一色いろはと巡る季節は彩りにあふれている。   作:ポーレ

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八幡といろはの大学生活。いろは押しかけ回です。
次話は二週後に投稿予定です。


#04 いともたやすく、一色いろはは大切なものを奪ってゆく。

 六月も下旬に差し掛かった、とある金曜日。

「あっ、先輩」

 講義が終わり教室を出た俺は、教室の外で一色から声を掛けられた。

「おっす」

 ひと言あいさつをすると、俺は一色の前を横切り、次の講義がある教室へ足を向ける。

 すると、どういうわけか、一色は俺の隣に並んで歩きだした。

「なに? どうしたの?」

 俺が問うと、一色はいつもどおりのほわわんとした声音で答える。

「わたし、ジェンダー論のレポート書きたいんですよー」

「そうか、がんばれ」

 一色の狙いは読めている。手伝えというに決まっている。

 しかし、俺も自分のレポートを書かないといけなかった。一色のわがままに付き合ってやる義理も余裕もない。

「先輩、手伝ってくれませんか?」

 予想どおりの一色の言葉に、俺は即座に反応する。

「自分でやることに意味があるんだろ」

「むーっ、けち」

 そう言って、一色はぷくーっとあざとく頬を膨らませながら、恨みがましく俺を睨みつけてくる。しかし、ここで引くつもりはなかった。

 むろん、一色の要求がこれで終わるはずがない。一色の追撃を迎えうつべく、俺は身構える。

 ところが、待ち構えていた一色の追撃は、襲ってこなかった。

「そういえば、先輩、明日って何時からバイトですか?」

 あれっ? いやにあっさりと話題を変えたな……。

 肩透かしに虚を突かれた俺は、深く考えることなく素直に答えてしまった。

「17時からだけど」

「それまではおうちですか?」

「……」

 ゆ、油断した……。とても自然に明日のスケジュールを確認されてしまった。

 そもそも明日バイトのシフトが入っていることは一色が知るはずもないことで、しれっと誘導尋問をされた気がする。ナルホド、一色いろは、さてはこいつ名検事になれる素質があるな。「異議あり!」と介入する隙もなかったぜ……。

「どうしました?」

「いや、まあ、明日はその、いろいろあってな……」

「なるほど。バイトまでは暇ってことですねー」

 なんとか誤魔化せないものかと思ったが、すでに手遅れだった。まあ、敏腕検事いろはを相手にして、こんなまごついた答えで誤魔化せるわけないよな……。さすがに自分の動揺っぷりに引いてしまう。

 しかし、まだ致命傷ではない。最終防衛線は突破されていない。

 一色は、俺の家の住所までは知らないはずだ。それさえ教えなければ、一色が俺の休日を邪魔することはできない理屈だった。呼び出しは断固として拒否し、家凸は住所を教えないことで防止する。完璧な防御策を練り上げると、覚悟を新たに撤退線に臨む。

「じゃあ、明日、先輩のおうちにお邪魔してもいいですか?」

 ほら来た。一色は、予想したとおりの一手を繰り出してくる。

 俺の返事はすでに決まっていた。

「無理」

「そうですか。それなら仕方ないですね」

 あれ? やけにあっさり引き下がるな……。一色お得意のおねだり攻撃を覚悟していた俺は、拍子抜けする。

 いや、待て、油断させておいて隙を突く作戦かもしれない。まだ気を抜くのは早いだろう。俺は、気を引き締め直す。

「ではでは、わたしこっちなので」

 しかし、一色は、そう言うと手のひらをひらひらさせながら、俺から離れていく。

 その背中を眺めながら、俺はしばらく茫然としていた。

 あいつ、なにがしたかったの?

 

      * * *

 

 翌朝、インターホンの音に目が覚めた。

 いったい何時だと思ってやがる……とスマホの画面を付けたら、すでに11時近い。

 昨日はサブスクで見始めたアニメシリーズがおもしろくて、2クール25話を一気見したから、寝たのは明け方だったんだよな。

 しかし、アマゾンは頼んでないし、小町が来るような用事もない。どうせ、新聞の勧誘かなにかだろう。バイトは夕方からだし、もう少し布団でうつらうつらしたい誘惑の大きさに、居留守を決め込むことにする。

