いろは激推しなので、しばらく八幡といろはだけでお話しを進めるつもりです。
【One day... Mobile talk Hachiman and Komachi】
小町:プロムのいろは先輩、すっごくきれいだったよー
[写真]
八幡:運営ご苦労さん
小町:写真の感想は?
八幡:勝手に他人の写真ばらまくなよ。肖像権の侵害になるぞ
小町:本人承諾済みなので問題ありませーん。ほらほら、感想は?
八幡:いい写真だと思うよ
小町:はぁー、素直じゃないなー
[スタンプ:ため息をつく猫]
そういえば、いろは先輩の進路って聞いている?
八幡:聞いてない
小町:じゃあ、特別に小町が教えてあげる☆
八幡:いらない
小町:なんで! お兄ちゃんにとって有益な情報だと思うよ
後輩が大学に合格したんだから、
お祝いのひと言くらい送るのが礼儀ってものでしょー
八幡:そもそも一色の連絡先を知らないからな
小町:うそでしょ……
八幡:こんなことでウソつくわけないだろ
小町:[スタンプ:ため息をつく猫]
J大だって。お兄ちゃんと同じ
八幡:学部は?
小町:ほらー、やっぱり興味あるじゃん
八幡:いや、あいつも文学部ならこっちも覚悟が必要だからな
小町:覚悟?
八幡:レポート手伝えとか、過去問見せろとか絡まれたくない
小町:理由が後ろ向きすぎるでしょ……
でも残念、いろは先輩は経済学部だって
八幡:残念じゃない。助かった
小町:でも、J大って全学部同じキャンパスでしょ
四月になったら会うんじゃない?
* * *
俺は、昼食をとる場所を求めてキャンパスを歩いていた。
キャンパス内の小径を進むと、道ばたに植わっている幾本かの桜の木が目に入る。花の盛りをやや過ぎてはいるようだったが、まだ五分ほどは残っている薄桃色の花々は、無機質で背の高い建物が目立つ都心のキャンパスに春の彩りを添えていた。
日頃より多くの学生で賑わっている年度初めの食堂の喧噪を避け、キャンパスの片隅へと向かう。研究棟の裏手にある、心ばかりの芝生の脇に置かれたベンチが、この大学に入学してから一年の間に見つけたベストプレイスだった。学生の動線から外れた場所にあるため人通りが少なく、落ち着いて食事ができる。芝生の中央に配置された花壇もお気に入りのポイントで、小さいながらよく手入れされた花壇に、四、五種類の色とりどりの花がきれいに整列して植わっているのが目に鮮やかだった。
ベンチに腰掛け、構内のカフェでテイクアウトしてきたカフェラテとサンドイッチを脇に置く。
しばらくスマホの画面を眺めていると、耳に届く軽やかな足音へ意識が向いた。その足音は、歩道を逸れて芝生を横切りながら、俺が座っているベンチに向かって近付いてくる。誰だろうと思った次の瞬間、声とともに肩に軽い衝撃を感じる。
「せーんぱいっ!」
つい数日前まで一年生だった俺のことを「先輩」と呼ぶやつなんて、数えるほどもいない。
いや、それ以前に、透明感の中にひとさじの甘さを感じるこの聞き覚えのある声音の持ち主がだれかなんて、確かめるまでもなかった。
「久しぶりだな、一色」
そう言いながら顔を上げると、そこには、亜麻色のセミロングの髪とぱっちりした大きな瞳が印象的な女子学生が立っていた。
見知った顔なのに記憶の中の姿とどこか一致しないのが不思議だったが、すぐに違和感の正体に気が付く。服装のせいだろう。
ゆるっとした着丈のリブ編みオーバーニットに、シンプルなブルーのデニム。ニットは落ち着いた淡い色合いのピンク色で、若者らしい華やかさを感じさせつつも大人びた雰囲気を帯びており、デニムのブルーとのコントラストが目に鮮やかだった。一色の私服姿は何度か見ているが、記憶をたぐる限りでは、一色のパンツルックを見るのは初めてだ。
……思わずまじまじと眺めてしまった。一色いろは[大学生・春コーデバージョン]、なかなか悪くない。まあ、一色そのものがかわいいから、だいたい何を着ても似合うんだけどな。
あらためて一色の顔に視線を戻すと、なぜかぷくっと頬を膨らませている。いろはすはご不満があるらしい。
