一色いろはと巡る季節は彩りにあふれている。   作:ポーレ

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大学生になった八幡といろはが、喫茶店デートをします。


#02 どうしても、一色いろはの誘いからは逃げられない。

『履修登録のこと教えてください』

 そんなメッセージで一色から呼び出された俺は、待ち合わせの時間まで、大学の図書館で時間を潰していた。まだまだキャンパスは新歓ムードだったが、その喧騒も図書館の静謐さまでは乱していない。

 一年ぶりに一色と再会したあの日から、まだ数日しか経っていなかった。

 この頻度で呼び出されるのは考えものだった。このままでは、俺の生活に支障が生じかねないから、どこかで一色に釘を差さなければいけないだろう。

 なんといっても、相手はあの一色いろはだ。息を吸うように男子を手玉に取って転がしている小悪魔系女子なのだ。その魔の手から完全に逃げ切るのは、容易なことではない。

 だから、三回に一回くらい付き合っておいて、一色の不満が溜まらないようにパラメータを管理しておいた方が、結果として、一色いろはからの被害を最小限に食い止められる。そうして、誘いに応じる頻度を、四回に一回、五回に一回と徐々に減らしていけば、やがてフェードアウトできるだろう。これこそが、一色いろは被害者の会で得た経験知だった。

 俺は、机の上に広げた紙の束に目をやる。明日の古典文学のレジュメと参考資料をプリントアウトしたものだった。待ち時間の過ごし方としては、ちょうどよいだろう。マーカーペンを片手に、資料を読み進める。

 

 一通り資料に目を通したところで、体をぐっと伸ばしてストレッチする。

 ついでにスマホで時間を確認すると、今の時間帯の講義が終わる5分前だった。一色とは、この講義が終わった後に図書館前で待ち合わせだったから、ちょうどよい時間だ。

 そう思ってレジュメや筆記用具を仕舞い始めたところで、耳元にふっと息を感じた。

「せんぱいっ、お待たせしました」

 不意を打って耳元を襲うささやき声に、思わず体が飛び跳ねる。

 ……べ、べつに、耳がこそばゆかったわけじゃないよ。突然耳元で女子の声がしたから驚いただけ。

 いや、ほんとうに。

 決して、耳をくすぐる柔らかくてあたたかい吐息と、鼓膜に届いたしっとり甘いささやき声と、ふわっと鼻腔をくすぐる甘いけれど爽やかなフローラルな香りにドキドキしたわけじゃないから。触覚と嗅覚にまで訴えてくるなんてASMRの上位互換だなーなんて、誓って思ってないから。

 心の中で言い訳をしながら気持ちをなだめすかし、一呼吸置いてから振り向く。

 俺のすぐ後ろに、じとっとした目を向けている一色いろはが立っていた。うん、そうそう、かわいい女子の蔑むような目つきって、得も言われぬ快感があるよね!

「えっと……、その反応はまじめにキモいかもです」

 一色の声音は、わりとマジで引いてるときのそれだった。

 身を守るかのように片腕を体にぎゅっと引き寄せ、心なしか身を引いて俺との距離を取っているように見える。心の声が聞こえたわけじゃないよね……?

「違うから」

 しかし、一色は変わらず冷たい視線を送ってくる。

 だいたい、俺の返答も支離滅裂だよな。いったい何を否定したんだろう……。

「でも、びくんってしてましたよ……。もしかして先輩、耳弱い系ですか?」

 俺としたことが、不覚をとってしまった。このままでは、一色に弱点を握られかねない。

「驚いただけだって。集中してたんだよ」

「片付けてるとこでしたよね?」

「…………」

 どうやら俺の形勢が悪いようだった。このまま会話を続けてもボロボロと綻びが出て、語るに落ちることになりかねない。こういうときは、話題を変えて戦線を早期離脱するに限る。逃げ上手の八幡だからね!