 しかし、訪問者は帰るつもりはないらしい。またインターホンが鳴る。

 うるさいし、しつこい。だが、居留守を使うと決めた以上、出るつもりはない。固い意志を再確認し、目を閉じる。

 すると、今度はスマホが鳴り始めた。通話の着信らしい。

 着信の相手は、一色だった。まじか……。

 どちらも滅多に鳴らない俺の部屋のインターホンとスマホの着信が同時に鳴る確率はどのくらいだろうかという疑問が頭をよぎる。それと同時に、昨日の一色とのやり取りが自然と思い返された。嫌な予感しかしないんだよなー。

 やがて着信が止まったと思ったら、ラインのメッセージ通知が表示される。立て続けに、2件、3件、4件……。送り主がだれかなんて、確かめるまでもなかった。

 くそっ、そういうことかよ。心の内で悪態をつく。

 いやにあっさりと引き下がった一色の行動の意味が、ようやく理解できた。

 おい、誰だよ、住所さえ教えなければ最終防衛線は死守できるって言ったやつは。もう住所知られてるじゃん。どう考えても、味方に内通者がいるんだよな……。

 こうなってしまうと、多大なる犠牲を覚悟に本土決戦をするか、無条件降伏を受け入れるしかなくなってしまう。いずれにせよ、戦う前から俺の負けは決まっていたらしい。

 通知が止まったと思った瞬間、またスマホが着信を告げる。放置しても事態は好転しないと、直感が告げていた。仕方なく、スマホを手に取って応答ボタンに触れる。

『なんで無視するんですか。はやく開けてください』

 スマホ越しに一色の声が聞こえる。ご機嫌ななめらしく、一色の声にはいつもの軽やかな雰囲気はなく、冷たく棘を含んでいた。顔は見えないのに、むすっとした一色の表情が自然と頭に浮かぶ。

 これ以上、一色の意志に逆らうのはよくないだろう。玄関前で喚かれ続けて大事になるのは、ごめんだった。俺は早々に白旗を揚げることにした。

「分かったから、少しだけ待ってくれ」

『少しって、どれくらいですか』

「あー、10分くらい」

『わかりました』

 一色の了解を得てから通話を切ると、さほど広くはない自室を見渡す。一色に見られて困るものは、たぶん置いていないはずだ。

 しかし、よく目をこらすと、2、3日ほど掃除していない床が、ほこりや毛で汚れていることに気が付く。

 他人を部屋に招くからには、一度掃除をした方がいいだろう。部屋全体にひととおり掃除機をかけ、念のため、水回りの目立つ汚れもきれいにする。

 10分もかからず掃除を終えると、一色を迎え入れた。

 お邪魔しますと小声で言いながら、玄関ドアから一色が入ってくる。

 一色は、黒の半袖ロゴTシャツを着て、軽やかな素材の緑色のフレアスカートにタックインしていた。亜麻色の髪は低めの位置で束ねて小さなお団子に結われており、首元がすっきりして爽やかだ。その首元はチェーンネックレスで飾られていて、大判のロゴが入った黒Tと合わせてカジュアルな雰囲気が出ている。とはいえ、ふわっとしたくるぶし丈のスカートが印象的で、全体としては、大人びたおしゃれなコーデに感じる。

 普段から着こなし上手だと思ってはいるが、今日は、よりいっそうおしゃれ度が強い気がする。休日だからなのだろうか。

 一色は、お邪魔しますとつぶやいて、脱いだ靴を揃えてから、しずしずと部屋に中に入ってきた。さっきまでの傍若無人な振る舞いから打って変わって、別人のようだ。こういうギャップの見せ方が、一色のあざといところだと思う。

「慌てて掃除したわりに、きれいにしてますね」

 ドアの目の前にいたのだから、掃除機をかけたことは音でわかったのだろう。部屋の中を見渡しながら、一色は感想を述べる。

 そのままローテーブルの前にちょこんと座った一色を見て、俺はずっとわだかまっている疑問を口にした。いまさら聞いたところでどうにもならないが、きちんと咎めておかないと今後に響く。

「どうして俺の家がここだって知ってるんだよ」

「こまかいことを気にする男子って、嫌われますよー」

 どう考えても、細かいことじゃないんだよなー。俺の個人情報が流出しているわけで、危機的状況でしょ。

 ……おおかた、情報源は小町あたりだろう。こんど帰省したときに、小町とよく話し合う必要がありそうだ。現代社会におけるプライバシーというものの重要性を、しっかりと理解させる必要がある。