「なんですか、可愛い後輩と一年ぶりに会えたのに、反応が薄すぎませんかー」
幸い、高校生の頃より大人びた一色の姿に見入っていたことは悟られずに済んだらしい。それにしても、そういうあざとい仕草は、変わらないのね。
「お前がこの大学に受かったのは知ってたからな……」
一色としては再会ドッキリでも仕掛けたつもりだったのかもしれないが、あいにく、俺にとって一色との再会は予想内のできごとだった。反応が薄いと非難されても、困る。
「そ・れ・で・も、一年ぶりなんですから、もっと再会の喜びを表現しましょうよー」
「あー、そうね。久しぶりに会えてうれしいよ、一色」
ぞんざいな反応で返すと、一色は、しらっとした視線をこちらに向けてくる。
「ちょー適当じゃないですか。まあ、先輩ですしね……」
まだ不満げな様子だったが、諦めてもらうしかない。
一色が俺との再会にどのような思いを抱いたかは分からないが、俺にとっての一色は、奉仕部に厄介な依頼ばかり持ち込んでくる困ったクライアントであり、どう逆立ちしたって、喜びで胸が張り裂けるなんてことにはならない。ほんと、こいつの依頼には振り回された記憶しかないからな。二年生の冬なんて、ほぼこいつの依頼しか扱ってなかったし。
だから、俺としては一色と長話をするつもりはなかったのだが、一色はそうでもないらしく、手のひらをひらひらさせて、ベンチの半分を空けるよう身振りで伝えてくる。仕方なく、バックパックを片付けて、一色のためにスペースを空けた。
まあ、俺にとってはただ一人の高校時代の後輩だ。ここは旧交を温めることにしよう。
俺の隣に腰掛けた一色は、カフェラテの紙カップとサンドイッチを見ながら、俺に問いかける。
「お昼ごはん一人で食べてるんですか?」
「大学生なら珍しくないだろ」
時間割は人によって違うし、友人と同じ講義を取っているとは限らない。大学に来る時間や帰る時間もバラバラだろう。だから俺があぶれ者というわけではない。俺はそんなことをたらたらと説明する。
「そういうもんですかねー。わたしはさっき同じ授業だった子たちと学食で食べてきましたけど」
「最初だけだよ。五月になれば、群れるやつらも減ってくる」
俺も、一年前の今頃は、語学のクラスや学部の必修科目で一緒になった知り合いから声を掛けられ、昼食を共にしたものだった。しかし、そんな関係は最初だけで、大型連休が終わる頃には、教室で会ったときに軽くあいさつを交わすくらいの関係に落ち着いていた。
「それは先輩だからでしょ……」
「お前こそ、入学式から一週間も経たないのに、一人じゃないか」
そう言い返すと、一色は、やれやれ分かってないなーとでも言わんばかりに大げさに首を振った。
「さっき友達とご飯食べてきたって言ったじゃないですか。あっちの方を歩いていたら先輩を見つけたので、抜けてきたんですよ。次の授業でまた合流しますけど」
そう言いながら、一色は、芝生の反対側に建っている建物と建物の間を指し示した。建物の隙間からは、キャンパス内の人通りが多い道が小さく見える。
えっ、あの距離からステルスヒッキーを見つけたの? その索敵能力、さてはこいつ、やっぱり艦隊のアイドルなのかしら? だとしたら、装備した33号対水上電探の効果で索敵成功したとしてもおかしくないな。いや、さすがにそれは不自然か。
ともあれ、一色が大学生活の滑り出しを順調に過ごしているなら、喜ばしいことだ。後輩の充実した大学生活を僻むほど、俺は捻くれてはいない。
「うまくやれてるなら、よかったんじゃねえの。友達は大切にした方がいいぞ」
しかし、一色は俺の言葉を軽く聞き流した。
「でもー、みんな今晩はテニサーの新歓に行くらしいんですけど、わたし興味ないんですよ。だから先輩、夜、ごはん食べに行きましょうよー」
どう考えても、順接の接続詞でつなぐには無理があるだろ……。
「無理」
「どうしてですか。どうせ夜もぼっち飯するんでしょー」
「バイトあるから」
そう言うと、一色はなぜか可哀想な生き物でも見るかのような眼差しを向けてきた。
