坂を下り、男子寮が見えてきた頃、ふと思い出して朋也は自分達の後をとぼとぼとついて来る悪友に声を掛けた。
「そうだ、春原。前におまえにやった芳野さんの名刺、持ってるか?」
「あぁ、あれなら芽衣にやったよ」
今は電気工をしている芳野だが、かつては名の売れたロックシンガーで芽衣はそのファンだった。それを知っていた春原は、朋也が貰った芳野の名刺を妹にやってしまったのだ。
「そっか……」
名刺があれば勤め先の電話番号が書かれてある筈だから、それで芳野さんと連絡が取れると思ったのだが、やっぱり公子さん経由で聞くしかないようだ。
そう朋也が考えていると、不意に渚が声を上げた。
「あ……」
「どうした、渚」
「あれ、もしかして芳野さんじゃないですか?」
そう言って渚は前方、寮の近くにある電柱の上を指差した。
そこに灰色の作業服姿の男が一人、黙々と作業をしていた。遠目ではよく判らないが、確かに背格好などよく似ている。
「どうする。作業が終わるまで下で待ってみるか?」
「ああ、そうだな」
「何言ってんだよ」
智代に言われて応えた朋也に、目を見開いて春原は反対する。
「いつ終わるか分からないのに、ちんたら待って日が暮れたらどうすんだよ」
「じゃぁ、おまえ他に何かいい
「やっぱ、ここは芳野コールだよ」
「芳野コール?」
「……やめといた方がいいぞ」
怪訝そうに呟く智代の横で、朋也は以前野球のメンバー集めした時の事を思い出して言った。
あの時それやって、春原は思いっ切り芳野にヘルメットで頭をど突かれたのだ。
それに、まだあの作業員が芳野だと決まったわけではない。
「どうしてだよ、岡崎。あんな高いトコに居んのに、普通に呼んだって聞こえないっての。ここはやっぱ芳野コールしかねぇよ」
「おまえな……」
——学習能力というものはないのか。
「それやって、もし違ってたらどうすんだよ」
別人相手にやったら馬鹿みたいというか、物凄く恥ずかしい。
「ならば真下から、大声で名を呼べば分かるのではないか?」
本人ならば、それに反応する筈だ。
「でも、急に声を掛けて、びっくりして落ちでもしたら大変です」
「それもそうだな」
自分の提案に難色を示した渚の意見に、一理あると智代は考え直す。
「だからさぁ、それとなく耳に届くように芳野コールすればいいんだよ」
「ったく」
あくまで芳野コールに
「じゃあ、俺達は作業が終わるのを待つことにするから、おまえだけでやってくれ」
「なんだよ、おまえ達はやらないのかよ」
「ああ、芳野さんじゃないかもしれないんだ。全員が同じ事する必要ないだろ」
「まぁ、そうだけどさ……」
今一納得がいかない春原だったが、誰も自分に続こうとしないのを見て、仕方なく一人で手を打ち鳴らして声を張り上げた。
「よっしっのっ! よっしっのっ! よっしっのっ!」
だが、電柱上の作業員は振り向きもせず、ただ黙々と手を動かしている。
その様子を見て、渚は顔を曇らせた。
「気付かないみたいです」
「芳野さんではないのかもしれないな」
智代も眉根を寄せ、春原の声を無視して作業を続ける電気工の男を見上げる。
まぁただ単に、芳野と背格好が似ているというだけなのだから、違ったとしても仕方ない。
「おい春原、もっと大きな声出せよ」
「だったら、おまえも手伝えよっ」
一人じゃこれが精一杯だと、注文を付ける悪友に文句を返しながらも、春原は更に声を張り上げる。
「よっしっのっ!! よっしっのっ!! よっしっのっ!! よっしっのっ!!」
——と、
作業が終わったのか、作業員は手にした工具をベルトの工具入れに戻すと、するすると下に降りて来た。
そして、被っていたヘルメットを手に取ると——
「人の名連呼しやがってっ。ケンカ売ってんのかっ、おまえはっ!!」
いきなり猛ダッシュしてきたかと思ったら、手にしたヘルメットで力一杯春原の頭をど突く。
——まぁ、こうなるよな。
ちなみに別人だった場合、頭のおかしな人を見るような目を向けられるのは春原だけで、渚を連れてさり気なく距離を取って無関係を装っていた朋也や智代に実害はない。
殴り倒されて地べたに這いつくばる春原を横目で見やり、朋也は怒りで荒く肩で息をつく芳野に声を掛ける。
「芳野さん、今度の休みにブドウ狩りに行かないか?」
「ブドウ狩り?」
「はい、この間の隣町との野球の試合に勝ってくれた皆さんに感謝して、商店街の方達が計画してくれたんです。少し遠いですけど、とても良い所だとお父さんが言ってました。伊吹先生——公子さんも一緒でも構わないとの事です」
「そうか……」
渚の説明に芳野は腕を組んだ片手を顎に添え、少し考え込んでから返答する。
「いや、悪いが無理だ」
「また仕事でもあるっすか?」
「仕事はないが、この町内ならまだしも遠方となると、彼女が行きたがらないだろうからな」
そして、自分も彼女を置いて一人でブドウ狩りに行く事はできない。
「いや、でも——」
「もしかして公子さんの妹さんの事ですか? 隣町の病院に入院してる」
言いかけた朋也の横手から、渚があることに気付いて尋ねる。
「ああ、彼女は日に一度、必ず見舞いに行っている」
だからあまり遠くに出かけると、それができなくなってしまうのだ。
「確か、事故で意識不明になってるって……」
朋也も思い出した。公子さんの妹——伊吹風子は三年前この高校の入学式の帰りに事故に遭い、そのまま意識不明になってずっと入院していると、以前渚から聞いた事を。
「ああ、そういう
「いえ、公子さんの妹さん、早く良くなるといいっすね」
「ああ、じゃあな」
ふっと表情を和らげて応えると、軽く片手を挙げて芳野は
それを見送り、朋也は渚と智代に目を向ける。
「じゃあ、俺達も行くか」
あんな理由では、野球の時のように誘う事もできない。
三人は電柱の下で後片付けをする芳野を残し、地べたに這いつくばる春原を引きずって寮の中に入った。