 とはいえ、一度流出した情報は取り戻せない。俺に他人の心理に干渉できる能力があれば、一色の脳内から不都合な記憶を消し去ることができるのだろうが、残念ながら、俺はレベル5の超能力者でも、ギアスの遣い手でもなかった。

 やり直しのきかない過去を悔いるのは諦め、目の前の闖入者に向き合うことにする。

「で、何しに来たの?」

「言ったじゃないですか、レポート書くの手伝ってくださいって」

 一色は、昨日と同じことを言う。だから、俺も同じように答える。

「言っただろ、自分でやらないと意味がないって」

 昨日はこれであっさり引き下がった一色だったが、今日のいろはすはひと味違った。

「自分で書きますよ。テーマは決めてあって資料は集めてありますし、一応、構成も考えてあるんです。先輩には、客観的な意見をもらいたいんです」

 そう言うと、一色はカバンの中から書類や本を取り出し、俺に示す。参考文献らしい。

「あと、文章の添削もしてほしいなって」

 その程度で済むならいいかと、心が傾きかける。

 そこへ一色が追い打ちをかけてきた。

「せんぱい……、助けてくれませんか」

 こてんと首を傾げながら、一色が言う。潤んだ瞳で見つめられると、抗いがたくなる。一色の掌の上で転がされているようで不本意だったが、それも今さらだろう。

「わかったよ。お前が書いたものにコメントするだけだぞ」

「はいっ!」

 一色の顔に、にこぱーっと明るい笑顔が浮かぶ。

 その輝きのまぶしさを見て、不覚にも、手伝いを引き受けてよかったと思ってしまう。

 一色がノートパソコンを取り出してレポートを書き始めたので、俺も自分のレポート課題を片付けることにした。本文を書き始めているレポートのワードファイルを開いて、続きを書き進める。

 

 パソコンの画面と向き合い始めてから2時間ほどが経過していた。

 一色はもの静かにレポートを書き進めている。ときどき、ふーっとか、うーんとか声が漏れてくるので、ちらと窺ってみたが、手元の資料やパソコンの画面をじっと見つめていた。

 すぐ傍で真剣に作業に没頭している人がいるというのは、なかなか作業欲を刺激するもので、俺のレポートも順調に進んでいた。この調子でいけば、あと1、2時間で書き上がるだろう。

 すると、ちょうど一区切りついたのか、一色がぐーっと大きく伸びをしてから、俺に声を掛けてきた。

「おなか、空きませんか」

 俺も、一色の言葉に手を止める。すでに正午は過ぎている。

 寝ているところへ一色が押しかけてきたから、俺は今日まだなにも口にしていなかった。さすがに空腹が無視できなくなってきた頃合いだった。

「ああ、なにか作るか」

 そう言って、俺はキッチンへ移動するため立ち上がる。

「先輩って、自炊してるんですか?」

「当たり前だろ。料理は専業主夫の必須スキルだ」

「それ本気ですか。専業主夫になるなら教員免許は要りませんよ……。まあ、料理できる男子っていうのはポイント高いとは思いますけど」

 呆れ9割、感心1割という具合で感情が混ざり合った反応を返しながら、一色も俺の後に続いてキッチンへやってくる。

 昨日の帰りにスーパーに寄ったばかりだから、食材は豊富だった。一色がうるさいことを言わなければ、二人分の昼食くらいは作れるだろう。そんなことを考えながら、冷蔵庫の中身を確認する。

「へー、一人暮らしの男子大学生の冷蔵庫って、もっと空っぽなのかと思ってました」

 俺の後ろから冷蔵庫の中身をのぞいていた一色が言う。

「ほんとにちゃんと自炊してるんですねー」

 先ほどと違い、今度の一色の反応は、きちんと感心しているという雰囲気が感じられる。

 冷蔵庫の中身を順に確認していくと、焼きそばの麺のところで目が止まった。三食分が1セットになっていて、粉末状のソースが付いている。野菜はいくつか買ってあるから、ちょうどいいだろう。

「焼きそばにするか?」

「焼きそばにしますか?」

 声が重なった。

「決まりですね」

 一色がふっと笑いをこぼす。

「食材、適当に使っていいですよね?」

「えっ、なに? お前が作るの?」

「そのくらいやりますよ」

 言いながら、一色は、焼きそば麺のほかに、もやしと小松菜、それからちくわを取り出す。

 しばらくキッチンの戸棚を開けたり閉めたりして、どこに何があるのか確認していた様子だったが、たいして広くないキッチンだからすぐに把握できたのだろう。一色は、調理に取りかかった。