「せんぱい……、デート商法に引っかかったなら、早く目を覚ましてください。雪乃先輩に相談しましょうか? 法学部だし、先輩のためなら知恵を貸してくれると思いますよ」
「おい、俺がバイトしてるってだけで、なんでそんな飛躍しちゃってるの」
「だって、先輩が自主的に働いているなんて思わなかったから……」
なかなか酷いことを言うな、こいつ。
たしかに俺は働かないで済むのならそうしたいと思っているが、現実はそうもいかない。学費と最低限の生活費は親が負担してくれているとはいえ、ある程度の水準の文化的な生活を送るためには心もとない。空き時間はそれなりにあるから、労働に充てているというだけのことだ。
「普通に生活費のためだよ」
「ふーん。それなら明日はどうですか」
「明日もバイト」
俺の返事を聞いた一色は、むーっと唸りながら、うらめしそうな眼で俺を睨め付けてくる。
そんな顔されてもな……。バイトがあるのは事実だから仕方がない。
「じゃあ……」
「明後日はサークルの新歓だから無理」
なおも食い下がろうとする一色の言葉を遮り、先手を打って答える。一色に対して隙を見せようものなら、つけ込まれるのがオチだから、ここは厳しく対応すべきだろう。
ところが、この答えは一色にとって意外だったのか、ぱっちりした大きな目をいっそう見ひらいていた。
「えっ……、先輩が……サークル?」
孤独体質の俺がサークルに所属し、まして新歓活動に参加していることについて、一色は驚いているらしい。気持ちは分からなくもないが、たいがい失礼なヤツだ。
「高校のときだって部活に入ってただろ」
「そうですけど……。そういえば、先輩ってどうして奉仕部に入ったんですか?」
「生徒指導の一環として平塚先生に連れてかれたんだよ」
いまとなっては平塚先生のことを恨んでいるわけではないが、当初は、面倒なことになったと思ったものだ。その感情も、いまや懐かしい。
「あー、なるほどです。じゃあ、自分の意志じゃないんですね」
「だれが好き好んであんな謎の部活に入るんだよ」
ほんと謎だったよな、あの部活。おかげで去年の新歓シーズンは、「高校の頃は部活やってたの?」という定番の質問への対応に苦労した。アニメ研究会に行ったときは、「ライトノベルによく出てくる謎部活です」と紹介したら、「すごいじゃん! どんな能力使えるの!?」って、やたらと受けたけど。しかし、俺の故郷は千葉であり、咲良田ではない。
「奉仕部はともかく、サークルは先輩の意志で入ったんですよね?」
一色の問いかけに、俺は頷きを返す。
すると、一色はその返答をどう受け取ったのか、あちゃーという表情をした。
「大学デビューしたかったんですねー。でも大丈夫ですよ。無理しなくても、先輩の魅力に気が付く人は必ずいますから」
あのね、いろはちゃん。なんで失敗している前提なのかな? 「フォローしてあげてるわたし偉い!」みたいな雰囲気出してるけど、そもそも前提がまちがってるからね?
……たしかに、初日から出遅れた高校生活と違い、大学ではうまくやりたいと思っていたことは否定しない。しかし、いまさら人間のキャラクターは変えられないから、さほど期待していたわけではないのだ。そんな軽薄な理由ではなく、もっとまっとうな理由がある。
「大学はどこかのコミュニティに所属しておかないと、情報不足で死ぬんだよ」
そう、俺がわざわざいろいろなサークルの新歓に顔を出したのは、ひとえに、大学という一つの社会における情報ネットワークの末端に連なるためだった。
サークルに所属すれば、どの先生の単位が取りやすいとか、逆に取りにくいとか、過去の試験問題とか、就活を始めたら何をすべきかとか、そういう大学生活を生き抜くために必要な情報が手に入る。裏を返せば、どのコミュニティにも所属しなければ、そういった必須情報は手に入らない。……ぼっちに優しい世界は、存在しないのだ。
「うちは歴史サークルでさ、OB・OGや上級生に文学部が多くて、わりと助かってるんだよ」
「へー、そういうもんですかねー」
一色は気の抜けた相づちを打つ。どうやら、こういった話題は一色の興味の範囲外らしい。
