういう性分じゃないのよ」

 レイコは軽く眉を寄せ、言い返した。

 

「そうかい。ま、そこがレイコの良いとこでもあるけどな。真面目で、芯が強くて、根性もある。だから疲れたらここに寄って甘いもんでも食ってけよ」

 

「……あんたといると、変なところで力が抜けるわ」

 レイコはふっと息をつきながら心の内にあった緊張が少し解けるのを感じた。それでもまだ完全には心を許せない自分がいて、どこかで気を張ってしまう。鯉伴の飄々とした態度が逆にその緊張をほぐしていくのだろうか。それとも彼の存在そのものが自然と自分を和らげているのかはまだはっきりとはわからない。

 

「ははっ、いいんじゃねぇか。それくらいがちょうどいいんだよ」

 鯉伴は大らかに笑った。

 

「そうかもね……でも、簡単にはいかないわよ」

 レイコは、ふと遠くを見つめるように言った。彼の言葉が正しいことは頭では理解できる。けれど自分の性分をそう簡単に変えることはできない。長い間、自分の中に積み上げてきたモノはそう簡単に消えてなくなるものではないのだ。

 

「ま、焦らずにな。無理して変わる必要はねえだろう」

 

「……そうね。変わるのも悪くないのかもしれないけど。まだよく分からないわ」

 

「心配すんな。お前はお前でいいんだ。変わる時は、勝手に変わってくもんさ」

 鯉伴のその何でもない一言が、なぜかレイコには妙に響いた。

 

「……それより甘いものって、また和菓子の話?」

 レイコは気持ちを切り替えるように鯉伴に問いかけた。それは彼女にとって驚きでもあり、また不思議な感覚でもあった。

 

「ほぉ、気になるかい? お前さんに作る和菓子は毎回ちゃんと選んでるんだぜ」

 

「意外ね。鯉伴がそんなに気を遣うなんて思わなかったわ」

 レイコはわずかに驚きながらも、鯉伴のさりげない気配りに心がほころんでいる自分に気づいた。その何気ない優しさが、彼女にとっては新鮮で、どこか心地よい温かさをもたらしている。

 

「レイコは特別だからな。適当には作れねぇだろう」

「特別」という言葉がこれまで孤独を抱えてきた彼女の心に響いた。だがそれを素直に受け入れることができない自分がいる。

 

「おいおい、深い意味なんてねえよ。お前がまたここに来る理由くらい、作ってやりたかっただけさ」

 

「余計なお世話」

 

「悪かったな。ほら、今日は饅頭だ。あんま気負わずに食えよ。甘いもんで少しはお前のカチカチの頭もほぐれるかもな」

 

 鯉伴が軽く笑いながら饅頭を差し出す。その仕草には、やはり何気ない優しさがある。レイコはしばらく饅頭を見つめていたが、ゆっくりと手を伸ばして口に運んだ。甘さが広がり、ふわりとした柔らかさが心に染み込んでいく。

 

「……まぁ、悪くないんじゃない?」

 

「ははは。そりゃあ手間かけて作ったからな。お前さんが気に入ってくれりゃあ、それで十分さ」

 相変わらず軽い言い草だ。

 

「それで、今日はどんな話があるんだ? 聞かせてくれよ、お前の学校のことか? それともまた妖怪でも見かけたかい」

 

「特にないわよ。普通の日だったし……あんたに話すようなことはないと思うけど」

 

「つれないねえ。ま、何もなけりゃあそれでいいさ」

 鯉伴は軽く笑いながら、彼女の答えに対して特に追及もしない。

 その態度が、レイコにはちょうどいい距離感に感じられた。無理に入り込むことなく、けれどもいつもそこにいる――その存在感が彼女にとって、ほんの少しずつ支えになってきている。

 

「……鯉伴はどうなの? あんたは何か面白いことでもあったの?」

 ふと口をついて出た質問。それは彼女にとっても少し意外なことだった。普段は相手に対して興味を持つこともないレイコが、鯉伴に自ら問いかけたのだ。

 

「ん? オレかい。相変わらずだな。妖怪たちが饅頭を食いに来るくらいのもんだ」

 

「へえ、妖怪が饅頭を食べに来るなんてのんびりしてるわね」

 彼女にとっては妖怪が人間のものを求めること自体がそれほど驚くことではない。けれど鯉伴がそれを当たり前のように受け入れている姿が自分と重なる。同じ世界を見ている――ただ同じ景色を見ていることが妙に心地良い。

 