 焼きそばなんて、具材と麺を炒めて味を付けるだけでいいのだから、かなり初歩的な部類の料理だと思うが、傍で見ていても、一色が料理に手慣れていることは分かった。具材の処理をさっと済ませると、具材と麺を別々に炒めてから、それらを合わせて軽く蒸し焼きにする。もう一度炒めて、味付けをしたら、できあがり。あっという間に昼食が用意された。

 一色がお皿に焼きそばを盛り付けている間に、俺は、箸やコップをローテーブルに運ぶ。客用の箸はないので、一色にはコンビニでもらった割り箸を使ってもらう。

 すぐに、一色が湯気がのぼるお皿を運んできた。ソースの香りが食欲をそそる。

「お箸ってほかにないんですか?」

「これと菜箸しかないんだよ。悪いな、割り箸で」

「あー、いえ、それは別に構いませんよ」

 言葉のわりに気にかけている様子だったが、焼きそばはあたたかいうちに食べるに限る。軽く手を合わせていただきますと言うと、一色も同じ仕草をした。

 もやしのシャキッとした食感と、もっちりした麺の食感のバランスがよく、おいしい焼きそばだった。

 

 昼食を終えてから、俺と一色はまたレポートを書く作業に戻っていた。

 一、二度、「こんな感じなんですけど、どう思いますかー?」という一色の問いかけに応じて、構成案や書きかけのレポートに目を通して感想を伝えるというやりとりはあったが、それを除けば静かなもので、カタカタとキーボードを叩く音が響くほかは、思考を妨げる雑音は存在しなかった。

 そんな時間が1時間ほど続いた頃、一色が言った。

「ちょっと休憩しましょうか」

 そう言うと、一色はキッチンへ向かう。じゃーっと蛇口から水が流れる音に続いて、チチチチッ、ボッという音がする。お湯を沸かすため、水を火にかけたのだろう。

 しばらくして、一色が戻ってきた。片手にはマグカップ、もう一方の手には湯呑みを持っている。マグカップの方を自分の手もとに置くと、俺の前には湯呑みを置いた。コーヒーから、湯気が立ち上っている。あまり香りがしないのは、買い置きのインスタントだからだろう。

 そのまま一色は、自分のカバンの中をさぐって紙袋を取り出すと、その中身をテーブルの上にあける。紙袋からは、ビニタイで口を留めたビニール袋がいくつか現れた。見ると、クッキーやマドレーヌが入っている。

「お茶請けにどうぞ」

「これ、どうしたの?」

「手ぶらで来るのもどうかなーと思いまして、差入れです」

 そう言って、一色はクッキーが入った袋を開け、中からクッキーを一枚取り出した。自分で食べるのかと思って見ていたら、一色は、そのクッキーを、ついっと俺の顔の前に突き出した。

「はいっ、先輩、あーん♪」

 不意打ちに、固まってしまった。

 視線で、これはなんだと一色に問いかける。

「サービスですよ。こっちの方が、特別感があっていいでしょー」

 からかうように言うと、俺の口元につんつんとクッキーを近づけてくる。

「ほらほら、恥ずかしがらなくていいですよー」

 仕方がなく、差し出されたクッキーを口にする。一色の指が唇に触れそうになり、心臓がばくばく鼓動するのを感じた。

「チョコレート味にして、ちょっと甘めにしてみたんですけど、どうですか?」

 一心にもぐもぐと咀嚼していると、一色が俺の顔を覗き込んで尋ねてきた。その言葉に、いまさらながら、手作りであることを認識する。

「……おいしい」

「ほんとですか?」

 俺の答えのわずかな間を敏感に感じ取ったのか、一色がどこか疑わしげに言う。

 仕方ないだろ。こんなことされて、まともに味わう余裕なんてない。

 しかし、サクッと歯触りがよく、口の中で軽くほろっと崩れる食感のよさは感じられたし、少し味覚に精神を集中すると、しっかりと甘いが、くどさのない味わいのよさを、はっきりと感じることができた。つまり、ひと言でいうなら、「おいしい」でまちがっていない。