 すばやく撤退を決めた俺は、立ち上がってカバンを背負い、そのまま出口に向かって歩きだした。

 その後ろを、ぱたぱたと一色が追いかけてくる。

「待ってくださいよー」

 くいっと、背中が後ろに引っ張られる。一色が俺のカバンを手で掴んだらしい。

「図書館で話してたら迷惑だろ」

 言って、通路に貼られている張り紙の一つを目線で示す。その張り紙には、大きな文字で「館内ではお静かに」と書かれていた。

 一色はまだ不満げな様子だったが、さすがに図書館の中で言い合いを続けるつもりはないようだった。

「わかってますよ。ひとまず移動しましょう」

 

 今日の目的は、履修登録の相談のはずだ。

 芸術科目や文理くらいしか選択の幅がない高校とは異なり、大学では、受ける講義を自分で選び、大学のシステムに登録する必要がある。

 これが意外と難しい作業なのだ。卒業要件を満たすように、合計単位数はもちろん、必修科目や科目群別の単位を揃えないといけない。学科によっては、必修として指定されていなくともほぼ全員が履修する専門科目もあるし、科目群によっては、大学側が推奨する履修順序を定めているものもある。

 それに加えて、一限は入れたくないとか、何曜日の午後はサークルやバイトのために空けておきたいとか、そういった個人の希望や事情を織り込むわけで、時間割を組むのは意外と頭と時間を使う作業だったりする。

 だから、履修登録について教えてほしいという一色の希望はおかしなものではないのだが、問題は、俺と一色の学部が違うことにあった。文学部の俺には、他の学部の卒業要件がどうなっているかは、まったくわからない。たしか、一色は由比ヶ浜と同じ学部だったはずだ。

「学部もちがうし、そんなに教えられることはないぞ。由比ヶ浜に聞けばいいだろ」

 それを聞いた一色は、やや気まずそうな表情で視線を逸らす。

「はぁ……、もう結衣先輩には聞きましたけど、そのまま鵜呑みにするのはなんか心配なので」

「言いたいことはわかるけど、だいぶ賢くなったと思うぞ、あいつ」

 決して勉強が得意ではなかった由比ヶ浜だったが、三年生になってから一念発起した。

 部室でも、だらーっと過ごす姿をめっきり見なくなり、参考書を開いてうんうん悩みながら問題を解く姿をよく見かけたものだ。すぐ隣に、学年一位でT大A判定の秀才がいて、いつでも教えてもらえるのだから、理想的な勉強環境だったのだろう。そのかいあってか、難関私大と言われるこの大学に現役で合格したのだった。

 とはいえ、中身はそれほど変わっておらず、キャンパスで出会うと高校の頃のように俺に声を掛けてくる。

 ……あれ、ほんと恥ずかしいんだよな。「ヒッキー、やっはろー!」って、あだ名も恥ずかしいし、頭の悪そうなあいさつも恥ずかしい。高校の頃は部室か教室くらいでしか由比ヶ浜と話すことはなかったからあまり気にならなかったが、キャンパスでは、見ず知らずの学生が周りにたくさんいるから、怪訝な視線が集中するあの瞬間は何度経験しても慣れない。

 というわけで、相変わらず由比ヶ浜はアホの子だったが、その人なつっこさが彼女の魅力なのだ。なにより、由比ヶ浜は、俺にとって大切な友人の一人だった。悪し様に言うつもりは、まったくない。

 さすがの一色も由比ヶ浜への申し訳なさを感じたのか、気まずさを誤魔化すように、こほんと咳払いをした。そして、あらためて俺の方へ向き直ると、上目遣いでにこりとした笑みを浮かべる。

「いろんな情報を集めておきたいじゃないですかー。先輩なら、穴場とか抜け道とか裏口みたいな小賢しい情報にも詳しそうですし」

「お前は俺のこと何だと思ってるんだよ……」

 小賢しさでいえば、一色の方がずっと上だろう。

「かわいい後輩に頼られると、うれしくなってお世話をしちゃう優しい先輩だと思ってますよ☆」

 もしかしたら俺は、穴場とかそういうものに詳しいかもしれないが、それはメインストリートを歩けないという大きなハンディを帳消しするために、やむを得ず手に入れた知識にすぎない。

 そもそも多くの場合、穴場に人が集まらないのは寂れるだけの相応の理由があり、抜け道はそこに辿りつくまでが茨の道であり、裏口はリスクと背中合わせの道中なのだ。好んで選ぶようなものではない。一色のような陽の者には、必要のない情報だろう。