たしかに、一色ほどのコミュニケーション能力があれば、情報収集に困ることはないだろう。一色にかかれば、適当な男子を転がして代返させたり、過去問を集めさせたりすることくらい造作もないはずだ。
俺は、一色いろは被害者の会の新たな会員となるであろう、見知らぬ男子大学生の姿を思い描き、心の中で手を合わせる。尊い犠牲に、合掌。
「でも、歴史サークルですか……」
そう呟きながら少し考え込む素振りを見せていた一色だったが、なにやら思いついたことがあるようで、にっこり笑う。
「新歓ってことは、新入生なら参加できるんですよね?」
「お前はダメだ」
「えっ? どうしてですか?」
「このサークルがなくなると、過去問が手に入らなくなるから困るんだよ」
これはまじで切実だからね。
大学の単位のうち何割かは、情報戦だ。毎年同じような試験問題を出している教員は珍しくない。問題が変わるとしても、どんな傾向の試験問題が出るか分かっていれば、対策はずっと楽になる。
「それはわかりますけど、わたしと関係ないですよね」
一色が「なに言ってんだこいつ」みたいな表情でこちらを見てくる。まったく、分かってないな。
「あるね。お前みたいなサークルクラッシャーが入ったら、一瞬でサークルが潰れる」
「はぁ、先輩マジでわたしのことなんだと思ってるんですかね……」
実際のところ、うちのサークルは女子も多いから、たとえオタサーの姫ムーブをする新入生が入ってきてもうまくあしらわれる可能性が高い。だから、本当の目的は、俺にとっての安寧の地が一色いろはという小悪魔によって侵略されないようにすることにある。
「お前も、高校の知り合いなんかに絡んでないで、どこかの新歓にいけばいいだろ。この時期なら、どこも新入生にはタダ飯喰わせてくれるぞ」
すると、「もともと歴史サークルには興味ないんですけどねー」と呟きながら、一色はことんと小首を傾げて上目遣いで俺を見てくる。その仕草の可愛いさに、一色いろはがサークルクラッシャーではないかという俺の疑念は強まった。
「先輩はおごってくれないんですか?」
「俺がお前に飯をおごる理由はない」
「ありますよー。だって先輩、まだ責任とってくれてないし」
――責任。たしかに昔、一色からそんなことを言われた記憶がある。あれは、ディスティニィーの帰り道、一色と一緒にモノレールに乗っていたときだったか。
一色は、花壇のあたりを眺めながら、愁いを帯びた表情で静かに言葉を続けた。
「先輩のアドバイス、どれもうまく行きませんでした。葉山先輩、食事に誘ってもうまく躱されるし、家まで送ってくださいなんて言える隙はありませんでした。だから、あれは詐欺です。もう完全に、どこからどう見ても、きっぱりと詐欺です。そんな風に先輩に騙されたのに、わたし、二年も生徒会長をがんばりました。だから、先輩はわたしに責任があります」
だいぶ乱暴な理屈にも聞こえるが、どうにも無碍にしづらい。
俺が高校二年、一色が高校一年だったときの生徒会選挙において、俺は、奉仕部を守るために、生徒会長をやるよう一色を説得した。一色をやる気にさせるため、生徒会長をやれば葉山へのアピールチャンスになると言いくるめたのだった。むろん、虚偽広告でセールスをしたつもりはないが、かといって、誠実な商品紹介をしたとも言えないだろう。
あのときは、一色のことを単なる交渉相手として見ていたから、心は痛まなかった。しかし、一色のワガママに振り回されて生徒会活動を手伝ううちに、彼女のあざといところも、腹黒いところも、図太いところも、クズなところも、健気なところも、可愛いところも、気遣いしいなところも、意外に打たれ弱いところも知ってしまったのだ。
一色いろはという一つ年下の女の子を等身大の存在として認識してしまうと、あのときの自分の言い草は、まるで悪徳セールスマンのようなやり口だったと思わざるを得ない。
心寂しげに視線を落とし、足もとのあたりを見つめている一色の姿が目に入る。
俺の心の中に芽生えた罪悪感は、だんだんと大きくなり、心の中を支配していく。
…………いや、本当にそうか?