「ああ、ちょうどいい甘さだと思う」

「やっぱり、このくらい甘いのが先輩の好みなんですね。参考になりますー」

 一色もクッキーを口にしながらふむふむと頷いている。

 俺はクッキーを飲み込むと、自分からマドレーヌの袋に手を伸ばす。また一色に同じことをされたら、たまらないからな。袋からマドレーヌを取り出すと、一口かじる。

 途端に、口の中にバターの芳醇な香りと味わいが広がる。しっとりした生地が舌のうえで優しく溶けていき、ほのかな甘みが口の中を満たしていく。こんどは、最初からじっくり味を楽しむことができた。

「うまいな、これ」

 自然と、感想が零れていた。

 すると、一色はふふんっと胸を張り、得意げな表情を浮かべる。

「お菓子作り得意ですからねー。気に入ってもらえて、よかったです」

 またひとつクッキーを口の中に放り込みながら、楽しげに一色は言う。

 まったりと時間が過ぎていく。

 

 コーヒーとお菓子で休憩した俺たちは、もう一度レポートに向き合っていた。

 しばらくして、ふと一色が口を開く。

「お昼のときも思いましたけど、先輩のおうちにある食器って、あそこの棚に置いてあったので全部ですか?」

「うん」

「お箸は一膳しかないし、マグカップも一つだけだし、フォークとかナイフもないですよね?」

「そうだな」

 すぐさま言い返すと、一色は呆れ気味のため息を漏らした。

「不便じゃないですか」

「そうでもないぞ。だいたいのものは箸で足りるし、スプーンがあればカレーも食べられる」

「はぁ……。先輩ってカレー好きでしたっけ?」

「いや、ふつう」

「なにそれ……。まあ、男子料理っていえば、カレーは定番なんですかね」

 一色は混乱している様子だった。

 カレーは便利だぞ。レトルトカレーをレンジで温めて、解凍したご飯にかけて、スーパーで買ってきた惣菜のコロッケやトンカツをのせれば、あっという間に夕食ができあがるからな。

「それより、お客さんが来たときに困りませんか?」

「愚問だな。この家に客なんて来ない」

「そんな自慢げに言われても……」

 一色は呆れたように言ったが、納得はした様子だった。

「でも、それだとわたしが来たときに困りますよね」

「また来るつもりかよ……」

「なんでそんなに嫌そうなんですか。かわいい後輩が手作りお菓子を持って遊びに来てくれるんだから、もっと喜ぶところでしょー。わたしのお菓子、サークルでは結構人気なんですよ」

 サークルね……。そういえば、大学祭の実行委員会に入ったとか言ってたな。

「よく作るのか?」

「あっ、気になりますかー?」

 そんなことを言いながら、一色はくすくすと笑う。

「普段はもっとコスパ重視で、材料費もケチってますよ。それに……」

 そう言って、一色は最後の一枚になっていたクッキーを手に取る。

「こういうサービスをするのは、先輩にだけですよ☆」

 ほら、あーん、と言いながら、一色は手にしたクッキーを俺の口元に近づけてきた。

 あのさ、それ、ほんとやめてくんないかな……。せっかくおいしいのに、味が分かんなくなるんだけど……。あと、シンプルに恥ずかしい……。

 

      * * *

 