「ま、オレが相手にしてやんのは饅頭の代金くらいだ。こっちが構わなけりゃあ、向こうも大人しくしてるもんさ」

 

「そういう付き合い方ね。深入りしない方が、お互い楽ってことなのかしら?」

 

「深入りか……。まぁ、そういうことだな。妖怪ってのは人もそうだが距離感が大事なんだ」

 鯉伴は少し考え込むようにしてから言った。

 

「こっちが深入りしすぎると、向こうもこっちに寄ってきすぎて面倒になるだけさ。お互いほどほどが一番ってやつだ」

 

「ふーん、そんな適当で上手くいくなんてね」

 

「上手くやるコツってのは、意外と適当なとこにあんだよ。頑張りすぎると疲れちまうからな、何事もつかず離れずってな」

 

 鯉伴の軽い口調の裏に、彼の哲学が垣間見えた気がした。彼の「適当」は実は深く考えた上での柔軟さなのだと。彼の言葉が心に響くのは、その生き方に揺るぎない信念があるからなのだろう。

 

「鯉伴らしいやり方ね。確かに、その方が楽なのかも」

 レイコはふと、彼との距離感についても考えてしまったが、あえて深く考えないようにした。ただこの心地よさが、いつか何かを壊してしまうのではないかという不安が心の片隅に芽生えた。すぐにその思考を振り払う。

 

 しばらくして、鯉伴とのやり取りが名残惜しくもあったが、夕方の柔らかな日差しが差し込む店内を背にして、彼女は七辻屋を後にした。

 

「気が向いたら、またふらっと寄ってこいよ。甘いもん用意してやっからさ──」

 

 

◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆ ◇◆

 

 

 夕暮れに染まる街並みは、いつもと変わらない風景を映し出していた。けれどもレイコの胸には説明のつかない重い違和感が残っている。

 鯉伴との会話や七辻屋で過ごす時間が、確かに心を軽くしてくれるはずなのに家路に向かうと決まって胸の奥に不安が広がる。彼は何も求めず、ただ自然体で接してくれる。それが心地よいはずなのに、なぜこんなにも重苦しい感覚が拭いきれないのだろう。

 

 この安心感が、いつかは壊れてしまうのではないか。その不安が彼女の心の中でじわじわと広がっていた。

 

 

 最近、学校でも視線を感じることが増えてきた。ひそひそとした声が耳に届き、七辻屋に通っていることまでが噂になっている。

 

 ──あの変わり者が、最近、七辻屋に通ってるんだって。

 

 ──狐目憑きが? あそこに何かあるんじゃないか?

 

 彼らの囁きが、レイコの胸に重くのしかかる。七辻屋は自分にとって唯一の居場所だった。鯉伴との気楽なやり取りが、日々の孤独を和らげてくれるように感じていたのに同級生たちの言葉が、その場所にまで影を落としていく。

 

 ──鯉伴にまで迷惑をかけたらどうしよう……

 

 心の中に芽生えた不安が彼女の足を徐々に重くした。それでも鯉伴は何も気にしないはずだ。飄々とした彼が、噂話に左右されることはないだろう。しかし自分が原因で何かが変わってしまうことが、途轍もなく怖かった。

 

 この噂が鯉伴にどう影響するのか、想像するだけで彼女の心は締めつけられた。

 

 それからというものレイコは少しずつ七辻屋に足を運ぶ回数を減らしていった。店の前を通るたびに鯉伴が待っている気がして足が止まるが、扉を開けることはなくなった。鯉伴の無造作な笑顔を思い浮かべるたびに何かが胸に引っかかる。それが何なのか、彼女自身にも分からないまま、日々が過ぎていく。

 

 学校でも相変わらず孤立していた。廊下を歩くたびに背中に感じる冷たい視線や、背後で交わされる噂話。誰も直接何かを言ってくることはないが、その存在感は常にまとわりついていた。

 

 下校途中の道で、ふいに足元に小さな石が転がってきた。振り返る間もなく、石が頬に当たり、鋭い痛みが走る。

 

「狐目憑きに近づくと呪われるんだとよー!」

 

「気味が悪いんだよ! こっち見んな!」

 

 叫び声と共に誰かが走り去る。レイコはその場に立ち尽くし、頬を押さえた。頬に血が滲んでいる。これまで何度も経験してきたことだ。深く息を吸い込み、再び歩き出す。だが、胸の奥にはどうしようもない怒りと悲しみが入り混じっていた。

 

 七辻屋の前を通りかかる。いつもなら足を踏み入れる場所だが、今日も無理だった。鯉伴に顔を見せる自信がなかった。鯉伴に心配をかけたくない。そんな思いが彼女の足を止めていた。