……こいつ、かなり役得してたよな。生徒会の経費で遊びに行ったり、バレンタインのチョコを作ったりしていたし、プロムだって、自分がプロムクイーンになるためだと言っていたはずだ。それ以外にも、副会長や書記ちゃんをこき使って、やりたい放題やっていた印象がある。いつだったか、小町も「いろは先輩の人使いが荒い」と愚痴をこぼしていた。
それに、これが一番大切なことだが、二期目の生徒会長選挙に立候補したことは俺と関係がない。一年目の生徒会長の仕事はかなり手伝ったのだから、十分すぎるくらい責任は果たしただろう。
「会長やって役得もあっただろうし、一年目の活動はちゃんと手伝っただろ」
「へー、そういうこと言うんですね」
俺としては完璧に理論武装した反論を繰り出したつもりだったが、一色はたいしてダメージを受けた様子を見せなかった。
「先輩も生徒会の経費で遊びに行きましたし、平塚先生が転勤したのに奉仕部なんて謎の部活が存続できたのはどうしてか、分かってますよね?」
それを持ち出されると弱い。
しかし、ここで引くわけにはいかなかった。あと三年残されている俺の大学生活の平穏がかかっているのだ。一色とのレスバに臨むため、俺は気を引き締めた。
* * *
やがて、講義棟の方から人のざわめきが流れてきて、遠くに見える歩道を行き交う人の数も増え始める。ポケットからスマホを取り出して画面を付けると、三限の講義が終わる5分前だった。
一色も気が付いた様子だった。
「そろそろ次の講義ですね」
「そうだな」
そう言って、俺はバックパックに教科書をしまい、移動の準備を始める。
俺と一色の討論の勝敗は付いていなかったが、時間切れだ。星取りでいえば引き分けだが、俺にとっては戦略的勝利といえよう。
しかし、立ち上がろうとした俺の動きは、一色によって物理的に制止された。
「ちょっと待ってくださいよー」
一色は俺の袖口をつかんで引っ張り、むりやり座らせようとする。こいつ、力強いな。
仕方なく、もう一度ベンチに腰を下ろした俺だったが、声に苛立ちを込めながら一色に言い返す。
「どっちにしろ、しばらく夜の予定は埋まってるんだよ。もう行っていいか?」
いい感じに機嫌が悪い声が出ていたと思うが、一色はひるむ素振りを見せなかった。トートバッグからスマホを取りだしながら、俺に要求を突き付ける。
「いいですけど、その前に、先輩の連絡先、教えてください」
そう言われると、断る理由がなかった。
いや、頭の中では、一色に連絡先なんて教えたら都合よく呼び出されるだけだという警告が鳴っていたのだが、たったそれだけでこの場から離脱できるのなら、安い出費だという思いもあった。
だいたい、一色が本気で俺の連絡先を手に入れたいのなら、共通の知り合いを介して入手する手段はいくらでもある。俺に直接尋ねるあたり、礼節を尽くしているというべきだろう。その依頼をあっさり断れるほど、一色は俺にとって他人ではなかった。
「分かったよ」
そう言って、俺もスマホを取りだし、メッセージアプリを立ち上げる。一色がカメラモードにしているのを見て、俺は、連絡先交換用のQRコードを表示させた。
一色は、俺のスマホの上に自分のスマホをかざしコードを読み取ると、ありがとうございますとはっきり口にして、ぺこりと頭を下げる。こういうところは丁寧なんだよな、こいつ。
顔を上げた一色は、満足な表情をしていた。
「これで、いつでも先輩を呼び出せますね!」
前言撤回。やはり一色は一色だった。
どうやら、俺の平穏な大学生活は終わりを告げたらしい。一色の依頼に翻弄された過去の記憶が蘇ってくる。また、あの頃のような日々が待ち受けているのだろうか。
思わずため息をついたが、同時に、自分の心の奥底に、一色に振り回される毎日を楽しみに思う気持ちがあることに気付いた。
……一人暮らしを始めてから、お兄ちゃんモードになる機会もめっきりなくなっていたからな。このままでは、せっかく小町のために磨いてきた兄スキルが錆び付いてしまう。一色は、ちょうどよいトレーニング相手になるだろう。
ともかく、これで一色の用事は済んだはずだ。俺は、次の教室に向かうため立ち上がろうとしたが、機先を制すように一色がベンチから立ち上がると、その場でくるっと半回転し、俺の方に体を向ける。
そして、亜麻色の髪をすっと手ではらい、耳に掛けながら言う。
「せっかく同じ大学に入ったわけですし、先輩に、もっとわたしのこと知ってもらおうと思ってるので」
そこで言葉を区切ると、一色は、腰をかがめて上目遣いで俺の顔をのぞき込んできた。瞳の奥がきらりと光り、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。顔が近付いたからか、やわらかいアナスイの香りが強く漂ってきた。記憶の中の香りよりも、いくぶん甘さが控えめで優雅な香りだった。
俺の心臓が跳ねたことなんて気にせずに、一色は、残りの言葉を口にする。
「覚悟しておいてくださいね☆」
そう言い残すと、一色は、鼻歌を歌いながら、軽やかな足取りで講義棟へと去って行く。俺の唯一で、最強の後輩は、大学生になっても変わらずあざとさ全開だった。
一色の去り際の言葉が耳朶を離れないまま、俺はだんだん小さくなる一色の背中を眺めていた。その後ろ姿が建物の陰に入り、すっかり見えなくなってからしばらくして、はたと、一色に入学のお祝いを伝え忘れたことに気が付く。
……まあ、どうせすぐにまた、会う機会があるだろう。その時に伝えればいいか。
ふーっと大きく息を吐きながら空を見上げると、きれいに晴れ上がった空の青さが目にしみた。その青色は、ピンクのニットにブルーのデニムを合わせていた一色の姿を連想させる。
一色いろはという存在は、俺の大学生活に彩りをもたらしてくれるようだった。