 そんな他愛ない会話を続けているうちに、食堂がある建物が近付いてきた。建物を出入りする学生の数を計るように眺めながら、一色は言う。

「この時間なら、学食も空いてますかねー」

 時分どきはとうに過ぎ去っており、夕方というにはまだ間があるこの時間帯は、たしかに学食も空いていることが多い。

 だから、一色の言葉に素直に従ってもよかったのだが、俺の中では、先日、入学のお祝いを言いそびれたことが引っかかっていた。借りというわけではないにせよ、早めに清算しておくに越したことはなかろう。

 そう考えた俺は、一色にひとつ提案をした。……穴場を教えろとも言われたからな。

 

     * * *

 

「まさか先輩がこんな小洒落たお店を知ってるなんて……」

 俺と一色は、大学から歩いて10分ほどのところにある喫茶店にいた。

 アンティークな調度品で統一された店内は、カフェというより喫茶店といった方がしっくりくる。そんなクラシックな喫茶店だった。カウンター席の奥には、年季の入った大ぶりな木製の食器棚が設置されており、ガラス越しに色とりどりのコーヒーカップが仕舞われているのが見える。

 ブレンドコーヒー一杯が標準的な学生の昼食代に相当するくらいの価格帯だから、学生にとっては気軽に使えるお店ではない。しかし、そのぶん店内は落ち着いており、ゆっくりとくつろぎたいときには重宝する。俺が知っている数少ない大学周辺の穴場スポットだった。

 一色はテーブルの上に置かれたメニューを手に取り、ほーとか、はーとか、なかなか……とか言いながらページをめくっている。その様子を見て、俺は声を掛けた。

「おごるから、好きなもの頼め」

 そう言われた一色は、俺の言葉が予想外だったらしく、大きな目をぱちくりさせながら俺の顔を見つめてくる。

「えっ、どうしてですか。わたしから誘いましたし、自分の分は払いますよ」

 このあいだは、責任があるからおごれというようなことを言っていたわりに、一色は殊勝な態度を見せる。日頃はワガママ上等で周りをぶんぶんと振り回している一色だが、礼儀や常識を知らないわけではない。

 そんな健気でかわいいところもある後輩に、俺は用意していた言葉を向ける。

「入学祝いだよ。それに、お前もうすぐ誕生日だろ」

「あっ……、覚えていてくれたんですね……」

 一色はぽつりとつぶやいて、顔を俯けた。心なしか耳が赤く染まって見えるのは、照明の色味のせい……ではないと思う。

 想像していたより素直な反応を面映ゆく感じたが、喜んでくれているのであれば、俺としても気分はいい。

 しばらくそのままの姿勢で、テーブルの真ん中あたりを見つめていた一色だったが、突如、ふいっと顔を上げた。

「はっ! もしかしておしゃれなお店でごちそうする頼れる年上男子アピールをして口説こうとしてましたか、わたし好みのシチュエーションでけっこうキュンとしましたけど告白するつもりならフレンチディナーくらいは連れて行ってください、ごめんなさい」

 一息で言い切ると、一色は頭をペコリと下げる。その動きに合わせて、耳にかけていた亜麻色の髪がはらっと流れ落ちるのを見ながら、俺はため息をついた。

 こいつに振られるのも久しぶりだな。

「どうでもいいけど、先に注文決めろよ」

 言うと、一色は不満げにむーっと頬を膨らませた。

「どうでもいいって、ひどくないですかー」

 しかし、それ以上の追及をするつもりはないようで、一色は視線をメニューに戻した。スイーツもいろいろありますねーなんてつぶやきながら、オーダーを吟味している。

 