 気づけばもう夕方だった。

「そろそろバイト行く時間なんだけど」

 そろそろ帰ってくれないかという気持ちを込めて、一色に言う。

「へー、そうですか」

 しかし、一色はいささかも興味を持っていないかのような気のない返事をする。

 俺の気持ちの込め方が下手だから、帰ってくれという意図が伝わらなかったのだろうか。やっぱり、ぶぶ漬けが必要なのかしら。

 ……いや、こいつの場合、分かってて無視してる可能性の方が高いんだよな。

「わたしは19時から新宿でコンパです」

 何か問題ありますかという表情で俺を見てくる。うん、だからね、いろはちゃん、そういうことじゃないんだよ。

 それにしても、これから飲み会なのか。新宿なら、ここから30分とかからない。一色が休日にオシャレして、わざわざ東京まで出てきた理由がようやく理解できた。

「お前もそろそろ出かけないのかって話」

「えっ? ……もしかして同伴希望ですか? ごめんなさい、わたしそういうサービスはやってないので」

 言うと、ペコリと頭を下げる。なにをどう解釈したらそうなるの……。

 じゃあどういうサービスならやってるんだよという言葉をぐっと呑み込む。いまは混ぜっ返している場合ではない。あまりぐだぐだしていると、バイトに遅刻してしまう。

「ちげーよ。俺が先に出かけたら、鍵どうするんだよ」

「あー、そんなことですか」

 どうでもいいという雰囲気で言うと、一色はこちらに手を差し出してきた。

「合鍵ください」

 当たり前のように、プライベートの明渡しを要求されていた。

 いやいや、おかしいだろ。自宅の合鍵って、そんな「消しゴム貸してよ」みたいな軽さでやりとりするもんじゃないでしょ。

 俺の知ってる合鍵を渡すイベントは、もっとワクワク感があるはずなんだけどな……。いまはうんざりした気持ちしかない。

 しかし、ここで一色と言い争うことは無益な予感がした。一色に抗ってもうまくいかないと、これまでの経験則が告げている。今朝、一色がここにやって来た時点で、いや、昨日、一色に話しかけられた時点で、こうなる運命だったのだ。

 俺は、何千回もタイムリープを繰り返してアトラクタフィールドの狭間を目指すマッドサイエンティストではないし、そもそもタイムリープマシンを開発してくれる優秀なラボメンがいない。この運命の収束の結果を受け入れるしかないのだ。

 仕方がなく、俺はベッド脇の棚の中を探り、合鍵を取り出すと、一色に差し出す。

「言っとくけど、貸すだけだからな。こんど会ったときに返せよ」

 くださいという言葉に危機感を覚えた俺は、一色に釘を差しておく。どれほど効果があるかは分からないが、言わないよりましだろう。

 玄関へ向かった俺が靴を履いていると、背後からてとてとと軽い足音が近付いてくるのが聞こえてくる。立ち上がってドアノブに手を掛けたところで、背後から一色の声が届いた。

「いってらっしゃーい。バイトがんばってくださいねー」

 その声に思わず振り返ると、一色が優しげにほほえみながら、俺に向かって手を振っていた。

「……あぁ、うん。その……、い、いってきます」

 まごつきながら、なんとかそんな言葉を吐き出すと、外に出る。

 なにこれ、ちょー恥ずかしいんですけど。なんでもない普通の言葉なのに、おかしくない?

 

      * * *

 

 ふふっ、「いってらっしゃーい」だって。まるで新婚さんみたい。

 振り返った先輩の顔は、今日見た中でも一番の傑作だった。「あーん♡」のときも、なかなかいい表情だったけど。反応は薄いくせして、動揺していることがはっきりとわかる。冷静なように見えて、よく見るとしっかり表情に感情が出てるんだよね、あの人。だからこそ、からかいがいがあるというものだ。

 そんなことを思いながら、先輩を送り出したわたしは部屋に戻る。

 ローテーブルに目をやると、先輩がコーヒーを飲んでいた湯呑みが視界に入った。たいして食器らしい食器がない中で、強い存在感を主張していたそれは、よく見覚えがあるものだった。

 パンさんがプリントされた湯呑み。

 あの部室で先輩が使っていた湯呑み。

 形状とイラストのちぐはぐな組み合わせを見れば、わざわざ尋ねるまでもなく、結衣先輩と雪乃先輩がふたりで選んだものだとわかる。そう思った瞬間、もやもやした感情が胸のなかにあふれ出す。

 あの二人は、どんな気持ちでこの湯呑みを選んだのだろう。

 先輩は、その湯呑みをどんな気持ちで使い続けているのだろう。

 奉仕部の部室に入り浸っていたわたしにとって、その答えはたやすく想像できた。

 

 よくない感情が心の中に広がっていくのを感じ、頬をぺちぺち叩いて、気持ちを切り替える。

 あのすてきな空間を知っているわたしには、いまも先輩の心の中にあるはずの大切な思い出を否定することはできない。それも含めて、先輩なのだから。そんな先輩に、わたしはもっと近付きたいと思ったのだから。

 だから、わたしにできることは一つしかない。そう、先輩と一緒に、もっとたくさんの、もっと楽しい思い出を作るのだ。

 そうすれば、わたしも手に入れることができるかもしれない。先輩の、あの熱い想いを。紛いものでも、飾りものでもない、強い想いを。

 よし。

 ちょっと前向きになれた気がする。もっと楽しいことを考えよう。

 あと一か月もすれば、夏休みが始まる。どうせ先輩のことだから、何もなければ引きこもり生活をするのだろう。どうやって先輩を連れ出すか考えないといけない。行きたいところも、やりたいこともたくさんある。

 首尾よく手に入れた合鍵を手のひらの中で転がしながら、わたしは楽しい空想の世界へと深く入り込んでいった。

 

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