 自分の弱さを鯉伴に見せたくない――それが彼女の心を引き留める最大の理由だった。

 

 夕暮れの街を歩きながら、レイコはひとりになれる場所を探していた。普段いた神社ではない、別の場所。心が乱れるとき彼女が向かうのは花園だ。梔子の花が咲き乱れ、静かなその場所はまるで自分だけの隠れ家のように感じられる。

 

 町外れの小道を抜け、花園へと続く道を進むと、甘く強い香りが漂ってくる。梔子の香りだ。風に乗ってその香りが彼女を包み込み、どこか懐かしさと切なさが胸に広がる。

 

 草原にたどり着くと、白く大きな花々が枝々に揺れ、風に乗って優しい香りが広がっている。

 レイコはしばらく立ち尽くしていたが、ふと足元に目を落とす。そこは風が穏やかに吹き抜け、草が波のように揺れている。彼女はゆっくりと腰を下ろし、背中を木に預けた。

 

 しばらくして鞄から手鏡を取り出す。久しぶりに鏡を手にしたレイコは、自分の顔を映し、そっと傷に触れた。鋭い痛みが走る。

 

「……少し、痛むわね」

 独り言のように呟き、ため息をついた。顔に受けた傷は浅いが、心の中の傷は深いまま。鏡に映る自分の姿はどこか他人のようで、心の孤独が映し出されているように感じられた。

 

 そのとき、不意に背後から声が聞こえた。

 

「──ここにいたのか」

 

 驚いて振り返ると、そこには鯉伴がいた。無造作な笑みを浮かべているが、どこか心配そうな表情が見え隠れしている。レイコは思わずふっと視線を逸らした。

 

「なんで、ここに……」

 

「妖共から話を聞いてな、つい来ちまった。最近、お前七辻屋に顔出さねぇから」

 

 鯉伴の視線は鋭く、レイコの顔に注がれている。

 レイコはその視線に気づき、咄嗟に頬に手を当てたが、その動きを見逃す鯉伴ではなかった。彼は一瞬で距離を縮め、真剣な表情でレイコの顔を覗き込む。その迫力に、レイコは息を飲むしかなかった。

 

「……おい、その頬の傷、一体どうした」

 鯉伴のいつもの軽やかな雰囲気はどこへやら、その声には驚きと焦りが滲んでいた。レイコはその変化に一瞬動揺しながらも、何とか平静を装い誤魔化そうと口を開いた。

 

「転んだだけよ、大したことじゃないわ」

 本当のことを言う気にはなれなかった。この痛みや弱さを見せるのは躊躇われた。

 

「…………そうかい。まぁ、転んだにしちゃ随分痛そうな転び方だな」

 レイコの嘘に気づいているのは明らかだがそれ以上強く問い詰める様子はない。ただ彼の視線がその頬の傷に静かに留まっている。

 

「お前が無茶するヤツじゃねぇのはわかってるが、それでも無理すんなよ」

 彼の言葉には、優しさと控えめな心配が込められていた。レイコはほっとしつつもその軽い口調の裏にある真剣さを感じ取る。

 

「少し、じっとしてろ」

 鯉伴は手を彼女の頬にそっとかざすと、微かな光がその手から溢れた。普段の彼の軽やかさからは想像できないほどの真剣な表情に、レイコは驚いた。

 

「何……これ?」

 

「気にすんな、ちょっとした手当てだ」

 彼が手を離すと、頬の痛みはほとんど消えていた。レイコはそっとその場所を指で触れてみる。傷跡はきれいになくなっており、もう痛みもほとんど感じなかった。

 

「あんた、こんなこともできるんだ……」

 

「そりゃ、オレだって色々できるさ。ただ、まあ、お前が困ってる時くらいは力になってやりてぇからな」

 鯉伴は片目を軽く閉じたまま微笑む。その何気ない仕草が彼の優しさを一瞬にしてレイコの中に刻み込む。普段なら冗談として流してしまう言葉が、今は特別な重みを持って響いてしまう。

 

「……本当、あんたって、言うことがいちいち大げさなのよね」

 そう言いながら、レイコは微かに笑みを浮かべた。素直に感謝の気持ちを表現するのが少し気恥ずかしい。だから、つい照れ隠しのような言葉が口をついて出る。 だが、その裏で彼に対する複雑な感情が広がり続けていることを、レイコは否定できなかった。

 

「でも……まあ、ありがと。あんたに言うのはちょっと癪だけどね」

 

 

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