 一色はアールグレイのミルクティーとシフォンケーキを、俺はブレンドコーヒーとティラミスを注文した。

 注文したメニューが届くのを待ちながら、一色は本題に入る。

「先輩はもう時間割決まってるんですか?」

「ああ」

 そう言って、俺はカバンから時間割を書き込んだ紙を取り出してテーブルの上に置き、一色の方へ押しやる。

 へーとつぶやきながら、しげしげと俺の時間割を見ていた一色だったが、だしぬけにスマホを手に取ると、紙の上でかざすようにスマホを両手で持った。

 次の瞬間、カシャッという音が鳴る。

「……なんで写真撮ったの?」

 思わず尋ねてしまう。

「ダメでした?」

「いいけどさ……」

 一応、俺のプライバシーだと思うんだが……。

 しかし、考え直してみれば、すでに一色に時間割を見せているわけで、写真を撮られたことで何か新しい情報が一色に渡ったわけではない。だいたい、俺の時間割がどこかに流出したところで、悪用する術がないだろう。

「さっきも言ったけど、学部が違うからたいして参考にならないだろ」

「まあ、そうなんですけどー」

 そう言いながら、一色はカバンから手帳を取り出して、テーブルの上でページを開いた。見ると、手書きで時間割が書き込まれている。遠目なうえに逆さだから、内容までは判読できなかったが、すでにかなりのコマが埋まっていることは分かった。

「それ、もう完成してない?」

 一年間に取得できる単位数には上限があるから、時間割の枠がすべて埋まることはありえない。一色の時間割の埋まり方を見る限り、もう追加の余地はないように見えた。

「結衣先輩に去年の時間割を見せてもらいましたし、新歓でもいろんなラクタン情報を教えてもらったので、参考にして組んでみたらだいたい完成しちゃいました」

 ちなみに、ラクタンというのは「楽に単位が取れる科目」という意味であり、漢字で書くなら「楽単」となる。

 一色は、自分の時間割と俺の時間割を横に並べて、見比べている。

「うーん、先輩と同じ授業取るの難しそうですねー」

 それが一色の狙いだったらしい。レポート手伝ってほしいとか、講義中にメモを書き入れた後のレジュメを見せてほしいとか、そういうお願いをしたかったのだろう。

「先輩、このコマなんですけど、一緒にジェンダー論の授業取りませんか?」

「それ、去年取ったから無理」

 あっさり却下すると、一色は、うーんと唸りながら、考え込む。

 しばらく悩んでいる一色の姿をぼーっと眺めていたが、一色はなにか思いついた様子だった。

「たしか、他学部の専門科目って、共通科目として計算できるんでしたよね。先輩が経済学部の授業を取ればいいじゃないですか」

 まったくよくない。

 俺も、かなり頭を使って時間割を組み上げたのだ。専門科目は、来年から取ることになるゼミを念頭に吟味した。教職課程の単位もあるから、周りの学生より時間割の制約が狭まっているなかで、中途半端な空きコマを作らず、バイトのシフトを長めに入れられる曜日も作り、なおかつ、冬学期に一限の授業を取らずに済むように先のことまで織り込んで、まさに針に糸を通すような苦労をして履修する科目を選んだのだ。再び時間割に手を入れるつもりは、さらさらない。

 しかし、一色いろはという小悪魔は、俺の苦労に同情してワガママを取り下げるようなタマではない。俺は、慎重に反論を組み上げる。

「悪いけど、経済の授業には興味ないんだよ。安くない授業料を払ってんだから、興味ない授業を取るのは金の無駄だろ」

 俺の反論に不満げな顔つきを見せる一色だったが、学費の話となるとさすがに反論しづらい様子だった。学生にとって、年間で100万円を軽く超える私大の学費は、けっして軽々しく扱える金額ではない。意外と真面目なところがある一色には、こういう攻め方が効くという俺の予想は的中したようだった。

 それでも諦めるつもりはないのか、一色はなおも時間割を見比べて、しまいには教務課で配布されている共通科目の一覧表も取りだして、さらに悩んでいた。

 しかし、成果はなかったのか、はーっと息をついてテーブルに突っ伏す。

「やっぱり無理ですね」

 そういって一色は俺の時間割を返してくる。

「もういいのか?」

「はい。その代わり、先輩が去年取った共通科目を教えてください」

 まあ、そのくらいなら教えて構わないだろう。俺が記憶を手繰りながら科目名を一つずつ挙げていくと、一色は律儀に一つずつ手帳にメモを取っていた。

 その間に、オーダーが運ばれてきたので、食べながら話を続ける。

 ときどき、一色が「この科目なら、わたしも取れますね」とつぶやくのが聞こえてきた。どうせ、去年のレポートやレジュメを見せろと言われるのだろうが、そのくらいで済むなら安いものだ。

 

     * * *

 

 気付けば、窓の外からは夕日が差し込んでいた。

 そろそろ行くかと一色に声を掛けながら、伝票を手に取ると、一色が「待ってください」と言った。

「先輩、最後に一つお話ししたいことがあるんですけど」

 俺が目線で話の先を促すと、一色はそのまま話し続ける。

「入学と誕生日のお祝いをまとめてっていうのは、なんだか誤魔化されてる気がするんです」

「はっ?」

「その二つは、やっぱり別々であるべきだと思うんですよ。わたしの誕生日がたまたま四月だからっていう理由で、入学祝いとまとめられちゃうのは理不尽だと思うんです。だから、今日のは入学祝いってことにして、誕生日のお祝いは別ってことでお願いします」

 なるほど、さっぱり分からん。

 どうにか一色の発言から読み取るに、一色は、入学と誕生日のお祝いがまとめられたことに不満を抱いているらしい。でも、そういうのって、祝う側が決めるものだろう。通常の場合、祝われる側には、どのように祝われるかを決める権利なんてないはずだ。

 そう言って反論するが、一色は聞く耳を持たない。わたしの言うことは絶対ですよとでも言わんばかりに、ふてぶてしいくらいの笑顔で俺を見返してくる。

 ……俺の記憶では一色に女王様属性はなかったはずだが、どうやら俺の知らないうちに一色は成長したらしい。

 しかし、困った。一色の呼び出しに応じる回数を減らしていって、徐々にフェードアウトするというのが俺の計画だ。誕生日を別に祝えという一色の要求は、俺の基本方針と矛盾する。

 しばし、時間が膠着する。

 先に動いたのは、一色だった。

「仕方ないですねー」

 そう言うと一色は、スマホのインカメを見ながら前髪を撫でつけて整え、んんっと喉の調子を確かめるように咳払いをして、居住まいを正す。軽く握った拳を胸元に当てると、首をわずかに傾げ、上目遣いで俺に視線を送りながら口を開いた。

「せんぱい……」

 桜色に艶めく唇から漏れる声はか細く震え、俺を見つめる潤んだブラウンの瞳は微かに揺れている。その声と視線が、俺の自我を空間に縫い止める。ああ、これは……、かなりまずい……。

「……ダメ、ですか?」

 ぽしょりと呟くと、一色は胸元に添えた手をぎゅぎゅっと小さく握りしめた。

 やっぱり、この組み合わせかよ……。理性ではダメだと分かっているのに、俺は、一色の懇願に抗う術を持たなかった。

「……ダメじゃない、けど」

 意志に反して、その言葉が口を零れる。

 俺の答えを聞いた一色は、ふっと息をつき、にやりと得意げな笑みを浮かべた。

「先輩、相変わらずチョロいですね。ちょっとは耐性付いてるのかなーって思ってましたけど、全然じゃないですか」

 小馬鹿にしたような口調で言う。

 ……まあ、久しぶりだったからな。

「どうでもいいですけど、先輩、せっかくオシャレな名門私大に入ったのに、仲のいい女子いないんですか?」

「うるさい。ほっとけ」

「J大なら、合コンに行けばわりと人気ある……」

 途中まで言いかけた一色だったが、なにかに気付いたかのように、はわっと片手を口元にあてる。

「ごめんなさーい。先輩、合コンに誘ってくれる友達なんていませんでしたねー」

「悪いと思うなら、心の中にしまっておけよ……」

「まあまあ、心配ないですって。合コンなんて行かなくても、そのうちいい相手が見つかりますから」

 言いながら、一色はころころと笑う。

 俺としてはいろいろと不本意だったが、なぜだか、言い返す気分にはならなかった。

 店中に馥郁と漂うコーヒーの香りとともに、耳に心地よく響く愉快げな一色の笑い声が、俺の胸中に、じんわりとした温もりをもたらしていた。

 

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